第39話 「同じ衝動」
七月に入った。
梅雨の合間の晴れが続いていて、空気が重く湿っていた。朝から蝉が鳴いていて、六月の終わりにはまだなかったその声が、確実に季節が変わったことを告げていた。
夏休みまで、あと三週間ない。
教室はまた普通になっていた。劇の衣装はもう片付けられて、龍宮城のセットも解体されて、ゴミとして出ていった。文化祭の期間だけそこにあった特別な空気は、もう跡形もなかった。
授業が戻ってきた。テストの日程が張り出された。委員会の業務が再開した。
俺は教科書のページをめくりながら、窓の外の空を見た。
七月の空は、白みがかった水色だった。
「委員長、今日の議事録、確認してくれる?」
昼休みの廊下で、中尾が声をかけてきた。文化祭の脚本を書いていた中尾が、なぜか文化祭後も俺に気軽に話しかけてくるようになっていた。
「後で見る。机に置いといて」
「了解。あと、七月の学年行事の日程、先生からもらった?」
「まだ」
「もらっといた方がいいよ。今週中に貼り出すらしいから」
「わかった」
中尾が行ってしまってから、俺はため息をついた。
委員の仕事は文化祭が終わっても終わらない。むしろ七月は行事の後処理と夏休み前の諸々が重なって、細かい判断を求められる場面が増えていた。
「大変そうだな」
光明が後ろから言った。
「見て見ぬふりしてたくせに」
「中尾を捕まえるより、お前の方が早かったからな」
「結果は同じじゃないか」
光明が笑いながら俺の隣に並んだ。
「今日の昼、どうする。食堂か」
「食堂でいい」
二人で歩き始めた。廊下の向こうから、航が「元樹! 待ってくれー!」と走ってきた。走ってくる割に、急ぎの用があるわけじゃなかった。ただ一緒に昼飯を食いたかっただけらしい。
文化祭が終わってから、クラスの空気は少しだけ変わった。何かを一緒に作り上げた感じというか、お互いの距離が少し縮まった感じがあった。俺はもともとクラスで目立つ存在じゃなかったけど、委員として劇を仕切ったことで、名前を覚えてくれた人が増えた気がした。
悪い気はしなかった。
でも、今の俺の頭の中はもっと別のことがあって、そちらの方がずっと占領していた。
食堂に着いて、トレイに飯を乗せて席に着いた。航が「今日の肉野菜炒め最高」と言いながら箸を持った。光明は黙って定食を食べ始めた。
俺は飯を食いながら、スマホを確認した。
奈々美からのメッセージが来ていた。
今日の昼、何食べてる?
昼休みに入ってから五分だった。俺がどこにいるかを知っているかのようなタイミングだった。
食堂にいる
返すと、すぐに来た。
今日の肉野菜炒め、美味しそうだったよ。私も食べた。
俺はその文章を見て、少し止まった。
今日の肉野菜炒め。
俺が今日食べていることを、奈々美はなぜ知っているんだろう。食堂のメニューは毎日変わる。「美味しそうだった」という過去形は、奈々美も食堂に来ていたということになる。でも、奈々美は同じクラスだ。昼休みに食堂に来ていたなら、気づいても良かった。
俺は周囲を見渡した。
奈々美の姿は、今はない。
(どこにいるんだ)
自問してから、俺は自分が少し変な考え方をしていると気づいた。奈々美が昼休みに食堂に来て、同じものを食べていた。それだけのことだ。
でも、気づかなかった。
最近、そういうことが続いている。奈々美がどこかにいたはずなのに、俺が気づかない。そして後から「近くにいた」「見かけた」という連絡が来る。
俺は箸を動かしながら、スマホを伏せた。
「元樹、なんかまずかったか」
光明が言った。
「いや」
「また変な顔してる」
「してない」
「してる。奈々美から連絡来たのか」
「……ちょっと」
光明が少しの間、俺を見た。それから「まあいいや」と言って飯を食い続けた。
航は肉野菜炒めを半分食べ終えていて、何も気づいていない様子だった。
俺は残った飯を、あまり味がわからないまま食べた。
午後の授業が終わって、放課後になった。
今日は委員会の集まりがない。珍しく早く帰れる。
俺は鞄に教科書を詰めながら、奈々美の席を見た。
奈々美は鞄の中を整えていた。こちらに視線を向けると、小さく微笑んだ。
「今日、帰れる?」
「ああ」
「じゃあ一緒に」
奈々美が立ち上がった。
廊下に出ると、夕方の日差しが窓から入ってきていた。七月の光は橙というよりも白くて、眩しかった。
二人で昇降口へ向かった。
奈々美は俺の左を歩いていた。いつも左だ。一度だけ右に来たことがあったけど、ほんの数歩で「やっぱり左がいい」と言って戻ってきた。理由は聞かなかった。
「ねえ、元樹くん」
「うん」
「昨日の夜のメッセージ、返事遅かった」
俺はそれを少し考えた。昨日の夜、奈々美から来たメッセージに返信したのは、二十二時を過ぎた頃だった。
「ごめん、眠くて」
「わかってる。責めてるわけじゃなくて」
奈々美が少し間を置いた。
「ただ……返事が来るまでの間が、少し長く感じた」
「そうか」
「少しね」
声は穏やかだった。怒っているわけじゃない。ただ、「少し長く感じた」という言葉が、俺の中でひっかかった。
(昨日、返事が来るまで何をしてたんだろう)
問いかけてから、俺は自分の思考に気づいた。
奈々美が待っていたのは当然のことだ。連絡をくれた相手が返事を待つのは普通のことだ。でも、俺の中に「待つ間、何をしていたか」を知りたいという気持ちが生まれた理由は、奈々美が「待っている」ということの重さを、俺がどこかで感じているからだった。
一時間。二時間。
奈々美が俺のメッセージを待って、何かをしながら、でも返事が来るのを確認し続けていたかもしれない。
そう思うと、胸に何かが落ちた。それが申し訳なさなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。
「今日は早く帰れそうだな」
話を変えた。
「うん。ゆっくり帰ろう」
奈々美が俺の腕に少しだけ触れた。
七月の夕方の空気の中で、二人で歩いた。
星野あかりは、その日も同じ場所から見ていた。
教室の廊下側、窓から少し離れた壁。授業終わりの生徒たちが流れていく中で、あかりはそこに立って、遠くを見るふりをしていた。
視線の先は、廊下の奥。
渡部元樹が、柊奈々美と並んで歩いていくのが見えた。
二人の肩が、ほんの少しだけ近い。奈々美の手が、元樹の腕のそばにある。
あかりは息をゆっくり吸った。
(また見てる)
自分でも、わかっていた。
文化祭が終わってから、こうして元樹の帰る姿を見ることが習慣になっていた。最初は偶然だった。文化祭の翌日、廊下を歩いていて、たまたま元樹とすれ違った。「昨日、劇見に来てただろ」と声をかけてくれた。それだけのことだった。
でも、あの時の声が、あかりの中で何かを動かした。
自分から声をかけることはできない。でも、見ることならできる。廊下の端で、遠くから、気づかれないように。
それがいつの間にか、毎日になっていた。
元樹がどの時間に廊下を通るか、あかりはなんとなく把握していた。委員会がある日は遅く、ない日は早い。光明と帰る日と、奈々美と帰る日がある。
そういうことが、頭に入っていた。
(おかしい)
あかりは思った。
奈々美さんと同じことをしている。
その考えが浮かんだ瞬間、背筋がひやりとした。エマが言っていた。奈々美という人は「普通じゃない」と。目が笑っていない、と。あかり自身も体感した。あの文化祭での、光のない目。
でも今、自分が元樹に対してやっていることは……。
あかりは壁から離れた。
廊下の奥で、元樹と奈々美の姿が消えた。
次の日。
あかりは自分に言い聞かせていた。
もうやめる。廊下で待つのも、スマホに元樹の名前を検索するのも(彼が文化祭委員として名前を出していた学校のお知らせを、あかりは何度も見ていた)、全部やめる。
そう決めた。
昼休みが終わって、午後の授業が始まる前の廊下を歩いていた。自分の教室に戻るだけだった。
その時、向かいの廊下から元樹が歩いてくるのが見えた。
光明と一緒で、何か話しながら笑っていた。
あかりは思わず足を止めた。
元樹の笑い方を、あかりは好きだった。全力で笑うわけじゃない。少し困ったような、でも本当に可笑しいと思っている時に出てくる、控えめな笑い。文化祭の劇でも、航の亀のアドリブに受けた時、そういう笑い方をしていた。
元樹が廊下の向こうへ消えていった。
あかりは動けないまま、その方向を見ていた。
やめると決めたはずだった。
(どうして)
自分の足が、少しだけその方向に動きかけたことに、あかりは気づいた。
気づいて、止まった。
壁に背をつけて、目を閉じた。
心臓が、少し速かった。
放課後。
あかりは校舎を出た。
今日こそ真っ直ぐ帰ろうと思っていた。エマにも「早く帰るね」とメッセージを送っていた。
昇降口を出て、正面の道を歩いた。
そこで、前方に元樹の姿が見えた。
今日は一人だった。奈々美がいなかった。
あかりの足が、自然に遅くなった。
距離は二十メートルほど。
元樹が歩いていく。住宅街の細い道を、鞄を肩にかけて、少しうつむきながら。
(ただ、同じ方向に帰るだけ)
あかりは心の中で言った。
別に追いかけているわけじゃない。家の方向が同じなだけだ。たまたま同じ道を帰っているだけだ。
でも、元樹が右に曲がったら、あかりも右に曲がった。
元樹が細い路地に入ったら、あかりもそこに入った。
自分の帰り道とは、少し違う方向だった。
気づいた時には、元樹の背中から十五メートルほどの距離になっていた。
(私、なにしてるんだろう)
あかりは思った。
でも、足が止まらなかった。
元樹の鞄が、歩くたびに少し揺れていた。それを見ながら、あかりは歩いていた。
夏の夕方の匂いがした。どこかで草が刈られたような、青い匂い。
元樹が立ち止まった。
コンビニの前だった。
あかりも反射的に立ち止まった。
電柱の影に半分入った状態で、息をひそめた。
元樹がコンビニに入っていった。
あかりは電柱の陰に立ったまま、自分が今何をしているかを、ゆっくりと理解した。
(追いかけてた)
声に出なかった。出せなかった。
エマが言っていた言葉が浮かんだ。「絶対に一人で動かないで」。
あかりは電柱から離れて、来た道を早歩きで戻った。
胸が、ばくばくしていた。
恥ずかしいとか、怖いとか、そういう感情が全部混ざって、うまく呼吸ができなかった。
「あかりちゃん」
翌日の朝、エマがあかりを見つけた時、あかりの顔色は悪かった。
目の下に、少し影がある。眠れていないような顔だった。
「昨日、早く帰るって言ってたのに連絡来なかった。心配した」
「……ごめんなさい」
あかりが小さな声で言った。
階段の踊り場に移動した。いつもの場所だった。
「何かあった?」
エマは真っ直ぐに聞いた。
あかりは少し迷うような顔をして、それから下を向いた。
「……エマさんに、言わないといけないことがある」
「言って」
「怒らないでほしいんですけど」
「怒らない。でも正直に言って」
あかりが息を吸った。
「昨日の放課後……先輩の後を、追いかけた」
エマは黙って聞いていた。
「追いかけたっていうか……同じ方向に歩いてたら、気づいたら……コンビニまで追いかけてた」
「……どのくらいの距離を?」
「学校から……たぶん、十分くらい」
エマは少しの間、何も言わなかった。
あかりは下を向いたまま、震えているような気がした。
「あかりちゃん、正直に言ってくれてありがとう」
「怒ってる……?」
「怒ってない。でも、聞いていい?」
「……はい」
「昨日だけじゃないよね」
あかりが、少し固まった。
「廊下で渡部くんを待ってたこと、他にもある?」
あかりはゆっくりと頷いた。
「……何日か」
「何日か」
「文化祭の後から……ずっと」
エマが静かに息を吐いた。
「あかりちゃん」
「わかってる……おかしいのは、わかってる」
あかりの声が少し震えた。
「でも……止められなかった。止めようとするたびに、また見たいと思って……廊下に行ったら、たまたまいて……それがどんどん当たり前になってて……」
「うん」
「自分でも、どこかでおかしいと思ってた。でも、どこかで「見るだけだから」って思ってて。声をかけるわけじゃないし、傷つけるわけじゃないし。でも昨日、追いかけてる途中で……奈々美さんのことを思った」
「奈々美さんの?」
「奈々美さんも、こういうことをしてるのかなって。先輩のことを、こっそり見て、追いかけて。だとしたら、私は奈々美さんと同じことをしてる、って」
エマは少し眉を寄せた。
「それに気づいた時、すごく怖くなった。怖くて、逃げて帰った」
あかりが顔を上げた。目が少し赤かった。
「どうしたらいいか、わからない。好きな気持ちは本当で……でも、こんなことしちゃいけないのも本当で。でも、止められなかった自分が……嫌で」
エマはしばらく黙った。
それから、真っ直ぐにあかりを見た。
「あかりちゃん、よく言ってくれたね」
「……え」
「気づいた時に止まれたこと。ちゃんと怖いと感じたこと。それは、大事なことだよ」
「でも、昨日は止まれなかった」
「昨日は止まれなかった。でも、ちゃんと怖いと思えた。それが今日、私に話してくれることに繋がった」
あかりが少し黙った。
「奈々美さんと同じって言ったけど、一つだけ違うと思う」
「……何が」
「あかりちゃんは、自分がおかしいと気づいてる。怖いと感じてる。そこが違う」
あかりは少し考えた。
「でも、気づいてても止められなかった」
「そう。だから、一人で止めようとしなくていい。私に言ってくれたから、一緒に考えられる」
エマがはっきりと言った。
「今日から、放課後は必ず一緒に帰ろう。廊下を歩く時も、できるだけ私と一緒にいて」
「……エマさんの迷惑になる」
「ならない。あかりちゃんが大事だから」
あかりが目を伏せた。
「エマさん」
「うん」
「私……先輩のことがやっぱり好きなんだと思う。でも、もう諦めた方がいいのもわかってる。彼女がいるし、奈々美さんのことも怖いし。でも、それでも止められなくて」
「好きなのに諦めるって、難しいよね」
「難しい」
「全部を一度に解決しなくていいよ。好きな気持ちはすぐには消えない。でも、行動は変えられる。まず行動を変えることから」
「行動を……」
「廊下で待つのをやめること。帰り道で後を追わないこと。それだけでいい。気持ちを無理に消さなくていい」
あかりがゆっくりと頷いた。
「……わかった」
「約束して」
「約束する」
エマが少し表情を和らげた。
「話してくれてよかった。本当に」
あかりが小さく「ありがとう」と言った。
踊り場の窓から、七月の空が見えた。白い雲が一つ、ゆっくりと流れていった。
その頃、俺は光明と屋上にいた。
昼休みに、光明から「少し話せるか」と言われた。
屋上のベンチに並んで座った。空は蒸し暑かった。遠くに入道雲が見えた。
「奈々美のこと、また何かあったか」
光明が先に言った。
「なんで」
「なんとなく。ここ最近の顔見てると、また何かあるな、って」
俺は少しの間、考えた。
「……いくつかある」
「話せるか」
「話す」
俺は昨日の昼休みのことを話した。奈々美が食堂に来ていたのに気づかなかったこと。でも「肉野菜炒め、美味しそうだったよ」と後からメッセージが来たこと。
「見てたのか、ってことか」
「わからない。食堂に来てたなら、気づいても良かった。でも気づかなかった」
「それ以外は」
「登校路。待ってる場所がまた少し変わった。今日は、商店街の入口まで来てた」
「商店街の入口って……かなり手前じゃないか」
「俺の家から学校まで、いくつか道があるんだけど……商店街を通る道は全部、商店街の入口を通ることになる。そこで待ってたら、どの道を通っても必ず会える」
光明が少し黙った。
「それを考えた上で、そこにいたのかもしれないってことか」
「わからない。でも、それ以外に説明がつかない気がして」
「奈々美に聞いたのか」
「聞いた。「早く出た」って言った。理由は何も言わなかった」
光明が遠くを見た。
入道雲が、少しずつ大きくなっていた。
「元樹、一回ちゃんと奈々美に言わないといけないんじゃないか」
「……言うって、何を」
「感じてることを。わからないことを。疑問に思ってることを」
「それを言ったら、奈々美が傷つくかもしれない」
「傷つけるのが嫌で言えないのはわかる」
光明が俺の方を向いた。
「でも、元樹が何も言わないまま違和感を積み重ねていっても、それは奈々美にも元樹にも良くないと思う」
「……そうだな」
「今すぐじゃなくていい。でも、言わないままにするのが一番ダメだよ、たぶん」
俺は屋上の手すりを見つめた。
「奈々美は変わろうとしてる。それは俺も感じてる。でも……変わろうとしてても、こういうことが続くと、俺には何がどこまで変わってるのか、わからない」
「正直に言えばそのまま言えばいい」
「それを言って、奈々美が傷ついたら」
「傷ついてもいい、というか……傷ついても、ちゃんと話し合える関係じゃないとだめだろ」
光明の言葉は、さらっとしていた。
でも、それが刺さった。
俺は少しの間、黙っていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
光明が立ち上がった。
「授業始まるぞ」
「ああ」
俺も立ち上がった。
入道雲が、また少し大きくなっていた。
それから二日後。
異変が起きた。
放課後、帰り支度をしていた時だった。
奈々美の席が、空だった。
いつもなら、放課後になるとすぐに鞄を持って待っているのに。今日は席にいない。
俺は少し周りを見渡したが、奈々美の姿がなかった。
「奈々美、どこ行ったか知ってる?」
近くにいた同じクラスの女子に聞いた。
「さっき、廊下の方に行ってたと思いますけど」
「廊下か」
鞄を持って廊下に出た。
廊下は生徒たちが行き来していた。その中に、奈々美の姿を探した。
いなかった。
階段を下りた。昇降口の前を確認した。いない。
スマホを出した。
「今どこ?」と打った。
返信は来なかった。
俺は昇降口の前で少し待った。
三分経っても来なかった。
奈々美から連絡が来るまでの間が長いことは、ほとんどない。特に放課後の時間帯は、すぐに返ってくることが多かった。
(どこにいるんだ)
不安、と言えばいいのか。それとも、別の何かだったのか。
もう一度廊下を見渡した時だった。
向かい側の廊下の端に、奈々美が立っているのが見えた。
一年生のエリアの方だった。
奈々美は誰かと話していた。
小柄な女子だった。
俺は少し目を凝らした。
星野あかりだった。
あかりは帰る途中だった。
エマと約束した通り、今日は早く帰るつもりだった。エマとは「昇降口で合流しよう」という話になっていたが、エマのクラスが今日は少し片付けに時間がかかっているらしく、「もう少し待ってて」とメッセージが来ていた。
あかりは昇降口の手前の廊下で待っていた。
壁に背をもたせかけて、スマホを見ていた。
「星野さん」
声がした。
顔を上げると、奈々美が立っていた。
制服のまま、鞄を持っていた。笑顔だった。いつもの、穏やかな笑顔。
あかりの心臓が、一瞬で止まりそうになった。
「ちょっとだけいい?」
奈々美の声は優しかった。
あかりは、動けなかった。
「隣のクラスだから、そんなに話す機会なかったよね。せっかくだから少しだけ」
「少しだけ」という言葉が、前回と同じだと気づいた。文化祭の後に廊下で声をかけてきた時も「少しだけ」だった。
「……はい」
あかりは声を出すのが精一杯だった。
「元樹くんと、廊下でよく話してる?」
「……いいえ、そんなに」
「そっか。前に少し話してたから、気になって」
前に少し話してた。文化祭の翌日、「昨日、劇見に来てただろ」と声をかけてきた時のことだ。あかりには覚えがある。でも、奈々美はそれを知っている。
(どうして知ってる)
「仲良くなれると良いね。私、元樹くんの友達が仲良くしてくれると嬉しいから」
「……そう、ですか」
「うん。ただ」
奈々美が少し首を傾けた。
「元樹くんは、今ちょっと色々複雑なことがあって。あまり余計な心配をかけたくないから。そのあたり、わかってくれると嬉しいな」
「……元樹くん……余計な心配」
「うん。気を遣わせたくないから。気にしないでいてくれると助かる」
笑顔のまま、言った。
「元樹くん」という呼び方。「気を遣わせたくない」という言葉の裏に、全然違う意味がある気がした。「近づくな」と言っているように聞こえた。でも証拠はない。全部笑顔の後ろに隠れている。
その時、スマホが鳴った。
エマからだった。「今から行くね」。
「じゃあね、また」
奈々美が先に立ち去った。
あかりはその場で、しばらく動けなかった。
足が、震えていた気がした。
エマが来た時、あかりは廊下の壁に背中をつけたまま立っていた。
「あかりちゃん? どうしたの」
「……エマさん」
「顔が白い。なんかあった?」
「奈々美さんに……また、話しかけられた」
エマの顔が変わった。
「ここで?」
「うん。さっき。一人で待ってたら来て」
「何を言ってきた」
あかりは、奈々美に言われたことをそのまま伝えた。「渡部くんと廊下でよく話してる?」「余計な心配をかけたくない」という言葉も。
エマは静かに聞いていた。聞き終わって、少しの間、廊下の先を見ていた。
「あかりちゃん、今日のことは私に教えてくれてよかった。ありがとう」
「……うん」
「奈々美さんが来た時間を考えると……一人で待ってたことを、知ってたのかもしれない」
「知ってた……?」
「あかりちゃんが昇降口の前で待ってることを。偶然じゃなくて、知っていて来た可能性がある」
あかりは、ぞくっとした。
「どうして知ってるの」
「わからない。でも……奈々美さんは情報を集める人だと思う。あかりちゃんのことを、ずっと意識してる」
「私のこと……なんで」
「あかりちゃんが渡部くんを見てることを、あの人は知ってる。文化祭の時から」
エマが静かに言った。
「だから、こうして時々接触してくる。直接的な脅しじゃない。ただ笑顔で話しかけてくるだけ。でも、その度に「私はあなたのことを見てる」というメッセージを送ってくる」
「……怖い」
「うん、怖い」
エマが正面からそう認めた。
「だから一人で動かないで、って言ってたんだけど……今日は私が遅れた。ごめん」
「エマさんのせいじゃない」
「でも、私がそこにいれば良かった」
エマがあかりの隣に立った。
「今日から、校内にいる時は私に連絡して。昇降口で待つ時も、教室を出る前に一言送って」
「……そこまでしてもらうのは」
「あかりちゃん」
エマが真剣な顔で言った。
「奈々美さんのことは、軽く考えない方がいい。あの人は、やさしい言葉で人を縛る人だと思ってる。証拠はないけど、感じる。だからあかりちゃんを一人にしたくない」
あかりは少しの間、エマを見ていた。
「……わかった」
「ありがとう。じゃあ、今日は帰ろう」
エマがあかりの隣を歩き始めた。
昇降口を出ると、七月の夕日が正面から差してきた。
眩しくて、あかりは少し目を細めた。
今日、廊下で奈々美に話しかけられた時の笑顔が、まだ目の裏に残っていた。
その夜。
俺は自室で、奈々美からのメッセージを見ていた。
帰り道に落ち合った時、奈々美は何も言わなかった。普通に並んで歩いて、普通に「おやすみ」と別れた。
あかりと話していたことを、俺に言わなかった。
俺も聞かなかった。
聞けなかった。廊下の遠くから見えたあの場面が、頭に残っていた。奈々美があかりと話していた。二人の距離、奈々美の立ち方、あかりが少し固まって見えたこと。
あれは普通の会話じゃなかった気がした。
でも、確かめる言葉が、出なかった。
今日の夕飯、なに食べた?
奈々美からメッセージが来ていた。
肉豆腐
返すと、すぐ来た。
美味しそう。元樹くんのお母さん、料理上手だよね。
いつも通りの会話だった。
俺はスマホを持ったまま、天井を見た。
あかりのことを、奈々美に聞くべきか。
聞いたら何と返ってくるか、なんとなく想像できた。「たまたま廊下で話した」「大したことじゃない」。それで終わる。奈々美はいつもそうだ。答えはあるのに、答えにならない答えが返ってくる。
でも聞かないままにしたら、また引っかかりが積み重なる。
光明の言葉が浮かんだ。「ちゃんと話し合える関係じゃないとだめだろ」。
俺は少しの間考えてから、打った。
今日の放課後、あかりと話してたよな
少し間があった。
うん。廊下でたまたま会って、少しだけ
「たまたま」。「少しだけ」。
予想通りの言葉だった。
何を話したの?
文化祭の話とか。大したことじゃないよ
大したことじゃない。
俺はその文字を見つめた。
廊下でのあかりの様子が、頭にある。少し固まっているように見えた。「大したことじゃない会話」をしている時の体の硬さじゃなかった。
俺は打つのをやめた。
これ以上聞いても、返ってくる言葉は想像できた。
スマホを伏せた。
部屋が静かだった。
光明が言った。「一番ダメなのは、宙ぶらりんにすること」。
わかっている。
でも、何をどう動かせばいいのか、まだわからなかった。
夜の虫の声が、窓の外から聞こえてきた。
翌日から、奈々美の登校路の待ち位置が、また変わった。
今度は、俺の家の最寄りのコンビニの前だった。
朝七時半。俺が家を出るのはいつも七時四十分前後だが、その日は少し早く出た。
コンビニの前に奈々美がいた。
俺を見て、にこっと笑った。
「おはよう」
「おはよう……今日も早いな」
「元樹くんが早い日に合わせた」
さらっと言った。
(俺が早い日)
どうして俺が早い日と遅い日があることを知っているんだろう。委員会のある日は少し早く登校する。でも、委員会の日程は外には出していない。
それとも、何日も試して覚えたのか。
俺は少しの間、奈々美を見た。
奈々美は笑顔のままだった。
「行こうか」
「ああ」
並んで歩き始めた。
奈々美の足が、俺のペースにぴったりと合っていた。
朝の空気は、蒸し暑かった。梅雨明けがもうすぐのはずだった。
「ねえ、元樹くん」
「ん」
「夏休み、一緒にどこか行きたい」
「夏休み……そうだな」
「水族館、また行こうって約束したじゃない。五月に」
「そうだな。行こう」
「嬉しい」
奈々美が少しだけ速足になった。俺の隣に、ぴたっとついてくる。
その動作が自然すぎて、俺は何も言えなかった。
自然に見えるけど、自然じゃないものが、そこにある気がした。
でも、奈々美は笑顔だった。本当に嬉しそうに見える笑顔だった。
俺は前を向いて、歩き続けた。
その日の昼休みに、玲と廊下で会った。
偶然だった。今日は奈々美と食堂に行くつもりだったが、奈々美がトイレに寄ると言って、先に行ってるように言われた。俺が廊下を歩いていると、前から玲が来た。
「あ、元樹」
「玲。どこ行くんだ」
「購買。今日の昼は購買で済ませようと思って」
「そっか」
玲が俺の横に並んだ。
少し歩いた。
「顔色、どうかした」
玲が言った。
「そんな顔してるか」
「してる。眠れてないか、何か考えすぎてるか、どっちか」
「……両方かも」
「奈々美さんのこと?」
俺は少し黙った。
「玲に話すのは」
「あまり話したくないなら話さなくていい。ただ、顔が心配だったから聞いた」
玲の言い方はさらっとしていた。余計な感情を込めない言い方だった。
「……少し、また変だなって思うことが続いてる」
「変、って」
「監視、というか……俺の行動を知りすぎてる感じが、また出てきてる」
玲は少し黙った。
「それ、奈々美さんに言った?」
「少し聞いたけど……「大したことじゃない」で終わった」
「そっか」
「玲はどう思う」
聞いてから、少し後悔した。玲にこれを聞くのは、立場的に難しいかもしれない。
でも玲は、少し間を置いてから静かに言った。
「私が奈々美さんをどう思ってるかは、元樹も知ってると思う。怖い人だと思ってる。でも……元樹が自分でどうしたいかが、一番大事だと思う」
「うん」
「どうしたいんだ、元樹は」
俺は答えられなかった。
玲が少し笑った。正確には「苦笑い」に近い笑いだった。
「また「わからない」って顔してる」
「……ごめん」
「謝らなくていい。わからないなら、わからないでいい。でも」
玲が俺を見た。
「わからないまま、誰かが傷ついていくのは止めた方がいい」
「誰かが」
「あかりちゃんのこと、気にしてるでしょ」
俺は少し驚いた。
「どうして知ってる」
「エマちゃんから少し聞いた。昨日、廊下で奈々美さんに声をかけられたって」
「そうか」
「エマちゃんが心配してる。奈々美さんが、あかりちゃんに接触し続けてるって」
俺は黙った。
廊下であかりと話していた奈々美の姿が、また浮かんだ。
「元樹が知ってておかしいと思うなら、ちゃんと奈々美さんに言った方がいい」
「言って、奈々美がそれを認めるとは思えない」
「認めなくていい。言うことが大事だと思う。元樹がそれをおかしいと思ってる、ってことを、ちゃんと伝えること」
玲の声は、どこまでも静かだった。
「私は……奈々美さんのことが今も怖い。でも、元樹が奈々美さんと向き合う気があるなら、ちゃんと向き合った方がいいと思う。逃げるより」
「玲……」
「購買着いた」
玲が立ち止まった。購買の前だった。
「あとは自分で考えて。答えを急かすつもりはない」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
玲が購買に入っていった。
俺はその場で少し立っていた。
廊下に人が流れていった。賑やかな昼休みの声が、遠くから聞こえた。
夕方。
俺は放課後に教室に残って、委員会の書類を整理していた。光明も残っていた。授業の課題があるらしく、黙ってプリントをやっていた。
奈々美は今日、先に帰っていた。
教室が静かだった。
俺は書類をファイルに挟みながら、考えていた。
今日の朝、奈々美が俺の「早い日」を知っていた。コンビニの前まで来ていた。
あかりへの接触が、また続いた。
玲が言った。「言うことが大事だと思う」。
光明が言った。「ちゃんと話し合える関係じゃないとだめだろ」。
俺は何も言えていない。何も聞けていない。おかしいと思いながら、おかしいと言えないまま、また一日が過ぎた。
「光明」
「ん」
「奈々美に、ちゃんと聞こうと思う」
光明がプリントから顔を上げた。
「何を」
「いくつかのこと。行動を把握しすぎてること。あかりに接触したこと。それをおかしいと思ってること」
「聞けるか」
「……わからない。でも、やらないと」
光明が少しの間、俺を見た。
「いつ」
「今週中に」
「わかった」
光明はまたプリントに視線を戻した。
「応援してるぞ」
「ありがとう」
俺はファイルを閉じた。
窓の外が、オレンジに染まっていた。
夏が近かった。空気が重く、熱くて、どこかに爆発する前の静けさがあった。
夏休みまで、あと二週間ない。
翌々日。
エマは、廊下でエマにしか気づけないものを見ていた。
昼休みの廊下。二年生のエリアを歩いている奈々美の姿を、エマは少し離れたところから目で追っていた。
奈々美は誰かと話していた。
二年A組の教室の前だった。
元樹の教室だ。
話しかけられているのは、同じクラスの女子だった。航に詳しくないエマには名前がわからなかったが、元樹のクラスの生徒だということはわかった。
奈々美は笑顔で何かを話していた。話しかけられた女子も、笑って答えていた。傍目には、普通の会話に見えた。
でも、エマには違和感があった。
奈々美がその女子を選んで話しかけた理由。二年A組の前で、その子に話しかけた理由。
その子は、元樹と仲が良さそうだった。文化祭の時も、準備をしている元樹の近くにいることが多かった。
(情報を集めてる)
エマはそう思った。
直接元樹を監視するだけじゃなくて、周囲の人に話しかけることで、元樹の動きを間接的に知ろうとしているのかもしれない。
証拠はない。
ただの笑顔の会話だった。
でも、エマには引っかかった。
奈々美が元樹のクラスの前を通ったのは、今日だけじゃない。エマが気づいた限りで、今週だけで三回あった。いつも笑顔で、いつも誰かに話しかけていた。
エマはスマホを取り出した。
玲に送ろうと思った。玲はエマとあかりの状況を一部知っている。玲の意見を聞きたかった。
でも、打ちかけてやめた。
これは、元樹が知るべきことだと思った。
(どう伝えればいい)
エマは廊下の端に寄った。
奈々美との会話が終わったのか、二年A組の前から人が離れた。奈々美の姿が廊下を歩いて消えた。
エマは少しの間、その方向を見ていた。
奈々美という人について、エマには最初から違和感があった。廊下で見かけた時の、「目が笑っていない」という感覚。それは今も変わっていない。
むしろ、最近の方が強い。
何かが変わった気がした。
文化祭の前と後で、奈々美の動き方が変わった気がする。以前は「信じる練習をしている」という言葉が聞こえてくる人だったが、最近は、もっと計算的なものを感じる。
エマには証拠がない。感覚だけだ。
でも、感覚は、大事にした方がいいと思っていた。
その夜。
奈々美は自室で一人、スマホを持っていた。
夜の十時を過ぎていた。
元樹から今日のメッセージはもう来ていた。「おやすみ」と「ああ」の短いやり取りで、今日の会話は終わっていた。
奈々美はスマホの画面を消した。
暗い部屋の中で、膝を抱えて座っていた。
窓から夜風が入ってきた。
七月の夜の匂い。
(玲が)
奈々美は、ゆっくりと目を閉じた。
玲が記憶を取り戻した。文化祭の前から、そのことはわかっていた。玲の目が変わった。元樹と話す時の玲の立ち方が、記憶のなかった時とは違う。
元樹も、それを感じている。
文化祭が終わってから、元樹が少し遠い気がする。
体の距離は変わっていない。毎朝一緒に登校して、放課後一緒に帰る。でも、何かが変わった。元樹の目が、たまに奈々美を通り越して遠くを見る。
「信じる練習をしてる」と言った。あれは嘘じゃなかった。本当に練習していた。話して、本を読んで、少しずつ自分の中のものを変えようとしていた。
でも。
玲が全部思い出した。
それがわかった時、また怖くなった。
練習していた間も、確認しないと不安だった。でも、それは少し抑えられていた。玲が記憶を取り戻したと知ってから、抑えられていたものが、また動き始めた。
(私は)
奈々美は目を開けた。
暗い天井を見た。
変わりたいと思っている。それは本当だ。
でも、変わろうとしている間も、止められないことがある。元樹が今どこにいるか確認せずにいられない。誰と話したのか知りたい。自分が知らないところで元樹が笑っていたら、どんな表情をしていたか、知りたい。
そういう気持ちが、練習中にも消えなかった。
止めることができなかった。
星野あかりに話しかけたのは、計算だった。
あの子が元樹を見ていることを、奈々美は知っていた。文化祭の時から。舞台袖からあかりが元樹を見つめていた時、奈々美には全部見えていた。
だから声をかけた。
「気にしないでいてくれると助かる」という言葉は、穏やかな笑顔で包んだ言葉だったが、内側の意味は奈々美自身にはわかっていた。
それが正しいことだとは思っていない。
でも、止められなかった。
(変わろうとしてる)
「変わろうとしてる」という言葉が、自分の中で、だんだん空虚になっていく気がした。
変わろうとしていても、こういうことをする。
変わろうとしていても、元樹の行動を把握しようとする。
変わろうとしていても、怖くなったら動いてしまう。
「変わろうとしてる」という言葉は本当だった。
でも、「変わっている」という言葉は、嘘になっていく気がした。
奈々美は膝を抱えたまま、目を閉じた。
元樹の顔が浮かんだ。
「信じてる」と言ってくれた時の顔。
あれが嬉しかった。
でも同時に、「信じきれていない」という顔でもあるとわかっていた。
元樹には全部見えている。
それが怖かった。
それでも、隣にいたかった。
窓から夜風がまた吹いた。
奈々美はしばらく、暗い部屋の中に一人でいた。
翌朝。
俺は少し早く目が覚めた。
七時前だった。
外はもう明るかった。七月の朝は早い。蝉がもう鳴いていた。
俺は布団の中で天井を見ていた。
今週中に、奈々美にちゃんと話す。そう決めた。
でも、何をどう言えばいいか、まだ整理できていなかった。
行動を把握しすぎてること。あかりへの接触。おかしいと感じていること。
奈々美はたぶん、笑顔で「そんなことない」と言うだろう。でも、玲が言った。「認めなくていい。言うことが大事だと思う」。
そうだとしたら、俺は何のために言うのか。
奈々美に認めさせるためじゃない。
俺が、ちゃんと向き合うために。
光明が言った。「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」。
宙ぶらりんにしたくない。
誰のことも。
俺は布団を抜け出した。
窓を開けた。
七月の朝の空気が入ってきた。蒸し暑かったが、風がわずかにあった。
空は白く晴れていた。
夏休みまで、あと十日くらいだった。
その日の放課後。
委員会もなく、珍しく早く帰れる日だった。
鞄を持って廊下に出ると、奈々美が待っていた。
「今日、早く帰れるの?」
「うん」
「じゃあ一緒に」
二人で昇降口に向かった。廊下に人が多い時間帯だった。
昇降口を出たところで、俺は言った。
「奈々美」
「うん」
「少し話せるか。帰る途中で」
奈々美が俺を見た。
何かを察したような顔だった。一瞬だけ、何かが表情の奥で動いた気がした。でも、すぐに元の穏やかな顔に戻った。
「……うん、いいよ」
二人で歩き始めた。
放課後の住宅街は、七月の光が強くて、影が短かった。
俺は少しの間、歩きながら言葉を選んだ。
「最近、おかしいと感じてることがある」
「おかしい?」
「俺の行動を、知りすぎてる気がすることが続いてる」
奈々美は黙って歩いていた。
「今週の朝、コンビニの前に来てたこと。俺が「早い日」を知ってたこと。昼に食堂で何を食べてたか、気づかなかったのに知ってたこと」
「それは……」
「それ以外も」
俺は続けた。
「星野さんに話しかけたこと。あの子、顔が青かった。廊下でよく声をかけてるのも、なんとなくわかってる」
「……大したことは話してない」
「それが本当かどうか、確かめようがない」
奈々美が少しだけ足を遅くした。
「俺が言いたいのは、責めたいわけじゃない。でも……おかしいと感じてることを、言わないままにしたくない」
少しの間があった。
風が吹いた。七月の湿った風だった。
「……元樹くん」
「うん」
「私が、また昔みたいなことをしてると思ってる?」
「わからない。でも、そう感じることが増えてる、というのは正直に言う」
奈々美が止まった。
俺も止まった。
住宅街の静かな路地だった。遠くで子どもの声がした。
奈々美は下を向いていた。
しばらく、何も言わなかった。
「……怖かった」
小さな声だった。
「玲が全部思い出したって、わかった時から。また怖くなった。信じる練習をしてたのに、また……」
「奈々美」
「止められなかった。元樹くんの行動を、確認しないといられなかった。星野さんに話しかけたのも……わかってる、良くないって。でも」
奈々美が顔を上げた。
その目が、俺を見た。
いつもの「完璧な表情」じゃなかった。笑顔の形でもなかった。ただ、そのままの顔で、俺を見ていた。
「止められなかった」
その言葉に、嘘がなかった。
「……わかった」
俺は言った。
「奈々美が怖かったのは、わかる。でも……星野さんを怖がらせるのは、やめてほしい」
「……うん」
「俺にとって気になる人だから、関係を断たせようとするのは……俺は、それを好きだとは思えない」
奈々美が静かに頷いた。
俺はその顔を見た。
正直に話してくれたことは、わかった。止められなかった、という言葉も、たぶん本当だと思った。
でも同時に、これがどこまでなのかも、まだわからなかった。
「奈々美、一つだけ聞いていいか」
「うん」
「変わろうとしてるのは、本当だと思ってる。でも……変わってる途中に、こういうことが起きた時、自分でどうしようと思う?」
奈々美はしばらく考えた。
「池田先生に話す」
「それだけか」
「……元樹くんに話す。こういうふうに」
「こういうふうに」
「怖くなった時、また確認したくなった時、自分でどうにかしようとするんじゃなくて……誰かに話す。それしかないと思う」
俺は少しの間、奈々美を見ていた。
「俺に話してくれていい」
「……元樹くん、怒らない?」
「怒らない。でも、止めてほしいと思う時はちゃんと言う」
「うん」
「その代わり、奈々美も止めようとする時、一人で抱えないで言ってくれ」
「……うん」
奈々美の声が少し小さかった。
路地の向こうから、夕方の踏切の音が聞こえた。
俺は少しの間、奈々美の顔を見ていた。
これで全部解決したわけじゃない。奈々美の「止められなかった」は、今回だけじゃないはずだ。また同じことが起きるかもしれない。
でも、今日、ちゃんと話した。
それは、一昨日より一歩前に進んだと思った。
「帰ろうか」
「うん」
二人で歩き始めた。
夕方の光が、路地の奥に差していた。
その週の金曜日。
夏休みまで、あと一週間を切っていた。
終業式の日程が貼り出されて、学校全体がふんわりとした「もうすぐ終わる」という空気に包まれていた。
俺は昼休みに、廊下でエマとすれ違った。
エマが少し立ち止まった。
「渡部くん」
「ああ」
エマとは直接話したことが少なかった。玲経由で存在は知っていたが、一対一でちゃんと話すのは珍しかった。
「少しだけいい?」
「どうぞ」
「あかりちゃんのことで。あかりちゃんは直接話せないと思うから、私から伝えてもいいって許可をもらった」
俺は頷いた。
「あかりちゃん、渡部くんのことを気にしてた。それで、廊下とか帰り道とかで……ちょっとだけ、距離が近すぎることをしてしまってた」
エマがまっすぐに言った。
「もう止まってる。ちゃんと自分でわかって、私に話してくれた。だから今は大丈夫。ただ……渡部くんには伝えた方がいいと思って」
「そうか」
「あかりちゃんは、自分でそれがおかしいってわかってた。でも止められなかったって言ってた。今は止まってる」
「うん、わかった」
「それと」
エマが少し声を落とした。
「奈々美さんのことも。あかりちゃんへの接触が続いてること、渡部くんは知ってる?」
「把握してる」
「奈々美さんに話した?」
「した。一昨日」
エマが少し間を置いた。
「……そっか」
「奈々美は正直に話してくれた。止められなかった、って。あかりを怖がらせるのはやめてほしいとも言った」
「奈々美さんが……正直に」
「意外か」
「少し。でも」
エマが少し考える顔をした。
「一回正直に話したから、次もそうとは限らない。私はそう思ってる」
「それは俺もわかってる」
「渡部くんが奈々美さんと向き合う気があるなら、それは邪魔しない。でもあかりちゃんのことは……引き続き気をつけてほしい」
「わかった。ありがとう」
「どういたしまして」
エマが歩いていった。
俺はしばらくその場に立っていた。
あかりのことが、少し引っかかった。
止められなかった、という言葉。
エマが言った言葉と、奈々美が言った言葉が、頭の中で重なった。
二人とも「止められなかった」と言った。
その言葉の意味が、全然違う重さを持っていた。
でも、止められなかった、という気持ちが何かを動かす、ということは、俺には少しわかる気がした。
俺自身も、奈々美に何も言えない日が続いた。おかしいと感じながら、言えない日々があった。それも、ある意味「止められなかった」ことだったかもしれない。
廊下を人が流れていった。
夏休みまで、もう少しだった。
終業式の二日前。
夕方。
奈々美との帰り道。
「夏休み、何日かは桜ヶ丘にいるよ」
奈々美が言った。
「そうか」
「でも、会いに来てほしい」
「行けると思う」
「去年みたいに、ちゃんと誘ってくれる?」
「去年みたいにってのは、どういう意味だ」
「去年の八月、元樹くんが自分から来てくれたじゃない。夏祭りにも誘ってくれて」
「そうだったな」
「嬉しかった。だから、また」
「……わかった」
奈々美が少し笑った。
住宅街の夕方の道を、二人で歩いた。
俺は、この一週間のことを頭の中でなぞっていた。
奈々美に話した。奈々美は正直に言ってくれた。「止められなかった」と。エマからあかりのことを聞いた。玲とも少し話した。
全部がきれいに解決したわけじゃない。
奈々美が「また同じことをしない」保証はない。あかりが完全に立ち直ったわけでもない。玲との「ちゃんとした話し合い」も、まだ終わっていない。
でも、何かが少し動いた気がした。
宙ぶらりんのまま放っておくんじゃなくて、少しずつ向き合っていくことができた気がした。
「元樹くん」
「ん」
「夏休みに、一つ約束してほしいことがある」
「何」
「難しいことじゃないよ」
奈々美が俺を見た。
「何かあった時、また話して。怖いと思ったことでも、おかしいと思ったことでも。一昨日みたいに」
俺は少しの間、奈々美の顔を見た。
その顔は、いつもの完璧な笑顔じゃなかった。ただ真剣に、俺を見ていた。
「……ああ、約束する」
「ありがとう」
奈々美が少し前を向いた。
二人の足音が、夕方の道に響いた。
空がオレンジに染まっていた。
雲の縁が、金色に光っていた。
夏休みが、すぐそこにあった。
何かが始まる予感と、何かが終わる予感が、混ざったまま、俺の中にあった。
どちらが来るのか、まだわからなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
奈々美が隣にいた。
夏が、来ようとしていた。
夜。
自室。
奈々美は窓の外を見ていた。
黒い空に、星がいくつか出ていた。
元樹と話した一昨日のことを、奈々美はまだ頭の中でなぞっていた。
元樹が、ちゃんと話してきた。
怖いと思ったこと。星野さんへの接触。把握しすぎてること。
全部、見えていた。
奈々美は思った。元樹には、全部見える。隠そうとしても、気づく。笑顔でごまかしても、何かを感じ取る。
それが怖かった。
同時に、嬉しかった。
自分のことを、ちゃんと見ている人がいる。
「また話して」と奈々美は言った。それは本当だった。一昨日のあの会話が、怖かったけど、終わった後に少し楽になった気がした。隠さなくていい時間が、少しだけあった気がした。
でも。
夏休みが来たら、玲と元樹が話す機会が増えるかもしれない。
そのことが、また、静かに奈々美の中で動いていた。
「信じる練習をしてる」
あの言葉は本当だった。
でも、練習中にも、怖いものは怖い。
奈々美は目を閉じた。
夏が来る。
何かが変わる。
変えたい、と思う。
でも、止められないかもしれない、とも思う。
その二つが、奈々美の中でずっと同居していた。
変わりたい。
でも、元樹くんを、誰かに渡したくない。
その二つは、どちらも本当だった。
窓の外の星が、ゆっくりと光っていた。
止められなかった、という言葉を、この頃よく聞く。
あの子も、そう言っていたらしい。
不思議だと思う。
止めたいと思っていても、止められないことがある。おかしいとわかっていても、足が動く。それを「同じ」と呼んでいいのかどうか、私にはまだわからない。
でも、元樹くんには全部見えている。
怖いと思った。それから、少しだけ、ほっとした。
見えているなら、隠さなくていい。
そう思ったのは、初めてだったかもしれない。
夏が来る。
夏は、いろんなものを変える。
去年もそうだった。
だから、少しだけ怖い。




