第38話 「静かな始まり」
文化祭の朝は、独特の空気がする。
普通の登校日とは違う、少し浮いた感じ。静かなはずの廊下がざわめいていて、教室に入る前から何かが始まっているのがわかる。
俺は早めに登校して、まず教室の状態を確認した。
龍宮城のセットが、後ろ側にそびえている。昨日の最終確認より、なんとなく大きく見えた。夜中に段ボールが伸びたわけじゃないけど、朝の光の中で見ると迫力が違う。
「元樹、来てたんだ」
光明が入ってきた。
「早いな」
「委員だから」
「そうか」
光明が鞄を置きながら、セットを眺めた。
「でかいな、改めて」
「だろ」
「よく作ったよ、みんな」
「大道具チーム、頑張ってたからな」
俺はホワイトボードに今日のタイムスケジュールを書き始めた。開会式の後、クラス単位で出し物の開始時間が決まっている。二年A組の劇は午前の部の最後、十一時半から。体育館のステージを使う。
リハは十時から、ということになっていた。
時計を見た。まだ七時五十分。
集合時間は八時半。
余裕はある、はずだった。
八時半になって、クラスのほとんどが集まった。
ところが、十分ほど経ったところで、問題が起きた。
松田が青い顔で教室に入ってきた。
「元樹……ちょっとまずいかもしれない」
「どうした」
「昨日から腹が痛くて……今朝、病院行ったら急性胃腸炎って」
俺は一秒、固まった。
「浦島太郎役の松田が」
「ごめん。無理したらやれないことはないかもしれないけど、医者に「絶対安静」って言われて、親もやめとけって……」
「わかった。帰れ」
「でも」
「帰れ。体を壊したら本末転倒だから」
松田が申し訳なさそうに頭を下げて、教室を出ていった。
俺はその背中を見送ってから、教室の中を見渡した。
みんなが固まっている。
主役の松田が抜けた。
本番まで、あと三時間もない。
「……もう一人いないか確認する」
俺は名簿を見た。
その時、スマホが鳴った。
音響照明担当の橋本からだった。
「元樹くん、俺もちょっとまずくて。昨日の夜から熱が出て……三十八度五分あって、学校来るのが……親が絶対ダメって言って」
二人目だった。
橋本は音響照明の中心だ。機材の操作を一番わかっているのが橋本で、サポートに入った林はあくまで補助だった。
「橋本、照明の操作、昨日全部林に教えてあったか」
「基本はやったけど、細かいところまでは……」
「わかった。大丈夫だ。早く良くなれよ」
電話を切った。
教室の中が、水を打ったように静かになっていた。
「浦島太郎の松田が急性胃腸炎、音響照明の橋本が発熱で二人欠席」
俺が言うと、空気が重くなった。
「どうするの」
「浦島の代役が必要だな」
「誰でもできるの? 台詞覚えてないじゃん」
「台本持ちながらでもいいんじゃないか?」
「でもそれって劇として成立するの」
意見が飛び交った。
俺は少し考えた。
台詞の量で言えば、浦島太郎は多い。主役だから当然だ。台本を持ちながら演じることはできる。でも、松田は台詞よりも「断れない性格」の動きを体で覚えていた。あの「えっと……はい……」という間の取り方は、練習を積み重ねた結果だった。
誰でもいいわけじゃない。
俺はもう一度、教室を見渡した。
光明が「元樹がやれば」と言いそうな顔をしていた。
その前に、奈々美が静かに手を挙げた。
「元樹くんがやれば良いと思う」
教室の視線が集まった。
「学級委員として全体を把握してるし、練習も一番そばで見てた。台詞も、ある程度入ってると思うけど」
「台本持ちながらなら確かに元樹が一番向いてるかも」
「浦島、断れない性格だし元樹向いてるじゃん」
誰かが言って、笑いが起きた。
「笑うな」
俺は言ったが、自分でも少し笑えた。
「ただ、元樹がやると全体仕切りができなくなる」
光明が言った。
「その分を俺が引き受けられる。各チームの最終確認は俺と航でやる。元樹は浦島に集中しろ」
「光明……」
「いいから。他にどうしようもないだろ」
光明がそう言ったから、俺はそれ以上は断れなかった。
「わかった。俺が浦島をやる。台本は手に持って出る。音響照明は林が中心になって、わからないところは俺に声かけてくれ、橋本の操作メモも昨日渡してあるはずだから確認してくれ」
「はい」
林が緊張した顔で頷いた。
「じゃあ、十時のリハから動くぞ」
着替えの時間が来た。
浦島の衣装は、紺と白の簡単な着物風の衣装だった。松田のサイズで作ってあったけど、俺と松田はそんなに体格が変わらないから、なんとか着れた。
鏡を見ると、少し間抜けな感じがした。
「似合ってる」
後ろで航が言った。航は甲羅を背負って、黄緑のフードを被っていた。
「お前の方が似合ってる」
「ありがとう。最高の亀になる」
「頼む」
中村が乙姫の白と水色のドレスを着て、颯爽と歩いてきた。その出来栄えがよくて、思わず笑いそうになった。
準備が整っていく。
俺は台本を手に持ちながら、浜辺のシーンのセリフを小声で確認した。
「(浜辺の空気を吸いながら)いい日だな……。さて、今日も魚でも捕りに行くか」
下手くそだ。でもやるしかない。
舞台袖で台本を確認していると、隣に奈々美が来た。
奈々美は脚本チームだから、衣装はなく、私服に近い格好のままだ。でも、袖で全体の動きを確認する係を引き受けていた。
「台詞、入ってる?」
「八割くらいは」
「残りの二割は台本見ながらでいいよ。台本持ちの浦島っていうのは、それはそれで味があるかもしれない」
「フォローになってない」
「フォローのつもりだよ」
奈々美が少し笑った。
「元樹くんが浦島をやるって、最初に聞いた時、なんとなくそうなる気がしてたかもしれない」
「なんでそんなこと思うんだ」
「なんとなく」
奈々美はそれだけ言って、前を向いた。
その横顔が、少しだけ何かを考えているように見えた。
でも、今は稽古だ。
十時からのリハは、本番を想定して全編通した。
俺の浦島は、最初の一分くらいはガチガチだった。
「(浜辺で亀を見つける)……お前、ちょっと待って、大丈夫か?」
自分の声が上擦っているのがわかった。
航の亀が、俯いた状態で台詞を言った。
「……同行せよ」
「…ちょっと待って、礼なしですか? 俺、助けたんですけど?」
「行くぞ」
「行くってどこに……」
航が「何も言わずに」すたすたと歩き始めた。
その背中が、台本にないのに妙に凛々しかった。
「あ、待って、待ってください!」
俺が台本を持ちながら慌てて追いかける。
リハ中なのに笑いが起きた。
なんとかなるかもしれない、と思った。
龍宮城のシーンは、中村の乙姫が大袈裟なほどのおもてなしで、俺(浦島)が断れずにどんどん食べさせられる展開だった。松田の動きを見ていたから、なるべく再現しようとしたが、うまくいかなくなった時に思い切って台本を読んだ。
変に台本を隠そうとするより、開き直った方がよかった。
全通しが終わったのは十一時過ぎだった。
「今のでいける?」
光明が聞いた。
「いける」
俺は答えた。
不安がないと言えば嘘になる。でも、いけるとしか言いようがなかった。
時計が十一時二十分を指した頃、体育館への移動が始まった。
大道具チームがセットを台車に乗せて運ぶ。衣装チームが衣装袋を抱えて歩く。音響照明の林が機材の最終確認をしながらついてきた。
俺は移動しながら、台本の最後のページをもう一度確認した。
亀のセリフ。
「それが、置いてきたものだ」
奈々美が書いたセリフだ。
浜辺の女の子が、浦島を待って、でも浦島は気づかずに龍宮城へ行った。そして帰ってきた時には、もうその子はいない。時間も、大切なものも、全部置いてきてしまった後だった。
俺は台本を閉じた。
体育館が近づいてくる。
廊下の向こうから、前の出し物の拍手が聞こえた。
体育館は、そこそこ埋まっていた。
他のクラスの生徒や、見に来た保護者がいる。観客席の前の方に、一年生のグループが固まっていた。
俺は袖から客席を少しだけ覗いた。
見知らぬ顔が並んでいる中で、一つの顔が目に入った。
一年A組の生徒だったはずだ。小柄で、おとなしそうな女の子。
あかりだ。星野あかり。
エマと一緒にいるのかと思ったが、今日は一人だった。前の方の席に座って、ステージを見上げていた。
俺が見ているのに気づいていない。
真剣な目だった。
(文化祭、見に来てたんだな)
そう思ってから、俺は袖に引っ込んだ。
今は関係ない。劇に集中する。
転換時間が終わり、幕が上がった。
浜辺の音楽が流れる。林がボタンを押す音が聞こえた。
俺は舞台の袖で息を吸った。
奈々美が横にいた。
「頑張って」
奈々美の声は、静かだった。
「ああ」
俺は歩いた。
舞台に出た瞬間、照明の明かりが全身に当たった。
客席が広い。
(落ち着け)
俺は台本を持ちながら、浜辺の中央に立った。
「いい日だな……」
声が思ったより通った。
「さて、魚でも捕りに行くか」
そこへ、航の亀がずかずかと出てきた。
亀の衣装を着た航が、甲羅を揺らしながら歩いてくる。その見た目だけで、客席のあちこちで笑いが起きた。
「(俯いて)……同行せよ」
「え?」
「同行せよ」
「ちょっと待って待って、礼なし? 俺、今あなたを助けましたよね? 亀を助けた対価として、最低限のお礼くらいは……」
「同行せよ」
「なんなのこの亀……」
また笑いが起きた。
俺は次第に体が動いてきた。
松田の動きを思い出しながら、でも松田じゃない自分なりの動きで、断れない浦島を演じた。台本を持っているのがある意味で目立ったが、逆に「台本を持ちながらも亀に引きずられていく浦島」という状況がおかしかったのか、客席が温かかった。
龍宮城のシーンに入った。
中村の乙姫が登場した瞬間、客席から「おお」という声が上がった。衣装の出来が良かった。
「ようこそ、龍宮城へ。おもてなしいたします」
「あ、どうも……」
「さあさあ、食べてくださいませ」
「い、いただきます……」
どんどん料理が来る。浦島が断れずに食べ続ける。
「もうお腹が……」
「まだまだございます」
「あの、本当にもう……」
「おもてなしでございます」
「おもてなしが止まらない!」
客席が沸いた。
タコ役の大木が「タコ踊り」を始めた時、前の方の座席から笑い声が弾けた。
大木のタコ踊りは、リハでも爆発的だったが、本番の方が更に上だった。八本の手を模した腕の動きが、誇張されすぎていて逆に完璧だった。
MCのクラゲ役・長尾が「龍宮城ではみなさんのご来場をお待ちしておりました、クラゲの長尾でございます」とアナウンス口調で言った瞬間も笑いになった。
俺は演じながら、少しずつ余裕が出てきた。
台本を見なくても済む場面が増えた。
手に台本を持っているのを忘れかけた場面もあった。
劇が動いていた。
客席の中で、星野あかりはずっと舞台を見ていた。
一人で、前の方の席。
浦島役の渡部元樹が、舞台の中央に立っている。
亀に振り回されて、断れなくて、龍宮城でおもてなしを受け続けて。
台本を手に持っているのが、かえってどこかほほえましかった。
(……)
あかりは、密かに思っていた。
文化祭の劇があると知った時から、見に来ようと決めていた。エマに誘われたわけじゃない。自分で決めた。
渡部元樹が劇をやる。それだけで十分な理由だった。
あかりはあの日から、元樹の背中を探すようになった。
廊下で見かける。教室の前を通る。文化祭の準備で動いている。
自分から声をかけることはできなかった。元樹には彼女がいると知っていたし、柊奈々美という存在が怖かった。
あの放課後の出来事を、あかりはまだ忘れていない。
奈々美に呼び止められた時の、冷たい笑顔。「変なことを吹き込まないでね」という言葉。表面は穏やかなのに、目の奥が全く別のことを言っていた。エマが教えてくれた「目が笑っていない」という言葉の意味を、あかりはあの時初めて体感した。
でも今日は、舞台の上の元樹だけを見ていた。
台本を持ちながら、それでも一生懸命に演じている。台詞が少し詰まっても、前を向いて続ける。
(好きだな)
あかりは、心の中で思った。
声には出さなかった。出せなかった。
ただ、舞台の上の元樹をずっと目で追っていた。
亀の台詞に客席が沸く。元樹が困った顔をする。その困り顔も、あかりには何かを揺さぶった。
龍宮城のシーンが終わって、玉手箱のシーンに移った。
浦島が玉手箱を手に取る場面で、あかりは息をつめた。
元樹の手が、台本と一緒に玉手箱の小道具を持つ。その所作が、どこか真剣で。
あかりはもっとよく見ようとして、少しだけ身を乗り出した。
その瞬間だった。
視線を感じた。
舞台からじゃなかった。
舞台袖の、暗がりから。
あかりは反射的にそちらを見た。
袖の影の中に、柊奈々美が立っていた。
あかりと目が合った。
奈々美は笑っていた。
いつもの、穏やかな笑顔の形をしていた。
でも。
目が、笑っていなかった。
笑顔の形をした顔の中で、目だけが全く別のものを映していた。光が、なかった。感情の色が、なかった。ただ、真っ直ぐに、あかりを見ていた。
まるで、ずっと前から知っていたかのように。
まるで、あかりが何を見ていたのか、全部わかっているかのように。
あかりの背筋が、一瞬で凍った。
全身の毛が、逆立った気がした。
心臓が、不規則に鳴った。
手が震えた。
奈々美は、表情を変えなかった。
ただ、ほんのわずかに、口の端が動いた。
笑顔のまま、何かを言いたそうな。
でも、何も言わなかった。
ただ、見ていた。
(逃げないと)
あかりの頭に、その言葉が浮かんだ。
でも体が動かなかった。
奈々美が、ゆっくりと視線を外した。
舞台の方を見た。
あかりは、息をすることを忘れていた。
気がついたら、浅い息を繰り返していた。
舞台の上で笑いが起きた。でも、あかりの耳にはほとんど届かなかった。
(怖い)
それだけが、あかりの中にあった。
玉手箱のシーンは、コメディタッチで進んだ。
浦島が「開けてはいけない」と言われた玉手箱を前に、葛藤するシーンだ。
「開けたいけど……でも開けたら……でも気になる……でもダメって言われたし……でも……」
俺が台詞を言いながら、玉手箱を手に取っては置き、また取っては置く動作を繰り返した。
客席から笑いが来るのがわかった。
そのリズムをうまくつかもうとした時、航の亀が舞台袖から顔を出して言った。
「……それでいいのか、浦島」
台本にないセリフだった。
一瞬固まったが、俺はすぐに受けた。
「え、亀? もう帰ったんじゃ」
「帰ったが、戻った」
「なんで」
「……気になったから」
「亀に気にしてもらえるとは思わなかった」
「礼は不要だ」
「言ってること全然分かりません!」
客席が爆笑になった。
これは想定外のやり取りだったけど、完全にうまくいっていた。航がアドリブで入ってきたのは、おそらく本番の空気を読んでのことだと思う。それに乗れた自分も、少し驚いた。
玉手箱のシーンの後、浦島は結局玉手箱を開けてしまう。
老人になった浦島が、浜辺に戻ってくる。
その場面で、照明が変わった。
林の操作は、橋本が教えていた通りの手順で正確だった。青かった照明が、夕暮れのオレンジに変わる。
浦島は浜辺に立って、辺りを見渡す。
待っていたはずの女の子が、いない。
「あれ……? あの子、どこに……」
俺は台本を持ちながら、舞台の端を見た。
さっきまでそこにいた藤田さんの姿が、ない。
静かなシーンだった。笑いがなかった。
客席も、少し静かになった気がした。
そこへ、航の亀が戻ってくる。
今度は、さっきまでの高飛車な動きじゃなかった。甲羅を揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。
「浦島」
「亀……。あの子、どこへ行ったんだ? ここで待ってるって……」
航は台詞を言う前に、一瞬の間を置いた。
本番でも、リハでも、ここの間が一番長かった。
「……それが、置いてきたものだ」
客席が、静かになった。
笑いじゃなかった。
でも、拒絶でもなかった。
何かが刺さった、という沈黙だった。
俺は浦島として、その場に立っていた。
「置いてきたものだ」という言葉が、舞台の空気の中に残った。
奈々美が書いたセリフ。
俺はその言葉を舞台の上で受け取って、何も言えない浦島のまま、立っていた。
幕が下りた。
一瞬の間があって、客席から拍手が起きた。
大きかった。
思っていたより、ずっと大きかった。
袖に引っ込むと、みんなが「やった!」「よかった!」と声を上げていた。
「元樹、よかったぞ!」
航が興奮した顔で言った。甲羅が少し傾いていた。
「お前のアドリブのほうがよかった」
「俺もびっくりした。なんか出てきてしまった」
光明が俺の肩を叩いた。
「お疲れ」
「お前のおかげだよ。全体仕切ってくれて」
「仕切り甲斐があったよ。みんな動いてたから」
喧騒の中で、俺は少しだけ息をついた。
緊張が、ゆっくりと抜けていく。
「置いてきたものだ」という言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
カーテンコールが終わって、着替えを済ませた。
体育館から出ると、廊下がにぎわっていた。
文化祭の他の出し物を回る生徒たちの流れがあった。
俺は着替えた後で、まだ袖にいたかったが、後のクラスの準備のために移動しないといけなかった。
廊下を歩いていると、光明と未菜が一緒にいた。
「元樹、お疲れ。劇、すごく良かったよ」
未菜が言った。
「玲ちゃんも見に来てたんだよ、一緒に」
「そうか」
「最後の亀のセリフで、ちょっとうるっとしてた」
「玲が?」
「うん。泣きそうなのに泣かないでいる顔してた。あの子はああいうとこ頑固なんだよ」
未菜が少し笑いながら言った。
「奈々美に伝えとくよ。劇、良かったって」
「ありがとう」
未菜と光明が先に行った。
俺は廊下で少し立ち止まった。
玲が見に来ていた。
「置いてきたものだ」というセリフを、玲は客席で聞いていた。
奈々美が書いたそのセリフを。
何を思ったんだろう。
俺には、想像できなかった。
廊下の向こうから、クラスの誰かが「元樹! 写真撮ろうよ、衣装着て!」と呼んできた。
「もう着替えた」
「もったいない! あの浦島の格好でもう一枚撮りたかった」
「今更着直せない」
「えー」
笑いながら、俺はその場所に向かって歩き始めた。
文化祭の昼休みは、各クラスの出し物を自由に回れる時間だった。
俺はクラスの出し物の後片付けを少し手伝ってから、あとは自由に動いた。
光明と未菜、航と、しばらく一緒に校内を回った。
お化け屋敷のクラスがあって、航が「絶対入る」と言って俺を引っ張った。暗い廊下で誰かが「わっ」と出てきたのに、航だけ平然としていて、俺は少しだけびくっとした。
「お前こわいんだな」
「驚いただけだ」
「顔が面白かったぞ」
「うるさい」
笑いながら廊下を歩いていると、少し離れたところに、星野あかりがいた。
一人で歩いていた。エマの姿はなかった。
あかりは俺に気づいていない様子で、うつむきながら歩いている。
その足取りが、なんとなく重かった。
(あかり……?)
俺はその背中を少し見てから、前に向き直った。
声をかけようかと思ったが、かけ方がわからなかった。
あかりと俺の接点は、ほとんどない。
奈々美に釘を刺されたことがあることも、俺は後からなんとなく聞いていた。エマが教えてくれたわけじゃないが、空気で察したことがあった。
声をかけることが、あかりにとって良いことかどうか、わからなかった。
俺はそのまま、前を向いて歩いた。
午後の部が始まる前、俺は教室に戻った。
後片付けの残りを確認するためだった。
教室に入ると、静かだった。
みんなまだ外を回っているのか、誰もいない。
龍宮城のセットが、解体を待っている。
俺はセットの前に立って、少し眺めた。
段ボールと絵の具で作った、手作りの龍宮城。
本番では照明が当たって、別物みたいに見えた。
でも今は照明もない。ただの段ボールだ。
それでも、なんか感慨深かった。
「元樹くん」
声がして、振り返った。
奈々美だった。
教室の入口に立っていた。
いつから来ていたのか、わからなかった。足音がしていなかった。
「奈々美。いたのか」
「少し前から」
奈々美が教室の中に入ってきた。
セットを見上げた。
「上手くいったね」
「お前の脚本のおかげだ」
「みんなが演じてくれたから」
「奈々美の演出も良かったよ。航のあの間の取り方、お前が言ったことが活きてた」
「そう……」
奈々美が静かに言った。
俺はセットの前で、奈々美と並んで立った。
「あの脚本、どう思う? 浦島太郎のコメディ版としては、ちゃんとうまくいったと思うか」
「うまくいったと思う。笑えて、最後に少し刺さって。それが一番やりたかったことだったから」
「「置いてきたものだ」のセリフ。本番で言われた時、なんか思ったより効いた」
「……そう」
奈々美が俺を見た。
「元樹くんが言ってくれたから、効いたのかもしれない」
「俺はただ立ってただけだ」
「「ただ立ってる」にも、意味があるよ」
奈々美の言い方は、静かだった。
俺はその言葉の意味を考えながら、セットを見た。
「奈々美」
「ん」
「このセリフ、浦島のことだけじゃなくて、俺に対して書いた気がしてた」
少し間があった。
「……そう思った?」
「ああ」
「そう感じたなら、そうかもしれない」
奈々美が答えた。
曖昧とも、肯定とも取れる答えだった。
「コメディの中に書いたから、どうとでも受け取れるようにしてあるつもりだったけど」
「奈々美はいつもそうだ」
「そうかな」
「そうだよ。わかるようで、わからない」
俺はそう言ってから、奈々美の顔を見た。
奈々美は微笑んでいた。
普通の笑顔だった。
でも、その笑顔の奥に何があるか、俺にはやっぱりわからなかった。
「今日の劇、元樹くんが主役でよかった」
「松田が抜けなければ松田がやってたんだが」
「そうだけど」
奈々美が少しだけ視線を落とした。
「元樹くんが浦島をやって、亀のセリフを正面から受けたのは、良かったと思う。どういう意味でも」
「どういう意味でも、って何だよ」
「文字通りの意味で」
奈々美はそれだけ言って、セットから視線を外した。
「じゃあ私、後片付けの手伝いに行くね」
「ああ、頼む」
奈々美が教室を出た。
俺はしばらく、その場所に立っていた。
「置いてきたものだ」
その言葉が、また浮かんだ。
その日の夜、俺は自室で横になっていた。
文化祭が無事に終わった。
劇も、なんとかなった。
松田の穴を埋めて、橋本の穴も林が補って、全部がかろうじて形になった。
達成感があった。疲れもあった。
でも、頭が妙に静かにならなかった。
奈々美のことを考えていた。
セットの前で言った言葉。「元樹くんが浦島をやって、亀のセリフを正面から受けたのは、良かったと思う。どういう意味でも」
どういう意味でも。
奈々美の「どういう意味でも」は、いつも複数の意味を持っている。
あの脚本の中の浦島は、大切なものに気づかずに置いてきてしまった。
それが俺への皮肉なのか。警告なのか。
それとも、ただの解釈の話なのか。
俺にはわからない。
奈々美はいつも、俺にはわからない。
スマホを手に取った。
奈々美からメッセージが来ていた。
────────────────
今日の劇、本当によかったよ。
みんなの頑張りが見えた。
元樹くんも、最後まで逃げなかった。
おやすみなさい。
────────────────
「逃げなかった」
その言葉を、俺は何度か読んだ。
劇のことを言っているのか。
それとも別のことを言っているのか。
どちらにも取れた。
どちらにも取れるように、奈々美は書いている気がした。
「おやすみ」とだけ返した。
スマホを置いて、天井を見た。
文化祭が終わった。
玲との話が、次だ。
俺が答えを出さないといけない。
でも今夜は、頭が動かなかった。
疲れていた。
ただ、天井を見ていた。
文化祭の翌日、登校した。
廊下を歩いていると、星野あかりとすれ違った。
あかりは下を向いて歩いていた。
俺が来るのに気づいて、少し視線を上げた。
目が合った瞬間、あかりが小さく頭を下げた。
「あ、おはようございます」
「おはよう」
俺は返した。
あかりはそのまま通り過ぎようとした。
「昨日、劇見に来てただろ」
俺が言うと、あかりが足を止めた。
振り返らなかった。
「……見てました」
「よかったか」
「よかった……です」
声が少し小さかった。
「最後の亀のセリフ、ちゃんと聞こえたか」
「……聞こえました」
あかりがゆっくりと振り返った。
その顔が、少し青ざめていた。
あれ、と俺は思った。
「大丈夫か」
「大丈夫です。ちょっと、今日体調が……すみません」
あかりはそう言って、また下を向いて歩き始めた。
俺はその背中を少しだけ見てから、自分の教室に向かった。
(顔色が悪かったな……)
昨日も、どこか様子がおかしかった気がする。
廊下を歩いているあかりの足取りが重かった。あれは文化祭で疲れたからじゃない、もっと別の何かを抱えているような感じだった。
でも、俺には踏み込む権限がない。
俺は教室へ向かった。
教室に入ると、奈々美がいた。
もう席に座っていた。
朝のホームルームまで少し時間がある。
奈々美は俺が入ってきたのを見て、「おはよう」と言った。
「おはよう」
俺は席に着いた。
鞄から教科書を出していると、奈々美が静かに言った。
「昨日、廊下で会ったんだ」
「え?」
「星野さんと」
俺は手を止めた。
「……そうか」
「ちょっとだけ話した」
奈々美の声は穏やかだった。
「どんな話を」
「大したことじゃない。劇の感想を聞いた」
そう言って、奈々美は教科書を開いた。
俺はそれ以上は聞かなかった。
でも、胸の中に何かが引っかかった。
奈々美があかりと「ちょっとだけ話した」。
それが何でもないことのように聞こえたが、奈々美が「何でもないこと」を言う時に、本当に何でもないことはあまりない。
俺はそう思いながら、教科書のページを開いた。
その日の昼休み、エマがあかりを廊下で探していた。
いつものあかりの居場所に行っても、いなかった。
エマは廊下を歩きながら、心配していた。
昨日の文化祭から、あかりの顔色が悪かった。連絡をしても、短い返信しか来なかった。
(あかりちゃん、どこ……)
エマは階段の踊り場まで歩いてみた。
そこにあかりがいた。
窓の外を見ながら、一人でいた。
「あかりちゃん」
エマが声をかけると、あかりが振り返った。
目が少し赤かった。
「エマさん」
「探してた。昨日から連絡しても……大丈夫?」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
エマが遠慮なく言った。
あかりが少し俯いた。
「何かあったの?」
「……昨日の文化祭で、奈々美さんと目が合って」
あかりが小さな声で言った。
「奈々美さんの目が……」
あかりは言葉を止めた。
「?」
「あんな目、見たことない。笑顔の形なのに、目の中に何もなくて。ただこっちを見てて……」
エマの表情が変わった。
「劇の時に、袖から?」
「うん。私が先輩を見てたのが、わかってたと思う。ずっと見られてた」
エマは少し黙った。
「それから、帰ろうとしたら廊下で声かけられて」
「声かけられた……?」
「「劇、良かったね」って。にこにこしながら。でも目が……目が全然笑ってなくて」
あかりの声が微かに震えた。
「怖かった」
「……そう」
エマは眉を寄せた。
「あかりちゃん、絶対に一人で動かないで。廊下でも、放課後でも。私のいないところで奈々美さんと話しちゃダメ」
「……うん」
「今日の帰り、一緒に帰ろう。私が待ってる」
「でも、エマさんのクラスと違うから」
「それでいい。迎えに行くから」
エマがはっきりと言った。
あかりが少し、息をついた。
「ありがとう、エマさん」
「ありがとうじゃなくていい。一人でいないで」
エマがあかりの隣に並んで、窓の外を見た。
奈々美という存在のことを、エマはずっと気にしていた。
最初に廊下で見かけた時から。あの「目が笑っていない」という感覚が、ずっと消えなかった。
そして今、また動き始めた気がした。
(何かが変わった。あの文化祭で)
エマにはわからなかった。
でも、奈々美が動く時の予感は、これまでと違った。
文化祭の翌週。
最初の変化は、小さなことだった。
奈々美が放課後、少し遅く帰るようになった。
「脚本の振り返りで残っている」と言っていたが、脚本チームの中尾も吉田も、その日は早く帰っていた。
俺は光明と話していた時に、それをなんとなく思い出した。
「奈々美、最近放課後遅くなってるな」
「そうか?」
「脚本の振り返りって言ってるけど、中尾と吉田はもう帰ってるから……」
「まあ、一人で残ってることもあるんじゃないか。脚本担当だしな」
「そうかな」
「気にしすぎじゃないのか」
光明がそう言ったから、俺はそれ以上は言わなかった。
でも、何かが引っかかっていた。
変化の二つ目は、スマホだった。
奈々美からのメッセージが、少しずつ増えた。
最初は一日に二、三件だったのが、いつの間にか四件、五件になっていた。
内容は普通だった。学校のことや、脚本の振り返りや、何気ない日常の話だった。
でも、返信が来るまでの時間が、短くなっていた。
俺が返信してから数分で、次のメッセージが来る。
最初は気にしていなかった。
でも、ある夜に気がついた。
俺が返信したのが二十二時で、次のメッセージが来たのが二十二時三分だった。
三分で返ってきた。
俺はスマホを見ながら、少しだけ何かを思った。
でも、まだそれが何なのかはわからなかった。
変化の三つ目は、登校路だった。
奈々美が待っている場所が、少しずつ手前になっていた。
最初は「いつもの角」だったのが、いつの間にか「いつもの角より一つ手前」になっていた。
でも今度はさらに手前だった。
俺が気づいたのは、ある朝に「あれ、今日もここにいる?」と思った時だ。
「元樹くん、おはよう」
奈々美は、少しだけ急いで歩いてきた様子だった。
「今日、早かったな」
「少し早めに出た」
「そうか」
俺は並んで歩いた。
奈々美の歩くペースが、俺に合わせて調整されている。いつもそうだ。でも今日は、少しだけ近かった。
肩が、わずかに触れそうなくらい。
それが今日だけかと思ったら、翌日も同じ場所で待っていた。
そのまた翌日も。
俺はその変化に気づきながら、何も言えなかった。
言うべき言葉が、まだ整理できていなかった。
変化の四つ目は、あかりのことだった。
ある昼休みに、俺は廊下を歩いていた。
前方に、星野あかりとエマがいた。
二人で話していて、楽しそうだった。
エマがあかりの肩に触れて、何か言っている。あかりが少し微笑んでいた。
良かった、と思った。
あかりの顔色は少し良くなっていた。
その時、俺の後ろから声がした。
「元気そうね」
奈々美だった。
俺の隣に、いつの間にか来ていた。
奈々美はあかりとエマの方を見ていた。
奈々美が俺の方を見た。
それから、また前を向いた。
「星野さんと藤宮さん、仲良いね」
「ああ」
「良いことだと思う」
奈々美はそう言って、笑った。
普通の笑顔だった。
でも、俺はその「良いことだと思う」という言葉の後ろに何かがある気がして、それを探そうとして、でも見つけられなかった。
奈々美はもう前を向いて歩いていた。
ある夜、奈々美からのメッセージが、それまでと少し違った。
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今日の放課後、少し残って廊下を歩いてたら、夕日が差し込んでてきれいだった。
元樹くんにも見せたかったな。
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俺は少し間を置いて読んだ。
「見せたかった」。
今までも、こういう言い方がなかったわけじゃない。
でも、今日は少し違う感じがした。
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きれいな夕日だったな
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それだけ返した。
数分後。
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ねえ、元樹くん。
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それだけで止まった。
続きが来ない。
俺は待った。
一分経っても来ない。
三分経っても来ない。
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何?
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俺が送ると、すぐに返ってきた。
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なんでもない。
おやすみなさい。
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俺はその画面を見ていた。
「なんでもない」で終わった。
でも、始まりかけた何かがある気がした。
おやすみ、と打ちながら、俺は考えた。
これが、奈々美の変化のことを光明に言うべきかどうか。
でも、言葉にできなかった。
何かが変わっている、という感覚はある。でも、それが何なのか、まだ形にならなかった。
スマホを置いた。
天井を見た。
玲との話も、まだ終わっていない。
答えを出さないといけない。
その間に、奈々美が変わっていく気がする。
俺は天井を見ながら、動けなかった。
そして、決定的なことが起きた。
それは週末の土曜日だった。
俺は午前中に、駅前のコンビニに寄った。
特に用があったわけじゃない。ちょっと飲み物を買いたかっただけだった。
コンビニを出ると、スマホに奈々美から連絡が来た。
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今、外にいる?
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俺は少し驚いた。
土曜日の午前中。どうして奈々美が知っているんだ?
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駅前にいる。どうして?
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返した。
すぐに返ってきた。
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そっか。私も今、近くにいる。
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俺は周囲を見た。
コンビニの前の道に、人の流れがある。土曜日の朝で、買い物に来ている人たちがいた。
そこに、奈々美がいた。
五十メートルほど先に、奈々美が立っていた。
笑顔で手を振っていた。
俺は少し、足が止まった。
(偶然か?)
でも、土曜の朝に、俺が外に出た直後に「今、外にいる?」と連絡が来て、すぐ近くにいる。
俺は奈々美の方に歩いた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「散歩してた。元樹くんのうち、近くだから」
「ああ」
奈々美は笑顔だった。
自然な笑顔だった。
「一緒に帰ろうか」
「まあ、そうするか」
俺たちは並んで歩き始めた。
俺の頭の中で、何かが動いていた。
「元樹くんのうち、近くだから」という言葉。
奈々美は俺の家がここから近いことを知っている。それ自体は不思議じゃない。
でも、土曜の朝に、俺が外に出た直後に近くにいた。
俺はどのくらいの時間、外にいたか。
コンビニに入ったのが、十時十五分くらい。出たのが、十時二十五分くらい。
十分だ。
奈々美が「散歩してた」として、俺がコンビニに入った後に近くを歩いていたのなら、俺の姿を見た可能性はある。
でも、「今、外にいる?」という連絡が来たのは、コンビニを出た直後だった。
俺が外にいることを、奈々美はどうして知ったんだろう。
答えは、出なかった。
俺は考えながら、奈々美の横を歩いた。
奈々美は何も言わなかった。ただ笑顔で、俺の横を歩いていた。
その笑顔は穏やかだった。
穏やかすぎるくらいに。
(俺は今、何を感じている)
恐怖とは違う。不安とも違う。
でも、確実に何かが変わったという感覚があった。
今までの奈々美と、今の奈々美が、どこかで違う。
文化祭の前の奈々美は、「信じる練習をしてる」と言っていた。あの水族館の前の言葉は、本当のように聞こえた。
でも今は。
俺には、まだわからなかった。
二人の足音が、住宅街の静かな道に響いた。
奈々美が「今日、天気がいいね」と言った。
「ああ」
俺は答えながら、空を見た。
確かに晴れていた。
青い空だった。
でも、その空がどこか遠く見えた。
家に帰ってから、俺は自室で一人になった。
スマホを手に持ったまま、しばらく動かなかった。
今朝の奈々美の行動を、頭の中でもう一度なぞった。
連絡のタイミング。近くにいたこと。「散歩してた」という説明。
一つ一つは、おかしくない。
でも、全部重ねると、何かがずれている気がした。
俺はスマホを置いた。
ベッドに座って、部屋の中を見渡した。
奈々美と付き合い始めてから、ずっと感じてきたことだ。
見えない。
奈々美の本当のことが、いつも見えない。
「信じる練習をしてる」という言葉。水族館での声。あれは本当だと思いたい。思いたかった。
でも、見えない。
文化祭の後から、また何かが変わっている気がする。
玲が全部思い出した。
それが引き金になったのか。
俺には、わからなかった。
ただ、一つだけわかることがあった。
答えを出さないといけない。
玲との話も、奈々美のことも、俺自身の気持ちも。
宙ぶらりんのまま、誰かを傷つけ続けてはいけない。
光明が言った言葉が、また頭に浮かんだ。
「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」
わかっている。
俺は天井を見上げた。
外から、子供の声がした。
近所の子が、外で遊んでいる。
その声が、どこか遠くから来るみたいに聞こえた。
俺はその声を聞きながら、何もできないまま、座っていた。
夜になって、またスマホが鳴った。
奈々美からだった。
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今日は、一緒に歩けて良かった。
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俺は少し間を置いて、返した。
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ああ
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また来た。
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ねえ、元樹くん。
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また始まりかけた。
でも今度は続きがすぐ来た。
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私、変わろうとしてるよ。
ちゃんと変わってるって、信じてほしい。
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俺はその言葉を、何秒か見ていた。
「変わろうとしてる」
「信じてほしい」
奈々美がそう言った。
信じたかった。
信じたかったが、信じきれなかった。
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信じてる
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俺は打った。
でも、打った後で少し止まった。
「信じてる」と打ったが、それが本当かどうか、俺自身にもわからなかった。
信じたいという気持ちは本当だ。
でも、朝の出来事が、まだ引っかかっていた。
スマホを置いた。
奈々美から、しばらくして返信が来た。
────────────────
ありがとう。
おやすみなさい、元樹くん。
────────────────
俺は「おやすみ」と返して、スマホを伏せた。
部屋が静かだった。
「変わろうとしてる」
「信じてほしい」
その言葉は、本当だと思いたかった。
でも。
俺の中で何かが、静かに、鐘を鳴らしていた。
今までの奈々美と、同じ予感の音だった。
ゆっくりと、しかし確実に。
何かが、動き始めていた。
俺はその音を聞きながら、目を閉じた。
明日もまた、奈々美が待っているだろう。
いつもの角より、もう少し手前で。
笑顔で。
穏やかすぎるくらいの、笑顔で。
ずっと見ていたのよ。
浦島太郎の劇の間、ずっと。
元樹くんが浦島をやって、亀に引っ張られて、龍宮城に行って、大切なものを置いてきた話をした。
私が書いたセリフを、元樹くんが言った。
「置いてきたものだ」
客席で笑いが起きた時も、私は笑わなかった。
あのセリフだけは、コメディじゃなかったから。
そして。
客席の中に、あの子がいたのを見た。
ずっと元樹くんを目で追っていた。
私はわかる。
元樹くんのことを見る目が、あの目をしている人間のことが、私にはすぐわかる。
私も、ずっとそうしてきたから。
練習していた。信じることを。
でも。
目の前で。
元樹くんを見ている目が、あった。
練習していたのに。
変わろうとしていたのに。
ねえ、元樹くん。
私は変わろうとしてるよ。
本当に。
でも、変われない部分がある。
あの子が元樹くんを見る目を見た瞬間に、何かが音を立てて壊れた。
音がしたの。
静かな音だったけど、確かに聞こえた。
それから私は、また考え始めた。
いろんなことを。
ずっと昔から知っていることを。
元樹くんは、私のものだよ。
ずっと。
「ずっと一緒にいる」って、あの日の公園で約束したでしょ。
それは、変わらない。
どれだけ練習しても、どれだけ信じようとしても。
その根っこは、ずっとそこにある。
ねえ、元樹くん。
「置いてきたものだ」
あのセリフ、私が元樹くんに向けて書いたのは、本当だよ。
でも今は、少し違う意味に聞こえる。
置いていかせない。
今度こそ。
あなたがどこかへ行こうとするなら、私も行く。
あなたの見ている方向に、私が先にいる。
そのくらいのことは、できるから。
おやすみなさい、元樹くん。
明日も、待ってるね。
奈々美




