第41話 「止まれない夏」
黒峠に着いたのは、夜の七時を過ぎていた。
改札を出ると、外の空気がじっとりと重かった。桜ヶ丘の夜とは違う。黒峠の夏は、地面に熱が残っていて、昼間の体温がどこかにまだ染みついているような夜になる。
駅前のコンビニに寄って麦茶を買った。一口飲んだら少し落ち着いた。
家に帰ると、母親がちょうど台所にいて「おかえり、桜ヶ丘どうだった?」と聞いてきた。「まあまあ」と答えた。「奈々美ちゃんは元気だった?」「元気だった」「そっか」、それだけで会話が終わった。母親には余分なことを説明しなくていい。それが楽だった。
部屋に入って、鞄を下ろして、ベッドに横になった。
天井を見た。
今日のことが、順番に浮かんだ。水族館の跡地のベンチ。蝉の声。奈々美の「怖かったんだ、昔から」という声。喫茶店のコーヒー。「来年もここに来る」と俺が言った時の奈々美の顔。
広場で別れた時、奈々美がエイのぬいぐるみのついた鞄を持って、俺の後ろ姿を見ていた。振り返ると、手を上げてくれた。改札をくぐる前にもう一度見たが、まだそこに立っていた。
「行って来て」と言った声が、まだ残っていた。
俺はスマホを出して、玲へ送ったメッセージを確認した。
今日は桜ヶ丘にいた。明日か明後日、都合のいい時間はあるか?
返信は、まだ来ていなかった。
奈々美からのメッセージが来ていた。
電車、混んでなかった?
そんなでもなかった。今は家にいる
すぐに返ってきた。
今日、話してくれてよかった
俺はその言葉をしばらく見ていた。
「よかった」というその言い方は、奈々美らしくない気がした。計算した言葉ではなくて、素直な言葉だった。
俺も、聞けてよかった
送ってから、少し変な気がしたが、本当のことだったのでそのままにした。
玲からの返信が届いたのは、それから一時間後だった。
急いでないよ。夏のうちに時間作ろ。都合できたら連絡して
俺は少し考えて返した。
わかった。来週か再来週には連絡する
スマホを置いた。
窓から夜の空が見えた。黒峠の夜は明るい。駅前の光が、低い雲に反射して、空が少し橙色だった。
夏休みが始まったばかりだった。
翌日、航から連絡が来た。
元樹、今日空いてる? 光明と三人で集まろ
俺は「空いてる」と返した。
三人の集合場所は光明の家になった。エアコンが効いているという理由だった。光明の家は俺の家から歩いて十分ほど。夏の午後の十分は少し応えたが、着いてしまえばそれまでだった。
光明の部屋には、以前来た時から変わっていないサッカーの雑誌と、参考書の山があった。航は床に広がるように座って、早速光明のゲーム機を立ち上げていた。
「元樹、昨日桜ヶ丘だったんだろ」
光明がフローリングに座りながら言った。
「ああ。奈々美に会ってきた」
「どうだった」
「話せた。いろいろ」
光明は頷いた。それ以上は聞かなかった。光明はそういう性格で、俺が話したいことだけ話せばいいと思っているのがわかる。
「玲とは?」
「来週あたりに連絡すると言った」
「そうか」
「急いでないって向こうは言ってる」
「急いでないとは言っても、ずっとそのままにするつもりはないだろ」
「ない」
光明が麦茶を差し出してきた。受け取った。
「夏のうちに決着つける気でいるなら、それでいい」
光明はそれだけ言って、画面を向いた。航が「光明、コントローラーどこだ」と言っていた。
そういう夏の午後だった。
ゲームをして、だらだら話して、航が「腹減った」と言ったので近くのコンビニに三人で行った。コンビニの入口で航がアイスを三本選んで「これにしよう」と言って、俺と光明が「なんで決めるんだ」と言ったら「早く選ばないと溶けるだろ」と返ってきた。その理屈が妙に正しかった。三人でアイスを食べながら帰った。
光明の家の前で少し立ち止まって、「夏休みの残りはどうするんだ」という話になった。航が「海に行きたい」と言った。光明が「日程が合えば」と言った。俺は「合わせる」と言った。それだけの約束だったが、帰り道に何か軽い気持ちがあった。
帰り道、夕暮れの中を歩きながら、俺はこういう時間が本当に久しぶりだと思った。
去年の夏は、何もできなかった。草壁穂香のことがあって、玲の記憶がなくなって、奈々美との関係もぎりぎりの時期だった。遊ぶどころじゃなかった。
今年は、違う。
まだ解決していないことはある。玲との話も。奈々美との関係の先も。
でも、夏の夕方に三人でアイスを食べながら歩いていることができる。それだけで、少し違った。
夕焼けが、西の空を染めていた。赤みと橙が混ざった色で、雲の端が少し紫になっていた。去年の夏も夕焼けは見ていたはずだが、あの頃は夕焼けを眺める余裕がなかった。
今日どうだった?
奈々美からのメールだった。
光明と航と遊んでた。今帰り
そっか。楽しかった?
楽しかった
それなら良かった
そういうやり取りが続いていた。
奈々美は桜ヶ丘にいた。夏の間は親戚の家を行ったり来たりするらしい。「また黒峠に戻る時に連絡する」と言っていた。それまでは、こういう短いメッセージが毎日来た。
一日に一、二件。多い時でも三、四件。
それくらいの量だったのは、奈々美の「信じる練習」が続いているからだと思った。一週間前の奈々美よりは、少し穏やかだった。
夏休みが始まってしばらく経った頃、俺は一人で本屋に行った。
夏休みの間に何冊か読もうと思っていた。光明と三人で行く以外の時間は、特にやることがなかった。由美は部活が続いていた。母親は仕事だった。家に一人でいるのも悪くなかったが、ずっとゲームや動画だけというのも飽きてきた。
駅前の書店に入った。
文庫コーナーをうろうろしながら、背表紙を確認していた。特に決めていたわけではなく、気になるものがあれば手に取るくらいの気持ちだった。
ライトノベルのコーナーで、一冊を手に取った。表紙を確認して、裏のあらすじを読んでいた時だった。
通路の向こうで、誰かがしゃがみこんで棚の下の段を見ていた。
小柄な体型。肩まで伸びた髪。制服ではなく、薄いグレーのワンピースを着ていた。
顔が見えなかったが、見覚えがあった。
その子が立ち上がった。手に文庫本を持っていた。
視線が合った。
星野あかりだった。一年A組。エマと仲良くしている。文化祭の時に廊下で「よかったです」と言いに来た子。
あかりが少しびくっとした。
本を両手で持ち直した。
「……先輩」
「こんにちは」
「こんにちは……あの、本を選びに来て」
「そうか。俺も」
短い沈黙があった。あかりは棚と俺の間に視線を行き来させた。何かを言おうとして、言えない、を繰り返していた。
「エマは一緒じゃないのか」
「今日は別々で。でも夕方に合流します」
「そうか」
また沈黙があった。
あかりは少し、顔色が悪かった。夏休みが始まってから、あまり外に出られていないのかもしれない。
「その本、何を選んでるんだ」
俺は聞いた。
あかりがびくっとした。聞かれると思っていなかった様子だった。
「……前から気になってたやつで。エマさんが、この著者を読んでみてって言ってたので」
「どの著者だ」
「川上弘美って……知ってますか」
「名前だけ。読んだことはない」
「私も初めてで……でも装丁が好きで、手に取ってしまいました」
その言い方が少し素直で、俺は少し気になった。
「装丁で本を選ぶのか」
「選びます。表紙が好きだと、内容も好きなことが多くて」
「そういうものか」
「たまに全然違うこともありますが……」
あかりが少し困ったような顔で言った。その顔が、廊下で「ありがとうございました」と言っていた時より少し自然だった。
「本の話は、しやすいのか」
「……そうみたいです。本の話だと、普通に出てくる気がして」
「普通に話すより?」
「普通に話すのが、あまり得意じゃなくて。言いたいことが出てこないことが多いんです。でも本の話なら、何か言える気がする」
あかりが言いながら、少し俯いた。こんなことを話していいのか、という顔だった。
「それはいいことじゃないか。入口がある方が、話しやすい」
あかりが少し顔を上げた。
「話してみたい本はあるか、今」
「え?」
「せっかく本屋にいるんだから、本の話をすればいいだろ。俺も選びに来てるし」
あかりはしばらく止まっていた。それからゆっくりと、「じゃあ……これが、昨日読み終えた本なんですが」と言って、鞄から文庫本を出した。
古い小説だった。著者名を見ると、梶井基次郎とあった。
「『檸檬』の人か」
俺が言うと、あかりが少し驚いた顔をした。
「知ってるんですか」
「授業で一つだけ読んだ。短くて、意味がよくわからなかった」
「授業で読むと、わからないですよね。私も最初そうで。でも自分で読んだら好きになって」
「どのへんが好きなんだ」
「文の密度が好きで……短い文章の中に、すごく重いものが入ってる。長い説明なしに、一行で全部言ってる感じがして」
「そういう読み方をするのか」
「します。書き方が好きな文章と、そうじゃない文章があって……梶井は一文一文の密度が好きなんです」
あかりが話しながら、少しずつ声が大きくなっていた。自分でも気づいていないのかもしれない。前のめりになっていた。
本の話になると、変わるんだな、と俺は思った。さっきまでの縮こまった感じが、消えていた。
その後、二人で棚の間を少し歩きながら話した。あかりが俺の手にあるライトノベルに気づいて「それ、ちょうど友達がいいって言ってたやつです」と言った。「一巻目から読む?」と聞かれたので「そうするつもり」と言ったら「良かった、順番に読む方が絶対いいので」と本気で言っていた。
気づいたら三十分以上、本屋で話していた。
コーナーからコーナーへと移動しながら、お互いの話が途切れなかった。その理由が「本」という共通の場所があるからだとわかっていた。本があれば話せる、という状態は、俺も同じだと思った。光明や航との話とは違う種類の話が、あかりとはできた。
外に出る時、俺が先に言った。
「また話せればと思う。連絡先、教えてもらえるか」
あかりが止まった。
俺の顔を、少し確認するような目で見た。
「……いいんですか」
「本の話をしたい相手がいると、夏休みがましになる」
正直な理由だった。
あかりはしばらく下を向いていた。何かを考えていた。
「……柊さんのこと、気になります」
「それは俺の話だ。あかりと俺の間の話には関係ない」
「そう言えるんですか」
「言える」
あかりが顔を上げた。その目に、何かが混ざっていた。ためらいと、何か別のもの。
「……じゃあ」
そう言って、あかりがスマホを出した。
連絡先を交換してから四日後、あかりからメッセージが来た。
夏休みのどこかで時間があれば一緒に行けたらと思ってるんですが、もし良ければ。本屋か、どこかお茶でもできれば。無理なら大丈夫です
俺は少し考えて返した。
いいよ、行こう。まずは日程を決めようか
奈々美には、あかりのことを言わなかった。
隠そうとしていたわけではない。でも言うタイミングがなかった、というのと、言ってどうなるかを考えると踏み出せなかった、というのが半分ずつだった。奈々美に言えば、奈々美が怖くなる。怖くなった奈々美が「止まれない」方向に動くかもしれない。それを恐れていた。
でも同時に、言わないことが「隠す」と同じだということも、わかっていた。
答えの出ないまま、日程だけが決まった。三日後になった。
約束の日は曇りだった。
真夏の曇りは蒸した。日差しがない代わりに、空気がまとわりついてくる。俺は家を出てから数分で汗をかいていた。
待ち合わせは商店街の入口に近い自販機の前。あかりは時間より少し前に来ていた。
白い半袖のシャツに、膝下のスカート。制服より少し大人びていた。
「おはよう」
「おはようございます。暑いですね」
「本当に」
「曇ってるのに、こんなに暑いなんて……」
「梅雨が明けたばかりだから、湿気がまだ多い」
「そういうものなんですね」
あかりが鞄を両肩に持ち直した。緊張していた。でも本屋での時より、少しはほぐれていた。
「どこに行くか決めてあるか」
「涼しいところならどこでも……最初に喫茶店に入れれば」
「そこの駅前の方に一軒ある。そこでいいか」
「はい」
二人で歩き始めた。
商店街を抜けた先の路地に、古い喫茶店があった。観光客向けではない、地元の人間が使うような店だ。昼間は混んでいないことが多い。
入ると、先客は二組だけだった。窓側の席が空いていた。二人で向かい合って座った。エアコンが低めに設定してあって、外から入ってくるとひんやりした。
「冷たいもの頼むか」
「はい。アイスティーにしようと思って」
「俺もそうするか」
メニューを見ながら、あかりが「アイスコーヒーは苦いので、いつもティーにしてます」と言った。
「コーヒーは飲まないのか」
「飲めなくはないですが……まだ苦手で。エマさんはいつもブラックで飲むので、真似しようとしたんですが、顔が変わってしまって」
「顔が変わるのか」
「すごく変わります、苦いのを飲んだ時。エマさんに「今の顔、好き」って笑われて」
あかりが少し恥ずかしそうにした。
そのやり取りが可笑しくて、俺は少し笑った。あかりが「笑わないでください」と言った。
注文してから、話が続いた。
本の話が自然に出てきた。あかりが「本屋の日から梶井基次郎の別の短編を読んだ」と言った。俺が「どれを」と聞くと、「桜の樹の下には』を読んだんですが……」と言いかけて止まった。
「どうした」
「いや、でも……好きな一文があって、言っていいですか」
「どうぞ」
「「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まるやつなんですが、このタイトルと冒頭が好きで。見えないものがある、っていうことを書いている文章で」
「見えないもの?」
「きれいなものの下に、何かが隠れてる、っていうことを、梶井は繰り返し書いてる気がして。きれいに見えるのに、そのきれいさは何かの上に成り立ってる……みたいな感じが」
あかりが言いながら、少し自分の言葉に引っかかった顔をした。
「うまく言えないですが、そういう緊張感のある文章が好きで」
「緊張感のある文章か。なんでそれが好きなんだ」
あかりが少し止まった。
「……きれいだけだと、信じられない気がするからかもしれないです。何かが隠れてる、って書いてある方が、正直な気がして」
「何も隠れてないものは、嘘だと思うのか」
「嘘というよりは……何かを省いてる、という感じがします。人間も、もの事も、きれいな部分だけを見せてる時は、何か省かれてる気がして。だから、省かれてない方が好き」
あかりがそう言って、少し照れたように視線を落とした。
「変なこと言ってますかね」
「変じゃない」
俺は答えた。
変じゃなかった。むしろ、俺にはその言い方がすごく正確に聞こえた。
「俺も、きれいだけを見せてくる相手には、少し気を張ってしまう」
「先輩も?」
「ああ。省かれてるものが気になって、それが何なのかを探そうとしてしまう」
「それ……わかります。でもわかっていても、省かれてるものを見つけるのが怖い時もあって」
「怖い?」
「見つけると、それを受け取らないといけないから。見つけなければ、怖いままでいられる、みたいな感じ」
あかりが少し下を向いた。それから顔を上げた。
「先輩は、怖いものを見つけた時、どうしますか」
その問いは、少し真剣だった。
「そのまま見ることにしてる」
「見て、怖くなりますか」
「怖くなる。でも、見ないよりましだと思ってる」
あかりが少し頷いた。
「そうですね。見ないままの怖さより、見た後の怖さの方が……対処できそうな気がする」
「同じだな」
「同じですかね」
「同じだと思う」
あかりが少し、頬が緩んだ。
そのやり取りを、後から振り返った時、俺は思った。
あかりと話している時、俺は自分の言葉が出てきやすかった。
それはなぜなのか。
あかりは計算しない。あかりが見せているものと、隠しているものの境目が、俺にはある程度見える。そのことが、俺を楽にしていた。
奈々美との会話では、常に俺が言葉の意味を確かめている。これは本音か、演技か。どこまでが計算か。そういう確認が、どこかで走り続けている。
あかりとの会話にはそれがなかった。
ただそれだけのことが、俺を少し解放していた。
その解放感が、何かを意味するのか。
俺は答えを出そうとして、また止めた。
コーヒーを飲みながら、話が続いた。俺のライトノベルの話をしたら、あかりが真剣に「その巻で何が一番よかったか」を聞いてきた。俺が「主人公が嘘をついた場面」と答えると、「嘘をついた場面が好きなのは、なぜですか」と続けた。そういう質問をしてくる人間は、俺の周りにいなかった。
「嘘をついた理由が、嘘より重かったから」
「嘘より重い理由、か」
「ああ。嘘の中に本音があった、みたいな感じ」
「それ……梶井が書いてることと、似てる気がします」
「そうか」
「省かれてるものの中に、本当のものがある。省かれてる方が、正直、みたいな逆転が」
あかりが言いながら、少し目が明るくなっていた。
こういう話ができる相手が、あかりにとってはエマだったのかもしれない。本の話ができる相手。俺に対して警戒していたあかりが、本の話をする時だけ別人みたいになる。
喫茶店を出てから、二人で本屋に行った。
前回と同じコーナーをうろうろした。あかりが棚から本を取って背表紙を読む。俺がそれを横から見る。俺が本を手に取ると、あかりが「それ、どういう内容か気になってました」と言う。そういうやり取りが繰り返された。
あかりが一冊を手に取って、少し長く表紙を見ていた。
「それ、何だ」
「詩集で……詩は苦手なんですが、装丁が好きで手が止まってしまって」
「詩が苦手なのか」
「圧縮が強すぎて、ついていけないことが多くて。一行に全部が入ってる感じが、読んでいてしんどくなる」
「でも梶井は好きなんだろ」
「梶井は散文だから……詩とは違って、流れがある分だけついていけます。詩は流れがなくて、一発で刺してくるから」
「「一発で刺してくる」か」
「刺してくるんですよ。良い詩は特に。刺されてから、何に刺されたのかしばらくわからなくて」
あかりが少し笑った。
「変な言い方ですね」
「変じゃない。わかる気がする」
「先輩も詩を読む?」
「授業でしか読んだことない」
「じゃあ……これ、一節だけ教えてもいいですか。好きなやつで」
あかりがページを開いて、一カ所を指さした。俺はそこを読んだ。短い一節だった。
読み終えてから、少し間があった。
「……どう思いますか」
「刺された」
あかりが少し笑って、本を棚に戻した。その笑い方は、素直だった。
一時間以上いた。
本屋を出て、川沿いを少し歩いた。
黒峠の中央を流れる川には、遊歩道がある。夏の間は散歩している人間が多い。子供連れと、年寄りが多くて、同年代の人間は少なかった。
川の水が、午後の光を受けて光っていた。
「川、好きですか」
あかりが聞いた。
「嫌いじゃない」
「見てると、落ち着く気がして。ずっと同じように流れてるから」
「変わらないものがあると安心する、というのと同じか」
「そうかもしれないです。……先輩も、そういうものありますか」
「空を見てると落ち着く。高いものが好きで」
「高いもの?」
「遠くまで見えると、それだけで少し何かが整理される気がする」
「なんとなく、わかります」
あかりが川を見ながら言った。
川の向こうに、低い山が見えた。その上に雲がかかっていた。
二人で、しばらく黙って川を見ていた。
その沈黙が、苦しくなかった。
何かを埋めようとしない沈黙が、あかりとの間には成立していた。
それが俺には、少し意外だった。
奈々美との沈黙は、どこかに緊張がある。奈々美が考えているのか、計算しているのか、俺には判断できない。だから静かな時間が積み重なると、少し身構える。
あかりとの沈黙には、そういうものがなかった。ただ二人で川を見ていた。
川の流れが、光を細かく砕いていた。
あかりが一度くしゃみをした。
「大丈夫か」
「大丈夫です。少し鼻がむずむずして」
「花粉か?」
「夏にも出るんです、私は。秋の方が多いですが」
「それは大変だな」
「慣れました」
あかりがそう言って、鞄からポケットティッシュを出した。その動作が自然で、慌てていなかった。くしゃみをして恥ずかしがる素振りもなかった。
こういうところが、あかりだと俺は思った。
素直に困ることができる人間だ。
困ることを恥ずかしがらない。弱いことを隠さない。それが自然体になっている。
それが何を意味するのか、俺には判断しないようにしようとした。
夕方になってきた頃、二人で来た道を戻り始めた。
川沿いから商店街の方に向かって歩いた。
並んで歩きながら、話が続いた。あかりが「夏休みに入ってから、家にいることが多かった」と言った。「外に出るのが少し怖くて」と続けた。「怖い?」と聞いたら「柊さんに会うかもしれないと思うと……」と言いかけて止まった。
「奈々美に会うのが怖いのか」
「怖いというより……何かを言われるわけじゃないとわかってるんですが、見られると、圧があるような気がして」
「文化祭の時も感じたのか」
「感じました。舞台袖に立っていた時、柊さんが……こちらを見てた気がして。あの時は怖かったです」
あかりが正直に言った。
「でも、エマさんがそばにいてくれるから。エマさんがいると、落ち着けます」
「エマはそういう人だな」
「今日も、来ていいか心配していたんですけど……来てよかったって思います。さっきの話とか」
「さっきの話?」
「きれいなものの下に何かある、という梶井の話をした時、渡部くんが「見ないより見た方がましだ」と言ってくれた。その言い方が好きでした」
あかりが少し赤くなった。言いすぎた、と思ったのかもしれない。
「変なことを言いましたかね」
「変じゃない」
「それをすぐ言ってくれるのが……渡部くんらしいと思って」
あかりが控えめにそう言った。俺はその「渡部くんらしい」という言い方を少し考えた。
あかりは、俺のことをちゃんと見ている。
それが素直に伝わってきた。
それぞれの帰り道が分かれる交差点に、近づいていた。
あかりの家は俺の家とは逆方向だった。ここで別れるのが自然だった。
「今日は呼んでくれてありがとうございました」
あかりが言った。
「誘ったのはあかりじゃないか」
「でも来てくれたのが、嬉しかったので」
「楽しかったよ。本の話、久しぶりにちゃんとした」
「私も……久しぶりに。エマさん以外と」
二人は交差点の手前で立ち止まった。
自然な流れで、ここで別れるはずだった。
でも、あかりが動かなかった。
鞄を両手で持ったまま、下を向いていた。
「あかり?」
「……少し、待ってください」
その声が、少し変わっていた。
俺は黙って待った。
車が一台通り過ぎた。遠くでカラスが鳴いた。夕方の光が、二人の影を長く伸ばした。
あかりが顔を上げた。
その目が、正面から俺を見ていた。
「言っていいですか」
「どうぞ」
「言ったら……今日のことが変わってしまうかもしれないです。でも、言わないと自分が嘘をついてる気がして」
「言えよ」
あかりが息を一度吸った。
「先輩のことが、好きです」
静かだった。
大きくも小さくもない、まっすぐな声だった。
「今日、ずっとそう思ってた。本の話をしてる時も、川を見てる時も。こういう人が好きだって、思ってた」
俺は何も言えなかった。
「柊さんがいることはわかってます。エマさんから「自分から動くな」とも言われてます。でも……言わないでいる方が、自分に嘘をついてる気がして、それが嫌で」
あかりの声が、途中から少し揺れた。でも崩れなかった。
「返事は求めてないです。ただ、言いたかった」
あかりが少し頭を下げた。
「ありがとうございました。今日、一緒にいてくれて」
そう言って、顔を上げた。
その目が、少し赤かった。泣いてはいない。でも、精一杯こらえている顔だった。
俺は口を開こうとして、閉じた。
何を言えばいいかが、出てこなかった。「ごめん」と言うべきか。でも謝ることは、あかりの言葉を間違いだと言うことになる。あかりの言葉は間違いじゃなかった。
「……あかり」
「うん」
「……また連絡する」
そう言うのが精一杯だった。
あかりが小さく頷いた。
「はい」
それだけ言って、あかりが歩き始めた。
交差点を渡って、そのまま歩いていく。振り返らなかった。
俺はその後ろ姿が建物の陰に消えるまで、その場に立っていた。
夕方の光が、交差点に伸びていた。
「また連絡する」と言った。それしか言えなかった。
あかりが「好きです」と言った時、俺の頭は止まっていた。止まりながら、何かを感じていた。その何かが何なのか、今もはっきりとは言えない。
拒絶感ではなかった。
でも、受け取れる状態でもなかった。
今の俺には奈々美がいる。玲への気持ちも整理できていない。あかりへの「好意」がどういう種類のものなのかも、俺自身がまだわかっていない。
全部が中途半端なまま、あかりの「好きです」だけが、まっすぐだった。
その真っすぐさが、俺には少し重かった。
あかりは素直な人間だ。本の話をする時だけ前のめりになれて、コーヒーが苦いのに飲もうとして、エマのことを好きだと言う時の声が柔らかくなる。
そういう人間から、「好きです」と言ってもらえた。
それが嬉しくないとは言えなかった。
でも嬉しいと感じながら、それを受け取れないでいる。
そのことが、俺には情けなかった。
嬉しいと感じるなら、誠実に向き合う責任がある。向き合えないなら、早く明確にすべきだった。それをずっとできていない。
交差点の向こうに、あかりはもういなかった。
夕方の風が通り過ぎた。
俺は一度深呼吸して、商店街の方に歩き始めた。
商店街の入口まで戻ってきた時、向こう側から人が来るのが見えた。
奈々美だった。
大きめのバッグを肩にかけていた。桜ヶ丘から戻ってきたのか、旅行から帰ったような荷物だった。黒い髪、白いシャツ。鞄にはエイのぬいぐるみが揺れていた。いつもの奈々美だった。
でも奈々美は、俺を見る前に、俺の後ろを見ていた。
あかりの後ろ姿が、まだ見えていた。曲がり角を曲がる寸前だった。
奈々美の歩みが止まった。
俺も止まった。
奈々美の目が、曲がり角の向こうに消えていくあかりを見ていた。そのまま数秒。
何が見えたのか、俺にはわかった。
あかりが別れ際に立ち止まって、まっすぐ俺を向いていたこと。その向き合い方の距離感。俺が動けないままその場にいたこと。
それが全部、奈々美の目に入っていた。
奈々美の目がゆっくりと、俺に戻った。
その目に、何があったのか、俺には判断できなかった。
怒りではなかった。かといって、無表情でもなかった。
何かが、少しずつ薄くなっていく、そういう目だった。
信じる練習をしていた奈々美の目ではなかった。
「……黒峠に戻ってきた」
奈々美が言った。声は静かだった。
「今日帰ってきたのか」
「さっき着いた。元樹くんに連絡しようとしてたら、ちょうどいた」
「そうか」
俺は奈々美の顔を見た。
奈々美は俺を見ていた。
その目が、何かを確認しようとしている目だった。
「今日、誰かと一緒にいた?」
奈々美は静かに聞いた。
俺は少しの間、答えなかった。
答えないことが、答えになることはわかっていた。
「……あかりと、本屋と喫茶店に行ってた」
奈々美の顔が、少し変わった。
変わり方は小さかった。でも確かに何かが動いた。目の奥のどこかが、固まっていく音が聞こえた気がした。
「奈々美」
「……うん」
「驚いてるのはわかる」
「……うん」
「正直に言った方がいいと思った」
奈々美はしばらく答えなかった。
バッグの肩紐を、少し強く握っていた。
遠くで車の音がした。商店街の奥から、誰かの笑い声が聞こえた。
「今日、何かあった?」
奈々美が言った。
その問い方は、慎重だった。答えを知りたいのかもしれない。でも、聞き方を間違えたくない、という緊張が声に混じっていた。
「直接聞くか?」
「……直接聞く」
「あかりが、俺のことが好きだと言ってきた」
奈々美が静止した。
バッグの肩紐を握る手の指が、白くなった。
夕暮れの光が、二人の横を流れていた。
奈々美は何も言わなかった。
俺は続けた。
「俺はまだ何も言えなかった。でも、正直に話す方がいいと思って、言った」
「……うん」
「怒っていいし、怖くなっていい。ただ、隠したくなかった」
奈々美の唇が、少し動いた。何かを言おうとして、止まった。
また動いた。
「……今夜は、帰る」
それだけ言った。
「送るか?」
「いらない」
奈々美がバッグを持ち直した。
俺の横を通り過ぎようとした。
通り過ぎる瞬間、奈々美の目が俺を一度見た。
その目に、何があったのかは、俺にはわからなかった。
ただ、いつもの奈々美の目ではなかった。
計算も演技も、全部取れていた。
何か剥き出しのものだけが残っていた。
奈々美が歩いていった。
夕暮れの商店街に、一人になった。
俺は立っていた。
その夜、奈々美からメッセージは来なかった。
俺は部屋で、スマホを持ったまま何度もロック画面を確認した。
何も来なかった。
それが、来ている時よりも、何か重いものを感じさせた。
来なくなることが止まれていることなのか、それとも全く別の意味があるのか、俺にはわからなかった。
あかりからも、来ていなかった。
誰からも来ない夜が、不思議と落ち着かなかった。
俺は窓を開けた。夏の夜の空気が入ってきた。蝉の声が、遠かった。
頭の中で、奈々美の目が何度もよみがえった。
計算が取れた、あの目が。
翌朝、奈々美からメッセージが来た。
昨日は帰った。怒ってないか、聞かれたら、怒ってない、とは言えない
でも、正直に話してくれたことはわかってる。ありがとう
俺はその言葉を何度か読んだ。
奈々美が「ありがとう」と言うのは珍しくない。でも、「怒ってないとは言えない」という部分が、正直だった。いつもの奈々美なら、「怒ってない」と言いながら内側で抑えているはずだった。
それが今回は、「言えない」と言っている。
今日、会えるか
……会える
午後、奈々美が来た。
いつもの格好だった。黒い髪。白いシャツ。鞄にはエイのぬいぐるみ。
リビングで向かい合って座った。
母親は仕事で、由美は部活だった。家には俺と奈々美の二人だった。
奈々美が麦茶を持ったまま、少し間を置いた。
「怒ってる」
「うん」
「怖い」
「うん」
「でも……それを止められなくなりそうで、それが嫌だ」
奈々美の声は、低かった。低い中に、何かが詰まっていた。
「あかりさんが好きって言ってきた。元樹くんはまだ何も言えなかった。それだけのことを正直に教えてくれた。それはわかってる」
「うん」
「でも……昨日の夜、止まれなかった」
俺は少し止まった。
「止まれなかったというのは」
「確認したくなった。どのくらいの時間いたか。どこに行ったか。あかりさんが何を着てたか。全部知りたくなった」
「それをしたか」
「……一部だけ」
奈々美が窓の外を見た。
「あかりさんが白いシャツを着てた、っていうのを……知った」
俺の喉が少し固まった。
あかりが白いシャツだったのは本当だ。でも、奈々美はそれをどこから知ったのか。俺は言っていない。
「どうやって知った」
「……商店街で、少し見た」
俺は奈々美を見た。
「商店街で見たのか。今日帰ってきたって言ってたが」
「商店街に入る前から……少し、見てた」
少しの沈黙があった。
「奈々美」
「わかってる」
「見ていたのか、ということを確認してる」
「見てた。止めようとしたけど、桜ヶ丘からの電車が黒峠に着いて、改札を出た時に、二人が歩いてるのが見えて、そのまま……」
奈々美が言いかけて止まった。
「後を追ったのか」
「追ってない。でも、距離を置いて見てた。見てしまった」
俺は深呼吸した。
怒りは、あまりなかった。それよりも、重さがあった。
奈々美は桜ヶ丘で「今夜は止まれた」と感じていた。それは本当のことだったはずだ。でも今日の奈々美は「止まれなかった」と言っている。
一歩前に進んだと思ったら、二歩戻ることがある。
それが奈々美という人間なのかもしれなかった。
「怖かったんだな」
俺が言った。
奈々美が俺を見た。
「怖かったから見た。それはわかってる。でも……同じことを繰り返すのは、お互いにとってよくない」
「……わかってる」
奈々美がまた窓の外を見た。
しばらく黙っていた。
「元樹くん」
「うん」
「あかりさんのこと、どうするつもり」
「ちゃんと話す」
「どう話す」
「今の俺には受け取れないと伝える」
奈々美がその言葉を聞いて、少し目を細めた。
「受け取れない、というのは……」
「奈々美がいる。それが一番の理由だ」
奈々美の口が少し動いた。何か言おうとして、止まった。
それから、また動いた。
「……今夜は、もう少しここにいていい?」
その問い方が、いつもと違った。
「いていい?」という聞き方が、今まで奈々美はしなかった。「ここにいる」と言って、いた。それが「いていい?」に変わっていた。
「いていいよ」
奈々美が少し頷いた。
リビングに、静けさが戻った。
その日から、奈々美のメッセージが増えた。
最初の一日は、昨日より落ち着いていた。一件か二件。「おはよう」「今日晴れてるね」「夕飯何食べた」そういう内容だった。
でも二日目から、少しずつペースが上がった。
一日に五件、六件。返信してすぐに次が来ることが増えた。
内容は普通だった。普通の内容が、ただ多く来た。
奈々美が来たのは、その二日目の午後だった。
「今日来てもいい?」という一言だけ来て、俺が「いいよ」と返す前に「今から行く」と続いてきた。
奈々美が来た。
リビングに入って、いつも向かい合って座るところを、今日は俺の隣に来た。
「隣でいい?」と聞いた。
「いいよ」と答えた。
奈々美が俺の隣に座った。テーブルを挟まない距離で。
本を取り出して読み始めた。俺も本を手に取った。
一時間くらい、二人でそれぞれ本を読んだ。
特に話さなかった。奈々美は黙ったまま、俺の方に少し体を向けて座っていた。
それが少し引っかかったが、何も言わなかった。
奈々美がページを閉じた時に、ようやく口を開いた。
「今日、何かあった?」
「……別に」
「何もなかったのに来たのか」
「元樹くんのそばにいたかっただけ」
その言い方が、素直すぎて俺は少し止まった。
「そばにいたかった」という言い方を、奈々美は普段しない。もっと遠まわしに来るか、理由をつけて来るか、どちらかだった。
「今日は素直だな」
「……素直にしか言えない気分だった」
「そうか」
奈々美が、また俺の方を向いた。
「元樹くんがそばにいると、怖さが薄くなる。それだけで来た」
「うん」
奈々美の「変わろうとしている」は本物だ。
でも「変われている」かどうかは、まだわからない。
その二つの間にいる奈々美が、今日も俺の隣に座っていた。
三日目には、「今日どこかに行く予定ある?」という問いかけが来た。続いて「光明くんたちと?」「一人で?」という確認が来た。
俺は「特にない」と答えた。
答えてから少しして、「そっか」と来た。
その後に。
あかりさんとは?
俺はスマホを持ったまま止まった。
まだ話せていない
いつ話すの?
近いうちに
近いうちって、いつ?
俺はその問いを見て、少し間を置いた。
「いつ」という問いに答える義務はない。でも答えないと、奈々美の中で何かが膨らみ続ける。
今週中には
そう、わかったわ
それだけで終わった。
その夜、また来た。
ねえ、元樹くん
何?
あかりさんのこと、どう思ってる?
俺はその問いを見た。
「どう思ってる」という問い。
正直に答えるとしたら、「好意はある、友達として」というのが今の俺の状態だ。でもその「好意」の種類が何なのか、俺自身がまだ整理できていない。
今夜は頭が疲れてる。また話せるか
……わかった
それで終わった。
でも終わらなかった。
十五分後に来た。
眠れなくて
何かしてるのか?
そこから、また続いた。
深夜まで続いた。
内容は普通だった。日常的なことだった。でも俺が返信するたびに、すぐ次が来た。「眠れなくて」という理由で始まったメッセージが、一時間続いた。
俺が「おやすみ」と送っても、「うん、おやすみ」の後に「元樹くん」と来た。
俺はスマホを置いた。
時刻は深夜一時を過ぎていた。
天井を見た。
あかりのことを頭に置いたまま眠れなかった。奈々美のメッセージが続いていた。玲との話もまだ果たしていない。
俺の頭が、三方向から引っ張られていた。
翌朝、俺は玲に連絡した。
今日、話せるか。来週と言ったが、できれば今日にしたい
玲からは、すぐに返ってきた。
今日の午前中なら空いてる。どこにする?
公園でいい?
わかった。十時に
住宅街の外れにある公園。ブランコと砂場とベンチだけの小さな公園。幼い頃、玲とよく来ていた場所だった。
玲はベンチにいた。麦わら帽子をかぶって、肩をまっすぐ立てて座っていた。
「おはよう」
「おはよう。早く来た方がいいと思って」
俺も同じベンチに座った。
日陰があった。木が近くに生えていて、午前中の日差しを遮っていた。
「用件、聞く前に確認していい?」
玲が言った。
「何を」
「元樹が「今日にしたい」って言ってきた。それ、何かあったから?」
「ある」
「昔の約束の話をするつもりだったのか、それとも別のことが起きたのか」
「両方だと思う」
玲が帽子のつばを少し直した。
「話して」
俺は話した。
桜ヶ丘でのこと。奈々美との会話。「今夜は止まれた」という変化を感じたこと。
それから、あかりのことを全部話した。
本屋で偶然会ったこと。連絡先を交換したこと。一緒に出かけたこと。あかりが「好きです」と言ったこと。奈々美がそれを見ていたこと。その後の奈々美のメッセージのこと。
玲は黙って聞いていた。
途中、一度だけ「あかりさんと一緒に出かけたのは、奈々美さんには言ってたの?」と聞いた。「言ってなかった。事後に正直に話した」と答えると、玲はまた黙った。
俺が全部話し終えた後、しばらく沈黙があった。
玲は帽子のつばを少し下に向けた。顔が影になった。
「玲」
「……聞いていい?」
「どうぞ」
「元樹が「今日にしたい」って言ってきた。それ、何かあったから?」
「ある」
「昔の約束の話をするつもりだったのか、それとも別のことが起きたのか」
「両方だと思う」
玲が帽子のつばを少し直した。
「話して」
俺は話した。
桜ヶ丘でのこと。奈々美との会話。「今夜は止まれた」という変化を感じたこと。
それから、あかりのことを全部話した。
本屋で偶然会ったこと。連絡先を交換したこと。一緒に出かけたこと。あかりが「好きです」と言ったこと。奈々美がそれを見ていたこと。その後の奈々美のメッセージのこと。あかりのSNSを奈々美が見ていたことを俺が知ったこと。
玲は黙って聞いていた。途中で麦茶のペットボトルを一口飲んで、また聞いていた。
俺が全部話し終えた後、しばらく沈黙があった。公園に蝉の声が響いていた。砂場の砂が、夏の光の中で白く光っていた。
「玲」
「……聞いていい?」
「どうぞ」
「今、一番何が解決したいと思ってる? あかりさんのことか、奈々美さんのことか、それとも私のことか」
その問いは、真っすぐだった。
「あかりに、ちゃんと返事をしないといけないと思ってる」
「それは、断るということ?」
「……そのつもりでいる」
「奈々美さんがいるから?」
「それだけじゃない。俺の気持ちが整理できていない状態で、あかりを宙ぶらりんにしておくのは、あかりに対して誠実じゃない」
「気持ちが整理できていない、というのは?」
玲の問い方が、少し鋭くなっていた。
俺は答えた。
「奈々美への気持ちが、完全に信じきれていない。でも向き合おうとしてる。玲への……」
そこで止まった。
「私への、何?」
「玲への気持ちも、まだ整理できてない」
玲がしばらく黙った。
夏の公園に、蝉の声が通り過ぎていった。
「元樹」
「うん」
玲が帽子のつばを上げた。
俺を見た。
その顔が、最初から今まで会ってきた中で、見たことのない顔をしていた。
「私ね、草壁さんに頭を石で叩かれた後、半年間、記憶がなかったよね?」
「……ああ」
「告白して振られたことも、奈々美さんのことも、草壁さんのことも、全部なかった時間になった。全部思い出してからも、文化祭が終わったら話すって言ってくれたから、待ってた」
「……わかってる」
「一月から五月まで待った。文化祭が終わっても、なかなか来なかった。連休が終わった時、私から「話したい」って送った。それでもしばらくかかって、やっと今日来た」
玲の声は、静かだった。
穏やかなのに、静かすぎた。
「元樹が来てくれるの、ずっと待ってた。でも来た理由が……あかりさんに好きって言われたから、困ってる、だった」
「玲……」
「草壁さんのことがあって、元樹も頭を叩かれて意識を失った日があったの、覚えてる?」
「覚えてる」
「あの時、私、元樹のことが怖かった。死んでるかもしれないと思った。それくらいの経験をして、全部繋がって今ここにいる。元樹もそれを知ってる」
「……知ってる」
「その私に、「あかりさんのことで困ってる、どうすればいいかわからない」って持ってくる?」
玲の声が、静かなままで少し変わった。
「私が待ってたのは、どういう話のためだったと思ってる?」
「……昔から、気持ちの整理がついていなかったから。話したかった」
「気持ちの整理が、一月からついてないの?」
俺は答えられなかった。
玲が少し下を向いた。
「傷つく、聞いていると」
その声が、少し低かった。
「元樹が、あかりさんのことを「好意はある」と言う。奈々美さんのことを「信じきれていない」と言う。私への気持ちが「整理できていない」と言う。それを全部聞いていると……傷つく」
「……ごめん」
「ごめんって言われても」
玲が立ち上がった。
俺も立ち上がりかけたが、玲が「座っていて」と言った。俺は座った。
「元樹、正直に聞く。私のことが好きかどうか、今は」
俺は答えを探した。
探して、出てこなかった。
「わからない」
「……」
「玲への気持ちは、大切だと思ってる。大切だけど、それが恋愛なのかどうか、俺には判断できていない」
「大切、と、好き、が違うことは知ってる」
「うん」
「大切、っていうのは、幼馴染として、友達として、という意味に近い?」
「それだけじゃない気もしてる。でも確かめる前に、確かめる機会を俺が作れていなかった」
玲が少し俺を見た。
「それが、一番の問題だと思う」
「……何が」
「機会を作れないのが問題、ってことに気づいてるのに、それでも今日「あかりさんのことで困ってる」って来た。機会を作れないのは、向き合う気がないのと同じじゃないの?」
俺は何も言えなかった。
「向き合う気がある人間は、誰かに好きって言われる前に、自分で機会を作る。元樹は……向き合う気がないのか、向き合うのが怖いのか、どっちなの」
「怖い」
「怖い、か」
玲がため息をついた。
俺はそのため息を聞いた。
「しばらく、連絡してこないで」
玲が言った。
「玲」
「答えが出てから来て。出る前に来ても、私には何もできない。傷つくだけだから」
「……わかった」
「傷つきたくない。それだけ。怒ってるとか、そういうことじゃなくて、ただ傷つきたくない」
玲が帽子のつばを直した。
「元樹のことは、好き。今もそれは変わってない。だから、ちゃんと答えを出してから来て。それだけ」
玲が歩き出した。
「玲」
「うん」
「答えが出たら、来る」
「……うん」
玲は振り返らなかった。
公園の砂が、夏の光の中で白く光っていた。
木の葉が、風に揺れていた。
蝉がまた鳴き始めた。
俺はベンチに一人で座ったまま、玲の後ろ姿が公園の出口を出て消えるまで、動けなかった。
公園から家に帰る間、俺は頭の中が静かなことに気づいた。
静かすぎる静けさだった。
玲に、きつい言葉を言われた。でも全部、正しかった。玲の言葉には、一つも間違いがなかった。
俺は向き合うことを、ずっと先送りにしてきた。奈々美との関係が落ち着いたら。文化祭が終わったら。夏休みになったら。そのたびに別のことが起きて、また先送りになった。
でも「別のことが起きた」のは、俺が機会を作らなかったから、とも言える。
玲の言った通りだ。
帰り道の途中に小さな公園があった。子供が一人だけいて、ブランコに乗っていた。親らしい人間が近くのベンチに座って、スマホを見ていた。
その光景を俺は少し見た。
子供はブランコを大きく漕いでいた。足が空に向かって伸びる。それを繰り返していた。
単純なことが、ただ楽しい、という顔だった。
俺は何かを感じながら、そこを通り過ぎた。
何を感じたのか、うまく言えなかった。でも、単純に何かを楽しむことが遠くなってきている、という感覚はあった。
光明と航とコンビニに行って、アイスを食べながら帰った、あの夏の午後。あれが、今の俺には一番素直な時間だった。
それが続けられるのかどうかが、この先の俺にはわからなかった。
家に帰ると、奈々美からメッセージが来ていた。
元樹くん、今日どこかに行ってた?
玲と話してた
しばらく来なかった。
十分後。
……そっか
その後も、断続的にメッセージが来た。
「元樹くん、夕飯食べた?」。「今何してる?」。「眠れそう?」。
一つ一つは普通の問いかけだった。ただ、間隔が短かった。
俺は返しながら、少しずつ重くなっていくものを感じた。
奈々美がそこにいる気がした。遠くにいるのに、すぐそばにいる気がした。
その夜、「元樹くんの声が聞きたい」というメッセージが来た。
俺は少し止まってから「今夜は電話するのが難しい」と返した。
「そっか」と来て、止まった。
三十分後に「眠れない」と来た。
俺は「池田先生に連絡してみたか」と聞いた。「夜間は繋がりにくかった」と返ってきた。
「夜間用の相談番号を調べてみよう」と返したら、「元樹くんが話してくれた方がいい」と来た。
元樹くんじゃないとダメ
その言い方が、少し俺の中で引っかかった。
「じゃないとダメ」。
桜ヶ丘での会話で、奈々美は「信用できる人間が一人でもいると全然違う」と言っていた。高橋さんの話をしながら。その「一人」が俺になっている、ということは、悪いことではないはずだった。
でも今夜の「元樹くんじゃないとダメ」は、少し重量が違った。
頼りにされているのではなく、俺だけが出口になっている、という重さだった。
俺が唯一の出口にはなれない。別の人間にも繋がっていてほしい
しばらく来なかった。
一時間後。
……わかった
でも元樹くんが遠くなっていく気がする
俺はその言葉を読んだ。
遠くなっていく。
俺には覚えがある。奈々美が転校してきた当初、奈々美が俺に「いなくならないで」という形で接し続けた頃の感覚が、少し戻ってきた気がした。
あの頃から、奈々美は変わろうとしていた。変わってきていた。でも今夜の「遠くなっていく」は、あの頃に戻りかけているサインだった。
……じゃあ、おやすみなさい
それで止まった。
俺はスマホを置いた。
天井を見た。
深夜の部屋は静かだった。
その翌日、奈々美が昼に来た。
玄関で俺が出ると、奈々美はいつもより少し顔色が悪かった。眠れていないのかもしれない。
「昨日、来なくていいって言ったのに」
「昨日じゃなくて今日だから」
俺は少し笑った。奈々美が少し目を細めた。笑ったわけではないが、口元が少し緩んだ。
リビングに入った。二人で向かい合って座った。
「玲と、どんな話をしたの」
奈々美が最初に聞いた。
「昔からの積み残しの話と、あかりのこと」
「あかりさんのことを玲に話したの?」
「相談した」
「なんで玲に」
「玲は正直に言ってくれるから」
奈々美が少し間を置いた。
「正直に言ってくれる、か」
「ああ」
「私は正直に言ってくれないと思ってる?」
「そういうことじゃない。ただ、玲は俺が聞きたいことを聞いてくれる」
「どういう意味」
「俺が間違ってると思ったら、ちゃんと言ってくれる」
奈々美が少し俯いた。
「……私には、それができない?」
「奈々美には別の意味で、正直でいてくれてる。でも俺の行動を否定することは、あまりしない」
「否定するより、隣にいたいから」
「それはわかってる」
奈々美が顔を上げた。
「元樹くんは、玲のことが好きなの?」
その問いが、また来た。
「わからない」
「わからない、って言い続けてる」
「本当にわからないから、わからないと言ってる」
「……いつまでわからないままでいるの」
奈々美の声が、少し低くなっていた。低い中に、何かがある。
「夏のうちに決着をつけるつもりでいる」
「夏のうちに」
「ああ」
「あかりさんのことも?」
「あかりには、ちゃんと返事をする。今週中に」
奈々美が少し頷いた。
それからリビングに静けさが戻った。
奈々美はその日、夕方まで家にいた。
俺の隣に座って、本を読んでいた。
話すわけでもなく、ただそこにいた。
その「ただいる」の感じが、最初は普通だった。
でも夕方に近づくにつれて、俺は少し気になるものを感じ始めた。
奈々美がたまに俺を見ていた。
俺がスマホを見ると、少し体が固まった。
俺が立ち上がると、視線が追ってきた。
それが一回や二回なら気にしない。でも、気づくたびに繰り返されていた。
「奈々美」
「うん」
「俺のことを見てるな」
奈々美は少し間を置いた。
「……ごめん」
「謝らなくていい。ただ気づいた、という話だ」
「止めてる。でも、視線が行ってしまう」
「うん」
「元樹くんが何かを見るたびに、誰かから連絡が来たのかって思ってしまう」
俺は奈々美を見た。
「今日は来てないよ」
「……わかった」
奈々美が本に視線を戻した。
でも十分後には、また俺の方を見ていた。
そのことに、俺は何かをはっきり感じた。
重さ、というより、冷たさだった。
怖いという感情ではない。でも、何かが警戒している。
奈々美は今、俺を「人間として見ている」のではなく、「確認の対象として見ている」気がした。
同じ「見る」でも、種類が違う。
今日の午前中に来た時、「止まれた」と言っていた。本を並んで読んでいる間は、その「止まれた」の感触があった。でも夕方になるにつれて、それが薄くなって、別の何かが代わりに来ていた。
奈々美自身が、それに気づいているのか。
気づいているから「ごめん」と言ったのだろうとは思う。
でも「ごめん」と言いながら、また見ていた。
「ごめん」と「また見る」が同時に存在している。
桜ヶ丘でのあの会話を思い出した。
「おかしいとわかっていても、止まれない」。あの言葉が、今日の午後の奈々美の「ごめん、でもまた見る」の繰り返しと、同じことだった。
それが今の奈々美だ。
変わろうとしている。でも変われない部分がある。
その変われない部分が、今日は少し大きかった。
あかりからメッセージが来たのは、その夜だった。
先輩、先日は急なことを言ってしまってごめんなさい。でも、言ったことを取り消すつもりはないです。返事を急かしているわけじゃないです。ただ、変わらないということだけ、伝えておきたくて
俺はその文章を読んだ。
あかりらしかった。謝ってはいるが、本質を謝っていない。言ったことを取り消さない。変わらない、と言っている。
奈々美からも、同じタイミングでメッセージが来ていた。
さっき帰った。元樹くん、今夜は大丈夫?
一時間後にまた連絡が来た。
ねえ、あかりさんから連絡来てる?
俺はスマホを持ったまま止まった。
来ていた。来ている。
「連絡来てる?」という問いに、答えられなかった。
答えたら傷つかせることになる。
答えないままにしたら、奈々美はまた「確認」しようとするかもしれない。
どちらも、正解がなかった。
今夜は寝る。おやすみ
やり取りを続けてたくなくて簡潔に送った。
待って元樹くん
あかりさんのことを答えてから寝てほしい
今夜中に答えなきゃいけないことじゃない
あかりさんが変わらないって言ってきた。それについて、元樹くんはどう思ってる
俺は手が止まった。
「あかりさんが変わらないって言ってきた」。
奈々美は、あかりのメッセージの内容を知っている。俺が答える前に、知っている。
どこで知ったのか。
なんでそれを知ってるんだ?
しばらく返事は来なかった。
……ごめん
俺は画面を持つ手が、少し強くなるのを感じた。
あかりのSNSか、それとも別の方法か。奈々美には、人の行動を追跡する能力がある。それは転校してきた当初から知っていた。でも、池田先生と話して、夏休み前から「止まれてる」と言っていた。
今は止まれていない。
奈々美、それはやめてくれ
やめようとしてる。でも止まれなかった
止まれなかった、では困る
わかってる
わかってても止まれないの?
……わかってても止まれない
その答えが、俺には重かった。
わかってても止まれない。
池田先生と「止まれた」を積み重ねてきた。夏休みの初めに、桜ヶ丘で「今夜は止まれた」を感じた。
それが崩れている。
俺は怖かった。
感情としての「怖い」が、久しぶりに来た。
奈々美が怖いのではない。でも、この先に何があるかが、見えなくて怖かった。
「わかってても止まれない」という言葉が、頭の中で繰り返された。
止まれる、という感覚を奈々美は積み重ねてきた。桜ヶ丘で「今夜は止まれた」と感じた夜を、俺も知っている。奈々美自身が「一歩前に進めた気がした」と言っていた。
それがここまで戻ってきている。
あかりのSNSを確認していた。俺が「止めてくれ」と言っても、「止まれなかった」と言う。
奈々美の「信じる練習」は、数ヶ月かけて積み上げてきたものだった。それが、あかりの告白という出来事を目撃した瞬間から、音を立てて崩れ始めていた。
俺に、何ができるのか。
「連絡していい」と言った。「止まれなくなったら言って」と言った。言ったことは全部本当だった。
でも俺が「言っていい」と言うことで、俺が奈々美の唯一の出口になっていた。
それが良いことなのか、そうじゃないのか。
俺には答えが出なかった。
光明に連絡しようとした。でも何を言うかが出てこなかった。「奈々美がまたやばいかもしれない」と言うのか。「どうすればいい」と聞くのか。
光明は「気をつけろよ」と言う人間だ。でも今の俺には、「気をつけろ」という言葉が届く余裕がなかった。
俺は部屋の中を一度立って歩いた。
窓を開けた。夜の空気が入ってきた。
外から、セミが鳴いていた。夏の真夜中に鳴くセミの声は、昼間と少し違って聞こえる。昼間は無数の声が重なっているが、夜は一匹か二匹の声が闇の中にぽつんとある。
俺はしばらく夜の空気を吸っていた。
桜ヶ丘でのベンチのことを思い出した。
奈々美が「怖かったんだ、昔から」と言った日。あの日、俺は「今日ここにいる。そういうことを積み重ねることしかできないだろ」と言った。
奈々美は「一歩前に進めた気がした」と言っていた。
あの日からまだ三週間も経っていない。
三週間で、ここまで戻ってきた。
でも、戻ってきたのは奈々美だけのせいではない、という感覚も俺にはあった。
あかりのことが起きたのは、俺が連絡先を交換したからだ。一緒に出かけたのも俺だ。奈々美が怖くなるきっかけを、俺が作った。
それを責められているわけではない。でも、完全に無関係とも言えない。
玲が言っていた。「向き合う気がある人間は、誰かに好きって言われる前に、自分で機会を作る」と。
機会を作れないままにいたから、こうなった。
その「こうなった」の中に、奈々美の今夜も含まれていた。
おやすみなさい、元樹くん
そこで止まった。
俺はスマホを置いた。
天井を見た。
深夜の部屋は静かだった。
外から、遠く蝉の声がした。夏の夜に、蝉が鳴いていた。
俺はしばらく天井を見ていた。
その夜。
黒峠の奈々美の部屋で。
奈々美はベッドの端に腰を下ろして、スマホを持っていた。
確認していた。
あかりのSNSを。夕方に上がった写真。夏の路地の光。コメントなし。
見てから、伏せた。
十分後にまた手が伸びた。同じページ。何も変わっていない。また伏せた。
また十分後。また手が伸びた。
三回目に自分がしていることに気づいた時、奈々美は力を込めてスマホを机の上に置いた。
今度は画面を下向きにして、遠い場所に置いた。
ベッドに戻って横になった。
(また見た)
声に出さなかった。ただ頭の中で確認した。
また見た。三回も。
元樹に「止まれなかった」と言った後も、止まれていない。
池田先生は「止まれない自分を見る目を持つことが、止まれることへの第一歩だ」と言っていた。
見ている。
自分が止まれていないことを、ちゃんと見ている。
でも止まれていない。
「見ること」と「止まること」が、まだ繋がっていない。
窓の外から、虫の声が来ていた。夏の夜の黒峠は静かだった。
奈々美は天井を見た。
電気を消したまま、窓から外の光が薄く入っていた。部屋が暗かった。
スマホを、静かに伏せた。
部屋の中が、暗かった。電気を消したまま、窓から外の光が少し入っていた。
(あかりさんは、変わらないって言った)
奈々美は思った。
変わらない。好きだという気持ちが変わらない。
元樹はその返事をまだしていない。
(私は七年間、変わらなかった)
七年間、元樹への気持ちを持ち続けた。施設を転々としながら、元樹を探し続けた。やっと会えた。
あかりとは比べ物にならない時間がある。
でも、それが意味を持たないなら。
元樹が「受け取れない」と言わないなら。
(信じる練習をしてきた)
桜ヶ丘で、元樹に言った。「信じる練習をしている」と。
それは本当だった。
池田先生と話し合いながら、少しずつ「止まれる」を積み重ねてきた。
でも。
(止まれない)
あかりのことを見てしまった。
あかりのページを確認してしまった。
「止まろう」と思いながら、気づいたら見ていた。
これが、信じる練習の結果なのか。
七年間で、たった数ヶ月の「止まれた」があって、でもまた戻っていく。
(なんで)
奈々美は思った。
なんで、元樹はちゃんと選ばないのか。
奈々美を選んでいるなら、あかりに対して何も言えないままでいるのは何故なのか。
玲への気持ちが「わからない」と言い続けているのは何故なのか。
私だけを見てくれていれば、怖くならない。
私だけを、ちゃんと選んでくれていれば、あかりを見に行こうとする衝動も起きない。
(元樹くんが揺れているから、私も揺れる)
その考えが、奈々美の中で固まっていく感覚があった。
元樹が安定していれば、奈々美も安定できる。
元樹が揺れているから、奈々美も揺れる。
「止まれた」と感じた夜、元樹との会話が充実していた夜は、怖さが薄かった。
「止まれない」夜は、元樹がどこか遠くにいる気がする夜だった。
つまり。
(私の怖さは、元樹くんが原因だ)
その言い方は、正しいのか。
奈々美は少し止まった。
でも。
怖さの「きっかけ」が元樹の行動にあることは、否定できない。
(怖さの理由は、私の過去にある)
施設を転々としたこと。人に慣れたら離れることを繰り返したこと。信じる前に全部把握しようとすることが習慣になったこと。
それは知っている。
でも。
(元樹くんが揺れていなければ、この怖さは出てこない)
矛盾していることは、わかっていた。
でも矛盾していると知っていても、感じているものは変わらなかった。
奈々美はベッドに横になった。
天井を見た。
(私の気持ちは、おかしい)
その言葉が、静かに頭に浮かんだ。
おかしい。
七年間追いかけて、束縛して、監視して、今も「止まれない」を繰り返している。
これが「好き」という感情の正常な形ではないことは、わかっていた。池田先生に言われるまでもなく、自分でも知っていた。
でも、おかしいとわかっていても、止まれない。
おかしいと知っている自分が、おかしい行動をしている。
その二つが、ずっと同時に存在していた。
施設にいた頃のことを、奈々美は思い出した。
夜、誰かが泣いていることがあった。同じ施設の子だった。理由は知らなかった。泣き声が聞こえるたびに、奈々美は自分が泣けないことを確認していた。
あの頃の奈々美は、泣けなかった。怖さを怖さとして感じる回路が、どこかで止まっていた気がした。代わりに、確認することで怖さを処理していた。確認すれば怖くない。把握すれば安心できる。それが身についた。
わかっていた。
わかっていても、怖くなると身体が先に動く。
今日も動いた。
あかりのページを三回確認した。元樹が疲れていると言ったのに「元樹くんじゃないとダメ」と送った。全部わかっていてやっていた。
(変わろうとした)
本当に、変わろうとした。
止まれた夜は、本当に止まれていた。
でも、止まれない夜の方が多かった。
それが事実だった。
(元樹くんは、ふらふらしてる)
奈々美の中で、何かが揺れていた。
怒りに近い、何か。
でも怒りではなかった。
私を怒りの対象にするのではなく、元樹の「選べない」という状態に対して、何か焦れったいものがあった。
元樹がちゃんと私を選んでいれば。
「奈々美を選ぶ」と言っていれば。
玲への気持ちを整理すると言って、実際に整理していれば。
あかりに対してすぐに「好きじゃない」と言えていれば。
そのどれかがあれば、今夜の奈々美は「止まれた」かもしれない。
(でも、元樹くんはできていない)
それが、奈々美の中にある、言葉にしにくい何かの正体だった。
元樹を責めたいわけではない。
でも、元樹が揺れているから、私も揺れる。
元樹が選べないから、私が怖くなる。
元樹の「わからない」が続く限り、私の「止まれない」も続く。
それが、奈々美には今夜初めてはっきりと見えた気がした。
信じる練習をしてきた。
でも、信じる相手が揺れていたら、信じることは難しい。
(私の気持ちはおかしい。でも元樹くんのふらふらしているのも、おかしい)
その考えは、正当化ではない。
ただ、見えてしまったことだった。
窓の外で、虫が鳴いていた。
夏の夜が続いていた。
奈々美はスマホを手に取った。
画面を見た。
元樹からの「おやすみなさい」。
その文字が、静かに光っていた。
(好きだ)
それは、変わらない。
七年間変わらなかった気持ちが、今夜も消えていない。
でも今夜、その「好き」が、元樹を縛っているのか、元樹に縛られているのか、奈々美にはわからなくなっていた。
好きだから、確認したい。
確認するのは怖いから。
怖いのは、失いたくないから。
失いたくないのは、好きだから。
その円環が、止まらなかった。
桜ヶ丘のベンチで、元樹に「怖かったんだな」と言ってもらった夜を思い出した。
あの夜は、少し呼吸ができた気がした。
「怖かったんだな」という言い方が、奈々美には特別だった。「大変だったね」でも「頑張ったね」でもなく、ただ「怖かったんだな」。それだけで、なぜか少し楽になれた。
あの夜の元樹は、奈々美だけを見ていた。
でも今は。
元樹が、複数の方向を向いている。あかりを。玲を。奈々美を。
それが、奈々美には耐えられなかった。
(元樹くんに、ちゃんと選んでほしい)
それだけが、今夜の奈々美には残っていた。
選んでほしい。
ふらふらしないでほしい。
揺れないでほしい。
それが、信じる練習より先に来てしまっていた。
スマホを置いた。
部屋が暗かった。
虫の声が続いていた。
奈々美はそのまま、目を閉じた。
眠れなかった。
商店街の入口で見た元樹の顔が、頭から離れなかった。
あかりの後ろ姿が消えた角の方向に、しばらく視線を向けていた元樹の顔。
あかりが消えてから、俺を見た時の元樹の顔。
そこに、何があったのか。
罪悪感。困惑。それだけか。
奈々美には読めなかった。
読めないのが、一番怖かった。
目が覚めた時、頭の中がある程度整理されていた。
昨夜の奈々美のメッセージ。玲の言葉。あかりの「変わらない」。
三つが重なった場所に、一つのことだけが見えた。
あかりにちゃんと返事をする。
今日、会いに行く。
曖昧にしてきたことの中で、今すぐできることはそれだった。
玲への気持ちの整理は、もう少し時間がかかる。
奈々美との関係は、すぐには解決しない。
でも、あかりを宙ぶらりんのままにしておくことは、今日終わらせることができる。
光明の言葉が頭に浮かんだ。
「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」。
俺は今まで、それをやり続けていた。
誰も傷つけないようにしようとして、誰も宙ぶらりんにするな、という二つの命題を同時に満たそうとして、結局どちらも果たせていなかった。
あかりは宙ぶらりんにされている。
玲は「答えが出てから来て」と言った。
奈々美は「止まれない」夜を繰り返している。
三人とも、俺が何かを決めきれないでいることの影響を受けていた。
全部を一度に解決することはできない。
でも、一つからは始められる。
俺はスマホを手に取った。
あかりへのメッセージを打った。
今日、時間があれば会えるか。ちゃんと話したい
送信した。
返信が来るまで、少し時間がかかった。
……はい。いつでも
俺は「午前中に商店街で」と返した。
窓を開けると、夏の朝の空気が入ってきた。
まだ暑くなる前の、少しだけ涼しい時間帯だった。
空が高かった。
雲が、遠くに白く浮かんでいた。
今日がどんな一日になるのか、それはわからなかった。
でも一つだけ、今日中にできることがあった。
それだけを持って、俺は起き上がった。
傷つく、と言った。
言ったことは本当だった。取り消すつもりもない。
ただ、元樹にあんな言い方をしたのは初めてで、帰り道が少し遠かった。公園を出てから家に着くまで、
どこをどう歩いたか、あまり覚えていない。
好きじゃなかったら、もう関わらないと言える。好きだから、ちゃんとした答えを持ってきてほしいと思う。
それだけのことだ。
―――上野 玲




