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地方怪談集 ~短編・中編の怖い話~  作者: シシモヨウ
【第十一話】 ダムに沈んだ旧道
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ダムに沈んだ旧道

 その年は、梅雨がほとんどなかった。


 俺が勤務しているのは、県北の山間部にある多目的ダムだ。県の職員ではなく、設備管理を請け負っている会社の社員で、普段は管理棟に詰めながら、巡視や計器の確認、取水設備の点検なんかをしている。


 夏に雨が少ないこと自体は珍しくない。ただ、その年は6月の終わりからまとまった雨がほとんどなく、7月に入っても流入量が戻らなかった。


 水位は毎日少しずつ下がっていき、最初のうちは普段なら水面の下にある岩や切り株が見える程度だったが、そのうち対岸の山肌に、妙な横線が伸び始めた。


 その横線は、ダムが造られる前にこの谷を通っていた旧道だった。


 資料では見たことがあった。ダム建設の際に付け替えられ、今使われている県道はもっと高い位置を通っている。


 実物を見るのは、そのときが初めてだった。


 舗装の大部分は泥に埋もれていたが、場所によっては路肩の形も残っていて、白っぽいガードレールまで水の中から姿を現していた。


「結構残ってるもんなんですね」


 巡視のときにそう言うと、一緒にいた森さんが、


「水の中の方が案外そのまま残るんだよ」


 と答えた。


 珍しい光景だったから、そのころは俺も面白がっていた。


          *


 最初に人を見たのは、それから数日後だった。


 午後の巡視で堤体側から対岸を眺めていると、露出した旧道の湖側、古いガードレールのそばに一人だけ立っていた。かなり遠く、何か作業をしている様子もない。ただ旧道の上から、山側を向いているように見えた。


 水位が下がると、珍しがって湖底へ降りようとする人がいる。立入禁止にはしているが、釣り人や写真を撮りに来た人が柵を越えることもある。


 俺も最初はそれだと思った。


 管理棟へ無線を入れてから双眼鏡で確認すると、やはり人に見えた。釣り竿もカメラも持っていないし、周囲を見回す様子もない。


 ただ、そこに立っている。


 俺と森さんで対岸へ回った。

 車で20分ほどかかったが、着いたときには誰もいなかった。


「帰ったんじゃねえの」


 森さんはそう言った。

 俺もそのときは、それ以上気にしなかった。


 翌日、また人影を見つけた。今度は二人で、前日の一人より少し高い場所に立っていた。


 旧道は谷に沿って緩やかに上っていて、水位が下がるにつれて、その先が少しずつ山側へ姿を現していた。


 二人はその露出した道路脇に、少し距離を空けて立っていた。


 朝に見た場所から、昼にはいつの間にか位置が変わっている。


 双眼鏡でしばらく眺めていても、二人とも動かない。身体を揺らすこともなく、顔を横へ向けることもなく、本当にただ立っている。


 なのに、次に見ると進んでいる。


 森さんにも双眼鏡を渡した。


「二人いるよな」


「ですよね」


「……あんなとこ、どっから入った?」


 旧道の両端は、今の道路にはつながっていない。


 片方は土砂で埋まり、もう片方はまだ水の中にある。山から降りれば入れなくはないだろうが、わざわざ二人で湖底へ降り、何もせず立っている理由が分からなかった。


 その2日後には、四人になっていた。


 水位がさらに下がり、旧道が長く現れた分だけ、人影も上へ移っている。


 白っぽい服を着ているように見えるものもいれば、黒っぽい服のものもいた。背の高いものもいれば、一人だけ子どもくらいの背丈に見えるものもいる。


 奇妙なのは、双眼鏡を使っても顔が分からないことだった。距離があるせいだと思うしかなかった。


 人影を見つけるたびに管理棟には報告していたが、現地まで確認に行けば誰もいない。結局、侵入者なのかどうかさえ分からないままだった。


 最初の一人を見てから、1週間もしないころだった。


 その朝、巡視に出て湖を見た瞬間、足が止まった。


 旧道には7人いた。


 最初は一人だった。それが二人になり、四人になり、今は7人が間隔を空けながら旧道の上に立っている。


 誰一人こちらを見ず、全員が山側――旧道が現在の県道へ近づいていく方向を向いていた。


 その日の午後、先頭の一人は午前中よりずっと高い場所にいた。現在使われている県道の下まで、もうそれほど距離がないように見えた。


 けれど、いつそこまで移動したのかは分からなかった。


 見ている間は、誰も動かない。


「警察に言った方がいいんじゃないですか」


 俺が言うと、森さんはしばらく黙っていた。


「何て言うんだよ」


 それで会話は終わった。

 確かにその通りだった。


 現地まで行けば誰もいない。写真を撮っても、距離があるせいで人なのか影なのか判然としない。


 俺たち自身にも、何が起きているのか説明できなかった。


 水位が下がるほど旧道が長く現れ、その上にいる人の数が増え、いつの間にか少しずつ山側へ進んでくる。

 分かっていたのは、それだけだった。


 ようやく雨が降ったのは、その翌日だった。


 最初は夕立程度だったが、その夜から前線が停滞し、まとまった雨になった。


 翌朝には流入量が大きく増えていた。


「これなら戻るな」


 森さんが言った。

 俺も心底ほっとした。


 雨は2日続いた。

 水位が上がるにつれて、旧道は低いところから少しずつ水の中へ沈んでいった。


 人影の方は、確認するたびに数が減っていた。


 最初は7人いたはずなのに、次に見たときには何人かが見えなくなっていて、さらに水位が上がると、残っていた人影も分からなくなった。


 最後にあいつらを見た場所も、その日の夕方には水の下だった。


 翌朝、湖面はほとんどいつもの景色に戻っていた。山と水面と堤体があるだけで、旧道も人影も見えない。


 この1週間ほど、湖を見るたび無意識に人影を探すようになっていたせいか、何もいない水面を見ただけで、ずいぶん肩の力が抜けた。


 水位が下がったときだけ見える何かなのだろう。理由は分からなかったが、水が戻れば、少なくともあれを見なくて済む。


 その後も数日間は何も起きなかった。巡視も設備点検もいつも通りで、森さんとも旧道の話をしなくなった。


 ようやく終わったのだと思い始めていた。


          *


 その夜は、俺が管理棟に残っていた。

 午後11時を少し過ぎたころだった。


 管理室には監視用のモニターが並んでいる。ダム湖や堤体だけではなく、管理道路、正門、駐車場、取水設備、管理棟の出入口など、施設内外のカメラを順番に切り替えて確認する。


 いつもの作業だった。

 湖面は静かで、設備にも異常はない。


 コーヒーを飲みながら画面を切り替えていると、一つのモニターの端に人影が見えた。


 また出た、と思ったが、すぐに違和感があった。


 暗い道路脇に一人立っている。何をするでもなく、旧道で見た人影と同じように、じっと同じ方向を向いていた。


 そのカメラは、ダム湖を映していなかった。


 管理道路だった。

 現在使われている、施設へ上がってくる道路だ。


 俺は画面を見たまま動けなかった。人影が少しも動かないのを確認してから、嫌な感じを押し込めるように正門のカメラへ切り替えた。


 門柱の横にも一人いた。


 すぐ管理道路へ戻すと、最初の人影もまだ同じ場所にいる。駐車場へ切り替えると、車と車の間にも立っていた。


 そこで旧道の7人が頭に浮かんだ。

 水が戻って、沈んだんじゃない。

 あの道を上まで来たんじゃないか。


 裏口へ切り替えると建物の壁際に一人いて、職員玄関にも同じように人影が立っていた。


 もう外のカメラを見ても意味がない気がした。

 それでも指は止まらなかった。

 1階廊下へ切り替えると、非常灯の下に人が立っていた。


 建物の中だった。

 俺は反射的に管理室のドアを見た。


 廊下の向こうからは、足音も服の擦れる音も聞こえない。何も聞こえないのに、画面の中には確かに人が立っている。


 見ている間は動かない。次に確認したときだけ、近くなっている。


 残っているのは、管理室前を映すカメラだった。

 俺はマウスを握り直し、画面を切り替えた。


 誰もいなかった。


 そこでようやく息を吐いた。ここまでは来ていない。


 『助かった……』


 俺はもう何も見たくなくて、モニターの電源を落とした。


 映像が一斉に消えると、黒い画面に薄暗い管理室と、机の前に座る自分の姿がぼんやり映った。


 黒い画面には、自分しか映っていないように見えた。


 そのすぐ横に、もう一つ顔があった。

 俺の肩の後ろから、黒い画面を覗き込んでいた。


 旧道では遠すぎて分からなかった顔が、今は嫌になるほど近かった。


 水に長く浸かっていたように白く膨れた顔だった。

 それが、俺の肩に頬が触れそうな距離で、笑っていた。

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