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地方怪談集 ~短編・中編の怖い話~  作者: シシモヨウ
【第十話】 誘導、おつかれさまです
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誘導、おつかれさまです

 そのトンネルで最初にあの誘導員を見たとき、俺は命を助けられたと思った。


 県道にある古いトンネルで、夜間の補修工事をしていたときのことだ。


 俺は地元の建設会社に勤めていて、道路工事そのものは珍しくない。ただ、その現場に入るのは初めてだった。


 トンネルは山の中腹を抜ける古いもので、全長は800メートルほどある。昔から大型車の通行が多く、内壁にはところどころ漏水の跡があり、その年はコンクリートの補修と照明設備の交換をまとめてやることになっていた。


 工事は夜9時から翌朝5時まで。


 完全通行止めにはできないので、両方の坑口に誘導員を置き、片側ずつ車を通す。その間に俺たちが作業車を移動させながら、トンネルの中で仕事をする。


 初日の夜、坑口に立っていた誘導員たちに、


「おつかれさまです」


 と声をかけて中へ入った。


 午前1時を過ぎると、さすがに車も少なくなった。


 そのころ俺は、小型の作業車を作業帯から反対車線側へ移すよう班長に言われていた。


 坑口から通された車列がちょうど途切れたように見えたので、もう大丈夫だろうと思い、周囲を確認しながらゆっくりハンドルを切った。


 少し先に、一人の誘導員が立っているのが見えた。


 白っぽいヘルメットに反射ベスト、暗い色の作業着。赤い誘導棒を持っている。現場にいる誘導員と同じような格好だったので、俺も特に不思議には思わなかった。


「おつかれさまです」


 窓を少し開けて声をかけたが、男は返事をしなかった。


 ただ、赤い棒を身体の前へ横向きに出した。


 止まれ、という合図だった。


 俺は反射的にブレーキを踏んだ。


 その直後、トンネルの奥から乗用車が一台、こちらへ走ってきた。


 さっきの車列の最後尾だったらしい。前の車とかなり間が空いていたせいで、俺にはもう全部通り過ぎたように見えていた。


 乗用車はそのまま俺の前を通過していった。


 もしあの合図を無視して車線へ出ていたら、たぶんぶつかっていた。


「危な……」


 思わず声が出た。


 前を見ると、誘導員はもう歩き始めていた。


 俺は窓から顔を出して、


「ありがとうございます」


 と叫んだが、男は振り向かなかった。


 少しして休憩に入ったとき、反対側の坑口を担当していた佐藤さんにその話をした。


「さっき、中まで来てくれました?」


「何が?」


「誘導です。車、止めてくれたじゃないですか」


 佐藤さんは紙コップのコーヒーを飲みながら眉を寄せた。


「俺、ずっと向こうだぞ」


「じゃあ、別の人?」


「中には置いてないよ」


 冗談を言っている感じではなかった。


 班長にも聞いたが、答えは同じだった。その夜、トンネルの中へ入っていた誘導員はいないらしい。


 妙だとは思ったが、このときはまだ怖いという感じではなかった。誰だったのかは分からないものの、少なくとも俺は助かった。そのときは、それで済ませた。


          *


 二度目に見たのは、それから4日ほど後だった。


 午前2時前だったと思う。


 作業が一段落して、俺は資材を取りにトンネルの中央付近まで歩いていた。最初に気づいたのは人影ではなく、左側の壁際で大きく上下している赤い光だった。


 近づくと、あの男だった。

 同じヘルメットに、同じ反射ベスト。


「あれ」


 思わず足を止めた。

 前に助けてくれた人だと思ったので、最初は少し安心したくらいだった。


 ただ、すぐにおかしいことに気づいた。


 男は道路を見ていなかった。


 トンネルの左側の壁を見ている。そこには古いコンクリートの壁が続いているだけで、非常電話も扉もない。


 男はそこへ向かって、身を乗り出すように何度も赤い棒を振っていた。ときどき空いた手まで使い、早く来いとでもいうように大きな動作を繰り返している。作業灯に照らされた顔は険しく、額には深くしわが寄り、歯を食いしばっているように見えた。


「何してんだ……?」


 俺が少し近づいても、男はこちらを見なかった。

 壁だけを見ている。


 誰もいない壁へ、


 こっち。

 そのまま。

 早く。


 そんなふうに、必死に何かを誘導し続けていた。


「おつかれさまです」


 試しに声をかけてみたが、反応はなかった。


 何を相手にしているのか分からないまま、その動きを見ているのが急に気味悪くなり、俺は資材を取りに行くのもやめて、その場を離れた。


 振り返ったときも、暗いトンネルの中で赤い光だけがまだ大きく動いていた。


           *


 次の日の休憩中、昨夜のことを佐藤さんに話した。


 今度は笑われると思った。

 ところが佐藤さんは少し黙ってから、


「どの辺?」


 と聞いた。


 場所を説明すると、近くにいた班長がこちらを見た。


「左側?」


「はい」


「壁に向かって?」


「そうです」


 班長は何か知っているようだったが、その場では話さなかった。


 その日の作業終了後、現場事務所へ戻ると、班長が棚の奥から古いファイルを出してきた。20年以上前に行われた補修工事の写真や書類が何枚か入っている。


 その中に、誘導員たちが並んで写っている写真があった。


 すぐ分かった。

 あの男だった。


 今より少し古い形のヘルメットに、色褪せた反射ベストを着て、写真の端で真面目そうな顔をして立っている。


「この人、昔ここで亡くなってる」


 班長が言った。


 夜間工事中に大型車にはねられたらしい。

 事故が起きた場所も、俺が男を見た辺りだった。

 ただ、その人は本来そこにいるはずではなかったという。


 本来の担当は坑口側だった。それなのに事故の少し前から持ち場を離れ、一人でトンネルの中央付近まで入っていた。


「俺がこの会社に入ったころ、当時の現場にいた人がまだ残っててさ」


 班長は写真を見ながら言った。


「その人から聞いたんだよ。事故の直前、あの誘導員、壁に向かって棒振ってたらしい」


 俺は顔を上げた。


「壁に?」


「誰もいないとこに、ずっとな。何やってんだって声かけても、聞こえてないみたいだったって」


 佐藤さんが、


「夜勤続きで疲れてたんじゃないの」


 と言った。


 班長も、それ以上は何も言わなかった。

 俺も、その方がいいと思った。


 事故で亡くなった人の幽霊が出る。それだけなら、まだ分かる気がした。俺を助けてくれたのだって、昔の仕事を死んだ後も続けているからなのかもしれない。


 ただ、一つだけ引っかかった。

 あの男は死ぬ前から、誰もいない壁へ誘導していた。


          *


 三度目に見たのは、その2日後だった。


 だからといって、そんな話だけで仕事を休めるわけにもいかなかった。現場はいつも通り動いていて、その晩も俺は夜9時にはトンネルへ入っていた。


 作業の進みが悪く、午前3時近くまで中央付近にいた。


 資材を運んでいる途中、左側に赤い光が見えた瞬間、心臓が嫌な感じに跳ねた。


 同じ場所に、また男がいた。


 だが、その夜は前回のように必死ではなかった。肩から力が抜け、どこか安心したような穏やかな顔をしている。


 それでも、やっていることは同じだった。

 左側へ向かって、赤い誘導棒を振っている。


 俺は壁を見た。


 最初は照明が切れているのだと思った。壁の一部だけが、作業灯の光を吸い込むように黒く見えたからだ。


 でも違った。


 そこに壁がなかった。


 人が二、三人並んで歩けるくらいの幅で、ぽっかりと黒い空間が開き、その奥へ道のようなものが続いていた。


 舗装されているようにも見えたし、ただの土の道にも見えた。暗すぎて、その先がどうなっているのかまでは分からない。


 そんなものはない。


 何日もそこで作業しているし、昼間も何度も通っている。


 そこにはコンクリートの壁しかなかった。


 俺はしばらく、誘導員が何かをその道へ入れようとしているのだと思っていた。赤い棒を振っている以上、何かを穴の奥へ送り込もうとしているのだと、勝手にそう考えた。


 でも、違った。


 男は穴の奥を見たまま、赤い棒を自分の方へ引き寄せるように振っている。


 こっちへ。

 そのまま。

 来い。


 誘導している方向が逆だった。


 穴の中から、こちらへ出そうとしている。


 奥で何かが動いた。


 最初は人だと思った。作業着を着た男のようなものが、二本足でゆっくりこちらへ歩いてくる。


 誘導員は穏やかな顔のまま赤い棒を振り続けていた。


 距離が縮まるにつれて、その歩き方がおかしいことに気づいた。脚そのものは動いているのに、膝がほとんど曲がっていない。歩いているはずなのに肩も揺れず、作業着に見えていたものも、身体が動くたびに布として揺れることがなかった。


 それでも、遠目にはまだ人間に見えた。


 さらに近づいてくる。


 やがて顔が見える距離まで来た。こちらを向いているのは分かるのに、目がどこにあるのか分からない。鼻も口も、何かそれらしい形はある。それでも、どこを見れば人間の顔として認識できるのか分からなかった。


 誘導員が赤い棒を横へ出した。


 それは止まった。


 ぴたりと。


 さっきまで歩いていたのに、身体には呼吸のような動きさえ見えなかった。


 誘導員が赤い棒を振ると、それはまた同じ歩き方でこちらへ進み始めた。俺は声も出せず、ただ穴の手前まで近づいてくるのを見ていた。


 そこで誘導員が一度だけ、俺の方を見た。


 目が合った。


 その顔は笑ってはいなかったが、前に壁へ向かって必死に棒を振っていたときとは違い、本当にほっとしたように見えた。


 誘導員が大きく赤い棒を振った。


 進め。


 それが一歩、穴の外へ踏み出した。


 トンネルの白い照明が、頭から足元まで初めてまともにその身体を照らした。


 足音もしなかった。


 歩いているのに、何も聞こえない。


 それがゆっくり俺の方を向いた。顔を向けられたのは分かったが、どこに目があるのかは最後まで分からなかった。


 俺は後ずさった。


 そのとき、穴の奥にもう一つ人影があるのに気づいた。その後ろにも、そのまた後ろにも、同じような人の形が暗い道の中に立っている。


 一体目を見送った誘導員は、もう俺を見ていなかった。


 穏やかな顔で穴の奥へ向き直り、赤い棒を持ち上げる。


 ゆっくり、こちらへ振った。

 その瞬間。

 暗闇の奥から、


 ザッ。


 と、大勢がいっせいに一歩踏み出す音がした。


 そこでようやく身体が動いた。


 俺は持っていた資材をその場に落とし、来た道を走って戻った。後ろから追ってくる気配はなかったが、振り返ることはできなかった。坑口まで戻ってからもしばらく息が整わず、何を見たのか聞かれても、うまく説明できなかった。


 その夜、俺はもうあの場所へ戻らなかった。


 それでも翌日になれば現場はいつも通り動いていて、俺だけ休む理由をうまく説明することもできなかった。


 夜9時、またトンネルに入り、左側の壁を遠くから確認した。


 いつものコンクリート壁だった。

 黒い穴も、奥へ続く道もない。あの誘導員も、それきり姿を見せなかった。


 その後は何も起きず、工事も予定通りに進んで、何週間か後にはすべて終わった。

 今でも、あの道がどこへ続いていたのか、誘導員が何をこちらへ通そうとしていたのかは分からないままだ。


 ただ、あの夜、最初の一体が穴の外へ出たところだけは、はっきり見ている。


 翌日、穴は閉じていた。


 でも、あれが穴の中へ戻るところを、俺は見ていない。

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