助けてもらったはずでした〜山の怖い話〜・後編
外は完全な闇だった。
裕太はライトを点け、雨の中を走った。登山道がどちらなのかも分からない。ただ、あの小屋から少しでも離れたかった。
背後から男の声が聞こえた。
「おーい……待てってー」
間延びした、どこかニヤついた声だった。
裕太は振り返らない。
少しして、声の調子が急に変わった。
「危ないぞ。そっち道じゃない。気をつけろ」
驚くほど落ち着いていた。
本当に、道を間違えた登山者へ注意しているような口調だった。
そのあと、森の奥から甲高い笑いが聞こえた。
「キキキッ…」
裕太は足を速めた。
右手の斜面で何かが動いた。
ライトを向けると、木々の間に紺色のレインウェアが見えた。
男だった。
ただし、道を走っているのではない。
人間なら足場を確かめなければ下りられないような急斜面を、身体を低くし、時折両手まで地面につけながら木々の間を進んでいる。
速い…
裕太の位置に合わせるように斜面を横切りながら、顔だけをこちらへ向けた。
人間の顔らしくはなっていたが、どこかがおかしい。
片側の口元がわずかに耳の方へずれ、その隙間から黒ずんだ皮膚と細かな歯が覗いていた。
裕太は息を呑み、そのまま斜面を駆け下りた。足を滑らせるたびに木へ手をつき、身体を支える。
すぐ後ろで枝が折れた。
「危ないって言ってるだろ」
声が近い。
次の瞬間、肩を後ろから強く掴まれた。
「うわっ」
身体をひねって振りほどくと、レインウェアが大きく裂け、腕に鋭い痛みが走った。
あの手が届いた。
裕太は転びかけながらも走り続けた。
どれだけ進んだのか分からない。
やがてライトの先に、白いものが落ちているのが見えた。
ペットボトルだった。
自分のものだ。
小屋を飛び出した時に落としたはずだった。
「……嘘だろ」
裕太は向きを変え、今度は斜面の低い方へ進んだが…しばらくすると、見覚えのある倒木が現れた…その先の木々の間に、黒い四角いものが見えている…
あの小屋だった。
入口に男が立っていた。
顔立ちは人間らしく整っていたが、さっきまで見たものを知ってしまった裕太には、もう普通の中年男性には見えなかった。
男は裕太を見つけると、片手を上げた。
「おーい……もういいだろ。戻ってこいって」
まだ声には笑いが混じっている。
裕太が後ずさると、男の表情がすっと消えた。
「夜の山、危ないぞ。一人じゃ下りられない」
静かな声だった。
少し間を置いて、
「……キキキッ」
と笑った。
裕太は向きを変え、また走った。
脚はもう思うように上がらなかった。
息を吸うたびに喉と横腹が痛む。それでも背後から時折聞こえてくる声のせいで、立ち止まることだけはできない。
「おーい……待てってー」
少し離れた場所から、楽しそうな声がついてくる。
裕太は走り続けた。
やがて、今度はすぐ近くから声がした。
「そっち崖だぞ」
次の一歩で、足元の土が崩れた。
踏みとどまろうとしたが、濡れた地面に靴を取られ、そのまま斜面を転がり落ちた。肩や背中を何度も地面へ打ちつけ、顔には枝が当たる。途中で右脚を石へ強くぶつけ、最後は太い木の根のようなものへ背中から衝突して、ようやく身体が止まった。
しばらく息ができなかった。
口を開いても空気が入ってこないように感じたが、やがて激しく咳き込みながら呼吸が戻った。
全身が痛い。
特に右脚には力が入りづらかった。
横になったまま耳を澄ませる。
声が聞こえない。
あの笑い声も消えていた。
葉を叩く雨の音だけが続いている。
どのくらい、そうしていたのか分からない。
一度、意識を失っていたのかもしれない。
気づいた時には、雨がかなり弱くなっていた。
裕太は痛みに耐えながら身体を起こし、右脚をかばって斜面を下り始めた。
もう地図を見る気にもならない。
しばらく進むと、木々の間が少しずつ明るくなってきた。
夜が明けようとしていた。
薄明かりの中で足元を見ると、人が歩いた跡が続いている。さらに少し先には標識まであった。
裕太は脚を引きずりながら近づき、書かれている文字を確認した。
見覚えがある。
登りの途中で通った場所だった。
「戻った……」
声が震えた。
東の空には淡い赤みが差し、雨もほとんど止んでいる。夜の間ずっと濡れていた木々の輪郭が、朝の光の中で少しずつ普通の森へ戻っていく。
遠くで鳥が鳴いている。
裕太は大きく息を吐いた。
その時、登山道の先に一人の人影がいることに気づいた。
まだかなり距離があるが、登山ウェアらしい服を着て、背中にはザックのようなものを背負っている。早朝から登ってきた登山客に見えた。
「すみませーん」
声を張ると、人影が立ち止まった。
「すみません」
こちらを向いたように見える。
距離があるため、顔までは分からない。
少し間があった。
それから、人影はゆっくり片腕を上げた。
その動きを見た瞬間、張りつめていたものが一気に抜けた。
『助かった』
裕太は痛む脚を引きずりながら、朝焼けの中をその人影へ向かって歩き始めた。
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7月13日、若い男が一人、白峯山を歩いていた。
山頂へ急ぐ様子はなく、分岐や沢へ差しかかるたびに足を緩め、スマートフォンの画面と周囲の地形を見比べている。スマホの山マップのアプリなどを開いた画面には、現在地とは別に点々と残った位置記録が表示されている。
小さな沢を越えてしばらく登ると、登山道の脇に三角形に割れた大きな岩が現れた。男は、画面を確認して小さく頷く。
「ここを通るのか…」
そこから先では、さらに歩みが慎重になった。
道が分かれるたびに一方へ少し入り、地図を確かめて戻る。次の位置記録へ近づくと、また周囲を探した。
昼を過ぎた頃、男が見ていたマップの記録には、次の位置記録が登山道から外れた場所に残っていた。
「ここから行けるのかな」
男は森の奥を見た。
正規の道と呼べるものはない。
それでも、その先には位置記録がいくつか残っている。一度森の奥へ入ったあと登山道の近くへ戻り、そこからまた別の方向へ外れていた。最後の数点は狭い範囲に集まり、そこで記録が途切れている。
*
男はしばらく画面を見つめてから顔を上げた。
木々の奥に、人の気配はない。
「なんでこんなとこ通ったんだ……」
もう一度、最後の位置記録を見る。
2週間前の6月30日、この白峯山へ一人で入った大学3年生が、そのまま帰ってこなかった。
高柳裕太だった。
捜索は行われているものの、裕太は見つからなかった。端末に残っていた位置記録も捜索側へ共有され、この周辺は何度も確認されている。
今、その記録を自分の足でたどっている若い男の名前は熊谷直哉。
裕太の大学の親友だった。
裕太は単独で山へ入る時、登山アプリの現在地を直哉に共有することがあり、白峯山でも、通信が入った時に更新された位置情報だけが途中まで残っていた。
「……どこ行ったんだよ」
直哉は画面を閉じた。
いつの間にか森には薄い霧が入り始め、さっきより風も強くなっている。これ以上奥へ入るのはまずいと思い、今日は戻ろうと身体の向きを変えた。
「……ん?」
前方の霧の中から、一人の登山者が歩いてきていた。
直哉は道を空けようと脇へ寄ったが、相手が近づくにつれて、その顔から目を離せなくなった。
「……裕太?」
登山者も足を止めた。
「……直哉?」
間違いなかった。
「裕太」
直哉は駆け寄り、その肩をつかんだ。
服越しに体温が伝わってくる。
「お前、何してたんだよ。2週間だぞ」
「何でお前がここにいるんだよ」
「それこっちの台詞だろ。みんな探してたんだぞ」
「悪い。俺も下りられなくなっててさ」
「下りられないって……2週間だぞ」
裕太は本気で驚いたように眉を上げた。
「そんな経った?」
直哉は返す言葉を失った。
何があったのかは分からない。それより先に連れて帰らなければと思い、スマートフォンを取り出したが、画面には圏外と出ていた。
「とにかく下りよう。電波入るところまで行けば連絡できる」
「なあ」
裕太が大学の共通の友人の名前を出した。
「あいつ、まだあの教授の授業取ってんの?」
「取ってるよ。お前はすぐに切ったんだよな」
「あれ無理だよな」
「お前は寝坊して来なかっただけだろ」
「違うって」
裕太が笑う。
その受け答えに、直哉の肩から少し力が抜けた。
「それより、この2週間どこにいたんだよ。飯とか寝る場所とか、どうしてた?」
「まあ……いろいろ」
「いろいろって」
「なんとかなるもんだよ」
裕太は軽く笑って済ませた。
直哉は何か言い返しかけて、やめた。
服は泥で汚れている。それなのに頬はこけておらず、歩き方にも衰弱した様子がない。山の中で2週間を過ごした人間にしては、あまりにも普段と変わらなかった。
裕太が空を見上げた。
「天気、悪くなるぞ」
「だから早く下りよう」
「そうだな。行こう」
直哉が登山口の方へ向き直る。
裕太は動かなかった。
「こっち」
指しているのは反対方向だった。
「いや、下山道はこっちだろ」
「大丈夫。休めるところあるから」
「休まなくていいよ。そのまま下りよう」
「すぐ暗くなるよ」
裕太が少し笑った。
「小屋あるんだよ」
「小屋?」
「古いやつ。地図には載ってない」
直哉は足を止めたまま、裕太の顔を見た。
「……裕太」
「ん?」
「本当に、どこにいた?」
「何で?」
「2週間いた人間に見えない」
裕太は答えず、しばらく直哉を見つめていた。
妙な空気になった。
直哉はそれを振り払うように笑った。
「お前さ、去年も道間違えて、俺に偉そうに『こっちだ』って言ってたよな」
裕太も笑った。
「…キキキッ」
直哉の笑みが消えた。
ほとんど同時に、裕太の顔からも表情が消えた。
「……今の何?」
「何が?」
「笑い方」
「笑い方?」
裕太は不思議そうに首を傾げた。
その仕草まで、直哉の知っている裕太だった。
けれど、次に笑った時も同じ音がした。
「キキキッ」
直哉は無意識に一歩下がった。
裕太の口角がゆっくり持ち上がっていく。
最初は見慣れた笑顔だった。
しかし、そこで止まらない。
頬を引きつらせながら、口の端だけが人間なら動かない位置まで上がっていった。
直哉がさらに距離を取ると、目の前の裕太は何事もなかったように真顔へ戻った。
「どうした?」
声だけは、さっきまでと変わらなかった。
それが一歩近づく。
直哉も一歩下がった。
「暗くなるよ」
また距離が縮まる。
「俺に……ついて来なよ」
そう言った裕太の口の端が、またゆっくりと持ち上がった。〜




