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奈々美さんの裏の顔  作者: 暁の裏


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第37話 「断れない浦島と、見透かす亀」

 ゴールデンウィークが、終わった。


 五日間は、思っていたより速かった。


 水族館。海。


 それだけを並べると、のんびりした連休に聞こえる。


 でも実際には、いろんなものが詰まっていた。


 俺は登校しながら、連休の記憶を頭の中でゆっくりなぞっていた。


 五月三日。奈々美と水族館に行った。


 エイの水槽の前で、二人で長い時間立っていた。


 奈々美が、小学生の頃に行った小さな水族館の話をしてくれた。もう閉店してしまったその水族館のことを、奈々美は今でも覚えていた。ガラスの向こうに、ゆっくりと泳ぐエイ。薄暗い水槽の前に立って、二人で息をひそめていたこと。俺は正直、記憶が曖昧だった。でも、奈々美が話す言葉を聞きながら、何かが少しずつ輪郭を結んでくるような気がした。懐かしいような、でも届かないような。そういう感覚だった。


 水族館のお土産コーナーで、奈々美はエイのぬいぐるみを買った。俺はクラゲのキーホルダーを買った。帰りの電車で奈々美がエイのぬいぐるみを鞄に付けていて、それが少し可愛かった。


 あの日、奈々美は「信じる練習をしてる」と言った。


 難しい、でもやる、と。


 あの声は本当だと思った。


 思いたかった、のかもしれないけれど。


 五月四日。海に六人で行った。


 光明と未菜、玲と航、そして俺と奈々美。


 砂の城を作った。


 潮が来るたびに少しずつ削られて、でもみんなで手を動かしながら、笑いながら。


 玲が「どれだけ作っても波が来たら終わる。それでも作った」と言ったことが、なぜか頭から離れない。あの時、玲は何かを呟くような感じで言った。誰かに向けた言葉ではなくて、独り言みたいな。でもそれが、妙に心に刺さった。


 その後のことは、今でも胸がざわつく。


 波が強くなって、玲が飲み込まれた。俺は気づいたら海に入っていた。引き上げた玲は息をしていなかった。胸骨圧迫をしながら、頭の中が真っ白になっていた。周りの声が、遠かった。未菜が泣きながら何かを叫んでいた気がする。光明が俺の後ろにいた気がする。航が救急車を呼んでいた。でも、全部がぼんやりしていた。俺の目の前には玲だけがいた。


 奈々美は、ずっと立っていた。


 叫ばなかった。動こうともしなかった。


 ただ、じっと見ていた。


 玲が息を吹き返した瞬間、俺は奈々美と目が合った。奈々美は小さく「行って」と頷いた。


 あの顔が、頭に残っている。


 奈々美は何を考えていたんだろう。


 何か別の、もっと深いものが、あの目の奥にあった。


 その深さが、怖いのか温かいのか、俺にはわからなかった。




 玲が退院した。


 俺は迎えに行った。


 病院のロビーで玲と合流して、夕方の住宅街を二人で歩いた。


 玲は昨日よりずっと顔色が良かった。リュックを背負って、普通に立っていた。


 でも、途中から何かを抱えているような沈黙があった。


 いつもとは違う沈黙だった。


 玲の家の門扉の前で、玲が止まった。


 それから、ゆっくりと俺を見た。


 その目を見た瞬間、俺は確信した。


 玲の目が変わっていた。


 記憶のない頃の玲の目ではない。もっと重いものを持っている目。


「昨日、波に飲まれた時のこと、話す」


 玲が静かに話した。頭が真っ白になった時に、記憶が浮かんできたこと。病院で横になって、落ち着いてから、一個一個確認したこと。


「全部……思い出した」


 元樹に告白したこと。振られたこと。奈々美という存在がいること。穂香のこと。あの夜の恐怖。


 全部。


 玲は泣かなかった。震えてもいなかった。ただ、まっすぐに俺を見て、静かに言った。


「全部……思い出したよ、元樹」


「今日は疲れた。また話す」


 扉が閉まった。


 俺は一人で、夕暮れの道に立っていた。


 玲の最後の顔が、頭から離れなかった。


 全部を思い出した、と言った玲の目。


 あの目が、これからどんなことを意味するのか。


 俺には、まだわからなかった。


 今日から学校が始まる。




 朝の通学路は、連休明けの空気がした。


 少し白々しいような、現実に戻される感じ。みんなが浮かない顔で歩いているわけじゃないけど、ゆるんでいた空気がきゅっと締まる感じ。


 まだ朝の七時半で、空は白く晴れていた。


 五月は過ごしやすい季節のはずなのに、なぜかこの朝は少し重かった。


 商店街の端を歩きながら、足元を見ていた。


「元樹くん」


 声がして、顔を上げた。


 奈々美だった。


 いつもの角よりも少し手前の交差点に立っていた。


「おはよう」


「おはよう」


 俺は答えた。


 連休前と変わらない、きちんとした格好だった。前髪が少し風に揺れた。


「連休、ゆっくりできた?」


 奈々美が聞いた。


「まあ……うん」


「そっか」


 奈々美が隣に並んだ。


 歩き始めると、朝の光が斜めに差してくる。まだ低い角度の光で、影が長かった。


「今日顔色悪いよ、元樹くん」


「そうか」


「眠れなかった?」


「少し」


「……そう」


 奈々美はそれ以上、何も聞かなかった。


 学校のことを心配しているのか。玲のことを知っているのか。それとも、どちらでもないのか。


 奈々美の横顔は、穏やかだった。


 穏やかすぎるくらいに。


「海、楽しかった」


 奈々美が言った。


「最後は大変なことになったけど」


「ああ」


「上野さん、元気そうで良かった」


 俺は少し間を置いてから「うん」と答えた。


 奈々美が何かを見透かしているような気がした。


 でも何も見透かしていないのかもしれない。


 その判断が、俺にはいつもできない。


「あ、そういえば」


 奈々美がスマホを見た。


「昨日、中尾くんが文化祭の話し合い、今週中に始めたいって」


「ああ、そうか。委員会でもそろそろ動き出す感じだよな」


「元樹くんが学級委員だから、仕切るんでしょ」


「そういうことになる」


「大変だね」


「大変だよ」


 俺は苦笑いした。


「でも元樹くん、向いてると思う。みんなをまとめるの」


「そういうものかな」


「そういうものだよ。元樹くんは怒らないから、話しやすいんじゃないかな」


 奈々美の言い方は、さらっとしていた。


 俺はそれに答えないまま、学校の方向へ歩き続けた。




 教室に入ると、連休明けのざわめきがあった。


「旅行どこ行ったー」とか、「ゲームしかしてなかった」とか、「バイト入れすぎた」とか、そういう話が飛び交っていた。


 航が俺を見つけて手を振ってきた。


「元樹!休どうだった?」


「まあまあ」


「まあまあってなんだよ。海、楽しかったじゃないか。俺めちゃくちゃ楽しかったぞ。最後は大変だったけど」


「ああ。楽しかったよ」


 航は屈託のない顔をしていた。玲が波に飲まれた件は、たぶん心配していた。でも今日は、あえて掘り返さない空気だった。そういうところが、航のいいところだと思う。


「今日から文化祭の準備、そろそろ始まるよな」


「元樹が委員なんだろ、頼むわ。うまく仕切ってくれよ」


「頼むわじゃなくて、お前も自分で動けよ」


「動く動く。なんの役でも受けるよ。でも仕切りは苦手なんだよなあ、俺」


「わかってる」


 俺は苦笑いした。


 奈々美が隣の席から、俺たちの会話を聞いていた。


 目が合うと、奈々美は小さく微笑んだ。


「頑張ってね」


「……ありがとう」


 俺はそう言って、鞄から教科書を出した。


 今日一日が、始まろうとしていた。




 朝のホームルームが終わって、最初の授業が始まった。


 現代文だった。


 先生が教科書を開きながら「連休前のところから」と言って、俺は教科書のページをめくった。でも、半分くらい頭が別のところにあった。


 玲のことが頭にあった。


 今日も同じ学校に来ているはずだ。廊下ですれ違うかもしれない。


 玲は「また話す」と言った。


 いつ話すのか。どこで話すのか。


 まだ、何も決まっていない。


 でも今日は、何も急かすつもりはなかった。


 連休に玲が退院してすぐに「全部思い出した」と言った。それだけでも、玲がどれだけ気を使ったか想像できた。今日すぐに何かを解決しようとするのは、玲にとって重すぎる。


 俺はそう考えながら、教科書の文字を目でなぞった。




 昼休みになった。


 食堂に向かいながら、廊下を歩いていた時だった。


 向かいから玲と未菜が歩いてきた。


 未菜が先に気づいて「あ、元樹くん」と軽く言った。


「おー」


「連休の後だね、久しぶりな感じがする」


「三日ぶりくらいだけどな」


「でも連休ってなんか特別な感じがするじゃない」


 俺は玲の方を見た。


 玲は「うん」と軽く頷いた。


 普通に見えた。


 でも目の奥に、あの夕方の目の重さが残っていた気がした。


「元樹くん、今日のホームルームって文化祭の話する感じ?」


「ああ、たぶんそうなる。先生に言われてるから」


「うちのクラスも今週中には決めないといけないって言われた」


 未菜が言った。


「渡部くん学級委員だし大変だね」


「まあ、なんとかなるでしょ」


 玲は特に何も言わなかった。


 俺も、それ以上話を続けなかった。


「じゃあね」


 未菜が手を振った。


 二人が先へ歩いていった。


 俺はしばらく二人の背中を見てから、食堂へ歩き始めた。




 午後のホームルームで、担任の先生が文化祭の話を出した。


「今年の文化祭は六月の最終週。クラスの出し物、そろそろ決めないといけない時期です。去年は演劇をやりましたが、今年は二年生になってからが初めての文化祭です。改めて、何をやるか話し合ってください。学級委員の渡部くん、仕切ってもらえますか」


 クラス中の視線が、俺に集まった。


 航が「よろしくー」とにやにやしながら言った。光明は腕を組んで、静かに頷いていた。


 俺は立ち上がった。


 少しだけ息を吸って、前を向いた。


「はい。じゃあ、まず何をやりたいか意見を聞かせてください。カフェ、劇、展示系とか、形式に関係なくとりあえず挙げてもらえると助かります」


 すぐに声が上がった。


「カフェがいい。去年やりたかったのにできなかったから」


「お化け屋敷とかどうよ。暗くして怖い音流すやつ」


「劇が楽しかったから今年もやりたい気がする」


「でも去年の劇、準備めちゃくちゃ大変だったじゃないか」


「大変だったけど、やり終えた後の達成感がよかったんだよ。また劇やりたい」


「食べ物系が手っ取り早く儲かるって言うよな」


「そうそう、唐揚げ売ったらいいじゃん」


「いや唐揚げは難しいだろ学校で」


 意見がばらけた。


 俺はホワイトボードに候補を書いた。「カフェ」「お化け屋敷」「劇」「展示・発表系」「食べ物販売」。


「一回手を挙げてもらえますか。カフェがいい人」


 十人ほど手が挙がった。


「お化け屋敷」


 五人。


「劇」


 十二人。


「展示系」


 三人。


「食べ物販売」


 数秒沈黙があってから、二人だけ手が挙がった。誰かが笑った。


 劇が一番多かった。


「劇が多いですね。去年もやったので方法論はある程度わかってます。そちらの方向で話を進めていいですか」


「いいと思う」


「賛成」


「でも去年と同じシンデレラじゃ意味ないよね」


「それはそうだよな」


 俺は少し考えた。


「演目、何がいいと思いますか。去年と違うもので。自由に出してください」


 意見が飛び交った。


「ロミオとジュリエット」


「悲劇は重くない? どうせやるなら笑えるやつがいい」


「コメディ系の劇にするのどうよ」


「オリジナル脚本でもいいんじゃないか」


「えー書ける人いるの」


「昔話をアレンジするのはどう? 誰でも知ってるやつを改造して笑えるのにする」


 奈々美が手を挙げた。


 教室の空気が少しだけ変わった気がした。奈々美が発言する時は、なんとなく皆が静かになる。


「童話をコメディにアレンジするのはどうかしら。去年は真剣なシンデレラだったけど、今年は笑えるやつ。誰もが知ってる話の設定を少しずらして、そこにコメディを入れる」


「それいいかも。具体的に何の話がいいと思う?」


「桃太郎とか浦島太郎とか、かぐや姫とか」


「浦島太郎をコメディにするのって面白くない?」


 そこで航が勢いよく言った。


「龍宮城でご馳走食べすぎてお腹壊すシーンとか絶対ウケるって」


 教室に笑いが起きた。


「確かにそれ面白い」


「浦島が海に飛び込む前に「泳げるかな……」って不安がるシーン入れようよ」


「泳げないのに行くのか」


「亀に引っ張られて半ば強制的に連れていかれる感じで」


「それいい!」


 どんどんアイデアが出てきた。


「亀が実は超偉そうなやつで。「貴様が助けてくれたのか。礼を言う」みたいな感じで」


「偉そうすぎる!」


「「礼は不要か?」って聞いたら「不要だ」って即答するやつ」


 また笑いが起きた。


「龍宮城のシーンはにぎやかになりそうだな」


「乙姫が「おもてなし」って言いながらどんどん料理持ってきて、浦島が断れない感じで全部食べさせられる」


「断れない浦島!」


「それちょっと誰かに似てない?」


 誰かが俺の方を向いて笑った。


「誰のことですか」


 俺が言うと、また笑いが起きた。


 雰囲気が良かった。


 みんながちゃんと楽しそうにしていた。


「じゃあ、浦島太郎のコメディ版ということで進めていいですか。内容は今のアイデアを活かして、脚本担当が肉付けしていく感じで」


「賛成」


「いいと思う」


「わかった、やろう」


「脚本担当、やってみたい人いますか」


 中尾という男子が手を挙げた。


「書いてみたい気はする」


「吉田はどう? 国語得意だったよな」


「え、私? でもまあ、協力するならできるかも」


「お願いできますか」


「はい」


 吉田が控えめに返事した。


 もう一人手が挙がった。


 奈々美だった。


「脚本、参加してもいいですか」


 一瞬、教室が静かになった。


 去年も奈々美は脚本に加わった。あの時は玲と組んで、脚本作りの中でいろんなものがぶつかり合った。今年は玲は別のクラスだ。でも、奈々美が脚本に入るということは、何かが動く予感がした。


「ありがとうございます。じゃあ脚本チームは中尾くん、吉田さん、柊さんの三人で」


 俺は三人の名前をホワイトボードに書いた。


「よろしくお願いします」


「はーい」


 中尾と吉田は軽い感じで返事した。


 奈々美は静かに頷いた。




 ホームルームが終わった後、役割分担の話を少しだけ続けた。


「準備の大きな役割は、脚本・大道具・衣装・音響照明・広報の五チームです。来週くらいに希望を取りますが、今日から考えておいてもらえると助かります」


「了解」


「よろしく学級委員」


 航がまたにやにやしながら言った。


「うるさい」


 俺が返すと、少し笑いが起きた。


 光明が「おつかれ」と肩を叩いてきた。


「あんまり気負うなよ。うまくまとまってたじゃないか」


「そうか」


「なんか顔が難しいぞ」


「そんな顔してたか」


「してた」


 光明は俺の顔をじっと見てから、声を落として言った。


「玲のこと、話したいことあるか」


「……後で」


「わかった」


 光明は頷いた。


 奈々美が近くにいたので、それ以上は言えなかった。でも光明が頷いたから、後で時間をとろう。


 奈々美は鞄を整えながら、こちらをちらりと見た。


 表情は穏やかだった。



 

 放課後。


 俺は帰り支度をしながら、奈々美に声をかけた。


「今日、帰ろうか」


「うん」


 奈々美が鞄を持って立ち上がった。


 廊下に出ると、光明と航が待っていた。


「元樹、今日はどうすんの」


 航が聞いた。


「帰るよ。奈々美と」


「そっか。じゃあまた明日。お疲れさん」


 航が手を振って別の方向に歩いていった。


 光明は少し俺を見てから、「ちょっと待ってて」と言った。


 鞄を取りに教室に戻っていく光明の背中を見ながら、俺は廊下に立っていた。


 奈々美が隣に立った。


「光明くんとどこか寄るの?」


「いや、たぶんそこまでじゃないけど、少し話したいことがあって」


「そっか」


 奈々美は特に何も言わなかった。


 光明が戻ってきた。


「じゃあまた明日な」


 光明は奈々美に軽く「お先に」と言って、廊下の先へ歩いていった。


 俺は奈々美と並んで、昇降口へ向かった。


 階段を下りながら、奈々美が言った。


「今日、委員の仕事お疲れさま」


「まだこれからだよ」


「でも、みんなまとまってたじゃない。元樹くんのしゃべり方が上手かったと思う」


「大げさだよ」


「大げさじゃない。去年の委員さん、もっとぐだぐだしてたもの」


 俺は少し笑った。


「そんなに見てたのか」


「いつも見てるよ」


 奈々美がさらっと言った。


 その「いつも見てるよ」が、優しいのか重いのか、今日も俺にはわからなかった。


 昇降口を出たところで、声がした。


「元樹」


 立ち止まった。


 振り返ると、昇降口の横の壁際に玲がいた。


 未菜は隣にいなかった。一人で立っていた。


 玲は俺を見て、それから奈々美を見て、また俺を見た。


 奈々美が、静かに玲を見ていた。


 表情は変わらなかった。


 三人の間に、一瞬の空気があった。


「奈々美さん」


 玲が言った。


「少しだけ、元樹を借りてもいい?すぐ終わるから」


 奈々美はわずかに間を置いた。


 二秒か、三秒か。


「……どうぞ」


 奈々美が俺を見た。


「先に屋上で待ってる」


「ああ」


「屋上のベンチで少し涼む。ゆっくりでいいよ」


 俺は「わかった」と言った。


 奈々美は視線を玲にひとつ向けた。その視線は穏やかだった。怒りでも警戒でもない。何かを確認するような、そういう目だった。


 奈々美は階段を上がっていった。


 その足音が聞こえなくなってから、玲が口を開いた。


「ごめん、急に」


「いや」


 玲の顔が、少し緊張していた。


「少し歩きながら話す?」


「ああ」


 俺たちは昇降口から外に出た。


 校庭の端を歩いた。


 五月の夕方の光が、長く斜めに差していた。黄色みがかった光で、建物の影が長く伸びていた。


 玲は少しの間、何も言わなかった。


 俺も待った。


 校庭の向こうで、野球部が練習している声がした。ボールを打つ音。掛け声。


「元樹に話さないといけないと思って」


 玲が言った。


「連休の最終日に、家の前で言ったこと。あれ、ちゃんと説明しないといけない気がしたから」


「ちゃんと聞く」


 俺は答えた。


 玲は前を向いて歩きながら、静かに話し始めた。


「海で波に飲み込まれた時、最初は本当に何もわからなかった。頭が真っ白で、ただ暗い中にいた感じ。でも、その時に……いろんなものが出てきた」


「うん」


「最初は断片みたいな感じだった。一枚の写真みたいに、ぽっと浮かんでくる感じ。でも、繋がっていくのがわかった。病院で横になって、落ち着いてから、一個一個確認した」


 玲の声は揺れていなかった。


 でも、それは感情がないからじゃなくて、きっと来るまでにたくさん自分の中で繰り返したからだと思った。ここに来るまでに、何度もひとりで確認したんだと思った。


「元樹に告白したこと、覚えてる」


「……うん」


「振られたこと」


「うん」


「奈々美さんのこと。元樹と奈々美さんが付き合ってること」


「ああ」


「穂香のこと……あの、橋の下のこと」


 俺は少し間を置いてから「ああ」と言った。


「全部、覚えてる」


 玲が立ち止まった。


 俺も止まった。


 玲はしばらく下を向いていた。


「最初に全部戻ってきた時、少し怖かった。なんか、記憶が一気に押し寄せてくる感じで。穂香に誘われた夜のこととか、暗い場所で声をかけられた時の感触とか。そういうのが、ざーっと来た」


「……辛かったな」


「辛いっていうか……」


 玲は顔を上げた。


「現実だったんだな、って感じがした。ちゃんとあったことなんだ、って。記憶がなかった間は、あの出来事が自分の外側にあった感じだったけど。全部戻ってきたら、自分の中に入ってきた感じがして」


「うん」


「怖かったのは最初だけで、今は……ただ、正面から向き合おうって思ってる。逃げても、記憶がある以上は意味がないから」


「玲……」


「元樹に告白して振られたことも、ちゃんと覚えてる。だから、変なふうに思わないで。今さらそれをどうこうしたいとか、そういうことじゃないから」


 俺は何も言えなかった。


「ただ、元樹は知っていた方がいいと思った。私が全部思い出したってこと。これから、色々変わるかもしれないから」


「変わる……って」


「自分でもまだわからない。でも、記憶がない状態と、ある状態じゃ、物の見え方が違うから。今まで何も知らずに元樹と普通に話してたのと、これからは全部知った上で話すのとじゃ、何かが変わる気がして」


 玲がまた歩き始めた。


 俺もついていった。


「穂香のこと、誰かに話したのか」


「まだ。未菜ちゃんには伝えようと思ってる」


 俺は黙って頷いた。


「元樹に迷惑はかけないよ。ただ、知っていてほしかった」


「迷惑とか、そういうことじゃない」


「うん」


「俺は、玲のことが心配だ」


 玲は少し間を置いてから、「ありがとう」と言った。


 それから、少し笑った。


 記憶のある玲の笑い方だ、と思った。


 記憶をなくしていた頃の玲とは、少し違う。どこかに力がある。でも、明るいわけじゃない。複雑なものを全部抱えた上で、それでも立っている、という笑い方。


「奈々美さんに、私のことを話す?」


 玲が聞いた。


「話す……と思う。どう話すかは、考えないといけないけど」


「そっか」


「玲は、奈々美のことをどう思ってる」


 俺は少し迷ったけど、聞いた。


 玲は少し間を置いた。


 足が、一瞬だけゆっくりになった。


「怖い人だと思ってた。今も、それは変わってない」


「うん」


「でも……元樹が選んだ人だから」


 それだけだった。


 そのことを、玲はそれ以上続けなかった。


 俺も、続けなかった。


 校庭を半周していた。


「じゃあ私、今日はここまで」


 玲が立ち止まった。


「うん」


「また話す」


「ああ」


「文化祭、劇なんだって? 航が言ってた。浦島太郎だって」


「コメディ版になった」


「面白そうじゃない」


 玲が少し笑った。


「頑張ってね、学級委員」


「そう思うならクラス違っても応援してくれ」


「応援してる」


 玲は笑いながら言って、それから歩いていった。


 俺はその背中を、しばらく見ていた。


(玲……)


 胸の中で、何かが揺れていた。


 記憶が戻った玲。


 全部を思い出して、それでも前に向こうとしている玲。


 あの笑い方は、かつての玲のものだった。


 空を見上げた。


 夕方の空が、少しずつオレンジに変わり始めていた。


 屋上に、奈々美がいる。


 迎えに行かないといけない。


 でも、足がすぐに動かなかった。


 俺は少しの間、校庭に立っていた。




 屋上のドアを開けると、奈々美はベンチに座っていた。


 スマホは見ていなかった。


 ただ、空を見ていた。


 夕日が西の方にあって、そこから光が薄く広がっていた。


「待たせた」


「ううん」


 奈々美が立ち上がった。


 夕日が奈々美の横顔を染めていた。


「上野さんと、話せた?」


「ああ」


「そっか」


 奈々美はそれだけ言って、それ以上は聞かなかった。


 俺たちは並んで屋上の縁に立った。


 黒峠の街並みが、夕日の中に広がっている。


 商店街の屋根。踏切の白い遮断機。小さな公園の緑。


「文化祭、楽しみにしてる」


 奈々美が言った。


「今年は元樹くんが仕切るんだから、去年より良いものになる気がする」


「プレッシャーかけるな」


「プレッシャーじゃなくて、期待」


 奈々美が少し笑った。


「浦島太郎のコメディ版、面白いと思うよ。龍宮城のシーン、にぎやかになりそう」


「そうだな。航が亀役になりそうで、それだけでもう面白い」


「ふふ」


 奈々美が笑った。


「いい脚本にしたい」


「脚本チームに入ったんだから、頑張れよ」


「うん」


 少しの間、黙って夕暮れを見ていた。


「奈々美」


「ん?」


「今日のこと、何か言いたいことあるか」


 奈々美は少し間を置いた。


 夕日を見ながら、静かに言った。


「何も。元樹くんが大事なものを大事にするのは、当然だと思ってるから」


 その言葉が、俺には少し重かった。


 怒っているわけじゃない。刺があるわけでもない。でも、何もかも見えているような言い方だった。


「帰ろうか」


「うん」


 二人でドアに向かった。


 俺は奈々美の横顔を、ちらっと見た。


 奈々美は普通の顔をしていた。


 でも、普通の顔をしていることが、時々一番怖い。




 家に帰ってから、俺はずっと玲のことを考えていた。


 夕食の間も、風呂の中でも、ベッドに横になってからも。


 玲の声が、耳に残っていた。


「元樹に告白したこと、覚えてる」


「振られたこと」


「奈々美さんのこと。元樹と奈々美さんが付き合ってること」


「全部、覚えてる」


 あの夜の告白のことを、玲はどう思っているんだろう。


 振られたことを思い出して、玲は今何を感じているのか。


「今さらそれをどうこうしたいとか、そういうことじゃない」と言った。


 俺はその言葉を信じたいと思っている。


 でも同時に、何かが引っかかる。


 玲が「怖い人だと思ってた」と言った奈々美のことを、俺は好きだ。


 それは本当だ。


 でも、玲のことを何とも思っていないかと言われると、違う。


 大切だ、と思う。


 幼馴染だから、という理由だけじゃないかもしれない。


 でも、その感情を「恋愛」と呼んでいいのかどうか、俺にはわからない。


(俺は何を選ぼうとしているんだ)


 天井を見つめながら、思った。


 奈々美は「信じる練習をしてる」と言った。


 俺は、奈々美を信じているのか。


 玲を、どう思っているのか。


 答えを出さないまま、いつまでも宙ぶらりんにしているのは、誰かを傷つけ続けることになる。


 それは、わかっている。


 わかっているのに、俺は答えを出せない。


 出す勇気が、まだ足りないのか。


 それとも、心の中にある何かをまだ認めたくないのか。


 どちらなのか、自分でもわからなかった。


 スマホが鳴った。


 奈々美からだった。


 ─────────────────


 元樹くん、今日はお疲れさまでした。


 文化祭の準備、始まるね。楽しみにしてる。


 脚本チームで昨日から少し考えてたんだけど、龍宮城のシーンに「一番大切なものは目の前にあるのに気づかない」っていうテーマを入れたいなって思ってる。


 浦島太郎って、亀も浜辺の景色も目の前にあるのに、ついつい別のものに引き寄せられちゃうでしょ。目の前にあるものを大切にできない人の話だと思って。


 コメディの形を借りながら、その辺を丁寧に書きたいな。


 おやすみなさい。


 ─────────────────


 俺はその文章を二回読んだ。


(目の前にあるものを大切にできない人の話)


 なんでもないメッセージに見えた。


 でも、なんでもないとは思えなかった。


 奈々美はいつも、こうだ。


 刃が見えない。


 でも確かに、何かが刺さっている。


 俺の胸の中にある何かを、見透かしているような気がした。


「おやすみ」とだけ打って、スマホを置いた。


 天井を見た。


 しばらく、俺は動かなかった。




 翌日から、文化祭の準備が本格的に動き始めた。


 まずは役割分担だ。


 俺は放課後のホームルームの時間を使って、全員に希望を聞いた。


「大きく分けて、脚本・大道具・衣装・音響照明・広報の五チームです。どれが希望か教えてください。得意なことや、やってみたいことで選んでもらえると助かります」


 じゃんじゃん手が挙がった。


 脚本チームは奈々美、中尾、吉田の三人で決定。


 大道具は男子が中心に七人が希望した。龍宮城のセットや浜辺のセットを作る担当だ。


 衣装は女子が中心に五人。乙姫の衣装や亀の甲羅をどう作るかが課題だと言っていた。


 音響照明は航が「やりたい!」と言ったので、航と機械好きの橋本が担当した。


 広報は二人。


 俺は全体を見渡して、人数の偏りを微調整した。


「大道具が七人で少し多めだから、一人か二人、音響照明のサポートに入ってもらえますか。橋本、他に誰かいますか」


「林でどうよ。電気好きだったよな」


「あー、いいっすよ。そっちに入ります」


 こんなふうに進めていくと、役割分担は意外とスムーズに決まった。


 光明が「お前、思ったより向いてるかもな」と言った。


「買い被るな」


「でも前の委員よりはるかにテキパキしてる」


「それは前の委員が……まあいいか」


 航が「元樹、さすが!」と言いながらサムズアップをした。俺は苦笑いした。




 翌日の昼休み、脚本チームの三人が集まって話し合い始めた。


 俺は学級委員として顔を出した。


「序盤は、浦島が浜辺で亀を助けるところから始めよう」


 中尾が言った。


「ただ、この亀が超高飛車な設定で。助けてもらったのに「礼は不要。同行せよ」みたいな感じで」


「浦島が「え、助けたのに礼なしですか!?」って抗議するの面白くない?」


 吉田が言って、笑いが起きた。


「でもせっかくだから、浜辺でちょっとしたシーンを入れたい」


 奈々美が言った。


「どんなシーン?」


「浦島に好意を持ってる女の子が、浜辺にいるの。浦島はその子に気づいていない。そこに亀が現れて、浦島は海に行ってしまう」


「あー。気づかずに行っちゃうやつか」


「でも終盤で玉手箱を開けた後に、その女の子のことを思い出す。でも、もう手が届かない」


 教室が少し静かになった。


「それ、ちょっと切ない終わり方にならない? コメディでしょ」


「コメディの中に少し切ないものを入れた方が、余韻が生まれる。笑いっぱなしより、少しだけ刺さる劇の方が印象に残る」


 奈々美の言い方は、静かだった。


 正論だと思った。


 でも俺は、奈々美がその「気づかずに行ってしまった男」と「手が届かなくなった女の子」という設定を提案した理由について、少し考えた。


「わかった。その設定で行こう。コメディの流れは変えず、ただ浦島に気づいてもらえなかった女の子の存在を、さりげなく入れる感じで」


 中尾が言った。


「そうそう。説明的にしすぎず、ほんの少しだけ。最後のシーンで初めて観客が「あ、そういうことか」って気づく感じで」


 奈々美が頷いた。


 俺は聞いていながら、何も言わなかった。




 最初の脚本の骨格が出来上がったのは、翌々日だった。


 脚本チームが放課後に残って作り上げ、俺に見せた。


「確認してほしい」


「ああ」


 俺は座って読んだ。


 おおまかな流れはこうだ。


 浜辺で亀を助ける浦島。亀はぶっきらぼうで上から目線。「感謝はするが感動はない。龍宮城へ来い」と言われ、うっかりついていく浦島。その瞬間、浜辺の端で見ていた女の子の姿が一瞬映る。でも浦島は気づかない。龍宮城では海の生き物たちが宴会を開いている。タコが料理人。クラゲがMC。龍宮城の乙姫が「おもてなし」と言いながらどんどん料理を持ってくる。浦島は断れない性格なので全部食べる。食べ過ぎてお腹を壊す。それでもなんやかんやで楽しい時間を過ごす。帰る時に玉手箱を渡される。「開けないでください。絶対に」と念押しされる。浦島は「開けない」と約束するが、帰り道で「でもやっぱり気になる」という葛藤シーンがコメディタッチで描かれる。結局開けてしまい、老人になる。そして浜辺に戻ったとき、自分を待っていてくれた女の子の姿がない。亀が一言言う。「それが、置いてきたものだ」。


 俺は読み終えて、少し間を置いた。


「いいと思う」


「本当に?」


「コメディとして面白いし、最後の亀のセリフがちゃんと効いてる。あと、断れない性格の浦島というのは、共感しやすくていい」


「元樹が言うとリアルだな」


 中尾が笑った。


「うるさい」


 奈々美は黙って俺を見ていた。


 俺と目が合った。


 奈々美はすぐに視線を中尾に戻した。


「じゃあ、このベースで細かいセリフを肉付けしていく感じで」


「そうしよう」


「来週から配役の検討に入りますか」


「そうだな。大筋が固まったら配役決めて、再来週から練習に入りたい」


「わかった」


 俺は立ち上がった。


「いい脚本だよ。ありがとう」


 三人が少し嬉しそうにした。


 奈々美だけは、淡々としていた。


 でも、俺が「いい脚本だよ」と言った瞬間に、わずかに目が細くなった気がした。


 嬉しかったのか。


 それとも別の何かだったのか。


 読めなかった。




 その週の終わりには、大道具チームも動き始めた。


 浜辺のセット、龍宮城のセットを作る班が分かれた。


 龍宮城は教室の後ろに縦長の段ボールを積み上げて、青と水色の絵の具で塗っていく計画だった。


 放課後の教室が、段ボールと絵の具の匂いで満たされた。


「元樹、ここの色どう思う?」


 大道具担当の女子が聞いてきた。


「もう少し青を濃くした方がいいかな。今はちょっと薄い」


「そっか、やり直す」


「待って、上の部分に濃いやつを重ね塗りする方が楽だよ。全部塗り直さなくていいから」


「あ、それいいね。ありがとう」


 俺は右往左往しながら、各チームの進捗を確認していた。


 衣装チームでは、乙姫の衣装をどう作るかで話し合いが起きていた。


「本格的にやったら大変じゃない?」


「でもちゃちいのは嫌だよ」


「じゃあ乙姫だけは本格的にして、他はシンプルにする」


「それがいいと思う。主役と脇役で差をつける感じで」


 俺が提案すると、話がまとまった。


 こんなふうに、細かい判断を求められることが多かった。


 委員の仕事は、決して難しいことをするわけじゃない。ただ、判断を求められる回数が多い。そのたびに少し考えて答えを出す。それを繰り返す。


 気づいたら夕方になっていた。




 翌週になって、第一稿の脚本が完成した。


 中尾、吉田、奈々美の三人が仕上げたそれを、俺は朝のホームルーム前に読んで、思ったより感動した。


 亀のセリフが特によかった。


 高飛車で上から目線なのに、どこかで浦島のことを見守っている。表面的なセリフは「不要だ」「行くぞ」みたいな短い命令形なのに、動きの説明や状況描写の中に、亀なりの心配が滲んでいる。


 龍宮城のシーンはにぎやかで笑えるのに、帰り際の「それが、置いてきたものだ」というセリフが、後から静かに効いてくる。


 浜辺の女の子のシーンは、本当にほんの少しだけだった。セリフもない。ただ、幕の端で遠くを見ている、というト書きだけ。でも、最後のシーンでその子の姿がないとわかった時に、観客が「あ、そういうことか」と気づく仕掛けになっていた。


「これ、いい脚本だよ」


 俺は脚本チームの三人に言った。


「誰がどのシーン書いたの」


「亀のセリフ、私が書いた」


 奈々美が言った。


「龍宮城の宴会シーンは中尾くんで、玉手箱を開けるかどうか悩む独白は吉田さんが書いた」


「全部がちゃんと噛み合ってる。よくできてる」


「……よかった」


 奈々美が静かに言った。


 その声には、珍しく安堵の色があった。


「亀の、「置いてきたものだ」っていうセリフ。どういうつもりで書いたの」


 俺は奈々美に聞いた。


 奈々美は少し考えた。


「浦島が本当に失ったものは、時間じゃないと思って。亀も乙姫も玉手箱も、目の前に何度もヒントがあったのに、気づけなかった。気づけないうちに、大切なものを置いてきた。そういう話にしたかった」


「……なるほど」


「コメディだけど、そこだけは真剣に書いた」


 奈々美が俺を見た。


 その目が、一瞬だけ違う色を帯びた気がした。


 俺には、それがどういう意味なのか、わからなかった。


 でも、その目は確かに俺に向いていた。


 まっすぐに。




 配役を決める日が来た。


 朝のホームルームで、クラス全体に候補を募った。


「浦島太郎役、やりたい人」


 何人か手が挙がった。


「亀役、やりたい人」


 また手が挙がった。


 俺は黒板に希望者の名前を書きながら、進めた。


「立候補が重なっているところは、後で話し合いで決めましょう。では主要な役から」


 浦島太郎役は、最終的に松田という男子になった。おっとりした性格で、断れない浦島に向いていると全員が言った。当の松田は「えー俺なの?」と言いながら、あまり嫌そうでもなかった。


 亀役は、圧倒的に航の名前が挙がった。


「航?」


「絶対ハマるって」


「亀の上から目線キャラ、航にやらせたい」


「ちょっと待ってよ俺高飛車のキャラとか難しいんだけど」


「いや、似合う。自覚がないだけ」


 笑いが起きた。


 航も笑いながら「まあいいか、やる」と言った。なんだかんだ楽しそうだった。


 乙姫役は、衣装チームの中心にいた中村という女子。しっかり者で声も大きく、存在感があった。


 タコ役は、動きが大袈裟で面白いというので大木が立候補した。本人が「タコ踊り考えてある」と言い出して、誰もがそれで決まりだと思った。


 クラゲMC役は長尾。


 浜辺の女の子役は、静かに手を挙げた女子がいた。


 藤田という女子だった。いつも教室の端にいて、あまり目立たないタイプだった。でも、手を挙げた時の顔に、静かな意志があった。セリフはほとんどないが、最後に舞台の端に立つだけで場の空気を変えるような役だ。


「藤田さん、お願いしていいですか」


「はい」


 藤田さんは静かに答えた。


 脚本チームの奈々美が、藤田さんの方を一瞬だけ見た。


 何を考えているのか、読めなかった。


 でも、その視線は短かった。




 配役が決まってから、練習が始まった。


 最初は台本を読むだけの読み合わせ。


 龍宮城のシーンは、最初から笑いが起きた。


「お前たち、この方をおもてなしせよ!」


 航の亀が、台詞に入った瞬間に教室の空気が変わった。


 高飛車な亀のはずなのに、航がやると何かに本気の熱量があって、それが逆に面白かった。脚本に書いてある以上の迫力がそこにあった。


「あ、これ航に頼んで正解だったな」


 光明が小声で言った。


「完全に憑依してる」


「亀に憑依されてる男」


 二人でこそこそ笑った。


 読み合わせが終わった後、少し立ち稽古をした。


「浜辺のシーン。松田、もう少しおっとりした感じで。そこ急がなくていいよ」


「あー、こう?」


「そうそう。断れない感じを出して。亀に「同行せよ」って言われた時に「えっと……あの……」みたいな間を作ると面白い」


「わかった、やってみる」


 航の亀は最初から完成度が高かった。台詞を言うたびに周りが吹き出した。


「航さん、もう少し抑えてください。笑わせすぎると浦島のセリフが聞こえない」


 奈々美が言った。


「難しいな俺」


 航が困った顔をした。


「笑われるのはいいの。でもセリフの間は取ってほしい。観客が笑い終わった後に次のセリフが来る感じで」


「そういうことか。コントのテンポってこと」


「そう」


 奈々美の演出の説明は、正確だった。俺は横で聞きながら、なるほどと思った。


 玲が去年脚本をやっていた時も、奈々美は的確なことを言っていた。去年は脚本の中に別の意図が混じっていたので、俺には素直に聞けなかった。今年は少し違う気がした。ただ、完全に信じきれているかというと、そうでもない。


 その複雑さが、俺の中に残っていた。




 練習が三日目に入った夕方。


 俺は廊下に出て、少し頭を冷やしていた。


 ドアの向こうから笑い声が聞こえた。


 みんなが楽しそうにやっている。


 悪くない、と思った。


 去年の文化祭は、準備の途中でいろんなことがあった。脚本で玲と奈々美が火花を散らしていた。俺は王子役で、奈々美にべったりくっついていた。楽しかったかというと、楽しいとも言えなかった。


 今年は違う。


 俺は仕切る側で、みんなが動いている。それを見ながら、少し外側から眺めている感覚がある。


 これはこれで、いい。


 そう思っていた時、廊下の奥から玲が歩いてきた。


 別のクラスだから、練習には関係ない。放課後に偶然通りかかっただけだ。


「玲」


「あ、元樹」


「何してんの、こっちに」


「購買に行ってた帰り」


 玲が消しゴムを見せた。


「準備、うまくいってる?」


「まあまあ。今日は笑いが多かった」


「それはいい感じじゃない」


 玲が少し笑った。


「あのさ、元樹」


「うん」


「少し聞いていい?」


「どうぞ」


 玲は少し間を置いた。


「文化祭が終わったら、もう一度ちゃんと話したい。連休の時のこと。これからのことも含めて」


「うん」


「今すぐじゃなくていいし、焦ってもない。でも、話したい」


「わかった」


「元樹が都合のいい時に合わせるから」


「文化祭、終わったらすぐ話そう」


「ありがとう」


 玲が頷いた。


「じゃあ、頑張って」


「ああ」


 玲が歩いていった。


 俺は廊下に立ったまま、玲の背中が曲がり角を消えるまで見ていた。


(文化祭が終わったら、話す)


 それまでに、俺も何かを整理しないといけない。


 答えを出す勇気が、あるかどうか。


 まだ、わからなかった。


 でも。


 今は、文化祭を成功させることだけ考えよう。


 そう思って、俺は教室のドアを開けた。




 練習が続く日々の中で、少しずつ劇が形になっていった。


 松田の浦島は、日を追うごとに「断れない感じ」がよく出るようになった。亀に「同行せよ」と言われた時の「えっと……はい……」という間が、だんだんと上手くなってきた。


「そこ、もう少し引きずられるような動きも入れると面白い」


 奈々美がアドバイスした。


「引きずられる?」


「亀が先に歩き始めて、浦島が慌ててついていく。でも途中で「あ、待って待って」ってなる感じ」


 松田がやってみると、また笑いが起きた。


 音響照明チームが最初の照明テストをした日は、教室が一気に舞台っぽくなった。


「龍宮城のシーン、水色の照明入れてみます」


 橋本が言って、部屋の電気が消えた。


 代わりに、段ボールで作った龍宮城のセットに水色の光が当たった。


「わあ」


 誰かが言った。


 確かに、雰囲気が変わった。


「これ、本番はもっと本格的にできますよ。照明の角度も変えられるし」


「すごいな。頼むわ」


 航が感心して言った。


 俺は照明が当たった龍宮城のセットを見た。


 段ボールと絵の具で作った、手作りのセット。


 でも、光が当たると本物みたいに見えた。




 その次の週の昼休みに、光明と二人で話した。


 屋上に上がって、ベンチに腰掛けた。


 光明が先に口を開いた。


「玲から聞いた。記憶が戻ったって」


「ああ」


「元樹から話してくれるのを待ってたんだけど、玲が先に俺に言ってきた」


「そうか。玲、ちゃんと話せてるならよかった」


「穂香のこと、かなり辛そうだったよ。でも、前を向こうとしてる感じだった」


「うん」


「元樹は、どうなんだ」


 光明が俺を見た。


「玲が記憶を取り戻したことで、何か変わった気がしてるか」


 俺はしばらく考えた。


「変わった……と思う。自分の中で何かが揺れてる感じがする」


「そうか」


「奈々美のことが好きだ、ってのは本当だよ。そこは変わってない」


「でも」


「でも、玲のことも、何かある気がしてる。それが何なのか、まだわからない」


 光明は何も言わなかった。


 ただ、頷いた。


「急かすつもりはないけど、元樹」


「うん」


「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」


「……わかってる」


「わかってて、動けてないんだよな」


「ああ」


 光明が少し笑った。


「正直だな」


「嘘ついても意味ないから」


「そうだな。まあ、文化祭終わってから考えろよ。今はその仕切りに集中しとけ」


「そうする」


「文化祭、いい感じになってきてるじゃないか」


「そうか?」


「俺の目には、去年より全然いい感じに見えてるよ。みんながちゃんと動いてる」


「それはみんなが頑張ってるからだよ」


「お前がうまく場を作ってるからでもある。自分でわかってないだけで」


 光明の言い方は、さらっとしていた。


 だから、素直に受け取れた。


「ありがとう」


「どういたしまして」




 文化祭前日。


 準備は最終段階に入っていた。


 昨日で大道具がほぼ完成した。龍宮城の壁は青と水色のグラデーションで、廊下側から見るとそこだけ海の底みたいに見えた。浜辺のセットは砂浜の絵と貝殻の飾りで、こっちはかなり手作り感があったけど、それがかえって味になった。


「いいな、これ」


 俺が言うと、大道具チームの面々が達成感で頷いた。


「ほんとに頑張った」


「来週取り壊すのが惜しい」


「写真撮っておこう」


「それいいな」


 衣装チームも全衣装が揃った。


 乙姫のドレスは白と水色のサテン生地で、想像以上に出来が良かった。中村が試着して教室を歩くと、どっと笑いが起きた。でも笑いの中に「すごい」という声もあった。


「本当に乙姫じゃん」


「本格的すぎる」


 航の亀の衣装は甲羅をダンボールと緑の布で作り、頭に黄緑のフード。見た目だけでもう面白かった。


「完璧じゃないか」


「亀にしか見えない」


「最高」


 航が「そこまで笑わんでいい!」と言ったが、自分でも鏡を見てふきだしていた。


 音響照明も最終確認が終わった。


「照明、バッチリです」


 橋本が報告してきた。


「龍宮城のシーンで水色の照明入れると、一気に雰囲気変わりますよ。今日の最終リハで確認してください」


「わかった。ありがとう」


 午後から最終リハが始まった。


 台詞が出てこなくなる場面がいくつかあった。


「あー、なんだっけ」


「「龍宮城においでくださいまして」だよ」


「あ、そうだそうだ」


 俺は脚本を持って舞台袖に立って、台詞が飛んだ時に小声でフォローした。


 本番はできないが、最終リハでは許容範囲だろう。


 全体を通したリハが終わった時、みんなが少し疲れた顔をしていた。でも達成感もあった。


「お疲れさまでした。明日が本番です」


 俺は言った。


「緊張するな」


「でも楽しみでもある」


「絶対ウケると思う。龍宮城のシーン」


 航が腕を組んで言った。


「俺の亀、自信があるぞ」


「頼むよ」


 笑いが起きた。




 後片付けが終わって、みんなが帰り始めた。


 俺は最後まで教室に残って、セットのチェックをしていた。


 段ボールの龍宮城が、教室の後ろにそびえている。


 明日の本番に備えて、ガムテープで補強が必要なところを確認した。


「元樹くん」


 声がして振り返ると、奈々美が立っていた。


 鞄を持って、出口のところにいた。


「まだいたんだ」


「忘れ物した。もう帰るところ」


 奈々美が少し教室の中に入ってきた。


 龍宮城のセットを見上げた。


「大きくなったね。最初、これが本当に形になるのかなって思ってたけど」


「確かに、最初は骨組みだけで不安だったな」


「でも出来上がった」


「うん」


 奈々美がセットを見たまま、静かに言った。


「明日、楽しみだよ」


「俺も」


「脚本、受け入れてもらえてよかった。浜辺の女の子のシーン、最後まで入れるか迷ったけど」


「あそこがあるから、最後の亀のセリフが効くんだよ」


「そうかな」


「そうだよ。あのシーンがなかったら、ただ「時間を失った」っていう話で終わる。でもあのシーンがあるから、「気づかずにいた間に、大切なものがなくなった」っていう話になる」


 奈々美が俺を見た。


「元樹くん、ちゃんと読んでくれたんだね」


「脚本チームに聞いたから、ちゃんと読んだよ」


「よかった」


 奈々美が少し笑った。


 その笑顔は、普通の笑顔だった。


 でも、笑顔の奥に何があるのか、俺にはわからない。


「帰ろうか」


「うん」


 二人で教室を出た。


 廊下は既に静かだった。


 ほとんどの生徒が帰った後の、がらんとした廊下。


 足音だけが響いた。


 俺は奈々美の横を歩きながら、明日のことを考えていた。


 明日、文化祭が始まる。


 劇が上演される。


 玲との話は、その後だ。


 奈々美のこと、玲のこと、自分のこと。


 俺が答えを出さないといけないことが、ある。


 文化祭が終わってから、向き合う。


 そう決めた。


 階段を下りながら、奈々美が言った。


「元樹くんって、今どんな気持ち?」


「今?」


「文化祭の前日の、今」


 俺は少し考えた。


「緊張と、楽しみが半々かな」


「仕切ってきた分、本番がちゃんと成立してほしいっていう気持ちも?」


「それも、ある」


「うん」


 奈々美が頷いた。


「明日、絶対うまくいくよ」


「根拠は?」


「元樹くんが頑張ってたから。みんなが頑張ってたから」


 その言い方は、さらっとしていた。


 でも、嘘くさくなかった。


 俺は「ありがとう」と言った。


 昇降口を出ると、夕暮れの空気が体を包んだ。


 六月の終わりの夕方。


 空はもうオレンジを通り越して、深い色になり始めていた。


 この空の下に、明日が待っている。


 文化祭の朝が、待っている。


 俺は深く息を吸った。


 奈々美が隣を歩いていた。


 二人の足音が、夕暮れの道に響いていた。


 俺は前を向いて歩き続けた。

ねえ、元樹くん。


 浦島太郎のお話、好きだよ。


 あの人、悪い人じゃないんだよね。ただ、目の前にあるものが見えなかっただけで。亀も、龍宮城も、玉手箱も——全部、サインだったのに。気づかないまま、大切なものを置いてきてしまった。


 私が亀のセリフを書いたのは、理由があるよ。


 「それが、置いてきたものだ」って言えるのは、ずっと見ていた側だけだから。


 浦島が海に飛び込む瞬間も、龍宮城で笑っている間も、玉手箱に手を伸ばす時も——亀は全部、見ていた。止めなかった。ただ、見ていた。


 似てると思わない?


 私のこと、どう思った?


 怖いって思った? それとも——


 まあ、いいよ。


 明日は本番だから、今日は早く寝てね。


 おやすみなさい、元樹くん。


 ちゃんと、夢を見てね。


奈々美

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