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地方怪談集 ~短編・中編の怖い話~  作者: シシモヨウ
【第十二話】助けてもらったはずでした〜山の怖い話〜(短編改訂版)
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助けてもらったはずでした〜山の怖い話〜・後編

 外は完全な闇だった。


 裕太はライトを点け、雨の中を走った。登山道がどちらなのかも分からない。ただ、あの小屋から少しでも離れたかった。


 背後から男の声が聞こえた。


「おーい……待てってー」


 間延びした、どこかニヤついた声だった。


 裕太は振り返らない。


 少しして、声の調子が急に変わった。


「危ないぞ。そっち道じゃない。気をつけろ」


 驚くほど落ち着いていた。

 本当に、道を間違えた登山者へ注意しているような口調だった。


 そのあと、森の奥から甲高い笑いが聞こえた。


「キキキッ…」


 裕太は足を速めた。

 右手の斜面で何かが動いた。


 ライトを向けると、木々の間に紺色のレインウェアが見えた。


 男だった。


 ただし、道を走っているのではない。

 人間なら足場を確かめなければ下りられないような急斜面を、身体を低くし、時折両手まで地面につけながら木々の間を進んでいる。


 速い…


 裕太の位置に合わせるように斜面を横切りながら、顔だけをこちらへ向けた。


 人間の顔らしくはなっていたが、どこかがおかしい。


 片側の口元がわずかに耳の方へずれ、その隙間から黒ずんだ皮膚と細かな歯が覗いていた。


 裕太は息を呑み、そのまま斜面を駆け下りた。足を滑らせるたびに木へ手をつき、身体を支える。


 すぐ後ろで枝が折れた。


「危ないって言ってるだろ」


 声が近い。

 次の瞬間、肩を後ろから強く掴まれた。


「うわっ」


 身体をひねって振りほどくと、レインウェアが大きく裂け、腕に鋭い痛みが走った。


 あの手が届いた。


 裕太は転びかけながらも走り続けた。

 どれだけ進んだのか分からない。

 やがてライトの先に、白いものが落ちているのが見えた。


 ペットボトルだった。


 自分のものだ。

 小屋を飛び出した時に落としたはずだった。


「……嘘だろ」


 裕太は向きを変え、今度は斜面の低い方へ進んだが…しばらくすると、見覚えのある倒木が現れた…その先の木々の間に、黒い四角いものが見えている…


 あの小屋だった。


 入口に男が立っていた。


 顔立ちは人間らしく整っていたが、さっきまで見たものを知ってしまった裕太には、もう普通の中年男性には見えなかった。


 男は裕太を見つけると、片手を上げた。


「おーい……もういいだろ。戻ってこいって」


 まだ声には笑いが混じっている。

 裕太が後ずさると、男の表情がすっと消えた。


「夜の山、危ないぞ。一人じゃ下りられない」


 静かな声だった。


 少し間を置いて、


「……キキキッ」


 と笑った。


 裕太は向きを変え、また走った。


 脚はもう思うように上がらなかった。


 息を吸うたびに喉と横腹が痛む。それでも背後から時折聞こえてくる声のせいで、立ち止まることだけはできない。


「おーい……待てってー」


 少し離れた場所から、楽しそうな声がついてくる。


 裕太は走り続けた。

 やがて、今度はすぐ近くから声がした。


「そっち崖だぞ」


 次の一歩で、足元の土が崩れた。


 踏みとどまろうとしたが、濡れた地面に靴を取られ、そのまま斜面を転がり落ちた。肩や背中を何度も地面へ打ちつけ、顔には枝が当たる。途中で右脚を石へ強くぶつけ、最後は太い木の根のようなものへ背中から衝突して、ようやく身体が止まった。


 しばらく息ができなかった。

 口を開いても空気が入ってこないように感じたが、やがて激しく咳き込みながら呼吸が戻った。


 全身が痛い。

 特に右脚には力が入りづらかった。

 横になったまま耳を澄ませる。


 声が聞こえない。


 あの笑い声も消えていた。

 葉を叩く雨の音だけが続いている。

 どのくらい、そうしていたのか分からない。


 一度、意識を失っていたのかもしれない。

 気づいた時には、雨がかなり弱くなっていた。


 裕太は痛みに耐えながら身体を起こし、右脚をかばって斜面を下り始めた。


 もう地図を見る気にもならない。

 しばらく進むと、木々の間が少しずつ明るくなってきた。


 夜が明けようとしていた。


 薄明かりの中で足元を見ると、人が歩いた跡が続いている。さらに少し先には標識まであった。


 裕太は脚を引きずりながら近づき、書かれている文字を確認した。


 見覚えがある。

 登りの途中で通った場所だった。


「戻った……」


 声が震えた。


 東の空には淡い赤みが差し、雨もほとんど止んでいる。夜の間ずっと濡れていた木々の輪郭が、朝の光の中で少しずつ普通の森へ戻っていく。


 遠くで鳥が鳴いている。

 裕太は大きく息を吐いた。


 その時、登山道の先に一人の人影がいることに気づいた。


 まだかなり距離があるが、登山ウェアらしい服を着て、背中にはザックのようなものを背負っている。早朝から登ってきた登山客に見えた。


「すみませーん」


 声を張ると、人影が立ち止まった。


「すみません」


 こちらを向いたように見える。

 距離があるため、顔までは分からない。

 少し間があった。


 それから、人影はゆっくり片腕を上げた。

 その動きを見た瞬間、張りつめていたものが一気に抜けた。


 『助かった』


 裕太は痛む脚を引きずりながら、朝焼けの中をその人影へ向かって歩き始めた。


__________________________________________


 7月13日、若い男が一人、白峯山を歩いていた。


 山頂へ急ぐ様子はなく、分岐や沢へ差しかかるたびに足を緩め、スマートフォンの画面と周囲の地形を見比べている。スマホの山マップのアプリなどを開いた画面には、現在地とは別に点々と残った位置記録が表示されている。


 小さな沢を越えてしばらく登ると、登山道の脇に三角形に割れた大きな岩が現れた。男は、画面を確認して小さく頷く。


「ここを通るのか…」


 そこから先では、さらに歩みが慎重になった。


 道が分かれるたびに一方へ少し入り、地図を確かめて戻る。次の位置記録へ近づくと、また周囲を探した。


 昼を過ぎた頃、男が見ていたマップの記録には、次の位置記録が登山道から外れた場所に残っていた。


「ここから行けるのかな」


 男は森の奥を見た。


 正規の道と呼べるものはない。

 それでも、その先には位置記録がいくつか残っている。一度森の奥へ入ったあと登山道の近くへ戻り、そこからまた別の方向へ外れていた。最後の数点は狭い範囲に集まり、そこで記録が途切れている。


          *


 男はしばらく画面を見つめてから顔を上げた。

 木々の奥に、人の気配はない。


「なんでこんなとこ通ったんだ……」


 もう一度、最後の位置記録を見る。


 2週間前の6月30日、この白峯山へ一人で入った大学3年生が、そのまま帰ってこなかった。


 高柳裕太だった。


 捜索は行われているものの、裕太は見つからなかった。端末に残っていた位置記録も捜索側へ共有され、この周辺は何度も確認されている。


 今、その記録を自分の足でたどっている若い男の名前は熊谷直哉。


 裕太の大学の親友だった。


 裕太は単独で山へ入る時、登山アプリの現在地を直哉に共有することがあり、白峯山でも、通信が入った時に更新された位置情報だけが途中まで残っていた。


「……どこ行ったんだよ」


 直哉は画面を閉じた。


 いつの間にか森には薄い霧が入り始め、さっきより風も強くなっている。これ以上奥へ入るのはまずいと思い、今日は戻ろうと身体の向きを変えた。


「……ん?」


 前方の霧の中から、一人の登山者が歩いてきていた。

 直哉は道を空けようと脇へ寄ったが、相手が近づくにつれて、その顔から目を離せなくなった。


「……裕太?」


 登山者も足を止めた。


「……直哉?」


 間違いなかった。


「裕太」


 直哉は駆け寄り、その肩をつかんだ。

 服越しに体温が伝わってくる。


「お前、何してたんだよ。2週間だぞ」


「何でお前がここにいるんだよ」


「それこっちの台詞だろ。みんな探してたんだぞ」


「悪い。俺も下りられなくなっててさ」


「下りられないって……2週間だぞ」


 裕太は本気で驚いたように眉を上げた。


「そんな経った?」


 直哉は返す言葉を失った。


 何があったのかは分からない。それより先に連れて帰らなければと思い、スマートフォンを取り出したが、画面には圏外と出ていた。


「とにかく下りよう。電波入るところまで行けば連絡できる」


「なあ」


 裕太が大学の共通の友人の名前を出した。


「あいつ、まだあの教授の授業取ってんの?」


「取ってるよ。お前はすぐに切ったんだよな」


「あれ無理だよな」


「お前は寝坊して来なかっただけだろ」


「違うって」


 裕太が笑う。

 その受け答えに、直哉の肩から少し力が抜けた。


「それより、この2週間どこにいたんだよ。飯とか寝る場所とか、どうしてた?」


「まあ……いろいろ」


「いろいろって」


「なんとかなるもんだよ」


 裕太は軽く笑って済ませた。

 直哉は何か言い返しかけて、やめた。


 服は泥で汚れている。それなのに頬はこけておらず、歩き方にも衰弱した様子がない。山の中で2週間を過ごした人間にしては、あまりにも普段と変わらなかった。


 裕太が空を見上げた。


「天気、悪くなるぞ」


「だから早く下りよう」


「そうだな。行こう」


 直哉が登山口の方へ向き直る。

 裕太は動かなかった。


「こっち」


 指しているのは反対方向だった。


「いや、下山道はこっちだろ」


「大丈夫。休めるところあるから」


「休まなくていいよ。そのまま下りよう」


「すぐ暗くなるよ」


 裕太が少し笑った。


「小屋あるんだよ」


「小屋?」


「古いやつ。地図には載ってない」


 直哉は足を止めたまま、裕太の顔を見た。


「……裕太」


「ん?」


「本当に、どこにいた?」


「何で?」


「2週間いた人間に見えない」


 裕太は答えず、しばらく直哉を見つめていた。


 妙な空気になった。

 直哉はそれを振り払うように笑った。


「お前さ、去年も道間違えて、俺に偉そうに『こっちだ』って言ってたよな」


 裕太も笑った。


「…キキキッ」


 直哉の笑みが消えた。

 ほとんど同時に、裕太の顔からも表情が消えた。


「……今の何?」


「何が?」


「笑い方」


「笑い方?」


 裕太は不思議そうに首を傾げた。

 その仕草まで、直哉の知っている裕太だった。

 けれど、次に笑った時も同じ音がした。


「キキキッ」


 直哉は無意識に一歩下がった。


 裕太の口角がゆっくり持ち上がっていく。

 最初は見慣れた笑顔だった。

 しかし、そこで止まらない。


 頬を引きつらせながら、口の端だけが人間なら動かない位置まで上がっていった。


 直哉がさらに距離を取ると、目の前の裕太は何事もなかったように真顔へ戻った。


「どうした?」


 声だけは、さっきまでと変わらなかった。


 それが一歩近づく。

 直哉も一歩下がった。


「暗くなるよ」


 また距離が縮まる。


「俺に……ついて来なよ」


 そう言った裕太の口の端が、またゆっくりと持ち上がった。〜

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― 新着の感想 ―
ここまで読みました。 どの話も「ありそうな日常」から始まるので入りやすく、気づいた時には逃げ道がなくなっている感じがかなり怖かったです。 特に、怪異の正体を全部説明せず、「あれは結局何だったんだ」と…
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