表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奈々美さんの裏の顔  作者: 暁の裏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/44

第39話 「同じ衝動」

 七月に入った。

 

 梅雨の合間の晴れが続いていて、空気が重く湿っていた。朝から蝉が鳴いていて、六月の終わりにはまだなかったその声が、確実に季節が変わったことを告げていた。

 

 夏休みまで、あと三週間ない。

 

 教室はまた普通になっていた。劇の衣装はもう片付けられて、龍宮城のセットも解体されて、ゴミとして出ていった。文化祭の期間だけそこにあった特別な空気は、もう跡形もなかった。

 

 授業が戻ってきた。テストの日程が張り出された。委員会の業務が再開した。

 

 俺は教科書のページをめくりながら、窓の外の空を見た。

 

 七月の空は、白みがかった水色だった。

 

「委員長、今日の議事録、確認してくれる?」

 

 昼休みの廊下で、中尾が声をかけてきた。文化祭の脚本を書いていた中尾が、なぜか文化祭後も俺に気軽に話しかけてくるようになっていた。

 

「後で見る。机に置いといて」

 

「了解。あと、七月の学年行事の日程、先生からもらった?」

 

「まだ」

 

「もらっといた方がいいよ。今週中に貼り出すらしいから」

 

「わかった」

 

 中尾が行ってしまってから、俺はため息をついた。

 

 委員の仕事は文化祭が終わっても終わらない。むしろ七月は行事の後処理と夏休み前の諸々が重なって、細かい判断を求められる場面が増えていた。

 

「大変そうだな」

 

 光明が後ろから言った。

 

「見て見ぬふりしてたくせに」

 

「中尾を捕まえるより、お前の方が早かったからな」

 

「結果は同じじゃないか」

 

 光明が笑いながら俺の隣に並んだ。

 

「今日の昼、どうする。食堂か」

 

「食堂でいい」

 

 二人で歩き始めた。廊下の向こうから、航が「元樹! 待ってくれー!」と走ってきた。走ってくる割に、急ぎの用があるわけじゃなかった。ただ一緒に昼飯を食いたかっただけらしい。

 

 文化祭が終わってから、クラスの空気は少しだけ変わった。何かを一緒に作り上げた感じというか、お互いの距離が少し縮まった感じがあった。俺はもともとクラスで目立つ存在じゃなかったけど、委員として劇を仕切ったことで、名前を覚えてくれた人が増えた気がした。

 

 悪い気はしなかった。

 

 でも、今の俺の頭の中はもっと別のことがあって、そちらの方がずっと占領していた。

 

 

 

 食堂に着いて、トレイに飯を乗せて席に着いた。航が「今日の肉野菜炒め最高」と言いながら箸を持った。光明は黙って定食を食べ始めた。

 

 俺は飯を食いながら、スマホを確認した。

 

 奈々美からのメッセージが来ていた。

 

 今日の昼、何食べてる?

 

 昼休みに入ってから五分だった。俺がどこにいるかを知っているかのようなタイミングだった。

 

 食堂にいる

 

 返すと、すぐに来た。

 

 今日の肉野菜炒め、美味しそうだったよ。私も食べた。


 俺はその文章を見て、少し止まった。

 

 今日の肉野菜炒め。

 

 俺が今日食べていることを、奈々美はなぜ知っているんだろう。食堂のメニューは毎日変わる。「美味しそうだった」という過去形は、奈々美も食堂に来ていたということになる。でも、奈々美は同じクラスだ。昼休みに食堂に来ていたなら、気づいても良かった。

 

 俺は周囲を見渡した。

 

 奈々美の姿は、今はない。

 

(どこにいるんだ)

 

 自問してから、俺は自分が少し変な考え方をしていると気づいた。奈々美が昼休みに食堂に来て、同じものを食べていた。それだけのことだ。

 

 でも、気づかなかった。

 

 最近、そういうことが続いている。奈々美がどこかにいたはずなのに、俺が気づかない。そして後から「近くにいた」「見かけた」という連絡が来る。

 

 俺は箸を動かしながら、スマホを伏せた。

 

「元樹、なんかまずかったか」

 

 光明が言った。

 

「いや」

 

「また変な顔してる」

 

「してない」

 

「してる。奈々美から連絡来たのか」

 

「……ちょっと」

 

 光明が少しの間、俺を見た。それから「まあいいや」と言って飯を食い続けた。

 

 航は肉野菜炒めを半分食べ終えていて、何も気づいていない様子だった。

 

 俺は残った飯を、あまり味がわからないまま食べた。

 


 

 午後の授業が終わって、放課後になった。

 

 今日は委員会の集まりがない。珍しく早く帰れる。

 

 俺は鞄に教科書を詰めながら、奈々美の席を見た。

 

 奈々美は鞄の中を整えていた。こちらに視線を向けると、小さく微笑んだ。

 

「今日、帰れる?」

 

「ああ」

 

「じゃあ一緒に」

 

 奈々美が立ち上がった。

 

 廊下に出ると、夕方の日差しが窓から入ってきていた。七月の光は橙というよりも白くて、眩しかった。

 

 二人で昇降口へ向かった。

 

 奈々美は俺の左を歩いていた。いつも左だ。一度だけ右に来たことがあったけど、ほんの数歩で「やっぱり左がいい」と言って戻ってきた。理由は聞かなかった。

 

「ねえ、元樹くん」

 

「うん」

 

「昨日の夜のメッセージ、返事遅かった」

 

 俺はそれを少し考えた。昨日の夜、奈々美から来たメッセージに返信したのは、二十二時を過ぎた頃だった。

 

「ごめん、眠くて」

 

「わかってる。責めてるわけじゃなくて」

 

 奈々美が少し間を置いた。

 

「ただ……返事が来るまでの間が、少し長く感じた」

 

「そうか」

 

「少しね」

 

 声は穏やかだった。怒っているわけじゃない。ただ、「少し長く感じた」という言葉が、俺の中でひっかかった。

 

(昨日、返事が来るまで何をしてたんだろう)

 

 問いかけてから、俺は自分の思考に気づいた。

 

 奈々美が待っていたのは当然のことだ。連絡をくれた相手が返事を待つのは普通のことだ。でも、俺の中に「待つ間、何をしていたか」を知りたいという気持ちが生まれた理由は、奈々美が「待っている」ということの重さを、俺がどこかで感じているからだった。

 

 一時間。二時間。

 

 奈々美が俺のメッセージを待って、何かをしながら、でも返事が来るのを確認し続けていたかもしれない。

 

 そう思うと、胸に何かが落ちた。それが申し訳なさなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。

 

「今日は早く帰れそうだな」

 

 話を変えた。

 

「うん。ゆっくり帰ろう」

 

 奈々美が俺の腕に少しだけ触れた。

 

 七月の夕方の空気の中で、二人で歩いた。

 

 

 

 星野あかりは、その日も同じ場所から見ていた。

 

 教室の廊下側、窓から少し離れた壁。授業終わりの生徒たちが流れていく中で、あかりはそこに立って、遠くを見るふりをしていた。

 

 視線の先は、廊下の奥。

 

 渡部元樹が、柊奈々美と並んで歩いていくのが見えた。

 

 二人の肩が、ほんの少しだけ近い。奈々美の手が、元樹の腕のそばにある。

 

 あかりは息をゆっくり吸った。

 

(また見てる)

 

 自分でも、わかっていた。

 

 文化祭が終わってから、こうして元樹の帰る姿を見ることが習慣になっていた。最初は偶然だった。文化祭の翌日、廊下を歩いていて、たまたま元樹とすれ違った。「昨日、劇見に来てただろ」と声をかけてくれた。それだけのことだった。

 

 でも、あの時の声が、あかりの中で何かを動かした。

 

 自分から声をかけることはできない。でも、見ることならできる。廊下の端で、遠くから、気づかれないように。

 

 それがいつの間にか、毎日になっていた。

 

 元樹がどの時間に廊下を通るか、あかりはなんとなく把握していた。委員会がある日は遅く、ない日は早い。光明と帰る日と、奈々美と帰る日がある。

 

 そういうことが、頭に入っていた。

 

(おかしい)

 

 あかりは思った。

 

 奈々美さんと同じことをしている。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、背筋がひやりとした。エマが言っていた。奈々美という人は「普通じゃない」と。目が笑っていない、と。あかり自身も体感した。あの文化祭での、光のない目。

 

 でも今、自分が元樹に対してやっていることは……。

 

 あかりは壁から離れた。

 

 廊下の奥で、元樹と奈々美の姿が消えた。

 

 

 

 次の日。

 

 あかりは自分に言い聞かせていた。

 

 もうやめる。廊下で待つのも、スマホに元樹の名前を検索するのも(彼が文化祭委員として名前を出していた学校のお知らせを、あかりは何度も見ていた)、全部やめる。

 

 そう決めた。

 

 昼休みが終わって、午後の授業が始まる前の廊下を歩いていた。自分の教室に戻るだけだった。

 

 その時、向かいの廊下から元樹が歩いてくるのが見えた。

 

 光明と一緒で、何か話しながら笑っていた。

 

 あかりは思わず足を止めた。

 

 元樹の笑い方を、あかりは好きだった。全力で笑うわけじゃない。少し困ったような、でも本当に可笑しいと思っている時に出てくる、控えめな笑い。文化祭の劇でも、航の亀のアドリブに受けた時、そういう笑い方をしていた。

 

 元樹が廊下の向こうへ消えていった。

 

 あかりは動けないまま、その方向を見ていた。

 

 やめると決めたはずだった。

 

(どうして)

 

 自分の足が、少しだけその方向に動きかけたことに、あかりは気づいた。

 

 気づいて、止まった。

 

 壁に背をつけて、目を閉じた。

 

 心臓が、少し速かった。

 

 

 

 放課後。

 

 あかりは校舎を出た。

 

 今日こそ真っ直ぐ帰ろうと思っていた。エマにも「早く帰るね」とメッセージを送っていた。

 

 昇降口を出て、正面の道を歩いた。

 

 そこで、前方に元樹の姿が見えた。

 

 今日は一人だった。奈々美がいなかった。

 

 あかりの足が、自然に遅くなった。

 

 距離は二十メートルほど。

 

 元樹が歩いていく。住宅街の細い道を、鞄を肩にかけて、少しうつむきながら。

 

(ただ、同じ方向に帰るだけ)

 

 あかりは心の中で言った。

 

 別に追いかけているわけじゃない。家の方向が同じなだけだ。たまたま同じ道を帰っているだけだ。

 

 でも、元樹が右に曲がったら、あかりも右に曲がった。

 

 元樹が細い路地に入ったら、あかりもそこに入った。

 

 自分の帰り道とは、少し違う方向だった。

 

 気づいた時には、元樹の背中から十五メートルほどの距離になっていた。

 

(私、なにしてるんだろう)

 

 あかりは思った。

 

 でも、足が止まらなかった。

 

 元樹の鞄が、歩くたびに少し揺れていた。それを見ながら、あかりは歩いていた。

 

 夏の夕方の匂いがした。どこかで草が刈られたような、青い匂い。

 

 元樹が立ち止まった。

 

 コンビニの前だった。

 

 あかりも反射的に立ち止まった。

 

 電柱の影に半分入った状態で、息をひそめた。

 

 元樹がコンビニに入っていった。

 

 あかりは電柱の陰に立ったまま、自分が今何をしているかを、ゆっくりと理解した。

 

(追いかけてた)

 

 声に出なかった。出せなかった。

 

 エマが言っていた言葉が浮かんだ。「絶対に一人で動かないで」。

 

 あかりは電柱から離れて、来た道を早歩きで戻った。

 

 胸が、ばくばくしていた。

 

 恥ずかしいとか、怖いとか、そういう感情が全部混ざって、うまく呼吸ができなかった。

 



「あかりちゃん」

 

 翌日の朝、エマがあかりを見つけた時、あかりの顔色は悪かった。

 

 目の下に、少し影がある。眠れていないような顔だった。

 

「昨日、早く帰るって言ってたのに連絡来なかった。心配した」

 

「……ごめんなさい」

 

 あかりが小さな声で言った。

 

 階段の踊り場に移動した。いつもの場所だった。

 

「何かあった?」

 

 エマは真っ直ぐに聞いた。

 

 あかりは少し迷うような顔をして、それから下を向いた。

 

「……エマさんに、言わないといけないことがある」

 

「言って」

 

「怒らないでほしいんですけど」

 

「怒らない。でも正直に言って」

 

 あかりが息を吸った。

 

「昨日の放課後……先輩の後を、追いかけた」

 

 エマは黙って聞いていた。

 

「追いかけたっていうか……同じ方向に歩いてたら、気づいたら……コンビニまで追いかけてた」

 

「……どのくらいの距離を?」

 

「学校から……たぶん、十分くらい」

 

 エマは少しの間、何も言わなかった。

 

 あかりは下を向いたまま、震えているような気がした。

 

「あかりちゃん、正直に言ってくれてありがとう」

 

「怒ってる……?」

 

「怒ってない。でも、聞いていい?」

 

「……はい」

 

「昨日だけじゃないよね」

 

 あかりが、少し固まった。

 

「廊下で渡部くんを待ってたこと、他にもある?」

 

 あかりはゆっくりと頷いた。

 

「……何日か」

 

「何日か」

 

「文化祭の後から……ずっと」

 

 エマが静かに息を吐いた。

 

「あかりちゃん」

 

「わかってる……おかしいのは、わかってる」

 

 あかりの声が少し震えた。

 

「でも……止められなかった。止めようとするたびに、また見たいと思って……廊下に行ったら、たまたまいて……それがどんどん当たり前になってて……」

 

「うん」

 

「自分でも、どこかでおかしいと思ってた。でも、どこかで「見るだけだから」って思ってて。声をかけるわけじゃないし、傷つけるわけじゃないし。でも昨日、追いかけてる途中で……奈々美さんのことを思った」

 

「奈々美さんの?」

 

「奈々美さんも、こういうことをしてるのかなって。先輩のことを、こっそり見て、追いかけて。だとしたら、私は奈々美さんと同じことをしてる、って」

 

 エマは少し眉を寄せた。

 

「それに気づいた時、すごく怖くなった。怖くて、逃げて帰った」

 

 あかりが顔を上げた。目が少し赤かった。

 

「どうしたらいいか、わからない。好きな気持ちは本当で……でも、こんなことしちゃいけないのも本当で。でも、止められなかった自分が……嫌で」

 

 エマはしばらく黙った。

 

 それから、真っ直ぐにあかりを見た。

 

「あかりちゃん、よく言ってくれたね」

 

「……え」

 

「気づいた時に止まれたこと。ちゃんと怖いと感じたこと。それは、大事なことだよ」

 

「でも、昨日は止まれなかった」

 

「昨日は止まれなかった。でも、ちゃんと怖いと思えた。それが今日、私に話してくれることに繋がった」

 

 あかりが少し黙った。

 

「奈々美さんと同じって言ったけど、一つだけ違うと思う」

 

「……何が」

 

「あかりちゃんは、自分がおかしいと気づいてる。怖いと感じてる。そこが違う」

 

 あかりは少し考えた。

 

「でも、気づいてても止められなかった」

 

「そう。だから、一人で止めようとしなくていい。私に言ってくれたから、一緒に考えられる」

 

 エマがはっきりと言った。

 

「今日から、放課後は必ず一緒に帰ろう。廊下を歩く時も、できるだけ私と一緒にいて」

 

「……エマさんの迷惑になる」

 

「ならない。あかりちゃんが大事だから」

 

 あかりが目を伏せた。

 

「エマさん」

 

「うん」

 

「私……先輩のことがやっぱり好きなんだと思う。でも、もう諦めた方がいいのもわかってる。彼女がいるし、奈々美さんのことも怖いし。でも、それでも止められなくて」

 

「好きなのに諦めるって、難しいよね」

 

「難しい」

 

「全部を一度に解決しなくていいよ。好きな気持ちはすぐには消えない。でも、行動は変えられる。まず行動を変えることから」

 

「行動を……」

 

「廊下で待つのをやめること。帰り道で後を追わないこと。それだけでいい。気持ちを無理に消さなくていい」

 

 あかりがゆっくりと頷いた。

 

「……わかった」

 

「約束して」

 

「約束する」

 

 エマが少し表情を和らげた。

 

「話してくれてよかった。本当に」

 

 あかりが小さく「ありがとう」と言った。

 

 踊り場の窓から、七月の空が見えた。白い雲が一つ、ゆっくりと流れていった。

 

 

 

 その頃、俺は光明と屋上にいた。

 

 昼休みに、光明から「少し話せるか」と言われた。

 

 屋上のベンチに並んで座った。空は蒸し暑かった。遠くに入道雲が見えた。

 

「奈々美のこと、また何かあったか」

 

 光明が先に言った。

 

「なんで」

 

「なんとなく。ここ最近の顔見てると、また何かあるな、って」

 

 俺は少しの間、考えた。

 

「……いくつかある」

 

「話せるか」

 

「話す」

 

 俺は昨日の昼休みのことを話した。奈々美が食堂に来ていたのに気づかなかったこと。でも「肉野菜炒め、美味しそうだったよ」と後からメッセージが来たこと。

 

「見てたのか、ってことか」

 

「わからない。食堂に来てたなら、気づいても良かった。でも気づかなかった」

 

「それ以外は」

 

「登校路。待ってる場所がまた少し変わった。今日は、商店街の入口まで来てた」

 

「商店街の入口って……かなり手前じゃないか」

 

「俺の家から学校まで、いくつか道があるんだけど……商店街を通る道は全部、商店街の入口を通ることになる。そこで待ってたら、どの道を通っても必ず会える」

 

 光明が少し黙った。

 

「それを考えた上で、そこにいたのかもしれないってことか」

 

「わからない。でも、それ以外に説明がつかない気がして」

 

「奈々美に聞いたのか」

 

「聞いた。「早く出た」って言った。理由は何も言わなかった」

 

 光明が遠くを見た。

 

 入道雲が、少しずつ大きくなっていた。

 

「元樹、一回ちゃんと奈々美に言わないといけないんじゃないか」

 

「……言うって、何を」

 

「感じてることを。わからないことを。疑問に思ってることを」

 

「それを言ったら、奈々美が傷つくかもしれない」

 

「傷つけるのが嫌で言えないのはわかる」

 

 光明が俺の方を向いた。

 

「でも、元樹が何も言わないまま違和感を積み重ねていっても、それは奈々美にも元樹にも良くないと思う」

 

「……そうだな」

 

「今すぐじゃなくていい。でも、言わないままにするのが一番ダメだよ、たぶん」

 

 俺は屋上の手すりを見つめた。

 

「奈々美は変わろうとしてる。それは俺も感じてる。でも……変わろうとしてても、こういうことが続くと、俺には何がどこまで変わってるのか、わからない」

 

「正直に言えばそのまま言えばいい」

 

「それを言って、奈々美が傷ついたら」

 

「傷ついてもいい、というか……傷ついても、ちゃんと話し合える関係じゃないとだめだろ」

 

 光明の言葉は、さらっとしていた。

 

 でも、それが刺さった。

 

 俺は少しの間、黙っていた。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 光明が立ち上がった。

 

「授業始まるぞ」

 

「ああ」

 

 俺も立ち上がった。

 

 入道雲が、また少し大きくなっていた。

 

 

 

 それから二日後。

 

 異変が起きた。

 

 放課後、帰り支度をしていた時だった。

 

 奈々美の席が、空だった。

 

 いつもなら、放課後になるとすぐに鞄を持って待っているのに。今日は席にいない。

 

 俺は少し周りを見渡したが、奈々美の姿がなかった。

 

「奈々美、どこ行ったか知ってる?」

 

 近くにいた同じクラスの女子に聞いた。

 

「さっき、廊下の方に行ってたと思いますけど」

 

「廊下か」

 

 鞄を持って廊下に出た。

 

 廊下は生徒たちが行き来していた。その中に、奈々美の姿を探した。

 

 いなかった。

 

 階段を下りた。昇降口の前を確認した。いない。

 

 スマホを出した。

 

「今どこ?」と打った。

 

 返信は来なかった。

 

 俺は昇降口の前で少し待った。

 

 三分経っても来なかった。

 

 奈々美から連絡が来るまでの間が長いことは、ほとんどない。特に放課後の時間帯は、すぐに返ってくることが多かった。

 

(どこにいるんだ)

 

 不安、と言えばいいのか。それとも、別の何かだったのか。

 

 もう一度廊下を見渡した時だった。

 

 向かい側の廊下の端に、奈々美が立っているのが見えた。

 

 一年生のエリアの方だった。

 

 奈々美は誰かと話していた。

 

 小柄な女子だった。

 

 俺は少し目を凝らした。

 

 星野あかりだった。

 

 

 

 あかりは帰る途中だった。

 

 エマと約束した通り、今日は早く帰るつもりだった。エマとは「昇降口で合流しよう」という話になっていたが、エマのクラスが今日は少し片付けに時間がかかっているらしく、「もう少し待ってて」とメッセージが来ていた。

 

 あかりは昇降口の手前の廊下で待っていた。

 

 壁に背をもたせかけて、スマホを見ていた。

 

「星野さん」

 

 声がした。

 

 顔を上げると、奈々美が立っていた。

 

 制服のまま、鞄を持っていた。笑顔だった。いつもの、穏やかな笑顔。

 

 あかりの心臓が、一瞬で止まりそうになった。

 

「ちょっとだけいい?」

 

 奈々美の声は優しかった。

 

 あかりは、動けなかった。

 

「隣のクラスだから、そんなに話す機会なかったよね。せっかくだから少しだけ」

 

「少しだけ」という言葉が、前回と同じだと気づいた。文化祭の後に廊下で声をかけてきた時も「少しだけ」だった。

 

「……はい」

 

 あかりは声を出すのが精一杯だった。

 

「元樹くんと、廊下でよく話してる?」

 

「……いいえ、そんなに」

 

「そっか。前に少し話してたから、気になって」

 

 前に少し話してた。文化祭の翌日、「昨日、劇見に来てただろ」と声をかけてきた時のことだ。あかりには覚えがある。でも、奈々美はそれを知っている。

 

(どうして知ってる)

 

「仲良くなれると良いね。私、元樹くんの友達が仲良くしてくれると嬉しいから」

 

「……そう、ですか」

 

「うん。ただ」

 

 奈々美が少し首を傾けた。

 

「元樹くんは、今ちょっと色々複雑なことがあって。あまり余計な心配をかけたくないから。そのあたり、わかってくれると嬉しいな」

 

「……元樹くん……余計な心配」

 

「うん。気を遣わせたくないから。気にしないでいてくれると助かる」

 

 笑顔のまま、言った。

 

「元樹くん」という呼び方。「気を遣わせたくない」という言葉の裏に、全然違う意味がある気がした。「近づくな」と言っているように聞こえた。でも証拠はない。全部笑顔の後ろに隠れている。

 

 その時、スマホが鳴った。

 

 エマからだった。「今から行くね」。

 

「じゃあね、また」

 

 奈々美が先に立ち去った。

 

 あかりはその場で、しばらく動けなかった。

 

 足が、震えていた気がした。

 

 

 

 エマが来た時、あかりは廊下の壁に背中をつけたまま立っていた。

 

「あかりちゃん? どうしたの」

 

「……エマさん」

 

「顔が白い。なんかあった?」

 

「奈々美さんに……また、話しかけられた」

 

 エマの顔が変わった。

 

「ここで?」

 

「うん。さっき。一人で待ってたら来て」

 

「何を言ってきた」

 

 あかりは、奈々美に言われたことをそのまま伝えた。「渡部くんと廊下でよく話してる?」「余計な心配をかけたくない」という言葉も。

 

 エマは静かに聞いていた。聞き終わって、少しの間、廊下の先を見ていた。

 

「あかりちゃん、今日のことは私に教えてくれてよかった。ありがとう」

 

「……うん」

 

「奈々美さんが来た時間を考えると……一人で待ってたことを、知ってたのかもしれない」

 

「知ってた……?」

 

「あかりちゃんが昇降口の前で待ってることを。偶然じゃなくて、知っていて来た可能性がある」

 

 あかりは、ぞくっとした。

 

「どうして知ってるの」

 

「わからない。でも……奈々美さんは情報を集める人だと思う。あかりちゃんのことを、ずっと意識してる」

 

「私のこと……なんで」

 

「あかりちゃんが渡部くんを見てることを、あの人は知ってる。文化祭の時から」

 

 エマが静かに言った。

 

「だから、こうして時々接触してくる。直接的な脅しじゃない。ただ笑顔で話しかけてくるだけ。でも、その度に「私はあなたのことを見てる」というメッセージを送ってくる」

 

「……怖い」

 

「うん、怖い」

 

 エマが正面からそう認めた。

 

「だから一人で動かないで、って言ってたんだけど……今日は私が遅れた。ごめん」

 

「エマさんのせいじゃない」

 

「でも、私がそこにいれば良かった」

 

 エマがあかりの隣に立った。

 

「今日から、校内にいる時は私に連絡して。昇降口で待つ時も、教室を出る前に一言送って」

 

「……そこまでしてもらうのは」

 

「あかりちゃん」

 

 エマが真剣な顔で言った。

 

「奈々美さんのことは、軽く考えない方がいい。あの人は、やさしい言葉で人を縛る人だと思ってる。証拠はないけど、感じる。だからあかりちゃんを一人にしたくない」

 

 あかりは少しの間、エマを見ていた。

 

「……わかった」

 

「ありがとう。じゃあ、今日は帰ろう」

 

 エマがあかりの隣を歩き始めた。

 

 昇降口を出ると、七月の夕日が正面から差してきた。

 

 眩しくて、あかりは少し目を細めた。

 

 今日、廊下で奈々美に話しかけられた時の笑顔が、まだ目の裏に残っていた。

 

 

 

 その夜。

 

 俺は自室で、奈々美からのメッセージを見ていた。

 

 帰り道に落ち合った時、奈々美は何も言わなかった。普通に並んで歩いて、普通に「おやすみ」と別れた。

 

 あかりと話していたことを、俺に言わなかった。

 

 俺も聞かなかった。

 

 聞けなかった。廊下の遠くから見えたあの場面が、頭に残っていた。奈々美があかりと話していた。二人の距離、奈々美の立ち方、あかりが少し固まって見えたこと。

 

 あれは普通の会話じゃなかった気がした。

 

 でも、確かめる言葉が、出なかった。

 

 今日の夕飯、なに食べた?


 奈々美からメッセージが来ていた。

 

 肉豆腐

 

 返すと、すぐ来た。

 

 美味しそう。元樹くんのお母さん、料理上手だよね。

 

 いつも通りの会話だった。

 

 俺はスマホを持ったまま、天井を見た。

 

 あかりのことを、奈々美に聞くべきか。

 

 聞いたら何と返ってくるか、なんとなく想像できた。「たまたま廊下で話した」「大したことじゃない」。それで終わる。奈々美はいつもそうだ。答えはあるのに、答えにならない答えが返ってくる。

 

 でも聞かないままにしたら、また引っかかりが積み重なる。

 

 光明の言葉が浮かんだ。「ちゃんと話し合える関係じゃないとだめだろ」。

 

 俺は少しの間考えてから、打った。

 

 今日の放課後、あかりと話してたよな

 

 少し間があった。

 

 うん。廊下でたまたま会って、少しだけ

 

「たまたま」。「少しだけ」。

 

 予想通りの言葉だった。

 

 何を話したの?


 文化祭の話とか。大したことじゃないよ

 

 大したことじゃない。

 

 俺はその文字を見つめた。

 

 廊下でのあかりの様子が、頭にある。少し固まっているように見えた。「大したことじゃない会話」をしている時の体の硬さじゃなかった。

 

 俺は打つのをやめた。

 

 これ以上聞いても、返ってくる言葉は想像できた。

 

 スマホを伏せた。

 

 部屋が静かだった。

 

 光明が言った。「一番ダメなのは、宙ぶらりんにすること」。

 

 わかっている。

 

 でも、何をどう動かせばいいのか、まだわからなかった。

 

 夜の虫の声が、窓の外から聞こえてきた。

 

 

 

 翌日から、奈々美の登校路の待ち位置が、また変わった。

 

 今度は、俺の家の最寄りのコンビニの前だった。

 

 朝七時半。俺が家を出るのはいつも七時四十分前後だが、その日は少し早く出た。

 

 コンビニの前に奈々美がいた。

 

 俺を見て、にこっと笑った。

 

「おはよう」

 

「おはよう……今日も早いな」

 

「元樹くんが早い日に合わせた」

 

 さらっと言った。

 

(俺が早い日)

 

 どうして俺が早い日と遅い日があることを知っているんだろう。委員会のある日は少し早く登校する。でも、委員会の日程は外には出していない。

 

 それとも、何日も試して覚えたのか。

 

 俺は少しの間、奈々美を見た。

 

 奈々美は笑顔のままだった。

 

「行こうか」

 

「ああ」

 

 並んで歩き始めた。

 

 奈々美の足が、俺のペースにぴったりと合っていた。

 

 朝の空気は、蒸し暑かった。梅雨明けがもうすぐのはずだった。

 

「ねえ、元樹くん」

 

「ん」

 

「夏休み、一緒にどこか行きたい」

 

「夏休み……そうだな」

 

「水族館、また行こうって約束したじゃない。五月に」

 

「そうだな。行こう」

 

「嬉しい」

 

 奈々美が少しだけ速足になった。俺の隣に、ぴたっとついてくる。

 

 その動作が自然すぎて、俺は何も言えなかった。

 

 自然に見えるけど、自然じゃないものが、そこにある気がした。

 

 でも、奈々美は笑顔だった。本当に嬉しそうに見える笑顔だった。

 

 俺は前を向いて、歩き続けた。

 

 

 

 その日の昼休みに、玲と廊下で会った。

 

 偶然だった。今日は奈々美と食堂に行くつもりだったが、奈々美がトイレに寄ると言って、先に行ってるように言われた。俺が廊下を歩いていると、前から玲が来た。

 

「あ、元樹」

 

「玲。どこ行くんだ」

 

「購買。今日の昼は購買で済ませようと思って」

 

「そっか」

 

 玲が俺の横に並んだ。

 

 少し歩いた。

 

「顔色、どうかした」

 

 玲が言った。

 

「そんな顔してるか」

 

「してる。眠れてないか、何か考えすぎてるか、どっちか」

 

「……両方かも」

 

「奈々美さんのこと?」

 

 俺は少し黙った。

 

「玲に話すのは」

 

「あまり話したくないなら話さなくていい。ただ、顔が心配だったから聞いた」

 

 玲の言い方はさらっとしていた。余計な感情を込めない言い方だった。

 

「……少し、また変だなって思うことが続いてる」

 

「変、って」

 

「監視、というか……俺の行動を知りすぎてる感じが、また出てきてる」

 

 玲は少し黙った。

 

「それ、奈々美さんに言った?」

 

「少し聞いたけど……「大したことじゃない」で終わった」

 

「そっか」

 

「玲はどう思う」

 

 聞いてから、少し後悔した。玲にこれを聞くのは、立場的に難しいかもしれない。

 

 でも玲は、少し間を置いてから静かに言った。

 

「私が奈々美さんをどう思ってるかは、元樹も知ってると思う。怖い人だと思ってる。でも……元樹が自分でどうしたいかが、一番大事だと思う」

 

「うん」

 

「どうしたいんだ、元樹は」

 

 俺は答えられなかった。

 

 玲が少し笑った。正確には「苦笑い」に近い笑いだった。

 

「また「わからない」って顔してる」

 

「……ごめん」

 

「謝らなくていい。わからないなら、わからないでいい。でも」

 

 玲が俺を見た。

 

「わからないまま、誰かが傷ついていくのは止めた方がいい」

 

「誰かが」

 

「あかりちゃんのこと、気にしてるでしょ」

 

 俺は少し驚いた。

 

「どうして知ってる」

 

「エマちゃんから少し聞いた。昨日、廊下で奈々美さんに声をかけられたって」

 

「そうか」

 

「エマちゃんが心配してる。奈々美さんが、あかりちゃんに接触し続けてるって」

 

 俺は黙った。

 

 廊下であかりと話していた奈々美の姿が、また浮かんだ。

 

「元樹が知ってておかしいと思うなら、ちゃんと奈々美さんに言った方がいい」

 

「言って、奈々美がそれを認めるとは思えない」

 

「認めなくていい。言うことが大事だと思う。元樹がそれをおかしいと思ってる、ってことを、ちゃんと伝えること」

 

 玲の声は、どこまでも静かだった。

 

「私は……奈々美さんのことが今も怖い。でも、元樹が奈々美さんと向き合う気があるなら、ちゃんと向き合った方がいいと思う。逃げるより」

 

「玲……」

 

「購買着いた」

 

 玲が立ち止まった。購買の前だった。

 

「あとは自分で考えて。答えを急かすつもりはない」

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 玲が購買に入っていった。

 

 俺はその場で少し立っていた。

 

 廊下に人が流れていった。賑やかな昼休みの声が、遠くから聞こえた。

 

 

 

 夕方。

 

 俺は放課後に教室に残って、委員会の書類を整理していた。光明も残っていた。授業の課題があるらしく、黙ってプリントをやっていた。

 

 奈々美は今日、先に帰っていた。

 

 教室が静かだった。

 

 俺は書類をファイルに挟みながら、考えていた。

 

 今日の朝、奈々美が俺の「早い日」を知っていた。コンビニの前まで来ていた。

 

 あかりへの接触が、また続いた。

 

 玲が言った。「言うことが大事だと思う」。

 

 光明が言った。「ちゃんと話し合える関係じゃないとだめだろ」。

 

 俺は何も言えていない。何も聞けていない。おかしいと思いながら、おかしいと言えないまま、また一日が過ぎた。

 

「光明」

 

「ん」

 

「奈々美に、ちゃんと聞こうと思う」

 

 光明がプリントから顔を上げた。

 

「何を」

 

「いくつかのこと。行動を把握しすぎてること。あかりに接触したこと。それをおかしいと思ってること」

 

「聞けるか」

 

「……わからない。でも、やらないと」

 

 光明が少しの間、俺を見た。

 

「いつ」

 

「今週中に」

 

「わかった」

 

 光明はまたプリントに視線を戻した。

 

「応援してるぞ」

 

「ありがとう」

 

 俺はファイルを閉じた。

 

 窓の外が、オレンジに染まっていた。

 

 夏が近かった。空気が重く、熱くて、どこかに爆発する前の静けさがあった。

 

 夏休みまで、あと二週間ない。

 

 

 

 翌々日。

 

 エマは、廊下でエマにしか気づけないものを見ていた。

 

 昼休みの廊下。二年生のエリアを歩いている奈々美の姿を、エマは少し離れたところから目で追っていた。

 

 奈々美は誰かと話していた。

 

 二年A組の教室の前だった。

 

 元樹の教室だ。

 

 話しかけられているのは、同じクラスの女子だった。航に詳しくないエマには名前がわからなかったが、元樹のクラスの生徒だということはわかった。

 

 奈々美は笑顔で何かを話していた。話しかけられた女子も、笑って答えていた。傍目には、普通の会話に見えた。

 

 でも、エマには違和感があった。

 

 奈々美がその女子を選んで話しかけた理由。二年A組の前で、その子に話しかけた理由。

 

 その子は、元樹と仲が良さそうだった。文化祭の時も、準備をしている元樹の近くにいることが多かった。

 

(情報を集めてる)

 

 エマはそう思った。

 

 直接元樹を監視するだけじゃなくて、周囲の人に話しかけることで、元樹の動きを間接的に知ろうとしているのかもしれない。

 

 証拠はない。

 

 ただの笑顔の会話だった。

 

 でも、エマには引っかかった。

 

 奈々美が元樹のクラスの前を通ったのは、今日だけじゃない。エマが気づいた限りで、今週だけで三回あった。いつも笑顔で、いつも誰かに話しかけていた。

 

 エマはスマホを取り出した。

 

 玲に送ろうと思った。玲はエマとあかりの状況を一部知っている。玲の意見を聞きたかった。

 

 でも、打ちかけてやめた。

 

 これは、元樹が知るべきことだと思った。

 

(どう伝えればいい)

 

 エマは廊下の端に寄った。

 

 奈々美との会話が終わったのか、二年A組の前から人が離れた。奈々美の姿が廊下を歩いて消えた。

 

 エマは少しの間、その方向を見ていた。

 

 奈々美という人について、エマには最初から違和感があった。廊下で見かけた時の、「目が笑っていない」という感覚。それは今も変わっていない。

 

 むしろ、最近の方が強い。

 

 何かが変わった気がした。

 

 文化祭の前と後で、奈々美の動き方が変わった気がする。以前は「信じる練習をしている」という言葉が聞こえてくる人だったが、最近は、もっと計算的なものを感じる。

 

 エマには証拠がない。感覚だけだ。

 

 でも、感覚は、大事にした方がいいと思っていた。

 

 

 

 その夜。

 

 奈々美は自室で一人、スマホを持っていた。

 

 夜の十時を過ぎていた。

 

 元樹から今日のメッセージはもう来ていた。「おやすみ」と「ああ」の短いやり取りで、今日の会話は終わっていた。

 

 奈々美はスマホの画面を消した。

 

 暗い部屋の中で、膝を抱えて座っていた。

 

 窓から夜風が入ってきた。

 

 七月の夜の匂い。

 

 (玲が)

 

 奈々美は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 玲が記憶を取り戻した。文化祭の前から、そのことはわかっていた。玲の目が変わった。元樹と話す時の玲の立ち方が、記憶のなかった時とは違う。

 

 元樹も、それを感じている。

 

 文化祭が終わってから、元樹が少し遠い気がする。

 

 体の距離は変わっていない。毎朝一緒に登校して、放課後一緒に帰る。でも、何かが変わった。元樹の目が、たまに奈々美を通り越して遠くを見る。

 

「信じる練習をしてる」と言った。あれは嘘じゃなかった。本当に練習していた。話して、本を読んで、少しずつ自分の中のものを変えようとしていた。

 

 でも。

 

 玲が全部思い出した。

 

 それがわかった時、また怖くなった。

 

 練習していた間も、確認しないと不安だった。でも、それは少し抑えられていた。玲が記憶を取り戻したと知ってから、抑えられていたものが、また動き始めた。

 

(私は)

 

 奈々美は目を開けた。

 

 暗い天井を見た。

 

 変わりたいと思っている。それは本当だ。

 

 でも、変わろうとしている間も、止められないことがある。元樹が今どこにいるか確認せずにいられない。誰と話したのか知りたい。自分が知らないところで元樹が笑っていたら、どんな表情をしていたか、知りたい。

 

 そういう気持ちが、練習中にも消えなかった。

 

 止めることができなかった。

 

 星野あかりに話しかけたのは、計算だった。

 

 あの子が元樹を見ていることを、奈々美は知っていた。文化祭の時から。舞台袖からあかりが元樹を見つめていた時、奈々美には全部見えていた。

 

 だから声をかけた。

 

「気にしないでいてくれると助かる」という言葉は、穏やかな笑顔で包んだ言葉だったが、内側の意味は奈々美自身にはわかっていた。

 

 それが正しいことだとは思っていない。

 

 でも、止められなかった。

 

 (変わろうとしてる)

 

「変わろうとしてる」という言葉が、自分の中で、だんだん空虚になっていく気がした。

 

 変わろうとしていても、こういうことをする。

 

 変わろうとしていても、元樹の行動を把握しようとする。

 

 変わろうとしていても、怖くなったら動いてしまう。

 

「変わろうとしてる」という言葉は本当だった。

 

 でも、「変わっている」という言葉は、嘘になっていく気がした。

 

 奈々美は膝を抱えたまま、目を閉じた。

 

 元樹の顔が浮かんだ。

 

「信じてる」と言ってくれた時の顔。

 

 あれが嬉しかった。

 

 でも同時に、「信じきれていない」という顔でもあるとわかっていた。

 

 元樹には全部見えている。

 

 それが怖かった。

 

 それでも、隣にいたかった。

 

 窓から夜風がまた吹いた。

 

 奈々美はしばらく、暗い部屋の中に一人でいた。

 

 

 

 翌朝。

 

 俺は少し早く目が覚めた。

 

 七時前だった。

 

 外はもう明るかった。七月の朝は早い。蝉がもう鳴いていた。

 

 俺は布団の中で天井を見ていた。

 

 今週中に、奈々美にちゃんと話す。そう決めた。

 

 でも、何をどう言えばいいか、まだ整理できていなかった。

 

 行動を把握しすぎてること。あかりへの接触。おかしいと感じていること。

 

 奈々美はたぶん、笑顔で「そんなことない」と言うだろう。でも、玲が言った。「認めなくていい。言うことが大事だと思う」。

 

 そうだとしたら、俺は何のために言うのか。

 

 奈々美に認めさせるためじゃない。

 

 俺が、ちゃんと向き合うために。

 

 光明が言った。「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」。

 

 宙ぶらりんにしたくない。

 

 誰のことも。

 

 俺は布団を抜け出した。

 

 窓を開けた。

 

 七月の朝の空気が入ってきた。蒸し暑かったが、風がわずかにあった。

 

 空は白く晴れていた。

 

 夏休みまで、あと十日くらいだった。

 

 

 

 その日の放課後。

 

 委員会もなく、珍しく早く帰れる日だった。

 

 鞄を持って廊下に出ると、奈々美が待っていた。

 

「今日、早く帰れるの?」

 

「うん」

 

「じゃあ一緒に」

 

 二人で昇降口に向かった。廊下に人が多い時間帯だった。

 

 昇降口を出たところで、俺は言った。

 

「奈々美」

 

「うん」

 

「少し話せるか。帰る途中で」

 

 奈々美が俺を見た。

 

 何かを察したような顔だった。一瞬だけ、何かが表情の奥で動いた気がした。でも、すぐに元の穏やかな顔に戻った。

 

「……うん、いいよ」

 

 二人で歩き始めた。

 

 放課後の住宅街は、七月の光が強くて、影が短かった。

 

 俺は少しの間、歩きながら言葉を選んだ。

 

「最近、おかしいと感じてることがある」

 

「おかしい?」

 

「俺の行動を、知りすぎてる気がすることが続いてる」

 

 奈々美は黙って歩いていた。

 

「今週の朝、コンビニの前に来てたこと。俺が「早い日」を知ってたこと。昼に食堂で何を食べてたか、気づかなかったのに知ってたこと」

 

「それは……」

 

「それ以外も」

 

 俺は続けた。

 

「星野さんに話しかけたこと。あの子、顔が青かった。廊下でよく声をかけてるのも、なんとなくわかってる」

 

「……大したことは話してない」

 

「それが本当かどうか、確かめようがない」

 

 奈々美が少しだけ足を遅くした。

 

「俺が言いたいのは、責めたいわけじゃない。でも……おかしいと感じてることを、言わないままにしたくない」

 

 少しの間があった。

 

 風が吹いた。七月の湿った風だった。

 

「……元樹くん」

 

「うん」

 

「私が、また昔みたいなことをしてると思ってる?」

 

「わからない。でも、そう感じることが増えてる、というのは正直に言う」

 

 奈々美が止まった。

 

 俺も止まった。

 

 住宅街の静かな路地だった。遠くで子どもの声がした。

 

 奈々美は下を向いていた。

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

「……怖かった」

 

 小さな声だった。

 

「玲が全部思い出したって、わかった時から。また怖くなった。信じる練習をしてたのに、また……」

 

「奈々美」

 

「止められなかった。元樹くんの行動を、確認しないといられなかった。星野さんに話しかけたのも……わかってる、良くないって。でも」

 

 奈々美が顔を上げた。

 

 その目が、俺を見た。

 

 いつもの「完璧な表情」じゃなかった。笑顔の形でもなかった。ただ、そのままの顔で、俺を見ていた。

 

「止められなかった」

 

 その言葉に、嘘がなかった。

 

「……わかった」

 

 俺は言った。

 

「奈々美が怖かったのは、わかる。でも……星野さんを怖がらせるのは、やめてほしい」

 

「……うん」

 

「俺にとって気になる人だから、関係を断たせようとするのは……俺は、それを好きだとは思えない」

 

 奈々美が静かに頷いた。

 

 俺はその顔を見た。

 

 正直に話してくれたことは、わかった。止められなかった、という言葉も、たぶん本当だと思った。

 

 でも同時に、これがどこまでなのかも、まだわからなかった。

 

「奈々美、一つだけ聞いていいか」

 

「うん」

 

「変わろうとしてるのは、本当だと思ってる。でも……変わってる途中に、こういうことが起きた時、自分でどうしようと思う?」

 

 奈々美はしばらく考えた。

 

「池田先生に話す」

 

「それだけか」

 

「……元樹くんに話す。こういうふうに」

 

「こういうふうに」

 

「怖くなった時、また確認したくなった時、自分でどうにかしようとするんじゃなくて……誰かに話す。それしかないと思う」

 

 俺は少しの間、奈々美を見ていた。

 

「俺に話してくれていい」

 

「……元樹くん、怒らない?」

 

「怒らない。でも、止めてほしいと思う時はちゃんと言う」

 

「うん」

 

「その代わり、奈々美も止めようとする時、一人で抱えないで言ってくれ」

 

「……うん」

 

 奈々美の声が少し小さかった。

 

 路地の向こうから、夕方の踏切の音が聞こえた。

 

 俺は少しの間、奈々美の顔を見ていた。

 

 これで全部解決したわけじゃない。奈々美の「止められなかった」は、今回だけじゃないはずだ。また同じことが起きるかもしれない。

 

 でも、今日、ちゃんと話した。

 

 それは、一昨日より一歩前に進んだと思った。

 

「帰ろうか」

 

「うん」

 

 二人で歩き始めた。

 

 夕方の光が、路地の奥に差していた。

 

 

 

 その週の金曜日。

 

 夏休みまで、あと一週間を切っていた。

 

 終業式の日程が貼り出されて、学校全体がふんわりとした「もうすぐ終わる」という空気に包まれていた。

 

 俺は昼休みに、廊下でエマとすれ違った。

 

 エマが少し立ち止まった。

 

「渡部くん」

 

「ああ」

 

 エマとは直接話したことが少なかった。玲経由で存在は知っていたが、一対一でちゃんと話すのは珍しかった。

 

「少しだけいい?」

 

「どうぞ」

 

「あかりちゃんのことで。あかりちゃんは直接話せないと思うから、私から伝えてもいいって許可をもらった」

 

 俺は頷いた。

 

「あかりちゃん、渡部くんのことを気にしてた。それで、廊下とか帰り道とかで……ちょっとだけ、距離が近すぎることをしてしまってた」

 

 エマがまっすぐに言った。

 

「もう止まってる。ちゃんと自分でわかって、私に話してくれた。だから今は大丈夫。ただ……渡部くんには伝えた方がいいと思って」

 

「そうか」

 

「あかりちゃんは、自分でそれがおかしいってわかってた。でも止められなかったって言ってた。今は止まってる」

 

「うん、わかった」

 

「それと」

 

 エマが少し声を落とした。

 

「奈々美さんのことも。あかりちゃんへの接触が続いてること、渡部くんは知ってる?」

 

「把握してる」

 

「奈々美さんに話した?」

 

「した。一昨日」

 

 エマが少し間を置いた。

 

「……そっか」

 

「奈々美は正直に話してくれた。止められなかった、って。あかりを怖がらせるのはやめてほしいとも言った」

 

「奈々美さんが……正直に」

 

「意外か」

 

「少し。でも」

 

 エマが少し考える顔をした。

 

「一回正直に話したから、次もそうとは限らない。私はそう思ってる」

 

「それは俺もわかってる」

 

「渡部くんが奈々美さんと向き合う気があるなら、それは邪魔しない。でもあかりちゃんのことは……引き続き気をつけてほしい」

 

「わかった。ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 エマが歩いていった。

 

 俺はしばらくその場に立っていた。

 

 あかりのことが、少し引っかかった。

 

 止められなかった、という言葉。

 

 エマが言った言葉と、奈々美が言った言葉が、頭の中で重なった。

 

 二人とも「止められなかった」と言った。

 

 その言葉の意味が、全然違う重さを持っていた。

 

 でも、止められなかった、という気持ちが何かを動かす、ということは、俺には少しわかる気がした。

 

 俺自身も、奈々美に何も言えない日が続いた。おかしいと感じながら、言えない日々があった。それも、ある意味「止められなかった」ことだったかもしれない。

 

 廊下を人が流れていった。

 

 夏休みまで、もう少しだった。

 

 

 

 終業式の二日前。

 

 夕方。

 

 奈々美との帰り道。

 

「夏休み、何日かは桜ヶ丘にいるよ」

 

 奈々美が言った。

 

「そうか」

 

「でも、会いに来てほしい」

 

「行けると思う」

 

「去年みたいに、ちゃんと誘ってくれる?」

 

「去年みたいにってのは、どういう意味だ」

 

「去年の八月、元樹くんが自分から来てくれたじゃない。夏祭りにも誘ってくれて」

 

「そうだったな」

 

「嬉しかった。だから、また」

 

「……わかった」

 

 奈々美が少し笑った。

 

 住宅街の夕方の道を、二人で歩いた。

 

 俺は、この一週間のことを頭の中でなぞっていた。

 

 奈々美に話した。奈々美は正直に言ってくれた。「止められなかった」と。エマからあかりのことを聞いた。玲とも少し話した。

 

 全部がきれいに解決したわけじゃない。

 

 奈々美が「また同じことをしない」保証はない。あかりが完全に立ち直ったわけでもない。玲との「ちゃんとした話し合い」も、まだ終わっていない。

 

 でも、何かが少し動いた気がした。

 

 宙ぶらりんのまま放っておくんじゃなくて、少しずつ向き合っていくことができた気がした。

 

「元樹くん」

 

「ん」

 

「夏休みに、一つ約束してほしいことがある」

 

「何」

 

「難しいことじゃないよ」

 

 奈々美が俺を見た。

 

「何かあった時、また話して。怖いと思ったことでも、おかしいと思ったことでも。一昨日みたいに」

 

 俺は少しの間、奈々美の顔を見た。

 

 その顔は、いつもの完璧な笑顔じゃなかった。ただ真剣に、俺を見ていた。

 

「……ああ、約束する」

 

「ありがとう」

 

 奈々美が少し前を向いた。

 

 二人の足音が、夕方の道に響いた。

 

 空がオレンジに染まっていた。

 

 雲の縁が、金色に光っていた。

 

 夏休みが、すぐそこにあった。

 

 何かが始まる予感と、何かが終わる予感が、混ざったまま、俺の中にあった。

 

 どちらが来るのか、まだわからなかった。

 

 ただ、前を向いて歩いた。

 

 奈々美が隣にいた。

 

 夏が、来ようとしていた。

 

 

 

 夜。

 

 自室。

 

 奈々美は窓の外を見ていた。

 

 黒い空に、星がいくつか出ていた。

 

 元樹と話した一昨日のことを、奈々美はまだ頭の中でなぞっていた。

 

 元樹が、ちゃんと話してきた。

 

 怖いと思ったこと。星野さんへの接触。把握しすぎてること。

 

 全部、見えていた。

 

 奈々美は思った。元樹には、全部見える。隠そうとしても、気づく。笑顔でごまかしても、何かを感じ取る。

 

 それが怖かった。

 

 同時に、嬉しかった。

 

 自分のことを、ちゃんと見ている人がいる。

 

「また話して」と奈々美は言った。それは本当だった。一昨日のあの会話が、怖かったけど、終わった後に少し楽になった気がした。隠さなくていい時間が、少しだけあった気がした。

 

 でも。

 

 夏休みが来たら、玲と元樹が話す機会が増えるかもしれない。

 

 そのことが、また、静かに奈々美の中で動いていた。

 

「信じる練習をしてる」

 

 あの言葉は本当だった。

 

 でも、練習中にも、怖いものは怖い。

 

 奈々美は目を閉じた。

 

 夏が来る。

 

 何かが変わる。

 

 変えたい、と思う。

 

 でも、止められないかもしれない、とも思う。

 

 その二つが、奈々美の中でずっと同居していた。

 

 変わりたい。

 

 でも、元樹くんを、誰かに渡したくない。

 

 その二つは、どちらも本当だった。

 

 窓の外の星が、ゆっくりと光っていた。


 止められなかった、という言葉を、この頃よく聞く。

 

 あの子も、そう言っていたらしい。

 

 不思議だと思う。


 止めたいと思っていても、止められないことがある。おかしいとわかっていても、足が動く。それを「同じ」と呼んでいいのかどうか、私にはまだわからない。


 でも、元樹くんには全部見えている。


 怖いと思った。それから、少しだけ、ほっとした。


 見えているなら、隠さなくていい。


 そう思ったのは、初めてだったかもしれない。


 夏が来る。


 夏は、いろんなものを変える。


 去年もそうだった。


 だから、少しだけ怖い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ