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奈々美さんの裏の顔  作者: 暁の裏


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第38話 「静かな始まり」

 

 文化祭の朝は、独特の空気がする。

 

 普通の登校日とは違う、少し浮いた感じ。静かなはずの廊下がざわめいていて、教室に入る前から何かが始まっているのがわかる。

 

 俺は早めに登校して、まず教室の状態を確認した。

 

 龍宮城のセットが、後ろ側にそびえている。昨日の最終確認より、なんとなく大きく見えた。夜中に段ボールが伸びたわけじゃないけど、朝の光の中で見ると迫力が違う。

 

「元樹、来てたんだ」

 

 光明が入ってきた。

 

「早いな」

 

「委員だから」

 

「そうか」

 

 光明が鞄を置きながら、セットを眺めた。

 

「でかいな、改めて」

 

「だろ」

 

「よく作ったよ、みんな」

 

「大道具チーム、頑張ってたからな」

 

 俺はホワイトボードに今日のタイムスケジュールを書き始めた。開会式の後、クラス単位で出し物の開始時間が決まっている。二年A組の劇は午前の部の最後、十一時半から。体育館のステージを使う。

 

 リハは十時から、ということになっていた。

 

 時計を見た。まだ七時五十分。

 

 集合時間は八時半。

 

 余裕はある、はずだった。

 

 

 

 八時半になって、クラスのほとんどが集まった。

 

 ところが、十分ほど経ったところで、問題が起きた。

 

 松田が青い顔で教室に入ってきた。

 

「元樹……ちょっとまずいかもしれない」

 

「どうした」

 

「昨日から腹が痛くて……今朝、病院行ったら急性胃腸炎って」

 

 俺は一秒、固まった。

 

「浦島太郎役の松田が」

 

「ごめん。無理したらやれないことはないかもしれないけど、医者に「絶対安静」って言われて、親もやめとけって……」

 

「わかった。帰れ」

 

「でも」

 

「帰れ。体を壊したら本末転倒だから」

 

 松田が申し訳なさそうに頭を下げて、教室を出ていった。

 

 俺はその背中を見送ってから、教室の中を見渡した。

 

 みんなが固まっている。

 

 主役の松田が抜けた。

 

 本番まで、あと三時間もない。

 

「……もう一人いないか確認する」

 

 俺は名簿を見た。

 

 その時、スマホが鳴った。

 

 音響照明担当の橋本からだった。

 

「元樹くん、俺もちょっとまずくて。昨日の夜から熱が出て……三十八度五分あって、学校来るのが……親が絶対ダメって言って」

 

 二人目だった。

 

 橋本は音響照明の中心だ。機材の操作を一番わかっているのが橋本で、サポートに入った林はあくまで補助だった。

 

「橋本、照明の操作、昨日全部林に教えてあったか」

 

「基本はやったけど、細かいところまでは……」

 

「わかった。大丈夫だ。早く良くなれよ」

 

 電話を切った。

 

 教室の中が、水を打ったように静かになっていた。

 

「浦島太郎の松田が急性胃腸炎、音響照明の橋本が発熱で二人欠席」

 

 俺が言うと、空気が重くなった。

 

「どうするの」

 

「浦島の代役が必要だな」

 

「誰でもできるの? 台詞覚えてないじゃん」

 

「台本持ちながらでもいいんじゃないか?」

 

「でもそれって劇として成立するの」

 

 意見が飛び交った。

 

 俺は少し考えた。

 

 台詞の量で言えば、浦島太郎は多い。主役だから当然だ。台本を持ちながら演じることはできる。でも、松田は台詞よりも「断れない性格」の動きを体で覚えていた。あの「えっと……はい……」という間の取り方は、練習を積み重ねた結果だった。

 

 誰でもいいわけじゃない。

 

 俺はもう一度、教室を見渡した。

 

 光明が「元樹がやれば」と言いそうな顔をしていた。

 

 その前に、奈々美が静かに手を挙げた。

 

「元樹くんがやれば良いと思う」

 

 教室の視線が集まった。

 

「学級委員として全体を把握してるし、練習も一番そばで見てた。台詞も、ある程度入ってると思うけど」

 

「台本持ちながらなら確かに元樹が一番向いてるかも」

 

「浦島、断れない性格だし元樹向いてるじゃん」

 

 誰かが言って、笑いが起きた。

 

「笑うな」

 

 俺は言ったが、自分でも少し笑えた。

 

「ただ、元樹がやると全体仕切りができなくなる」

 

 光明が言った。

 

「その分を俺が引き受けられる。各チームの最終確認は俺と航でやる。元樹は浦島に集中しろ」

 

「光明……」

 

「いいから。他にどうしようもないだろ」

 

 光明がそう言ったから、俺はそれ以上は断れなかった。

 

「わかった。俺が浦島をやる。台本は手に持って出る。音響照明は林が中心になって、わからないところは俺に声かけてくれ、橋本の操作メモも昨日渡してあるはずだから確認してくれ」

 

「はい」

 

 林が緊張した顔で頷いた。

 

「じゃあ、十時のリハから動くぞ」

 

 

 

 着替えの時間が来た。

 

 浦島の衣装は、紺と白の簡単な着物風の衣装だった。松田のサイズで作ってあったけど、俺と松田はそんなに体格が変わらないから、なんとか着れた。

 

 鏡を見ると、少し間抜けな感じがした。

 

「似合ってる」

 

 後ろで航が言った。航は甲羅を背負って、黄緑のフードを被っていた。

 

「お前の方が似合ってる」

 

「ありがとう。最高の亀になる」

 

「頼む」

 

 中村が乙姫の白と水色のドレスを着て、颯爽と歩いてきた。その出来栄えがよくて、思わず笑いそうになった。

 

 準備が整っていく。

 

 俺は台本を手に持ちながら、浜辺のシーンのセリフを小声で確認した。

 

「(浜辺の空気を吸いながら)いい日だな……。さて、今日も魚でも捕りに行くか」

 

 下手くそだ。でもやるしかない。

 

 舞台袖で台本を確認していると、隣に奈々美が来た。

 

 奈々美は脚本チームだから、衣装はなく、私服に近い格好のままだ。でも、袖で全体の動きを確認する係を引き受けていた。

 

「台詞、入ってる?」

 

「八割くらいは」

 

「残りの二割は台本見ながらでいいよ。台本持ちの浦島っていうのは、それはそれで味があるかもしれない」

 

「フォローになってない」

 

「フォローのつもりだよ」

 

 奈々美が少し笑った。

 

「元樹くんが浦島をやるって、最初に聞いた時、なんとなくそうなる気がしてたかもしれない」

 

「なんでそんなこと思うんだ」

 

「なんとなく」

 

 奈々美はそれだけ言って、前を向いた。

 

 その横顔が、少しだけ何かを考えているように見えた。

 

 でも、今は稽古だ。

 

 

 

 十時からのリハは、本番を想定して全編通した。

 

 俺の浦島は、最初の一分くらいはガチガチだった。

 

「(浜辺で亀を見つける)……お前、ちょっと待って、大丈夫か?」

 

 自分の声が上擦っているのがわかった。

 

 航の亀が、俯いた状態で台詞を言った。

 

「……同行せよ」

 

「…ちょっと待って、礼なしですか? 俺、助けたんですけど?」

 

「行くぞ」

 

「行くってどこに……」

 

 航が「何も言わずに」すたすたと歩き始めた。

 

 その背中が、台本にないのに妙に凛々しかった。

 

「あ、待って、待ってください!」

 

 俺が台本を持ちながら慌てて追いかける。

 

 リハ中なのに笑いが起きた。

 

 なんとかなるかもしれない、と思った。

 

 龍宮城のシーンは、中村の乙姫が大袈裟なほどのおもてなしで、俺(浦島)が断れずにどんどん食べさせられる展開だった。松田の動きを見ていたから、なるべく再現しようとしたが、うまくいかなくなった時に思い切って台本を読んだ。

 

 変に台本を隠そうとするより、開き直った方がよかった。

 

 全通しが終わったのは十一時過ぎだった。

 

「今のでいける?」

 

 光明が聞いた。

 

「いける」

 

 俺は答えた。

 

 不安がないと言えば嘘になる。でも、いけるとしか言いようがなかった。

 

 

 

 時計が十一時二十分を指した頃、体育館への移動が始まった。

 

 大道具チームがセットを台車に乗せて運ぶ。衣装チームが衣装袋を抱えて歩く。音響照明の林が機材の最終確認をしながらついてきた。

 

 俺は移動しながら、台本の最後のページをもう一度確認した。

 

 亀のセリフ。

 

「それが、置いてきたものだ」

 

 奈々美が書いたセリフだ。

 

 浜辺の女の子が、浦島を待って、でも浦島は気づかずに龍宮城へ行った。そして帰ってきた時には、もうその子はいない。時間も、大切なものも、全部置いてきてしまった後だった。

 

 俺は台本を閉じた。

 

 体育館が近づいてくる。

 

 廊下の向こうから、前の出し物の拍手が聞こえた。

 

 

 

 体育館は、そこそこ埋まっていた。

 

 他のクラスの生徒や、見に来た保護者がいる。観客席の前の方に、一年生のグループが固まっていた。

 

 俺は袖から客席を少しだけ覗いた。

 

 見知らぬ顔が並んでいる中で、一つの顔が目に入った。

 

 一年A組の生徒だったはずだ。小柄で、おとなしそうな女の子。

 

 あかりだ。星野あかり。

 

 エマと一緒にいるのかと思ったが、今日は一人だった。前の方の席に座って、ステージを見上げていた。

 

 俺が見ているのに気づいていない。

 

 真剣な目だった。

 

(文化祭、見に来てたんだな)

 

 そう思ってから、俺は袖に引っ込んだ。

 

 今は関係ない。劇に集中する。

 

 

 

 転換時間が終わり、幕が上がった。

 

 浜辺の音楽が流れる。林がボタンを押す音が聞こえた。

 

 俺は舞台の袖で息を吸った。

 

 奈々美が横にいた。

 

「頑張って」

 

 奈々美の声は、静かだった。

 

「ああ」

 

 俺は歩いた。

 

 舞台に出た瞬間、照明の明かりが全身に当たった。

 

 客席が広い。

 

(落ち着け)

 

 俺は台本を持ちながら、浜辺の中央に立った。

 

「いい日だな……」

 

 声が思ったより通った。

 

「さて、魚でも捕りに行くか」

 

 そこへ、航の亀がずかずかと出てきた。

 

 亀の衣装を着た航が、甲羅を揺らしながら歩いてくる。その見た目だけで、客席のあちこちで笑いが起きた。

 

「(俯いて)……同行せよ」

 

「え?」

 

「同行せよ」

 

「ちょっと待って待って、礼なし? 俺、今あなたを助けましたよね? 亀を助けた対価として、最低限のお礼くらいは……」

 

「同行せよ」

 

「なんなのこの亀……」

 

 また笑いが起きた。

 

 俺は次第に体が動いてきた。

 

 松田の動きを思い出しながら、でも松田じゃない自分なりの動きで、断れない浦島を演じた。台本を持っているのがある意味で目立ったが、逆に「台本を持ちながらも亀に引きずられていく浦島」という状況がおかしかったのか、客席が温かかった。

 

 龍宮城のシーンに入った。

 

 中村の乙姫が登場した瞬間、客席から「おお」という声が上がった。衣装の出来が良かった。

 

「ようこそ、龍宮城へ。おもてなしいたします」

 

「あ、どうも……」

 

「さあさあ、食べてくださいませ」

 

「い、いただきます……」

 

 どんどん料理が来る。浦島が断れずに食べ続ける。

 

「もうお腹が……」

 

「まだまだございます」

 

「あの、本当にもう……」

 

「おもてなしでございます」

 

「おもてなしが止まらない!」

 

 客席が沸いた。

 

 タコ役の大木が「タコ踊り」を始めた時、前の方の座席から笑い声が弾けた。

 

 大木のタコ踊りは、リハでも爆発的だったが、本番の方が更に上だった。八本の手を模した腕の動きが、誇張されすぎていて逆に完璧だった。

 

 MCのクラゲ役・長尾が「龍宮城ではみなさんのご来場をお待ちしておりました、クラゲの長尾でございます」とアナウンス口調で言った瞬間も笑いになった。

 

 俺は演じながら、少しずつ余裕が出てきた。

 

 台本を見なくても済む場面が増えた。

 

 手に台本を持っているのを忘れかけた場面もあった。

 

 劇が動いていた。

 

 

 

 客席の中で、星野あかりはずっと舞台を見ていた。

 

 一人で、前の方の席。

 

 浦島役の渡部元樹が、舞台の中央に立っている。

 

 亀に振り回されて、断れなくて、龍宮城でおもてなしを受け続けて。

 

 台本を手に持っているのが、かえってどこかほほえましかった。

 

(……)

 

 あかりは、密かに思っていた。

 

 文化祭の劇があると知った時から、見に来ようと決めていた。エマに誘われたわけじゃない。自分で決めた。

 

 渡部元樹が劇をやる。それだけで十分な理由だった。

 

 あかりはあの日から、元樹の背中を探すようになった。

 

 廊下で見かける。教室の前を通る。文化祭の準備で動いている。

 

 自分から声をかけることはできなかった。元樹には彼女がいると知っていたし、柊奈々美という存在が怖かった。

 

 あの放課後の出来事を、あかりはまだ忘れていない。

 

 奈々美に呼び止められた時の、冷たい笑顔。「変なことを吹き込まないでね」という言葉。表面は穏やかなのに、目の奥が全く別のことを言っていた。エマが教えてくれた「目が笑っていない」という言葉の意味を、あかりはあの時初めて体感した。

 

 でも今日は、舞台の上の元樹だけを見ていた。

 

 台本を持ちながら、それでも一生懸命に演じている。台詞が少し詰まっても、前を向いて続ける。

 

(好きだな)

 

 あかりは、心の中で思った。

 

 声には出さなかった。出せなかった。

 

 ただ、舞台の上の元樹をずっと目で追っていた。

 

 亀の台詞に客席が沸く。元樹が困った顔をする。その困り顔も、あかりには何かを揺さぶった。

 

 龍宮城のシーンが終わって、玉手箱のシーンに移った。

 

 浦島が玉手箱を手に取る場面で、あかりは息をつめた。

 

 元樹の手が、台本と一緒に玉手箱の小道具を持つ。その所作が、どこか真剣で。

 

 あかりはもっとよく見ようとして、少しだけ身を乗り出した。

 

 その瞬間だった。

 

 視線を感じた。

 

 舞台からじゃなかった。

 

 舞台袖の、暗がりから。

 

 あかりは反射的にそちらを見た。

 

 袖の影の中に、柊奈々美が立っていた。

 

 あかりと目が合った。

 

 奈々美は笑っていた。

 

 いつもの、穏やかな笑顔の形をしていた。

 

 でも。

 

 目が、笑っていなかった。

 

 笑顔の形をした顔の中で、目だけが全く別のものを映していた。光が、なかった。感情の色が、なかった。ただ、真っ直ぐに、あかりを見ていた。

 

 まるで、ずっと前から知っていたかのように。

 

 まるで、あかりが何を見ていたのか、全部わかっているかのように。

 

 あかりの背筋が、一瞬で凍った。

 

 全身の毛が、逆立った気がした。

 

 心臓が、不規則に鳴った。

 

 手が震えた。

 

 奈々美は、表情を変えなかった。

 

 ただ、ほんのわずかに、口の端が動いた。

 

 笑顔のまま、何かを言いたそうな。

 

 でも、何も言わなかった。

 

 ただ、見ていた。

 

(逃げないと)

 

 あかりの頭に、その言葉が浮かんだ。

 

 でも体が動かなかった。

 

 奈々美が、ゆっくりと視線を外した。

 

 舞台の方を見た。

 

 あかりは、息をすることを忘れていた。

 

 気がついたら、浅い息を繰り返していた。

 

 舞台の上で笑いが起きた。でも、あかりの耳にはほとんど届かなかった。

 

(怖い)

 

 それだけが、あかりの中にあった。

 

 

 

 玉手箱のシーンは、コメディタッチで進んだ。

 

 浦島が「開けてはいけない」と言われた玉手箱を前に、葛藤するシーンだ。

 

「開けたいけど……でも開けたら……でも気になる……でもダメって言われたし……でも……」

 

 俺が台詞を言いながら、玉手箱を手に取っては置き、また取っては置く動作を繰り返した。

 

 客席から笑いが来るのがわかった。

 

 そのリズムをうまくつかもうとした時、航の亀が舞台袖から顔を出して言った。

 

「……それでいいのか、浦島」

 

 台本にないセリフだった。

 

 一瞬固まったが、俺はすぐに受けた。

 

「え、亀? もう帰ったんじゃ」

 

「帰ったが、戻った」

 

「なんで」

 

「……気になったから」

 

「亀に気にしてもらえるとは思わなかった」

 

「礼は不要だ」

 

「言ってること全然分かりません!」

 

 客席が爆笑になった。

 

 これは想定外のやり取りだったけど、完全にうまくいっていた。航がアドリブで入ってきたのは、おそらく本番の空気を読んでのことだと思う。それに乗れた自分も、少し驚いた。

 

 玉手箱のシーンの後、浦島は結局玉手箱を開けてしまう。

 

 老人になった浦島が、浜辺に戻ってくる。

 

 その場面で、照明が変わった。

 

 林の操作は、橋本が教えていた通りの手順で正確だった。青かった照明が、夕暮れのオレンジに変わる。

 

 浦島は浜辺に立って、辺りを見渡す。

 

 待っていたはずの女の子が、いない。

 

「あれ……? あの子、どこに……」

 

 俺は台本を持ちながら、舞台の端を見た。

 

 さっきまでそこにいた藤田さんの姿が、ない。

 

 静かなシーンだった。笑いがなかった。

 

 客席も、少し静かになった気がした。

 

 そこへ、航の亀が戻ってくる。

 

 今度は、さっきまでの高飛車な動きじゃなかった。甲羅を揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。

 

「浦島」

 

「亀……。あの子、どこへ行ったんだ? ここで待ってるって……」

 

 航は台詞を言う前に、一瞬の間を置いた。

 

 本番でも、リハでも、ここの間が一番長かった。

 

「……それが、置いてきたものだ」

 

 客席が、静かになった。

 

 笑いじゃなかった。

 

 でも、拒絶でもなかった。

 

 何かが刺さった、という沈黙だった。

 

 俺は浦島として、その場に立っていた。

 

「置いてきたものだ」という言葉が、舞台の空気の中に残った。

 

 奈々美が書いたセリフ。

 

 俺はその言葉を舞台の上で受け取って、何も言えない浦島のまま、立っていた。

 

 

 

 幕が下りた。

 

 一瞬の間があって、客席から拍手が起きた。

 

 大きかった。

 

 思っていたより、ずっと大きかった。

 

 袖に引っ込むと、みんなが「やった!」「よかった!」と声を上げていた。

 

「元樹、よかったぞ!」

 

 航が興奮した顔で言った。甲羅が少し傾いていた。

 

「お前のアドリブのほうがよかった」

 

「俺もびっくりした。なんか出てきてしまった」

 

 光明が俺の肩を叩いた。

 

「お疲れ」

 

「お前のおかげだよ。全体仕切ってくれて」

 

「仕切り甲斐があったよ。みんな動いてたから」

 

 喧騒の中で、俺は少しだけ息をついた。

 

 緊張が、ゆっくりと抜けていく。

 

「置いてきたものだ」という言葉が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 

 

 カーテンコールが終わって、着替えを済ませた。

 

 体育館から出ると、廊下がにぎわっていた。

 

 文化祭の他の出し物を回る生徒たちの流れがあった。

 

 俺は着替えた後で、まだ袖にいたかったが、後のクラスの準備のために移動しないといけなかった。

 

 廊下を歩いていると、光明と未菜が一緒にいた。

 

「元樹、お疲れ。劇、すごく良かったよ」

 

 未菜が言った。

 

「玲ちゃんも見に来てたんだよ、一緒に」

 

「そうか」

 

「最後の亀のセリフで、ちょっとうるっとしてた」

 

「玲が?」

 

「うん。泣きそうなのに泣かないでいる顔してた。あの子はああいうとこ頑固なんだよ」

 

 未菜が少し笑いながら言った。

 

「奈々美に伝えとくよ。劇、良かったって」

 

「ありがとう」

 

 未菜と光明が先に行った。

 

 俺は廊下で少し立ち止まった。

 

 玲が見に来ていた。

 

「置いてきたものだ」というセリフを、玲は客席で聞いていた。

 

 奈々美が書いたそのセリフを。

 

 何を思ったんだろう。

 

 俺には、想像できなかった。

 

 廊下の向こうから、クラスの誰かが「元樹! 写真撮ろうよ、衣装着て!」と呼んできた。

 

「もう着替えた」

 

「もったいない! あの浦島の格好でもう一枚撮りたかった」

 

「今更着直せない」

 

「えー」

 

 笑いながら、俺はその場所に向かって歩き始めた。

 

 

 

 文化祭の昼休みは、各クラスの出し物を自由に回れる時間だった。

 

 俺はクラスの出し物の後片付けを少し手伝ってから、あとは自由に動いた。

 

 光明と未菜、航と、しばらく一緒に校内を回った。

 

 お化け屋敷のクラスがあって、航が「絶対入る」と言って俺を引っ張った。暗い廊下で誰かが「わっ」と出てきたのに、航だけ平然としていて、俺は少しだけびくっとした。

 

「お前こわいんだな」

 

「驚いただけだ」

 

「顔が面白かったぞ」

 

「うるさい」

 

 笑いながら廊下を歩いていると、少し離れたところに、星野あかりがいた。

 

 一人で歩いていた。エマの姿はなかった。

 

 あかりは俺に気づいていない様子で、うつむきながら歩いている。

 

 その足取りが、なんとなく重かった。

 

(あかり……?)

 

 俺はその背中を少し見てから、前に向き直った。

 

 声をかけようかと思ったが、かけ方がわからなかった。

 

 あかりと俺の接点は、ほとんどない。

 

 奈々美に釘を刺されたことがあることも、俺は後からなんとなく聞いていた。エマが教えてくれたわけじゃないが、空気で察したことがあった。

 

 声をかけることが、あかりにとって良いことかどうか、わからなかった。

 

 俺はそのまま、前を向いて歩いた。

 

 

 

 午後の部が始まる前、俺は教室に戻った。

 

 後片付けの残りを確認するためだった。

 

 教室に入ると、静かだった。

 

 みんなまだ外を回っているのか、誰もいない。

 

 龍宮城のセットが、解体を待っている。

 

 俺はセットの前に立って、少し眺めた。

 

 段ボールと絵の具で作った、手作りの龍宮城。

 

 本番では照明が当たって、別物みたいに見えた。

 

 でも今は照明もない。ただの段ボールだ。

 

 それでも、なんか感慨深かった。

 

「元樹くん」

 

 声がして、振り返った。

 

 奈々美だった。

 

 教室の入口に立っていた。

 

 いつから来ていたのか、わからなかった。足音がしていなかった。

 

「奈々美。いたのか」

 

「少し前から」

 

 奈々美が教室の中に入ってきた。

 

 セットを見上げた。

 

「上手くいったね」

 

「お前の脚本のおかげだ」

 

「みんなが演じてくれたから」

 

「奈々美の演出も良かったよ。航のあの間の取り方、お前が言ったことが活きてた」

 

「そう……」

 

 奈々美が静かに言った。

 

 俺はセットの前で、奈々美と並んで立った。

 

「あの脚本、どう思う? 浦島太郎のコメディ版としては、ちゃんとうまくいったと思うか」

 

「うまくいったと思う。笑えて、最後に少し刺さって。それが一番やりたかったことだったから」

 

「「置いてきたものだ」のセリフ。本番で言われた時、なんか思ったより効いた」

 

「……そう」

 

 奈々美が俺を見た。

 

「元樹くんが言ってくれたから、効いたのかもしれない」

 

「俺はただ立ってただけだ」

 

「「ただ立ってる」にも、意味があるよ」

 

 奈々美の言い方は、静かだった。

 

 俺はその言葉の意味を考えながら、セットを見た。

 

「奈々美」

 

「ん」

 

「このセリフ、浦島のことだけじゃなくて、俺に対して書いた気がしてた」

 

 少し間があった。

 

「……そう思った?」

 

「ああ」

 

「そう感じたなら、そうかもしれない」

 

 奈々美が答えた。

 

 曖昧とも、肯定とも取れる答えだった。

 

「コメディの中に書いたから、どうとでも受け取れるようにしてあるつもりだったけど」

 

「奈々美はいつもそうだ」

 

「そうかな」

 

「そうだよ。わかるようで、わからない」

 

 俺はそう言ってから、奈々美の顔を見た。

 

 奈々美は微笑んでいた。

 

 普通の笑顔だった。

 

 でも、その笑顔の奥に何があるか、俺にはやっぱりわからなかった。

 

「今日の劇、元樹くんが主役でよかった」

 

「松田が抜けなければ松田がやってたんだが」

 

「そうだけど」

 

 奈々美が少しだけ視線を落とした。

 

「元樹くんが浦島をやって、亀のセリフを正面から受けたのは、良かったと思う。どういう意味でも」

 

「どういう意味でも、って何だよ」

 

「文字通りの意味で」

 

 奈々美はそれだけ言って、セットから視線を外した。

 

「じゃあ私、後片付けの手伝いに行くね」

 

「ああ、頼む」

 

 奈々美が教室を出た。

 

 俺はしばらく、その場所に立っていた。

 

「置いてきたものだ」

 

 その言葉が、また浮かんだ。

 

 

 

 その日の夜、俺は自室で横になっていた。

 

 文化祭が無事に終わった。

 

 劇も、なんとかなった。

 

 松田の穴を埋めて、橋本の穴も林が補って、全部がかろうじて形になった。

 

 達成感があった。疲れもあった。

 

 でも、頭が妙に静かにならなかった。

 

 奈々美のことを考えていた。

 

 セットの前で言った言葉。「元樹くんが浦島をやって、亀のセリフを正面から受けたのは、良かったと思う。どういう意味でも」

 

 どういう意味でも。

 

 奈々美の「どういう意味でも」は、いつも複数の意味を持っている。

 

 あの脚本の中の浦島は、大切なものに気づかずに置いてきてしまった。

 

 それが俺への皮肉なのか。警告なのか。

 

 それとも、ただの解釈の話なのか。

 

 俺にはわからない。

 

 奈々美はいつも、俺にはわからない。

 

 スマホを手に取った。

 

 奈々美からメッセージが来ていた。

 

 ────────────────

 

 今日の劇、本当によかったよ。

 

 みんなの頑張りが見えた。

 

 元樹くんも、最後まで逃げなかった。

 

 おやすみなさい。

 

 ────────────────

 

「逃げなかった」

 

 その言葉を、俺は何度か読んだ。

 

 劇のことを言っているのか。

 

 それとも別のことを言っているのか。

 

 どちらにも取れた。

 

 どちらにも取れるように、奈々美は書いている気がした。

 

「おやすみ」とだけ返した。

 

 スマホを置いて、天井を見た。

 

 文化祭が終わった。

 

 玲との話が、次だ。

 

 俺が答えを出さないといけない。

 

 でも今夜は、頭が動かなかった。

 

 疲れていた。

 

 ただ、天井を見ていた。

 

 

 

 文化祭の翌日、登校した。

 

 廊下を歩いていると、星野あかりとすれ違った。

 

 あかりは下を向いて歩いていた。

 

 俺が来るのに気づいて、少し視線を上げた。

 

 目が合った瞬間、あかりが小さく頭を下げた。

 

「あ、おはようございます」

 

「おはよう」

 

 俺は返した。

 

 あかりはそのまま通り過ぎようとした。

 

「昨日、劇見に来てただろ」

 

 俺が言うと、あかりが足を止めた。

 

 振り返らなかった。

 

「……見てました」

 

「よかったか」

 

「よかった……です」

 

 声が少し小さかった。

 

「最後の亀のセリフ、ちゃんと聞こえたか」

 

「……聞こえました」

 

 あかりがゆっくりと振り返った。

 

 その顔が、少し青ざめていた。

 

 あれ、と俺は思った。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫です。ちょっと、今日体調が……すみません」

 

 あかりはそう言って、また下を向いて歩き始めた。

 

 俺はその背中を少しだけ見てから、自分の教室に向かった。

 

(顔色が悪かったな……)

 

 昨日も、どこか様子がおかしかった気がする。

 

 廊下を歩いているあかりの足取りが重かった。あれは文化祭で疲れたからじゃない、もっと別の何かを抱えているような感じだった。

 

 でも、俺には踏み込む権限がない。

 

 俺は教室へ向かった。

 

 

 

 教室に入ると、奈々美がいた。

 

 もう席に座っていた。

 

 朝のホームルームまで少し時間がある。

 

 奈々美は俺が入ってきたのを見て、「おはよう」と言った。

 

「おはよう」

 

 俺は席に着いた。

 

 鞄から教科書を出していると、奈々美が静かに言った。

 

「昨日、廊下で会ったんだ」

 

「え?」

 

「星野さんと」

 

 俺は手を止めた。

 

「……そうか」

 

「ちょっとだけ話した」

 

 奈々美の声は穏やかだった。

 

「どんな話を」

 

「大したことじゃない。劇の感想を聞いた」

 

 そう言って、奈々美は教科書を開いた。

 

 俺はそれ以上は聞かなかった。

 

 でも、胸の中に何かが引っかかった。

 

 奈々美があかりと「ちょっとだけ話した」。

 

 それが何でもないことのように聞こえたが、奈々美が「何でもないこと」を言う時に、本当に何でもないことはあまりない。

 

 俺はそう思いながら、教科書のページを開いた。

 

 

 

 その日の昼休み、エマがあかりを廊下で探していた。

 

 いつものあかりの居場所に行っても、いなかった。

 

 エマは廊下を歩きながら、心配していた。

 

 昨日の文化祭から、あかりの顔色が悪かった。連絡をしても、短い返信しか来なかった。

 

(あかりちゃん、どこ……)

 

 エマは階段の踊り場まで歩いてみた。

 

 そこにあかりがいた。

 

 窓の外を見ながら、一人でいた。

 

「あかりちゃん」

 

 エマが声をかけると、あかりが振り返った。

 

 目が少し赤かった。

 

「エマさん」

 

「探してた。昨日から連絡しても……大丈夫?」

 

「……大丈夫です」

 

「大丈夫じゃない顔してる」

 

 エマが遠慮なく言った。

 

 あかりが少し俯いた。

 

「何かあったの?」

 

「……昨日の文化祭で、奈々美さんと目が合って」

 

 あかりが小さな声で言った。

 

「奈々美さんの目が……」

 

 あかりは言葉を止めた。

 

「?」

 

「あんな目、見たことない。笑顔の形なのに、目の中に何もなくて。ただこっちを見てて……」

 

 エマの表情が変わった。

 

「劇の時に、袖から?」

 

「うん。私が先輩を見てたのが、わかってたと思う。ずっと見られてた」

 

 エマは少し黙った。

 

「それから、帰ろうとしたら廊下で声かけられて」

 

「声かけられた……?」

 

「「劇、良かったね」って。にこにこしながら。でも目が……目が全然笑ってなくて」

 

 あかりの声が微かに震えた。

 

「怖かった」

 

「……そう」

 

 エマは眉を寄せた。

 

「あかりちゃん、絶対に一人で動かないで。廊下でも、放課後でも。私のいないところで奈々美さんと話しちゃダメ」

 

「……うん」

 

「今日の帰り、一緒に帰ろう。私が待ってる」

 

「でも、エマさんのクラスと違うから」

 

「それでいい。迎えに行くから」

 

 エマがはっきりと言った。

 

 あかりが少し、息をついた。

 

「ありがとう、エマさん」

 

「ありがとうじゃなくていい。一人でいないで」

 

 エマがあかりの隣に並んで、窓の外を見た。

 

 奈々美という存在のことを、エマはずっと気にしていた。

 

 最初に廊下で見かけた時から。あの「目が笑っていない」という感覚が、ずっと消えなかった。

 

 そして今、また動き始めた気がした。

 

(何かが変わった。あの文化祭で)

 

 エマにはわからなかった。

 

 でも、奈々美が動く時の予感は、これまでと違った。

 

 

 

 文化祭の翌週。

 

 最初の変化は、小さなことだった。

 

 奈々美が放課後、少し遅く帰るようになった。

 

「脚本の振り返りで残っている」と言っていたが、脚本チームの中尾も吉田も、その日は早く帰っていた。

 

 俺は光明と話していた時に、それをなんとなく思い出した。

 

「奈々美、最近放課後遅くなってるな」

 

「そうか?」

 

「脚本の振り返りって言ってるけど、中尾と吉田はもう帰ってるから……」

 

「まあ、一人で残ってることもあるんじゃないか。脚本担当だしな」

 

「そうかな」

 

「気にしすぎじゃないのか」

 

 光明がそう言ったから、俺はそれ以上は言わなかった。

 

 でも、何かが引っかかっていた。

 

 

 

 変化の二つ目は、スマホだった。

 

 奈々美からのメッセージが、少しずつ増えた。

 

 最初は一日に二、三件だったのが、いつの間にか四件、五件になっていた。

 

 内容は普通だった。学校のことや、脚本の振り返りや、何気ない日常の話だった。

 

 でも、返信が来るまでの時間が、短くなっていた。

 

 俺が返信してから数分で、次のメッセージが来る。

 

 最初は気にしていなかった。

 

 でも、ある夜に気がついた。

 

 俺が返信したのが二十二時で、次のメッセージが来たのが二十二時三分だった。

 

 三分で返ってきた。

 

 俺はスマホを見ながら、少しだけ何かを思った。

 

 でも、まだそれが何なのかはわからなかった。

 

 

 

 変化の三つ目は、登校路だった。

 

 奈々美が待っている場所が、少しずつ手前になっていた。

 

 最初は「いつもの角」だったのが、いつの間にか「いつもの角より一つ手前」になっていた。

 

 でも今度はさらに手前だった。

 

 俺が気づいたのは、ある朝に「あれ、今日もここにいる?」と思った時だ。

 

「元樹くん、おはよう」

 

 奈々美は、少しだけ急いで歩いてきた様子だった。

 

「今日、早かったな」

 

「少し早めに出た」

 

「そうか」

 

 俺は並んで歩いた。

 

 奈々美の歩くペースが、俺に合わせて調整されている。いつもそうだ。でも今日は、少しだけ近かった。

 

 肩が、わずかに触れそうなくらい。

 

 それが今日だけかと思ったら、翌日も同じ場所で待っていた。

 

 そのまた翌日も。

 

 俺はその変化に気づきながら、何も言えなかった。

 

 言うべき言葉が、まだ整理できていなかった。

 

 

 

 変化の四つ目は、あかりのことだった。

 

 ある昼休みに、俺は廊下を歩いていた。

 

 前方に、星野あかりとエマがいた。

 

 二人で話していて、楽しそうだった。

 

 エマがあかりの肩に触れて、何か言っている。あかりが少し微笑んでいた。

 

 良かった、と思った。

 

 あかりの顔色は少し良くなっていた。

 

 その時、俺の後ろから声がした。

 

「元気そうね」

 

 奈々美だった。

 

 俺の隣に、いつの間にか来ていた。

 

 奈々美はあかりとエマの方を見ていた。

 

 奈々美が俺の方を見た。

 

 それから、また前を向いた。

 

「星野さんと藤宮さん、仲良いね」

 

「ああ」

 

「良いことだと思う」

 

 奈々美はそう言って、笑った。

 

 普通の笑顔だった。

 

 でも、俺はその「良いことだと思う」という言葉の後ろに何かがある気がして、それを探そうとして、でも見つけられなかった。

 

 奈々美はもう前を向いて歩いていた。

 

 

 

 ある夜、奈々美からのメッセージが、それまでと少し違った。

 

 ────────────────

 

 今日の放課後、少し残って廊下を歩いてたら、夕日が差し込んでてきれいだった。

 

 元樹くんにも見せたかったな。

 

 ────────────────

 

 俺は少し間を置いて読んだ。

 

「見せたかった」。

 

 今までも、こういう言い方がなかったわけじゃない。

 

 でも、今日は少し違う感じがした。

 

 ────────────────

 

 きれいな夕日だったな

 

 ────────────────

 

 それだけ返した。

 

 数分後。

 

 ────────────────

 

 ねえ、元樹くん。

 

 ────────────────

 

 それだけで止まった。

 

 続きが来ない。

 

 俺は待った。

 

 一分経っても来ない。

 

 三分経っても来ない。

 

 ────────────────

 

 何?

 

 ────────────────

 

 俺が送ると、すぐに返ってきた。

 

 ────────────────

 

 なんでもない。

 

 おやすみなさい。

 

 ────────────────

 

 俺はその画面を見ていた。

 

「なんでもない」で終わった。

 

 でも、始まりかけた何かがある気がした。

 

 おやすみ、と打ちながら、俺は考えた。

 

 これが、奈々美の変化のことを光明に言うべきかどうか。

 

 でも、言葉にできなかった。

 

 何かが変わっている、という感覚はある。でも、それが何なのか、まだ形にならなかった。

 

 スマホを置いた。

 

 天井を見た。

 

 玲との話も、まだ終わっていない。

 

 答えを出さないといけない。

 

 その間に、奈々美が変わっていく気がする。

 

 俺は天井を見ながら、動けなかった。

 

 

 

 そして、決定的なことが起きた。

 

 それは週末の土曜日だった。

 

 俺は午前中に、駅前のコンビニに寄った。

 

 特に用があったわけじゃない。ちょっと飲み物を買いたかっただけだった。

 

 コンビニを出ると、スマホに奈々美から連絡が来た。

 

 ────────────────

 

 今、外にいる?

 

 ────────────────

 

 俺は少し驚いた。

 

 土曜日の午前中。どうして奈々美が知っているんだ?

 

 ────────────────

 

 駅前にいる。どうして?

 

 ────────────────

 

 返した。

 

 すぐに返ってきた。

 

 ────────────────

 

 そっか。私も今、近くにいる。

 

 ────────────────

 

 俺は周囲を見た。

 

 コンビニの前の道に、人の流れがある。土曜日の朝で、買い物に来ている人たちがいた。

 

 そこに、奈々美がいた。

 

 五十メートルほど先に、奈々美が立っていた。

 

 笑顔で手を振っていた。

 

 俺は少し、足が止まった。

 

(偶然か?)

 

 でも、土曜の朝に、俺が外に出た直後に「今、外にいる?」と連絡が来て、すぐ近くにいる。

 

 俺は奈々美の方に歩いた。

 

「どうしたんだ、こんな時間に」

 

「散歩してた。元樹くんのうち、近くだから」

 

「ああ」

 

 奈々美は笑顔だった。

 

 自然な笑顔だった。

 

「一緒に帰ろうか」

 

「まあ、そうするか」

 

 俺たちは並んで歩き始めた。

 

 俺の頭の中で、何かが動いていた。

 

「元樹くんのうち、近くだから」という言葉。

 

 奈々美は俺の家がここから近いことを知っている。それ自体は不思議じゃない。

 

 でも、土曜の朝に、俺が外に出た直後に近くにいた。

 

 俺はどのくらいの時間、外にいたか。

 

 コンビニに入ったのが、十時十五分くらい。出たのが、十時二十五分くらい。

 

 十分だ。

 

 奈々美が「散歩してた」として、俺がコンビニに入った後に近くを歩いていたのなら、俺の姿を見た可能性はある。

 

 でも、「今、外にいる?」という連絡が来たのは、コンビニを出た直後だった。

 

 俺が外にいることを、奈々美はどうして知ったんだろう。

 

 答えは、出なかった。

 

 俺は考えながら、奈々美の横を歩いた。

 

 奈々美は何も言わなかった。ただ笑顔で、俺の横を歩いていた。

 

 その笑顔は穏やかだった。

 

 穏やかすぎるくらいに。

 

(俺は今、何を感じている)

 

 恐怖とは違う。不安とも違う。

 

 でも、確実に何かが変わったという感覚があった。

 

 今までの奈々美と、今の奈々美が、どこかで違う。

 

 文化祭の前の奈々美は、「信じる練習をしてる」と言っていた。あの水族館の前の言葉は、本当のように聞こえた。

 

 でも今は。

 

 俺には、まだわからなかった。

 

 二人の足音が、住宅街の静かな道に響いた。

 

 奈々美が「今日、天気がいいね」と言った。

 

「ああ」

 

 俺は答えながら、空を見た。

 

 確かに晴れていた。

 

 青い空だった。

 

 でも、その空がどこか遠く見えた。

 

 

 

 家に帰ってから、俺は自室で一人になった。

 

 スマホを手に持ったまま、しばらく動かなかった。

 

 今朝の奈々美の行動を、頭の中でもう一度なぞった。

 

 連絡のタイミング。近くにいたこと。「散歩してた」という説明。

 

 一つ一つは、おかしくない。

 

 でも、全部重ねると、何かがずれている気がした。

 

 俺はスマホを置いた。

 

 ベッドに座って、部屋の中を見渡した。

 

 奈々美と付き合い始めてから、ずっと感じてきたことだ。

 

 見えない。

 

 奈々美の本当のことが、いつも見えない。

 

「信じる練習をしてる」という言葉。水族館での声。あれは本当だと思いたい。思いたかった。

 

 でも、見えない。

 

 文化祭の後から、また何かが変わっている気がする。

 

 玲が全部思い出した。

 

 それが引き金になったのか。

 

 俺には、わからなかった。

 

 ただ、一つだけわかることがあった。

 

 答えを出さないといけない。

 

 玲との話も、奈々美のことも、俺自身の気持ちも。

 

 宙ぶらりんのまま、誰かを傷つけ続けてはいけない。

 

 光明が言った言葉が、また頭に浮かんだ。

 

「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」

 

 わかっている。

 

 俺は天井を見上げた。

 

 外から、子供の声がした。

 

 近所の子が、外で遊んでいる。

 

 その声が、どこか遠くから来るみたいに聞こえた。

 

 俺はその声を聞きながら、何もできないまま、座っていた。

 

 

 

 夜になって、またスマホが鳴った。

 

 奈々美からだった。

 

 ────────────────

 

 今日は、一緒に歩けて良かった。

 

 ────────────────

 

 俺は少し間を置いて、返した。

 

 ────────────────

 

 ああ

 

 ────────────────

 

 また来た。

 

 ────────────────

 

 ねえ、元樹くん。

 

 ────────────────

 

 また始まりかけた。

 

 でも今度は続きがすぐ来た。

 

 ────────────────

 

 私、変わろうとしてるよ。

 

 ちゃんと変わってるって、信じてほしい。

 

 ────────────────

 

 俺はその言葉を、何秒か見ていた。

 

「変わろうとしてる」

 

「信じてほしい」

 

 奈々美がそう言った。

 

 信じたかった。

 

 信じたかったが、信じきれなかった。

 

 ────────────────

 

 信じてる

 

 ────────────────

 

 俺は打った。

 

 でも、打った後で少し止まった。

 

「信じてる」と打ったが、それが本当かどうか、俺自身にもわからなかった。

 

 信じたいという気持ちは本当だ。

 

 でも、朝の出来事が、まだ引っかかっていた。

 

 スマホを置いた。

 

 奈々美から、しばらくして返信が来た。

 

 ────────────────

 

 ありがとう。

 

 おやすみなさい、元樹くん。

 

 ────────────────

 

 俺は「おやすみ」と返して、スマホを伏せた。

 

 部屋が静かだった。

 

「変わろうとしてる」

 

「信じてほしい」

 

 その言葉は、本当だと思いたかった。

 

 でも。

 

 俺の中で何かが、静かに、鐘を鳴らしていた。

 

 今までの奈々美と、同じ予感の音だった。

 

 ゆっくりと、しかし確実に。

 

 何かが、動き始めていた。

 

 俺はその音を聞きながら、目を閉じた。

 

 明日もまた、奈々美が待っているだろう。

 

 いつもの角より、もう少し手前で。

 

 笑顔で。

 

 穏やかすぎるくらいの、笑顔で。

 



 ずっと見ていたのよ。


 浦島太郎の劇の間、ずっと。


 元樹くんが浦島をやって、亀に引っ張られて、龍宮城に行って、大切なものを置いてきた話をした。


 私が書いたセリフを、元樹くんが言った。


 「置いてきたものだ」


 客席で笑いが起きた時も、私は笑わなかった。


 あのセリフだけは、コメディじゃなかったから。


 そして。


 客席の中に、あの子がいたのを見た。


 ずっと元樹くんを目で追っていた。


 私はわかる。


 元樹くんのことを見る目が、あの目をしている人間のことが、私にはすぐわかる。


 私も、ずっとそうしてきたから。


 練習していた。信じることを。


 でも。


 目の前で。


 元樹くんを見ている目が、あった。


 練習していたのに。


 変わろうとしていたのに。


 ねえ、元樹くん。


 私は変わろうとしてるよ。


 本当に。


 でも、変われない部分がある。


 あの子が元樹くんを見る目を見た瞬間に、何かが音を立てて壊れた。


 音がしたの。


 静かな音だったけど、確かに聞こえた。


 それから私は、また考え始めた。


 いろんなことを。


 ずっと昔から知っていることを。


 元樹くんは、私のものだよ。


 ずっと。


 「ずっと一緒にいる」って、あの日の公園で約束したでしょ。


 それは、変わらない。


 どれだけ練習しても、どれだけ信じようとしても。


 その根っこは、ずっとそこにある。


 ねえ、元樹くん。


 「置いてきたものだ」


 あのセリフ、私が元樹くんに向けて書いたのは、本当だよ。


 でも今は、少し違う意味に聞こえる。


 置いていかせない。


 今度こそ。


 あなたがどこかへ行こうとするなら、私も行く。


 あなたの見ている方向に、私が先にいる。


 そのくらいのことは、できるから。


 おやすみなさい、元樹くん。


 明日も、待ってるね。


奈々美

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