助けてもらったはずでした〜山の怖い話〜・前編
高柳裕太は大学3年になってから、休日の予定を山から決めることが増えた。
講義のない日を見つけると、スマートフォンで登山記録や地図を眺める。友人と予定が合えば一緒に行くが、最近では一人で登ることも珍しくなくなっていた。
登山を始めたのは大学に入ってからだった。
最初は友人に誘われ、ほとんど付き合いで登っただけだ。朝早く起こされ、何時間も坂道を歩かされた時には、こんなことを趣味にする人間の気が知れないと思った。
それが山頂まで行ってみると、次はもう少し高い山へ登ってみたくなった。
何度か出かけるうちに靴を買い替え、レインウェアを揃え、気づけば1年半ほど続いている。雪山や本格的な縦走をするほどの経験はないが、日帰りなら、自分でルートを調べて歩けるくらいには慣れてきていた。
6月29日の夜も、裕太はベッドに寝転がりながら次に登る山を探していた。
「どっかないかな……」
有名なところは、だいたい一度は検索している。
景色がいい山、初心者でも登れる山、アクセスのいい山。いくつか検索結果を開いてみたものの、見覚えのある名前ばかりだった。
「ここ、人多そうだな」
休日の山頂で、順番を待ちながら写真を撮るのも嫌いではない。ただ最近は、それより登山記録の少ない山の方が気になっていた。
検索する言葉を何度か変えているうちに、県北の山間部にある白峯山という名前が目に留まった。
「白峯山……?」
聞いたことがない。
身体を起こし、山名をもう一度検索する。
大手の登山サイトにも記録はあったが、数は多くなかった。その代わり、地元の観光協会が以前作ったらしいウェブページが見つかった。
少し古い作りのページには、登山口、その先の林道、沢を渡る場所、途中にある特徴的な岩などが写真付きで紹介されている。山頂から撮られた写真には、山間の町が小さく写っていた。
「へえ。結構よさそうじゃん」
標高は1200メートルに少し届かず、往復で5時間ほど。危険な岩場や鎖場があるわけでもない。
自宅から登山口までは車で2時間弱だった。
「朝7時に出れば、9時前か」
それなら十分日帰りできる。
裕太は地図を拡大しながらルートを確認し、ページを最後まで読んだ。そこで一つだけ注意書きが目に入った。
《降雨時や落葉の多い時期は、一部で踏み跡が不明瞭になります。道迷いに注意してください》
「まあ、雨降ったら無理しなきゃいいか」
翌日の予報は曇りで、降水確率も高くない。登山地図をもう一度見ても、特別複雑なルートには見えなかった。
「ここにしよう」
そう決めると登山届を入力し、ザックの中身も確認した。
レインウェア、ヘッドライト、モバイルバッテリー、水、行動食。いつもの日帰り登山で持っていくものは揃っている。
最後にヘッドライトのスイッチを押すと、白い光が部屋の壁を照らした。
「よし」
ライトをザックへ戻し、念のためもう一度だけ白峯山の予報を見る。
翌7月30日は曇り。午後も、大きく崩れる予報にはなっていなかった。
「これなら大丈夫だな」
スマートフォンを充電器につないだ。
あとは朝起きるだけだった。
*
6月30日。
実際に歩き始めてみても、白峯山の印象は悪くなかった。
登山口には数台分の小さな駐車スペースと、日に焼けた案内板があるだけだった。9時を少し過ぎた頃に歩き始め、古い林道から杉林へ入り、小さな沢を渡る。そこを過ぎるとブナが混じるようになり、濃い夏の緑が頭上まで覆っていた。
登山者にはほとんど会わなかった。
駐車スペースには自分以外の車が1台停まっていたから、誰かが先に入っているはずだったが、その姿も見ない。
「ほんとに人いないな」
裕太には、それがむしろ心地よかった。
人気のある山では前にも後ろにも人がいて、少し休めば追いつかれ、再び歩き出せば今度はこちらが誰かに追いつく。今日は木々を抜ける風と、自分の靴が地面を踏む音くらいしか聞こえない。
途中、昨夜見たページに載っていた、三角形に割れた大きな岩を見つけた。
「あった」
立ち止まって写真を撮る。
画面で見た場所へ自分の足で来た。それだけのことなのに、妙に嬉しかった。
山頂へ着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
雲は多少あったものの、木々の切れ間から遠くの町まで見渡せる。軽く食事を取り、何枚か写真を撮った。
「ここ、当たりだったな」
思っていたよりいい山だった。
人は少なく、道も極端に険しくない。今度は誰かを連れてきてもいい。
しばらく休んでから下山を始めた。
空の様子が変わったのは、それから1時間ほど経った頃だった。
最初に気づいたのは風だった。山頂ではほとんど感じなかった風が頭上の枝を大きく揺らし始め、そのうち雲が厚くなって、森の中まで薄暗くなってきた。
「降るのか……?」
スマートフォンを確認してみたが、電波が弱く、新しい天気予報は読み込めない。
やがて細かな雨が落ちてきた。
「まあ、このくらいなら」
レインウェアを着て歩き出す。
だが、雨だけでは済まなかった。
少しずつ霧が出始め、最初は木々の向こうを白く霞ませていたものが、気づいた頃には数十メートル先の景色まで曖昧にしていた。
「やだな、これ」
足元の土や落ち葉も濡れ、踏み跡が見えづらくなってきた。
昨夜見たサイトに書かれていた場所だろうか。
前方で、道らしきものが二つに分かれていた。
「こっち……だったか?」
登ってきた時、こんな分岐を通った覚えがない。
地図を開いてみたものの、現在地を示す点は落ち着かず、少し待っているうちに数十メートル離れた場所へ飛んだ。
「参ったな……」
裕太は先へ進むのをやめた。
一度、確実に分かる場所まで戻った方がいい。
そう考えて来た道を振り返った時だった。
「下りるの?」
不意に後ろから声がした。
振り向くと、霧の向こうから一人の男が歩いてくる。
40代後半くらいだろうか。日に焼けた顔には薄い無精髭があり、紺色のレインウェアも登山靴もかなり使い込まれていた。それでも濡れた山道で足の置き方に迷う様子はなく、歩き方だけを見ても、自分よりずっと山慣れしているのが分かった。
「あ、はい。ちょっと、ここ分かんなくなって」
「ああ、ここ初めてだと分かりづらいんだよ」
「やっぱりそうなんですね」
「地図ある?」
裕太がスマートフォンを見せると、男は画面と周囲を見比べてから左手を指した。
「こっち。俺も下りるから、一緒に来ればいいよ」
「助かります」
「こういう天気になると、余計分かんなくなるからな」
男が笑った。
その声が、見た目から想像していたより少し高かった。
裕太は一瞬だけ男の顔を見たものの、すぐに気にしなくなった。
*
男の道案内は頼りになった。
滑りやすいところでは「右の石を踏んだ方がいい」と声をかけ、急な場所へ来れば、裕太に合わせるように速度を緩めてくれる。しばらく後ろを歩いているうち、さっきまでの不安も薄れていった。
「登山始めて長いの?」
「1年半くらいです」
「へえ。もっとやってるのかと思った」
「まだ全然ですよ」
「どこ登った?」
裕太がいくつか山の名前を挙げると、男はほとんど知っていた。
「去年、黒岳行きました」
「あそこ最後きついだろ」
「そうなんですよ。最初飛ばしすぎて、最後めちゃくちゃ抜かされました」
男が笑った。
低い話し声から、笑う時だけ音が妙に上へ跳ねる。さっきより、その高さが耳に残った。
「今日は一人?」
「はい」
「友達とは登らないの?」
「たまには。でも最近は一人の方が多いですね」
「ああ。一人の方が気楽だもんな」
そこまでは、山で会った者同士の普通の会話だった。
それから少しして、男が前を向いたまま尋ねた。
「今日ここ来るって、誰か知ってる?」
「まあ、一応」
「ああ、そう」
それ以上、男は何も言わなかった。
しばらく二人の間には雨音だけが続いた。
「学生なんだっけ」
「はい」
「一人暮らし?」
「まあ」
「実家は遠いの?」
裕太は返事をせず、スマートフォンを取り出した。
「……結構聞くな、この人」
聞こえない程度に呟きながら地図を確認する。現在地は相変わらず安定しない。
それより気になったのは、周囲の景色だった。
どうも、事前に見たルートより森の奥へ入り込んでいる気がする。
「あの、こっちで合ってます?」
「合ってるよ」
男はすぐに答えた。
「でも、登ってきた時より、なんか奥に入ってる気がするんですけど」
そこで男が立ち止まり、振り返った。
「いいから。俺についてくれば大丈夫だから」
笑顔は変わっていない。
ただ、その一言だけが少し強かった。
裕太は黙って後ろを歩いた。
離れた方がいいかもしれない。
そんな考えが初めて浮かんだ。
しかし、今さら一人になったところでどちらへ行けばいいのか分からない。雨は強くなってきたうえ、男と歩き始めてからすでにかなり時間が経っている。
木々の向こうは、天候のせいだけではなく夕方の暗さを帯び始めていた。
「若いっていいよな」
不意に男が言った。
「え?」
「体力あるし」
「ああ。いや、俺なんて全然ですよ」
「そういうんじゃなくて」
男が裕太を見る。
その視線は顔から首筋へ落ち、肩、腕へとゆっくり移っていった。
「若い身体って、いいよな」
「……はあ」
男が笑った。
短く甲高い音が混じったように聞こえ、裕太は思わず横顔を見た。
男は何でもない様子で歩いている。
今のは本当に笑い声だったのだろうか。
そう思った時、男の唇の端から透明な唾液が細く伸びた。
手の甲で、何気なくそれを拭う。
裕太は少し気味が悪くなったが、何も言わなかった。
*
雨脚はさらに強くなった。
男について歩き始めてから、どれくらい経っただろう。
スマートフォンを見ると、時刻は17時半を回っていた。思っていた以上に時間が経っている。
木々の間もかなり暗くなっていた。
「これ、もう無理だな」
男が空を見ながら言った。
「何がですか」
「今日中に下まで行くの」
「でも、下りないと」
「もうじき暗くなる。この先に小屋あるから」
「山小屋ですか?」
「昔の作業小屋。雨くらいはしのげる」
裕太はスマートフォンの地図を見た。
そんな建物は載っていない。
「サイトにもなかったと思いますけど」
「古いからな。昔、林業の人が使ってたんだよ」
男は迷う様子もなく先へ進んでいった。
しばらくすると、霧の中から本当に建物が現れた。
森に埋もれるように古びた木造の小屋が立っている。屋根の一部は錆びたトタンで補修され、窓は小さい。周囲を見ても、今も人が出入りしていると分かるような道はほとんどなかった。
「ここ……?」
「雨はしのげるよ」
裕太は入口の手前で足を止めた。
理由をうまく説明できるわけではない。それでも、この男と二人で中へ入ることに強い抵抗があった。
「俺、やっぱり下ります」
男の笑顔が消えた。
「この天気で?」
「来た道戻れば……」
「どれが来た道か分かってんの?」
裕太は黙った。
言われてみれば、その通りだった。
すぐに男の顔へ笑みが戻った。
「危ないよ。無理しない方がいい」
現在地も曖昧なまま、暗くなってから雨の山を一人で歩く方が危険なのは裕太にも分かる。
「朝になれば下りればいいんだから」
男は小屋の戸を開けた。
「もう暗くなる。俺について来な」
裕太はしばらく入口を見つめた。
「……朝までですよね」
「そうそう」
男が笑う。
その声に、また少し高い音が混じった気がした。
迷った末、裕太は小屋へ入った。
*
小屋の中には、古い木材と湿った埃の臭いがこもっていた。
壁には錆びた道具が掛かり、隅には傷んだ木箱が積まれている。少なくとも、昔ここが何かの作業に使われていたこと自体は本当らしかった。
男はザックを下ろした。
裕太も壁際へ座ってスマートフォンを確認したが、圏外だった。
「疲れただろ。寝とけ」
「いや、大丈夫です」
「寝た方がいいよ」
「眠くないんで」
男はそれ以上言わなかった。
雨が屋根を叩いている。
時間が経つにつれ、窓の外は完全に暗くなった。
「横になれば?」
また男が言った。
「大丈夫です」
裕太はスマートフォンで時刻を確認し、画面を伏せた。
しばらくして、もう一度声がした。
「寝ないの?」
顔を上げる。
その一瞬だけ、男の表情が抜け落ちたように見えた。
「……眠くないので」
すぐに笑顔へ戻る。
「いいから寝ろよ」
最後のところだけ、声が少し高かった。
裕太は視線を落とした。
ここにいてはいけない。
今度は、かなりはっきりそう思った。
とはいえ、男は戸口に近い場所へ座っている。外へ出たところで、真っ暗な雨の中、自分がどこにいるかさえ分からない。
少し考え、なるべく自然に言った。
「……じゃあ、ちょっと休みます」
「そうしな」
返ってきた声が、妙に嬉しそうだった。
裕太は壁際へ横になったが、靴は脱がなかった。スマートフォンは上着のポケットへ入れ、ライトもすぐ手を伸ばせる位置に置く。
何かあればすぐ起き上がれる姿勢のまま、目を閉じた。
雨音。
風が吹くたびに軋む小屋。
すぐ近くで聞こえる男の呼吸。
時間だけがゆっくり過ぎていった。
「……寝た?」
男が小さく尋ねた。
裕太は動かなかった。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
しばらく沈黙が続いた。
「寝たな」
そのあと、男が笑った。
「クククッ……」
これまでより、ずっと高かった。
抑えきれないものが喉の奥から漏れているような笑いだった。
続いて、ざり、ざり…と何かを掻く音がする。
裕太は耐えきれず、ほんの少しだけ目を開けた。
男は背中を向け、右手を頭へやっていた。
最初は頭を掻いているのだと思った。
違った。
指が、髪の生え際へ入り込んでいる。
男は額の皮膚をつまみ、そのまま前へ引いた。
皮膚が伸びた。
さらに引くと、額から眉、目元へと皮膚がめくれ、鼻の輪郭までが濡れた薄い布のように浮き上がっていった。
裕太は息を止めた。
皮膚はそのまま頬まで剥がれていく。
男が自分の顔を剥いでいる――そう思った。
だが、違う。
剥がれていく方が、人間の顔だった。
その下から現れたものには、鼻らしい隆起がほとんどなかった。目は異様に深いところへ沈み、黒ずんだ皮膚には濡れたような光沢がある。
そして、口の位置がおかしかった。
被っていた人間の口よりさらに外側へ、頬の奥から耳の近くまで裂けている。その中には、小さな歯が細かく並んでいた。
それは剥がした人間の顔を両手で持ち、しばらく眺めた。
「キキキッ…」
ひどく嬉しそうな笑い声だった。
裕太は飛び起きた。
もう人間ではない…その何かが振り返り、真正面から目が合った瞬間、考えるより先に身体が動いた。
ザックを掴もうとしたものの、肩紐が何かに引っ掛かった。すぐに手を離して戸へ走る。
背後で何かが立ち上がった…
その音を聞きながら、小屋の外へ飛び出した。




