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奈々美さんの裏の顔  作者: 暁の裏


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第40話 「今日ここにいる」

 夏休みが、始まった。

 

 終業式の日の朝は、登校する生徒たちの顔が違う。浮き足立っているわけではないのに、どこかそわそわとした空気があって、それが廊下全体に漂っている。授業はなくて、式だけで、その後は少し片付けをして帰る。それだけのことなのに、この日はいつもと違う日に感じられる。

 

 七月の終わりの朝は、梅雨が明けて最初の夏らしい日だった。蝉がもう鳴いていた。登校しながら、日陰を選んで歩いた。

 

 朝のホームルームで担任が通知表を配った。受け取った瞬間、誰かが「やばい」と呟いた。光明は黙って数字を確認していた。航は「俺これ想定の範囲内ー」と言いながら笑っていた。奈々美は静かに受け取って、机の上に置いた。その横顔が少し真剣だったから、俺は「どうだった?」と聞いた。「まあまあ」と答えて、少し笑った。

 

「まあまあって、具体的には」

 

「平均より少し上くらい」

 

「それは普通に良いんじゃないか」

 

「元樹くんは?」

 

「まあ……こっちもまあまあ」

 

 奈々美が少し笑った。

 

「お揃いだね」

 

「お揃いって言う感じでもないだろ」

 

 そういう些細な話をしながら、終業式の朝が過ぎていった。

 

 終業式が終わって、体育館から教室に戻ると、担任が「委員業務は今日中に終わらせろよ」と言った。俺はホームルームの出欠記録と、七月の行事の後処理を片付けた。中尾が「お疲れさま、委員長」と言いながら通り過ぎていった。文化祭の脚本を書いていた頃から、中尾は妙に俺に気さくになった。悪い気はしない。

 

 書類を担任に渡して教室に戻ると、もうほとんどの席が空になっていた。

 

 窓の外を見た。

 

 七月の空は、高かった。

 

 入道雲が、遠くの山の向こうで湧き上がっている。あの雲の下では夕立が降っているかもしれない。この黒峠の空は、まだ白く晴れていた。

 

「元樹、遊ぼうな、今年の夏は」

 

 航が声をかけてきた。鞄を肩にかけて、汗拭き用のタオルをすでに首に巻いている。夏になると航は毎年こうなる。

 

「去年みたいに全然遊べなかったって二学期に文句言うの、もうなしにしよう」

 

「去年は色々あったんだよ」

 

「今年も色々あるとか言うなよ」

 

「そうは言ってない」

 

 光明が「お前ら毎年同じ会話してるよな」と言いながら後ろを通り過ぎた。

 

「光明と三人で何かしようぜ。海でも山でもなんでもいい。日程だけ決めろ」

 

「わかった。ラインで調整する」

 

 航が「おっしゃ!」と言って廊下に出ていった。

 

 光明は出口のところで俺を振り返った。

 

「元樹、今年の夏、大丈夫か」

 

「大丈夫だよ」

 

「桜ヶ丘、行くのか」

 

「来週あたりに」

 

「そうか」

 

 光明は何も続けなかった。でも頷いた。

 

「なんかあったら言えよ。いつでも」

 

「ありがとう」

 

 光明が廊下に消えた。

 

 俺は一人になった教室で、最後にもう一度だけ窓の外を見た。

 

 夏休みが始まった。

 

 奈々美からのメッセージが、数日前に届いていた。

 

 夏休み、一緒に桜ヶ丘に来てくれる?

 

 俺は「行く」と返していた。

 

 去年の夏も桜ヶ丘に行った。自分から。あの時は、自分でも何のために行くのか、半分よくわかっていなかった。奈々美に会いたかったのか、奈々美を確かめたかったのか。両方だったかもしれない。そしてあの時の奈々美は、「変わった自分」を演じていた。俺はそれに気づきながら、それでも引き寄せられた。

 

 今年は。

 

 何が違うのか、うまく言えなかった。でも、去年と同じことにはならないと思っていた。

 

 七月に奈々美に話した。おかしいと感じていることを。奈々美はごまかさなかった。「止められなかった」と言った。その後から、何かが少し変わった気がしていた。

 

「何か」が何なのか、まだはっきりとは言えない。

 

 でも、動いていた。少しずつ、でも確かに。

 

 鞄を持って、俺は教室を出た。

 

 

 

 翌週の火曜日。

 

 朝から気温が上がっていた。俺が家を出た時刻でもう三十度近かった。七月の終わりは容赦がない。影のある道を選んで歩いたが、それでも首の後ろが熱くなった。

 

 駅のホームに立つと、線路の向こうから熱気が漂ってくる。蜃気楼のように、空気が揺れている。

 

 電車が来るまで五分ほどあった。俺はホームのベンチに座って、線路の先を見ていた。電線が幾本も伸びて、夏の光の中でぴんと張っている。

 

 去年の夏、電車に乗りながら何を考えていたか、あまり覚えていない。いろんなことが混乱していた時期で、一つのことをじっくり考える余裕がなかったと思う。

 

 今年は少し違う。

 

 七月の終業式の前日、光明との屋上の会話があった。奈々美の行動についていくつか話した。

 

 奈々美は笑顔でごまかさなかった。「怖かった、止められなかった」と言った。

 

 それだけで、何かが変わったわけではない。また同じことが起きるかもしれない。でも、あの日から何かが少し変わった気がしていた。

 

「何か」が何なのか、まだはっきりとは言えない。

 

 電車が来た。

 

 冷房が効いていた。外の熱さが嘘のようだった。俺は窓際の席に座って、窓の外を見た。黒峠の住宅街が後ろに流れていく。田畑が広がって、その向こうに山が見える。川が光っている。

 

 奈々美に正直に話せた、ということは、去年にはなかったことだ。

 

 去年は言えなかった。感じていることがあっても、言えなかった。奈々美が傷つくかもしれないから、という理由で。でも言えないまま積み重なって、結局もっと大きな形になって出てきた。

 

 今年は言えた。言ったことで、何かが解決したわけではない。でも少なくとも、言うことができた。

 

 それが、今の俺と去年の俺の違いかもしれなかった。

 

 景色が流れていく。

 

 俺はイヤホンをつけたが、音楽は流さなかった。ただ外の音を少し遮断しながら、流れていく景色だけを見ていた。

 

 電車の中には、俺と同じくらいの年齢の女子グループが乗っていた。海水浴の帰りなのか、肩の辺りが少し日焼けして赤くなっていた。楽しそうに笑っている。

 

 俺は視線を窓に戻した。

 

 奈々美と行った水族館を思い出していた。エイの水槽の前で、二人で長い時間立っていた。奈々美が昔行った小さな水族館の話をしてくれた。もう閉店してしまったと言った。ガラスの向こうで、ゆっくりと泳ぐエイ。薄暗い水槽。二人で息をひそめていたこと。

 

 俺には、その記憶がない。

 

 でも奈々美には、ある。

 

 七年間、奈々美はその記憶を持ったまま、俺を探し続けた。俺がどこにいるかも知らずに、その記憶だけを手掛かりにして。

 

 それを思う時、どういう感情を持てばいいのか、俺にはまだわからない。

 

 怖い、という気持ちはある。

 

 でも。

 

 怖いだけではない何かも、ある。

 

 電車が橋を渡った。川が下に見えた。夏の川は水が多く、濁った茶色をしていた。

 

 俺は深呼吸した。

 

 今日一日、ちゃんと話せればいい。それだけを考えた。

 

 

 

 桜ヶ丘駅の改札を抜けると、すぐに駅前の広場に出る。広場と言っても、タクシー乗り場と、バス停が二つあるだけの、こじんまりとした空間だ。

 

 奈々美がいた。

 

 駅前の自動販売機のそばに立って、スマホを見ていた。俺が近づくと、顔を上げた。

 

 白い半袖のシャツに、薄い色のスカート。夏らしい格好だった。制服ではない奈々美を見るのは、久しぶりだと気づいた。


「お疲れさま。電車、混んでた?」

 

「まあまあ。それほどでもなかった」

 

「暑かったでしょ。これ」

 

 奈々美がペットボトルの水を一本、差し出してきた。

 

「ありがとう」

 

 受け取って一口飲んだ。冷たかった。

 

「桜ヶ丘来るの、去年ぶりか」

 

「去年の夏以来ね」

 

 奈々美が少し微笑んだ。

 

「あの時は、元樹くんが来てくれて驚いた」

 

「自分で来たくて来たから」

 

「知ってる。だから、驚いた」

 

 その言い方に、俺は少し笑った。

 

「来るとは思ってなかったのか」

 

「思ってなかった。電話もなくて、急に来たから」

 

「あの頃は色々、あまり順序立てて考えられてなかった」

 

「そうだったんだ」

 

「今はもう少しましになったよ」

 

 奈々美が「そうね」と言った。その「そうね」は冷たくなくて、どこか温かい感じがした。

 

「どこ行くんだ」

 

「特に決めてない。歩こうと思って」

 

「散歩か」

 

「嫌?」

 

「いや、それでいい」

 

 俺たちは並んで歩き始めた。

 

 駅前の大通りを少し進んで、商店街に入った。黒峠の商店街より細くて、人通りも少ない。パン屋、雑貨屋、古い本屋。シャッターが閉まった店も混ざっている。七月の昼前の桜ヶ丘の商店街は、静かだった。

 

「この町、あまり変わらないな」

 

 俺が言うと、奈々美が「そうね」と答えた。

 

「私が施設にいた頃から、そんなに変わってない。建物が一つ二つなくなったくらいで」

 

「施設はこの近くだったのか」

 

「少し離れたところに。でも、よくこっちに来てた」

 

「なんで?」

 

 奈々美が少し考えた。

 

「……元樹くんがいた場所だったから」

 

 俺は少し驚いた。

 

「来たわけじゃないよ」と奈々美が続けた。「ただ、元樹くんが一時期住んでた場所だって思ったら、何か落ち着いた。子供だったから、そういうことで安心できた」

 

「そうか」

 

「おかしいでしょ」

 

「おかしくない」

 

「本当に?」

 

「本当に。人が落ち着く理由なんて、いろいろあるだろ」

 

 奈々美が少し黙った。それから「そうね」と言った。

 

 商店街を歩いていると、焼きたてのパンの匂いがした。パン屋の前に差し掛かった時、奈々美が少し足を止めた。

 

「ここ、好きなんだ」

 

「入るか?」

 

「時間あれば」

 

「じゃあ、帰りに」

 

「うん」

 

 商店街を抜けると、住宅街に入った。少し坂になっている道を、二人で歩いた。日陰のある道で、木の葉が光を遮っていた。風があった。

 

「親戚のうち、このあたりだよな?」

 

「もう少し先。でも今日は挨拶してあるから、遅くなければ大丈夫」

 

「遅くとは?」

 

「夕飯前には帰れれば」

 

「わかった」

 

 奈々美が俺より少し前を歩いていた。道を知っているから、自然とそうなる。振り返りながら話す。

 

「元樹くん、汗かいてる」

 

「そりゃ暑いから」

 

「タオル持ってきた?」

 

「持ってきてない」

 

 奈々美がため息をついたような顔をして、自分の鞄からハンカチを取り出した。

 

「どうぞ」

 

「奈々美が使えばいいじゃないか」

 

「私は大丈夫。元樹くんの方が汗かいてる」

 

 断ったが、奈々美の「受け取って」という顔が続いたので、俺は受け取った。白いハンカチだった。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 奈々美が前を向いて歩き始めた。鞄に、エイのぬいぐるみがついていた。GWの水族館で買ったものだ。まだつけているんだな、と思った。

 

「そのぬいぐるみ、まだつけてるのか」

 

 俺が言うと、奈々美が少し振り返った。

 

「つけてるよ。好きだから」

 

   奈々美がその言葉を言って、また前を向いた。

 

 俺は、その「ここで見た」という言葉が気になったが、すぐに意味を聞かなかった。

 

 坂を上りながら、俺は桜ヶ丘の景色を眺めた。古い家が多かった。庭先に夏の花が咲いている。アジサイが、もう終わりかけていた。遠くに山が見えた。

 

 

 

 昼ごろ、商店街の外れにある定食屋で昼食をとった。

 

 四席しかない、本当に小さな店だった。扇風機が一台、天井から吊るされて回っている。壁には手書きの品書きが貼ってある。おばちゃんが一人でやっている店で、奈々美が「いつもの」と言ったら「はいはい」と頷いてすぐに調理し始めた。

 

「よく来てるんだな」

 

「施設にいた頃から。今でも桜ヶ丘に来たら寄る」

 

「何年くらい付き合いがあるんだ」

 

「七年以上かな」

 

 定食が来た。魚の焼いたのと、味噌汁と、ご飯。シンプルだったが、旨かった。

 

「美味しい」

 

「でしょ」

 

 奈々美が少し得意そうにした。こういう顔は珍しい。計算でも演技でもない、素直な顔だった。

 

「元樹くんって、食べ物で顔が変わるよね」

 

「変わるか?」

 

「変わる。美味しいものを食べてる時、表情が柔らかくなる」

 

「そんなに変わるのか」

 

「うん。学校で食べてる時でもわかる」

 

 俺は少し照れた。

 

 奈々美が箸を動かしながら、店の中を見渡した。

 

「ここのカレンダー、去年と同じのが貼ってある」

 

「更新しないのか」

 

「たぶん、ずっとこのままなんだと思う。変えるのが好きじゃないのかも」

 

「店のおばちゃんが?」

 

「ここだけじゃなくて。この商店街の人たちって、大体そういう感じがする。変えない。変わらない」

 

「それが好きなのか」

 

 奈々美は少し考えた。

 

「好きというより……信用できる気がする」

 

「変わらないから」

 

「そう。変わらないものがあるって、安心するから」

 

 その言葉は、さらっとしていた。でも俺には、その言葉の後ろにあるものが少し見えた気がした。

 

 変わらないものがあることが安心になるのは、変わったものを多く経験してきたからだ。

 

 両親が亡くなって、施設を転々とした。その間、変わらなかったものは、何があったか。

 

 俺は何も言わなかった。

 

 奈々美も、それ以上は言わなかった。

 

 扇風機が回り続けていた。外から、蝉の声が聞こえた。

 

 定食屋を出ると、外の空気はさらに熱くなっていた。太陽が真上にある時間帯で、影が短い。

 

「もう少し歩ける?」

 

「大丈夫」

 

「暑ければどこか涼める場所に寄るから」

 

「いや、歩こう」

 

 奈々美は頷いた。

 

 住宅街の奥へ、二人で歩いた。

 

 道が細くなっていった。両脇に古い家が続いている。庭に植えられた木が道にはみ出していて、日陰を作っている。その日陰に入ると、少しだけ涼しかった。

 

「この辺は、施設の近くだったのか?」

 

 俺が聞くと、奈々美が「もう少し先」と答えた。

 

「施設から歩いてここまで来てたのか」

 

「うん。遠くはなかった。三十分くらい」

 

「子供の足で?」

 

「子供の足で」

 

 奈々美が少し笑った。

 

「よく来てたんだ。施設にいると、外に出たくなることがあって。人のいないところに行きたかった」

 

「桜ヶ丘は人が少ないからな」

 

「そう。黒峠より人が少なくて、静かで、歩くのに向いてた」

 

「一人で歩いてたのか」

 

「大抵は一人。たまに施設の他の子が一緒に来ることもあったけど、あまり話せなかったから」

 

「話せなかったのか」

 

「しゃべるのが苦手だった。今も得意ではないけど、あの頃はもっと。言葉が出てこなかった」

 

 俺は少し驚いた。今の奈々美からは想像しにくかった。

 

「今は普通に話せるじゃないか」

 

「練習したから」

 

「何を?」

 

「観察して、分析して、どういう言い方をすれば相手が受け取りやすいか。そういうことを」

 

 その言い方は、少し冷たく聞こえた。でも奈々美の顔に冷たさはなかった。

 

「戦略みたいだな」

 

「最初はそうだった。でも……それをやってるうちに、本当にしゃべれるようになった」

 

「どっちがどっちかわからなくなったのか」

 

「そういうこと」

 

 奈々美が前を向いた。

 

「元樹くんに最初に話しかけた時も、計算してた。でも計算より先に、「また会えた」って気持ちが出てきた。あの時は自分でも驚いた」

 

「そうだったのか」

 

「転校してきた日、教室に入った時、元樹くんが席にいた。本当は冷静にいるつもりだったのに、胸が鳴った」

 

「演技が追いつかなかったのか」

 

「追いつかなかった。だから最初の頃は特に、計算と本音が混ざってた」

 

 俺は少し考えた。あの転校初日の奈々美の顔を思い出そうとした。暗い雰囲気で、前髪で目が隠れていて、感情が見えない。あれが「計算と本音が混ざっていた」顔だったのか。

 

「今は、どのくらい計算してるんだ」

 

「今日は……少ない気がする」

 

「なんで?」

 

「さっきも言ったけど、ここに来ると防御が薄くなる。計算が先に立てなくなる」

 

 奈々美が歩きながら言った。

 

「桜ヶ丘に来るたびに、子供の頃に戻る感じがして。子供の頃は、計算なんてできなかったから」

 

「施設に入る前は、もっとしゃべれたのか?」

 

「……どうだったかな。覚えてないくらい小さかったから」

 

 奈々美が少し遠い目をした。

 

「パパとママが生きてた頃の私は、どんな子だったんだろうって、時々思う。でも思い出せない」

 

「写真とかないのか」

 

「施設に入った時に荷物がほとんどなくて、写真も数枚しか残らなかった。今でも手元にある」

 

「どんな写真だ」

 

「三歳くらいの時、公園で撮ったやつ。パパに肩車されてる」

 

「笑ってるのか」

 

「すごく笑ってる」

 

 奈々美が静かに言った。

 

「その笑い方をしてたんだな、って思う。今の私には、そういう笑い方ができないから」

 

「今の笑い方じゃダメなのか」

 

「ダメじゃないけど……あの頃の笑い方の方が、本当だった気がする」

 

 俺は何も言わなかった。

 

 奈々美が続けた。

 

「元樹くんと話してる時、たまにそういう笑い方になることがある。自分でも気づかない時に」

 

「俺と話してる時に?」

 

「うん。さっき、エイの話してた時も」

 

「そうか」

 

「だから……嫌いじゃない」

 

 奈々美がそれだけ言って、また前を向いた。

 

 坂の途中で、風が吹いた。木の葉が揺れた。

 

 俺も前を向いて、歩いた。

 

 

 

 坂を上り切ったところで、奈々美が少し足を止めた。

 

「ここ」

 

 俺も立ち止まった。

 

 目の前に、空き地があった。

 

 ブロック塀が残っていて、中は草が生えていた。隅に古い看板が倒れていて、何と書いてあったのか、色が落ちて読めなかった。塀のコンクリートが古くて、苔が生えているところもある。

 

「何がここにあったんだ」

 

 奈々美が少し間を置いた。

 

「水族館」

 

 その言葉を聞いて、俺は空き地を見直した。

 

「小さい水族館だったの。子供向けの。今は閉まってる」

 

「いつ閉まったんだ」

 

「私が施設に来てしばらくしてから。もう十年近くになるかな」

 

 奈々美がブロック塀のそばまで歩いていった。倒れた看板の近くで立ち止まって、草が生えた地面を見た。

 

「ここに、エイがいた」

 

 俺は奈々美の横に立った。

 

「大きい水槽があって、エイが二匹泳いでた。ゆっくり、ゆっくり。照明が青くて、水槽の中が暗くて、そこをエイが羽を広げるみたいに泳いでた」

 

「ここで見たのか」

 

「元樹くんと、一緒に」

 

 奈々美が俺を見た。

 

「覚えてる? 小さい頃、一緒に来たこと」

 

「……あまり鮮明には思い出せないけど」

 

「そうだよね」

 

 奈々美が空き地に視線を戻した。

 

「私はよく覚えてる。元樹くんが、ガラスに手をついて、ずっとエイを見てた。「きれいだな」って言った」

 

「俺がそんなことを言ったのか」

 

「うん。静かに、でも確かに言った。子供の時の元樹くんの声だった」

 

 俺には、その記憶が薄い。でも奈々美が話すと、霧の向こうから何かが形になりかけるような感覚があった。ガラスの冷たさ。薄暗い水槽の中で動く影。そういうものが、意識の端でちらついた。

 

「GWに水族館に行った時、エイの水槽の前で思い出した」

 

「あそこで奈々美が話してくれたことか」

 

「うん。元樹くんが同じように立ってて、同じような目をしてたから」

 

「同じような目?」

 

「ぼんやりしてる時の元樹くんの目。でも嫌いじゃない」

 

 奈々美が少し笑った。その笑顔は、いつもの計算された笑顔と少し違う気がした。思い出を話している時の、やわらかい顔だった。

 

「エイのぬいぐるみ、水族館で買ったのはそのためか」

 

「そう。ここのエイとは違うけど、同じエイだから」

 

 奈々美の鞄のぬいぐるみが、風に揺れた。

 

 俺は空き地を見た。草が生えていて、倒れた看板があって、ブロック塀が残っている。何もない場所だった。でも、ここにエイがいたのだと奈々美は言う。二人で並んで見ていたのだと。

 

 それが今は、草と塀と看板だけになっている。

 

「置いてきたものだ」という脚本のセリフが、ふと頭に浮かんだ。

 

 奈々美が書いたセリフだった。浦島が気づかないうちに置いてきたものが、ここにあったのかもしれない。

 

 

 

 その空き地に沿って、ブロック塀が続いていて、その端に古いベンチがあった。

 

 公園の名残なのか、木製のベンチが一つだけ残っていた。日陰になっていて、涼しかった。

 

「座る?」

 

「そうしよう」

 

 二人でベンチに並んで座った。

 

 正面には空き地が広がって、その向こうに夏の空が見えた。雲が動いていた。積乱雲が、遠くの方に白く盛り上がっている。

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

 沈黙だったが、苦しい沈黙ではなかった。空き地を見ながら、それぞれが何かを考えている、そういう時間だった。

 

 蝉が鳴いていた。波のように来て、また引いていく。夏の午後の音だった。

 

 奈々美の鞄のエイのぬいぐるみが、わずかな風に揺れた。

 

「あのエイ、どんなエイだったんだ」

 

 俺が聞いた。少し時間が経っていた。

 

 奈々美が少し考えた。

 

「大きかった。水槽のガラスが丸くなっていて、その中を泳いでた。平べったくて、羽みたいに端っこがヒラヒラしてた」

 

「ここのエイと、GWで見たエイ、違うのか?」

 

「少し違う。ここのは、もっと小さい水族館だったから、水槽も小さくて。エイがガラスの端まで来た時、近かった」

 

「近くで見たのか」

 

「うん。手が届きそうなくらい近くに来た時があって、ガラス越しに手を伸ばした」

 

「子供の頃か」

 

「そう。そしたら向こうも近づいてきた。ガラスの向こうから、じっとこっちを見てるみたいだった」

 

「エイって目があるのか」

 

「あるよ。小さいけど、ちゃんとある」

 

 奈々美が、少し笑った。その笑い方は自然だった。

 

「元樹くんも手を伸ばしてたんだよ。真似して」

 

「俺が?」

 

「うん。でも俺の手には来なかった、って少し悔しそうにしてた」

 

「そんなこと言ったのか」

 

「言ってた。子供らしくて、かわいかった」

 

「かわいいはやめてくれ」

 

「かわいかったんだから仕方ない」

 

 奈々美がさらっと言った。俺は少し困った顔をしたが、否定する材料もなかった。

 

「怖かったんだ」

 

 奈々美が言った。

 

 俺は少し驚いて、奈々美を見た。

 

「昔から、ずっと」

 

 その声は、穏やかだった。でも、いつもの穏やかさとは違った。どこかへ向けて話しているような、独り言に近い声だった。

 

「パパとママが死んで、施設に入った時、最初は何もわからなかった。なんで自分だけこうなったのか、なんで誰も迎えに来ないのか。誰かに聞きたかったけど、聞ける相手がいなかった」

 

 俺は黙って聞いた。

 

「施設は、悪いところじゃなかった。ご飯も出たし、先生も悪い人じゃなかった。でも……あそこは誰のものでもない場所だった。私の家じゃなかった」

 

「そうか」

 

「最初の施設は一年半いた。次が二年。また移って、また移って。七歳から中学を出るまで、何回引っ越したか覚えていないくらい」

 

 俺は何も言わなかった。言うべき言葉が思い浮かばなかった。でも、言わなくていいと思っていた。今は聞く時間だと思った。

 

「引っ越すたびに、また最初からだった。友達も、先生も、場所も。全部また新しくなる。慣れたと思ったら、また引っ越す。だんだん、人に慣れるのが怖くなった」

 

「慣れると、また離れるから」

 

「そう。だから……元樹くんのことが、特別だったんだと思う」

 

「俺が?」

 

「うん」

 

 奈々美が少し間を置いた。

 

「パパとママが死んで、一番辛い時に、公園で一人で泣いてた。そこに元樹くんが来た。慰めてくれた。「一緒にいるから」って言ってくれた」

 

 俺にも、その記憶の断片はある。泣いている女の子。薄暗い公園。自分の手が、誰かの小さな手に触れた感触。「大丈夫だよ」と言った気がする。

 

「あの時、私はもう誰も信じられない気持ちだったと思う。でも、元樹くんだけが、「一緒にいる」って言ってくれた」

 

 奈々美の声が、少し落ちた。

 

「そしたら、急にいなくなった」

 

「……ごめん」

 

「怒ってるんじゃない」

 

 奈々美が俺を見た。

 

「今は、事情があったってわかってる。引っ越しだったから、急だったから。あの時の元樹くんにはどうしようもなかった」

 

「でも、あの時の私には、また捨てられた、としか思えなかった」

 

「……そうか」

 

「だから……」

 

 奈々美が、また空き地に視線を戻した。

 

「元樹くんを探し続けたのは、約束を守ってほしかったから、じゃなくて。怖かったから、なのかもしれない」

 

「怖かった?」

 

「一度でも信じて、また裏切られたら、今度こそ壊れる気がした。だから……先に全部、自分でやろうとした。元樹くんを見つけて、元樹くんの側にいて、元樹くんを手放さないようにすれば、怖くない、って」

 

 俺は奈々美の横顔を見た。

 

 奈々美は、空き地を見つめたまま話している。俺に向けているのか、独り言なのか、わからないような話し方だった。

 

「元樹くんの周りにいた人たちを監視したり、上野さんに牽制したり、全部その怖さからやったことだった」

 

「わかってる」

 

「わかってても、嫌だったでしょ。あんなことされたら」

 

「嫌だったよ。正直に言えば」

 

 奈々美が小さく頷いた。

 

「それでも元樹くんが向き合ってくれてるのは……なんでだと思ってる?」

 

 その問いは、俺には少し予想外だった。

 

 しばらく考えた。

 

「わからない。でも、奈々美が変わろうとしてるのは感じてる。完全に変わってるわけじゃないのも感じてる。でも、変わろうとしてることだけは、本物だと思ってる」

 

「……なんで信じられるの。嘘かもしれないのに」

 

「信じきれてはいない」

 

 俺は正直に言った。

 

「でも、信じきれないからと言って、向き合わないわけにもいかない。俺の問題でもあるから」

 

「俺の問題?」

 

「奈々美が怖くなるのは、俺との関係の中で起きてることだから。俺も無関係じゃない」

 

 奈々美が少し黙った。

 

「……難しい人、元樹くんは」

 

「難しいか」

 

「難しいよ。わかりやすく怒ってくれた方が、ある意味楽だった」

 

「怒っても意味ないと思ったから」

 

「でも……怒らないと、私に入ってくる。元樹くんの言葉が」

 

 その言い方に、俺は少し止まった。

 

「入ってくる、って?」

 

「怒ってくれたら、反発できる。でも静かに言われると……反発できなくて、全部受け取ってしまう」

 

 奈々美が少し笑った。困ったような笑い方だった。

 

「それが変わるきっかけになってるのかもしれない。嫌なんだけど」

 

「嫌なのか」

 

「変わるのが怖いから」

 

「変わったら、どうなるのが怖い?」

 

「……変わって、元樹くんがいなくなったら、意味がないから」

 

 その言葉は、きつかった。

 

 俺はしばらく、空き地を見た。

 

 草が揺れていた。

 

「いなくなるとは言ってない」

 

「保証はないでしょ」

 

「保証はない。でも……今日ここにいる」

 

 奈々美が俺を見た。

 

「今日ここにいる、か」

 

「そういうことを積み重ねることしかできないだろ、結局」

 

 奈々美が、ゆっくりと前を向いた。

 

 蝉の声が通り過ぎていった。空き地の草が、風に揺れた。

 

「間違いだったのは、わかってる。今は」

 

 奈々美が続けた。

 

「でも……それだけの時間をかけて、やっと会えた。やっと。それが怖さから来たものだとしても、七年間はあった。それが全部消えるわけじゃない」

 

「消えないよ」

 

「消えなくていいの?」

 

「消えなくていい。ただ、誰かを傷つけることはやめてほしい」

 

「……うん」

 

 奈々美が静かに頷いた。

 

 俺には、今日の奈々美の話が「演技」なのかどうか、判断できなかった。

 

 正直に言えば、今でも迷っている。奈々美は計算ができる人間だ。計算しながら、本当のことを話すこともあるはずだ。どこまでが本当で、どこからが演技か、俺には見えない。

 

 でも今日は、受け取ることにした。

 

 怖かったんだという言葉を。七年間、一人だったという話を。

 

 それが信じきれているかどうかではなく、ただ受け取る、ということにした。

 

 ベンチの木が、少し熱くなっていた。日陰が移動して、太陽がベンチの縁に当たるようになっていた。

 

「元樹くん」

 

「ん?」

 

「また話してもいい? こういうこと」

 

「また話せよ」

 

「迷惑じゃない?」

 

「俺が聞きたいから聞いてる。迷惑になったら言う」

 

 奈々美が少し笑った。

 

「元樹くん、変わったね」

 

「どう変わった」

 

「前は、私の話を聞く顔と、聞きたくない顔が、はっきりわかれてた」

 

「それは……まあ、そうだったかもしれない」

 

「今日は、聞きたそうな顔をしてた。ずっと」

 

「そうか」

 

「うん。よかった」

 

 奈々美がそう言って、立ち上がった。

 

「そろそろ移動しようか。日陰が少なくなってきたし、涼しいところ行こう」

 

「どこに?」

 

「商店街の外れに喫茶店がある。冷房が効いてる」

 

「行こう」

 

 俺も立ち上がった。

 

 空き地を振り返った。

 

 草が揺れていた。倒れた看板が、夏の光の中にある。

 

 ここに、エイがいた。

 

 ここで、二人で並んで見ていた。

 

 今は何もないが、あったことは消えない。

 

 俺は前を向いて、奈々美の隣に並んだ。

 

 二人で歩き始めた。

 

 

 

 喫茶店は、商店街の外れにある古い建物の一階にあった。入口のベルが鳴った。冷房の涼しい空気が体を包む。

 

 コーヒーを頼んだ。奈々美はレモネードを頼んだ。

 

 窓際に座って、通りを見ながら話した。

 

「施設のおばちゃんって、高橋さん、っていう人がいたよな」

 

 俺が聞くと、奈々美が少し驚いた顔をした。

 

「覚えてるの? 名前」

 

「前に出てきたから」

 

「花屋の高橋さん。今も時々連絡くれる」

 

「優しい人だったのか」

 

「うん。施設に入った最初の頃、あまり喋れなかったんだけど、それでも気にしないでいてくれた。お店で少し手伝いをしながら、一緒にいた。水やったり、鉢を移したり」

 

「それが落ち着いた?」

 

「うん。何かを一緒にやってる、ってことが、しゃべれなくても繋がってる感じがして」

 

「そういう人がいると、全然違うな」

 

「そう。だから……信用できる人間が一人でもいると全然違うって、わかってる。元樹くんが来てくれることも、そういうことだから」

 

 俺はコーヒーを飲んだ。

 

 奈々美がレモネードを両手で持って、窓の外を見た。通りを自転車が通り過ぎる。小学生ぐらいの子が二人、ランドセルを背負わずに走っていった。夏休みの子供たちだ。

 

「お金がなかった頃は、喫茶店なんて入れなかった」

 

 奈々美が言った。

 

「施設からもらえるお小遣いは少なかった。高橋さんのお店でちょっとだけ手伝いをして、そこから少しもらって。それを大事に使ってた」

 

「何に使ってたんだ」

 

「本。本が好きで。中古屋さんで安いのを探して買ってた」

 

「どんな本?」

 

「いろいろ。小説とか、図鑑とか。水族館の図鑑も持ってた」

 

 俺は少し笑った。

 

「それがエイのぬいぐるみに繋がるのか」

 

「そうなの。図鑑で色々な魚を見て、でも本物はここで見た。だから覚えてる」

 

 奈々美がぬいぐるみをちょんと触った。

 

「ここのエイは大きくて、でも優しい動き方をしてた。怖くなかった。ガラスの向こうにいるのに、近くに感じた」

 

「水族館のガラスって、そういうものだよな」

 

「そうね。あのガラス越しの感じが、好きだった」

 

「隔たりがあるのに、近い感じ」

 

「そう。触れないけど、見えてる。そういう関係が、好きだったのかもしれない」

 

 奈々美が少し間を置いた。

 

「小さい頃は、人との距離が怖かったから。触れたら消えてしまうような気がして。でも水槽のエイとは、ガラス越しに近くにいられた」

 

「今は違うのか」

 

 俺が聞くと、奈々美は少し考えた。

 

「今も、人との距離が難しい。元樹くんとも」

 

「俺とも?」

 

「うん。近くなると怖くなる。遠くなっても怖くなる。どこがちょうどいいか、まだわからない」

 

「それは俺も同じかもしれない」

 

「元樹くんが?」

 

「奈々美との距離の取り方は、まだわかってない。でも、話せるようになってきてはいると思う」

 

 奈々美が少し微笑んだ。

 

「それは、そうだね」

 

 GWの水族館のことを、俺は思い出した。エイの水槽の前に二人で立っていた時間。奈々美が昔の水族館の話をしてくれた時間。あの日の奈々美の声が、今日の声と繋がっていた。

 

「今日の方が、話してくれた気がする。あの水族館の日より」

 

 俺が言うと、奈々美が少し考えた。

 

「あの日は、まだ怖かったのかもしれない。どこまで話していいか、わからなかった」

 

「今日は?」

 

「今日は……ここが、昔の場所だったから」

 

 奈々美が窓の外を見た。

 

「ここに来ると、防御が薄くなる気がする。子供の頃に戻るみたいで。計算が、うまくできなくなる」

 

「それが今日の話に繋がったか」

 

「たぶん」

 

 奈々美が俺を見た。

 

「迷惑だった?」

 

「迷惑じゃない。聞きたかったから聞いた」

 

「さっきも言ってたね、それ」

 

「本当のことだから」

 

 奈々美が少し微笑んだ。その笑顔は、穏やかだったが、いつもの完璧な笑顔とは違った。少しだけほつれていた。それがかえって、本物に見えた。

 

 窓から差し込む午後の光が、テーブルに斜めに当たっていた。

 

 夏の光は長い。まだ夕方には時間がある。

 

「夏休み、また来てくれる?」

 

 奈々美が聞いた。

 

「来る」

 

「桜ヶ丘に?」

 

「ここに来ることにしよう」

 

「この喫茶店?」

 

「この喫茶店でいい。来年も」

 

 奈々美が少し目を丸くした。

 

「来年のこと、もう言うの?」

 

「来年も来るつもりだから」

 

「……ありがとう」

 

 その「ありがとう」は、静かだった。やわらかかった。

 

 

 

 喫茶店を出たのは、四時過ぎだった。

 

 空の色が変わっていた。真昼の白い青から、少し柔らかい色に変わっていた。夕方はまだ先だが、光の角度がわずかに変わっている。

 

「駅まで送る」

 

「いいよ、そこまでしなくて」

 

「一人で帰れるのはわかってるから、送りたいって話」

 

「……じゃあ、頼む」

 

 商店街の道を戻る。来た時と同じ道だったが、光の角度が変わっただけで、町の見え方が少し違った。

 

「あのパン屋、寄っていくか」

 

「そうしよ」

 

 行きに通ったパン屋に入った。小さい店だったが、焼きたてのメロンパンとチョコパンを買った。奈々美が「こっちの方が好き」と言って選んだ方が、より小さいパンだった。

 

「食べながら歩くか」

 

「食べながら?」

 

「ダメか」

 

「ダメじゃないけど、行儀が悪い」

 

「夏休みだから」

 

 奈々美が少し笑った。

 

「……じゃあ、いっか」

 

 二人でパンを食べながら、駅前へ向かった。

 

 商店街を抜けて、広場に近づいた頃だった。

 

 俺のスマホに通知が来た。

 

 画面を確認すると、玲からだった。

 

 元樹、時間ある? 少しだけ話したい

 

 俺は少し止まった。

 

 奈々美が俺の顔を見ていた。

 

 スマホを見ていることはわかるはずだった。誰からかは画面が見えないが、俺の顔が少し変わったことは気づいたかもしれない。

 

 俺は画面を下ろした。

 

「玲から」

 

 正直に言った。

 

 奈々美の表情が、わずかに変わった。でも、すぐに元の穏やかな顔に戻った。ただその戻り方が、少しだけ時間がかかった。

 

「……そっか」

 

「返信する。何か問題あるか」

 

「問題は……ない」

 

 奈々美が少し下を向いた。

 

「怖いとか、嫌だとか、そういう気持ちはあるよ。正直に言えば」

 

「うん」

 

「でも……元樹くんが正直に話してくれてる。それはわかってる」

 

 奈々美が少し間を置いた。

 

「今日また怖くなったか、って聞くでしょ」

 

「聞こうとしてた」

 

「……なった。少し。でも止まれてる」

 

「今は」

 

「今は」

 

 奈々美が顔を上げた。

 

「今夜がどうかは、まだわからない。正直に言えば」

 

「怖くなったら、連絡していい」

 

「……うん」

 

 奈々美がゆっくりと頷いた。

 

「行って来て」

 

 その声は、穏やかだった。

 

 穏やかすぎるくらいに、と俺は思った。でも今日の話を聞いた後では、その穏やかさの意味が少し違って見えた。無理やり穏やかにしている、というよりも、そうしようとしている、という感じがした。

 

「また連絡する」

 

「うん。気をつけてね」

 

 奈々美が手を軽く上げた。

 

 俺は改札に向かった。

 

 振り返ると、奈々美はまだそこに立っていた。

 

 駅前の広場の光の中に、奈々美が一人でいた。

 

 エイのぬいぐるみが、鞄に揺れていた。

 

 俺は軽く手を上げた。

 

 奈々美も手を上げた。

 

 俺は改札をくぐった。

 

 

 

 帰りの電車は、行きより混んでいた。

 

 席が空いていなかったので、ドアのそばに立った。流れていく景色を窓越しに見た。桜ヶ丘の町が後ろに流れて、田畑が広がって、また町が近づいてくる。

 

 行きの電車で眺めた景色が、逆向きに流れていった。

 

 俺は今日の奈々美の言葉を、一つ一つ頭の中でなぞった。

 

 怖かった、ずっと。

 

 施設を転々として、慣れることが怖くなった。だから信じる前に全部把握しようとした。

 

 演技だったのかもしれない。計算が混じっていたかもしれない。奈々美という人間は、計算と本音が分離しないことがある。俺にはその境界線がわからない。

 

 でも今日は、そこで止まることにした。

 

「演技か本当か」を確かめようとするのではなく、今日聞いたことを、ただ持って帰ることにした。

 

 決定的に信じたわけでも、決定的に疑ったわけでもない。

 

 ただ受け取った。

 

 それだけのことが、今日の俺にはできた。それで十分だと思った。

 

 去年の夏は、奈々美の演技を見ながら、それでも惹かれていた。

 

 今年の夏は、演技かどうかもわからない話を聞きながら、受け取った。

 

 進歩なのか後退なのか、それもわからない。でも何かが、少しだけ動いた気がした。

 

 光明が言っていた言葉を思い出した。「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」。

 

 玲との話もまだある。文化祭が終わったら話す、と言っていたが、それはまだ果たされていない。今日、玲からメッセージが来たのは、たぶんそのことだ。

 

 一つずつ、向き合う。

 

 それしかできない。

 

 玲に返信を打った。

 

 今日は桜ヶ丘にいた。明日か明後日、都合のいい時間はあるか?

 

 送信して、スマホをしまった。

 

 電車が揺れていた。

 

 外に夕焼けが始まっていた。雲の端が赤く染まっていた。夏の夕焼けは長い。日が傾いても、なかなか暗くならない。

 

 俺はしばらく、その色を眺めていた。

 

 水族館の跡地の空き地を思った。草と、塀と、倒れた看板。でも、そこにエイがいたことは消えない。

 

 奈々美が今日そこで話してくれたことも、消えない。

 

 電車が橋を渡った。川の水が夕日を反射して、オレンジに光っていた。

 

 夏が始まったばかりだった。

 

 

 

 夜。

 

 桜ヶ丘の親戚宅の、自分の部屋。

 

 奈々美は窓を少し開けて、夜の空気を入れていた。

 

 静かだった。虫の声がする。風が吹くと、近くの木が揺れる音がする。黒峠よりずっと静かで、空気が違う。

 

 スマホを持っていたが、画面は暗いままにしていた。

 

 夕飯を食べて、お風呂に入って、部屋に一人になった。時刻は十時を少し過ぎていた。

 

(元樹くんが来た)

 

 奈々美は窓の外を見ながら、思った。

 

(去年と同じ。でも、全然違う)

 

 去年の夏、元樹が桜ヶ丘を訪ねてきた時、奈々美は計画の中にいた。「距離を置く」「追わせる」「変わった自分を演出する」。全部が計算だった。元樹の違和感にも気づいていたが、そのままにしておいた。

 

 今年は。

 

 計算していなかった。

 

 少なくとも、あのベンチでの話は計算していなかった。

 

 施設のこと。怖かったこと。信じる前に全部把握しようとしたこと。

 

 それを口にするつもりは、朝出かける時にはなかった。水族館の跡地に行ったら、言いたくなった。それだけのことだった。

 

(元樹くんは、ちゃんと聞いてた)

 

「怖かったんだな」という言い方をした。「大変だったね」ではなく。

 

 その違いが、どうして心に残るのか、奈々美にはうまく説明できなかった。でも残った。

 

 玲からのメッセージが来たのを、奈々美は知っていた。

 

 元樹のスマホに通知が来た時、元樹の顔がわずかに変わった。奈々美は見ていた。誰から来たかは、画面が見えなくてもわかった。ああ、と思った。

 

(また怖い)

 

 その感情は、消えなかった。

 

 でも。

 

 今日は確認しなかった。

 

 元樹が「玲から」と正直に言ってくれた。それを聞いた時、知りたかった。何を送ってきたのか、元樹がどう答えるのか、全部知りたかった。

 

 でも知ろうとしなかった。

 

(止まれた)

 

 それが、今夜の奈々美にとっては、大きかった。

 

 信じる練習、と自分に言った。信じる練習。

 

 止まれた。今夜は止まれた。

 

 明日の夜はわからない。また怖くなるかもしれない。また確認したくなるかもしれない。でも、今夜は止まれた。

 

 それだけで、少し息ができた気がした。

 

 窓の外で、虫が鳴いていた。

 

 奈々美はスマホを机の上に置いた。

 

 ベッドに横になって、天井を見た。

 

(怖かったんだ、昔から)

 

 元樹に言った言葉が、自分の耳に戻ってきた。

 

 そう言えたのは、初めてだった気がした。

 

 誰かに向けて、「怖かった」と言えたのは。

 

 施設にいた頃は、言える相手がいなかった。言ったところで何かが変わるとも思えなかった。だから言わなかった。

 

 言わないまま、怖さを全部、行動に変えてきた。それが、あの束縛だった。あの監視だった。あの写真だった。

 

 言えるようになったのは、今日が初めてではないかもしれない。でも、今日は計算なしに言えた。それが違った。

 

(変わろうとしてる)

 

 その言葉が、また頭に浮かんだ。

 

 変わろうとしている。でも、変われない部分がある。

 

 池田先生に言われた。「変われない部分があることは、悪いことじゃない。どう向き合うかが大事だ」と。

 

 今日は、どう向き合ったか。

 

 止まれた。話した。受け取ってもらえた。

 

 それが、向き合う、ということなのかもしれなかった。

 

 でも、明日はまた怖くなる。夏休みが続く間、元樹が桜ヶ丘にいない時間がある。玲と話す機会が生まれるだろう。

 

 そのたびに怖くなるかもしれない。止まれない夜が来るかもしれない。

 

(それでも)

 

 奈々美は目を閉じた。

  

(今夜は、止まれた)

 

 でも、止まれたのは、一人でできたわけじゃない。

 

 元樹が今日、ここに来てくれたから。あのベンチで、話を聞いてくれたから。「怖かったんだな」と言ってくれたから。

 

 一人でいた時は、誰かに「怖かったんだな」と言ってもらえることが、こんなに違うとは思っていなかった。

 

 同情でもなく、責めでもなく、ただそのまま受け取った、という感じ。

 

 施設にいた頃、先生に「大変だったね」と言われるたびに、どこかで「この人には届いていない」と思っていた。大変だったのは事実だが、大変だったことより、怖かったことの方が大きかったから。でも「怖かった」とは言えなかった。

 

 今日、言えた。

 

 そして、受け取ってもらえた。

 

 それが、今夜の奈々美には大きかった。

 

 明日のことは、明日考える。

 

 窓から夜の空気が入り続けていた。

 

 虫の声が、どこか遠くから続いていた。

 

 桜ヶ丘の夜は、静かだった。

 

 奈々美は天井を見つめながら、今日のことを一つ一つ確認するように思い返した。

 

 水族館の跡地に行ったこと。ベンチに座って話したこと。元樹が「怖かったんだな」と言ったこと。喫茶店でのこと。帰りのパン屋のこと。

 

 元樹が改札に消えていく背中を、広場で見送ったこと。

 

 元樹が振り返って、軽く手を上げた。奈々美も手を上げた。そのやり取りが、子供みたいで、でも嫌じゃなかった。

 

 改札の向こうに元樹が消えてから、奈々美はしばらくその場に立っていた。駅前の広場に一人で立って、改札の方を見ていた。

 

「来年も来る」と言った元樹の声が、耳の奥に残っていた。

 

(また来てくれる、って言ってた)

 

「来年もここに来る」と元樹は言った。

 

 来年のことを言ってくれた。

 

 それが嬉しかった。信じていいかどうかより先に、嬉しかった。

 

 奈々美は「ありがとう」と言った。小さく、でも確かに。

 

 元樹は「どういたしまして」とも、「大げさだよ」とも言わなかった。ただ「ああ」と頷いた。それが良かった。

 

 その嬉しさは、本物だった。

 

 怖さも本物で、嬉しさも本物で、止められなかった日もあって、今日止まれた日もあって。

 

 全部が、同時に存在している。

 

 それが、奈々美という人間だった。

 

 ずっと一緒にいる、という約束のことを、奈々美は思った。

 

 元樹が小さい頃に言った言葉。あの公園で、泣いていた奈々美に言ってくれた言葉。

 

 今の元樹はその約束を、どう思っているのか。覚えているのか、忘れているのか。

 

 聞こうと思ったことがあった。でも、聞けなかった。聞いて、「覚えてない」と言われたら怖かったから。

 

 今日は、聞かなかった。

 

 でも今日のことを思うと、もしかしたらそれでいいのかもしれない、と奈々美は思った。

 

「ずっと一緒にいる」という約束の形は、子供の頃と同じではない。でも元樹は今日、桜ヶ丘に来てくれた。ここで話を聞いてくれた。「また来る」と言ってくれた。

 

 その行動が、約束の別の形なのかもしれない。言葉の約束ではなく、行動の積み重ねとして。

 

 施設にいた頃の奈々美には、そういう考え方ができなかった。約束は言葉で、言葉は守られなければ意味がない。そう思っていた。

 

 今は。

 

 少しだけ違う気がした。

 

 窓の外の空に、星がいくつか見えた。

 

 黒峠より空気が澄んでいるから、星がよく見える。施設にいた頃も、夜に窓から星を見た。あの頃は、星が遠かった。

 

 今も遠い。でも、見ている自分が少し変わった気がした。

 

 奈々美はしばらく、その星を見ていた。

 

 元樹の「怖かったんだな」という声が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 嬉しかった。

 

 それだけを、今夜は持っていることにした。

 

 信じる練習を、続けている。

 

 今日は一歩、前に進めた気がした。

 

 明日また怖くなるかもしれない。

 

 でも今夜は、ここまで。

 

 窓から、夜の桜ヶ丘の風が入ってきた。

 

 虫の声が続いていた。

 

 夏が、始まったばかりだった。

今年の夏、元樹くんがまた来てくれた。


去年も来た。でも去年は、私が来させた。今年は違う。


水族館の跡地に行った。エイはもういない。ブロック塀と、草と、読めなくなった看板だけが残っていた。でも私には見える。あそこに、エイがいた。元樹くんと並んで、ガラスに手を当てていた。


「怖かった」と話した。計算じゃなかったと思う。ここに来ると計算ができなくなるから。


元樹くんは「怖かったんだな」と言った。「大変だったね」じゃなくて。


その違いが、どうして嬉しかったのか、うまく説明できない。でも嬉しかった。


今夜は止まれた。


明日のことは、まだわからない。


奈々美

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