第37話 「断れない浦島と、見透かす亀」
ゴールデンウィークが、終わった。
五日間は、思っていたより速かった。
水族館。海。
それだけを並べると、のんびりした連休に聞こえる。
でも実際には、いろんなものが詰まっていた。
俺は登校しながら、連休の記憶を頭の中でゆっくりなぞっていた。
五月三日。奈々美と水族館に行った。
エイの水槽の前で、二人で長い時間立っていた。
奈々美が、小学生の頃に行った小さな水族館の話をしてくれた。もう閉店してしまったその水族館のことを、奈々美は今でも覚えていた。ガラスの向こうに、ゆっくりと泳ぐエイ。薄暗い水槽の前に立って、二人で息をひそめていたこと。俺は正直、記憶が曖昧だった。でも、奈々美が話す言葉を聞きながら、何かが少しずつ輪郭を結んでくるような気がした。懐かしいような、でも届かないような。そういう感覚だった。
水族館のお土産コーナーで、奈々美はエイのぬいぐるみを買った。俺はクラゲのキーホルダーを買った。帰りの電車で奈々美がエイのぬいぐるみを鞄に付けていて、それが少し可愛かった。
あの日、奈々美は「信じる練習をしてる」と言った。
難しい、でもやる、と。
あの声は本当だと思った。
思いたかった、のかもしれないけれど。
五月四日。海に六人で行った。
光明と未菜、玲と航、そして俺と奈々美。
砂の城を作った。
潮が来るたびに少しずつ削られて、でもみんなで手を動かしながら、笑いながら。
玲が「どれだけ作っても波が来たら終わる。それでも作った」と言ったことが、なぜか頭から離れない。あの時、玲は何かを呟くような感じで言った。誰かに向けた言葉ではなくて、独り言みたいな。でもそれが、妙に心に刺さった。
その後のことは、今でも胸がざわつく。
波が強くなって、玲が飲み込まれた。俺は気づいたら海に入っていた。引き上げた玲は息をしていなかった。胸骨圧迫をしながら、頭の中が真っ白になっていた。周りの声が、遠かった。未菜が泣きながら何かを叫んでいた気がする。光明が俺の後ろにいた気がする。航が救急車を呼んでいた。でも、全部がぼんやりしていた。俺の目の前には玲だけがいた。
奈々美は、ずっと立っていた。
叫ばなかった。動こうともしなかった。
ただ、じっと見ていた。
玲が息を吹き返した瞬間、俺は奈々美と目が合った。奈々美は小さく「行って」と頷いた。
あの顔が、頭に残っている。
奈々美は何を考えていたんだろう。
何か別の、もっと深いものが、あの目の奥にあった。
その深さが、怖いのか温かいのか、俺にはわからなかった。
玲が退院した。
俺は迎えに行った。
病院のロビーで玲と合流して、夕方の住宅街を二人で歩いた。
玲は昨日よりずっと顔色が良かった。リュックを背負って、普通に立っていた。
でも、途中から何かを抱えているような沈黙があった。
いつもとは違う沈黙だった。
玲の家の門扉の前で、玲が止まった。
それから、ゆっくりと俺を見た。
その目を見た瞬間、俺は確信した。
玲の目が変わっていた。
記憶のない頃の玲の目ではない。もっと重いものを持っている目。
「昨日、波に飲まれた時のこと、話す」
玲が静かに話した。頭が真っ白になった時に、記憶が浮かんできたこと。病院で横になって、落ち着いてから、一個一個確認したこと。
「全部……思い出した」
元樹に告白したこと。振られたこと。奈々美という存在がいること。穂香のこと。あの夜の恐怖。
全部。
玲は泣かなかった。震えてもいなかった。ただ、まっすぐに俺を見て、静かに言った。
「全部……思い出したよ、元樹」
「今日は疲れた。また話す」
扉が閉まった。
俺は一人で、夕暮れの道に立っていた。
玲の最後の顔が、頭から離れなかった。
全部を思い出した、と言った玲の目。
あの目が、これからどんなことを意味するのか。
俺には、まだわからなかった。
今日から学校が始まる。
朝の通学路は、連休明けの空気がした。
少し白々しいような、現実に戻される感じ。みんなが浮かない顔で歩いているわけじゃないけど、ゆるんでいた空気がきゅっと締まる感じ。
まだ朝の七時半で、空は白く晴れていた。
五月は過ごしやすい季節のはずなのに、なぜかこの朝は少し重かった。
商店街の端を歩きながら、足元を見ていた。
「元樹くん」
声がして、顔を上げた。
奈々美だった。
いつもの角よりも少し手前の交差点に立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
俺は答えた。
連休前と変わらない、きちんとした格好だった。前髪が少し風に揺れた。
「連休、ゆっくりできた?」
奈々美が聞いた。
「まあ……うん」
「そっか」
奈々美が隣に並んだ。
歩き始めると、朝の光が斜めに差してくる。まだ低い角度の光で、影が長かった。
「今日顔色悪いよ、元樹くん」
「そうか」
「眠れなかった?」
「少し」
「……そう」
奈々美はそれ以上、何も聞かなかった。
学校のことを心配しているのか。玲のことを知っているのか。それとも、どちらでもないのか。
奈々美の横顔は、穏やかだった。
穏やかすぎるくらいに。
「海、楽しかった」
奈々美が言った。
「最後は大変なことになったけど」
「ああ」
「上野さん、元気そうで良かった」
俺は少し間を置いてから「うん」と答えた。
奈々美が何かを見透かしているような気がした。
でも何も見透かしていないのかもしれない。
その判断が、俺にはいつもできない。
「あ、そういえば」
奈々美がスマホを見た。
「昨日、中尾くんが文化祭の話し合い、今週中に始めたいって」
「ああ、そうか。委員会でもそろそろ動き出す感じだよな」
「元樹くんが学級委員だから、仕切るんでしょ」
「そういうことになる」
「大変だね」
「大変だよ」
俺は苦笑いした。
「でも元樹くん、向いてると思う。みんなをまとめるの」
「そういうものかな」
「そういうものだよ。元樹くんは怒らないから、話しやすいんじゃないかな」
奈々美の言い方は、さらっとしていた。
俺はそれに答えないまま、学校の方向へ歩き続けた。
教室に入ると、連休明けのざわめきがあった。
「旅行どこ行ったー」とか、「ゲームしかしてなかった」とか、「バイト入れすぎた」とか、そういう話が飛び交っていた。
航が俺を見つけて手を振ってきた。
「元樹!休どうだった?」
「まあまあ」
「まあまあってなんだよ。海、楽しかったじゃないか。俺めちゃくちゃ楽しかったぞ。最後は大変だったけど」
「ああ。楽しかったよ」
航は屈託のない顔をしていた。玲が波に飲まれた件は、たぶん心配していた。でも今日は、あえて掘り返さない空気だった。そういうところが、航のいいところだと思う。
「今日から文化祭の準備、そろそろ始まるよな」
「元樹が委員なんだろ、頼むわ。うまく仕切ってくれよ」
「頼むわじゃなくて、お前も自分で動けよ」
「動く動く。なんの役でも受けるよ。でも仕切りは苦手なんだよなあ、俺」
「わかってる」
俺は苦笑いした。
奈々美が隣の席から、俺たちの会話を聞いていた。
目が合うと、奈々美は小さく微笑んだ。
「頑張ってね」
「……ありがとう」
俺はそう言って、鞄から教科書を出した。
今日一日が、始まろうとしていた。
朝のホームルームが終わって、最初の授業が始まった。
現代文だった。
先生が教科書を開きながら「連休前のところから」と言って、俺は教科書のページをめくった。でも、半分くらい頭が別のところにあった。
玲のことが頭にあった。
今日も同じ学校に来ているはずだ。廊下ですれ違うかもしれない。
玲は「また話す」と言った。
いつ話すのか。どこで話すのか。
まだ、何も決まっていない。
でも今日は、何も急かすつもりはなかった。
連休に玲が退院してすぐに「全部思い出した」と言った。それだけでも、玲がどれだけ気を使ったか想像できた。今日すぐに何かを解決しようとするのは、玲にとって重すぎる。
俺はそう考えながら、教科書の文字を目でなぞった。
昼休みになった。
食堂に向かいながら、廊下を歩いていた時だった。
向かいから玲と未菜が歩いてきた。
未菜が先に気づいて「あ、元樹くん」と軽く言った。
「おー」
「連休の後だね、久しぶりな感じがする」
「三日ぶりくらいだけどな」
「でも連休ってなんか特別な感じがするじゃない」
俺は玲の方を見た。
玲は「うん」と軽く頷いた。
普通に見えた。
でも目の奥に、あの夕方の目の重さが残っていた気がした。
「元樹くん、今日のホームルームって文化祭の話する感じ?」
「ああ、たぶんそうなる。先生に言われてるから」
「うちのクラスも今週中には決めないといけないって言われた」
未菜が言った。
「渡部くん学級委員だし大変だね」
「まあ、なんとかなるでしょ」
玲は特に何も言わなかった。
俺も、それ以上話を続けなかった。
「じゃあね」
未菜が手を振った。
二人が先へ歩いていった。
俺はしばらく二人の背中を見てから、食堂へ歩き始めた。
午後のホームルームで、担任の先生が文化祭の話を出した。
「今年の文化祭は六月の最終週。クラスの出し物、そろそろ決めないといけない時期です。去年は演劇をやりましたが、今年は二年生になってからが初めての文化祭です。改めて、何をやるか話し合ってください。学級委員の渡部くん、仕切ってもらえますか」
クラス中の視線が、俺に集まった。
航が「よろしくー」とにやにやしながら言った。光明は腕を組んで、静かに頷いていた。
俺は立ち上がった。
少しだけ息を吸って、前を向いた。
「はい。じゃあ、まず何をやりたいか意見を聞かせてください。カフェ、劇、展示系とか、形式に関係なくとりあえず挙げてもらえると助かります」
すぐに声が上がった。
「カフェがいい。去年やりたかったのにできなかったから」
「お化け屋敷とかどうよ。暗くして怖い音流すやつ」
「劇が楽しかったから今年もやりたい気がする」
「でも去年の劇、準備めちゃくちゃ大変だったじゃないか」
「大変だったけど、やり終えた後の達成感がよかったんだよ。また劇やりたい」
「食べ物系が手っ取り早く儲かるって言うよな」
「そうそう、唐揚げ売ったらいいじゃん」
「いや唐揚げは難しいだろ学校で」
意見がばらけた。
俺はホワイトボードに候補を書いた。「カフェ」「お化け屋敷」「劇」「展示・発表系」「食べ物販売」。
「一回手を挙げてもらえますか。カフェがいい人」
十人ほど手が挙がった。
「お化け屋敷」
五人。
「劇」
十二人。
「展示系」
三人。
「食べ物販売」
数秒沈黙があってから、二人だけ手が挙がった。誰かが笑った。
劇が一番多かった。
「劇が多いですね。去年もやったので方法論はある程度わかってます。そちらの方向で話を進めていいですか」
「いいと思う」
「賛成」
「でも去年と同じシンデレラじゃ意味ないよね」
「それはそうだよな」
俺は少し考えた。
「演目、何がいいと思いますか。去年と違うもので。自由に出してください」
意見が飛び交った。
「ロミオとジュリエット」
「悲劇は重くない? どうせやるなら笑えるやつがいい」
「コメディ系の劇にするのどうよ」
「オリジナル脚本でもいいんじゃないか」
「えー書ける人いるの」
「昔話をアレンジするのはどう? 誰でも知ってるやつを改造して笑えるのにする」
奈々美が手を挙げた。
教室の空気が少しだけ変わった気がした。奈々美が発言する時は、なんとなく皆が静かになる。
「童話をコメディにアレンジするのはどうかしら。去年は真剣なシンデレラだったけど、今年は笑えるやつ。誰もが知ってる話の設定を少しずらして、そこにコメディを入れる」
「それいいかも。具体的に何の話がいいと思う?」
「桃太郎とか浦島太郎とか、かぐや姫とか」
「浦島太郎をコメディにするのって面白くない?」
そこで航が勢いよく言った。
「龍宮城でご馳走食べすぎてお腹壊すシーンとか絶対ウケるって」
教室に笑いが起きた。
「確かにそれ面白い」
「浦島が海に飛び込む前に「泳げるかな……」って不安がるシーン入れようよ」
「泳げないのに行くのか」
「亀に引っ張られて半ば強制的に連れていかれる感じで」
「それいい!」
どんどんアイデアが出てきた。
「亀が実は超偉そうなやつで。「貴様が助けてくれたのか。礼を言う」みたいな感じで」
「偉そうすぎる!」
「「礼は不要か?」って聞いたら「不要だ」って即答するやつ」
また笑いが起きた。
「龍宮城のシーンはにぎやかになりそうだな」
「乙姫が「おもてなし」って言いながらどんどん料理持ってきて、浦島が断れない感じで全部食べさせられる」
「断れない浦島!」
「それちょっと誰かに似てない?」
誰かが俺の方を向いて笑った。
「誰のことですか」
俺が言うと、また笑いが起きた。
雰囲気が良かった。
みんながちゃんと楽しそうにしていた。
「じゃあ、浦島太郎のコメディ版ということで進めていいですか。内容は今のアイデアを活かして、脚本担当が肉付けしていく感じで」
「賛成」
「いいと思う」
「わかった、やろう」
「脚本担当、やってみたい人いますか」
中尾という男子が手を挙げた。
「書いてみたい気はする」
「吉田はどう? 国語得意だったよな」
「え、私? でもまあ、協力するならできるかも」
「お願いできますか」
「はい」
吉田が控えめに返事した。
もう一人手が挙がった。
奈々美だった。
「脚本、参加してもいいですか」
一瞬、教室が静かになった。
去年も奈々美は脚本に加わった。あの時は玲と組んで、脚本作りの中でいろんなものがぶつかり合った。今年は玲は別のクラスだ。でも、奈々美が脚本に入るということは、何かが動く予感がした。
「ありがとうございます。じゃあ脚本チームは中尾くん、吉田さん、柊さんの三人で」
俺は三人の名前をホワイトボードに書いた。
「よろしくお願いします」
「はーい」
中尾と吉田は軽い感じで返事した。
奈々美は静かに頷いた。
ホームルームが終わった後、役割分担の話を少しだけ続けた。
「準備の大きな役割は、脚本・大道具・衣装・音響照明・広報の五チームです。来週くらいに希望を取りますが、今日から考えておいてもらえると助かります」
「了解」
「よろしく学級委員」
航がまたにやにやしながら言った。
「うるさい」
俺が返すと、少し笑いが起きた。
光明が「おつかれ」と肩を叩いてきた。
「あんまり気負うなよ。うまくまとまってたじゃないか」
「そうか」
「なんか顔が難しいぞ」
「そんな顔してたか」
「してた」
光明は俺の顔をじっと見てから、声を落として言った。
「玲のこと、話したいことあるか」
「……後で」
「わかった」
光明は頷いた。
奈々美が近くにいたので、それ以上は言えなかった。でも光明が頷いたから、後で時間をとろう。
奈々美は鞄を整えながら、こちらをちらりと見た。
表情は穏やかだった。
放課後。
俺は帰り支度をしながら、奈々美に声をかけた。
「今日、帰ろうか」
「うん」
奈々美が鞄を持って立ち上がった。
廊下に出ると、光明と航が待っていた。
「元樹、今日はどうすんの」
航が聞いた。
「帰るよ。奈々美と」
「そっか。じゃあまた明日。お疲れさん」
航が手を振って別の方向に歩いていった。
光明は少し俺を見てから、「ちょっと待ってて」と言った。
鞄を取りに教室に戻っていく光明の背中を見ながら、俺は廊下に立っていた。
奈々美が隣に立った。
「光明くんとどこか寄るの?」
「いや、たぶんそこまでじゃないけど、少し話したいことがあって」
「そっか」
奈々美は特に何も言わなかった。
光明が戻ってきた。
「じゃあまた明日な」
光明は奈々美に軽く「お先に」と言って、廊下の先へ歩いていった。
俺は奈々美と並んで、昇降口へ向かった。
階段を下りながら、奈々美が言った。
「今日、委員の仕事お疲れさま」
「まだこれからだよ」
「でも、みんなまとまってたじゃない。元樹くんのしゃべり方が上手かったと思う」
「大げさだよ」
「大げさじゃない。去年の委員さん、もっとぐだぐだしてたもの」
俺は少し笑った。
「そんなに見てたのか」
「いつも見てるよ」
奈々美がさらっと言った。
その「いつも見てるよ」が、優しいのか重いのか、今日も俺にはわからなかった。
昇降口を出たところで、声がした。
「元樹」
立ち止まった。
振り返ると、昇降口の横の壁際に玲がいた。
未菜は隣にいなかった。一人で立っていた。
玲は俺を見て、それから奈々美を見て、また俺を見た。
奈々美が、静かに玲を見ていた。
表情は変わらなかった。
三人の間に、一瞬の空気があった。
「奈々美さん」
玲が言った。
「少しだけ、元樹を借りてもいい?すぐ終わるから」
奈々美はわずかに間を置いた。
二秒か、三秒か。
「……どうぞ」
奈々美が俺を見た。
「先に屋上で待ってる」
「ああ」
「屋上のベンチで少し涼む。ゆっくりでいいよ」
俺は「わかった」と言った。
奈々美は視線を玲にひとつ向けた。その視線は穏やかだった。怒りでも警戒でもない。何かを確認するような、そういう目だった。
奈々美は階段を上がっていった。
その足音が聞こえなくなってから、玲が口を開いた。
「ごめん、急に」
「いや」
玲の顔が、少し緊張していた。
「少し歩きながら話す?」
「ああ」
俺たちは昇降口から外に出た。
校庭の端を歩いた。
五月の夕方の光が、長く斜めに差していた。黄色みがかった光で、建物の影が長く伸びていた。
玲は少しの間、何も言わなかった。
俺も待った。
校庭の向こうで、野球部が練習している声がした。ボールを打つ音。掛け声。
「元樹に話さないといけないと思って」
玲が言った。
「連休の最終日に、家の前で言ったこと。あれ、ちゃんと説明しないといけない気がしたから」
「ちゃんと聞く」
俺は答えた。
玲は前を向いて歩きながら、静かに話し始めた。
「海で波に飲み込まれた時、最初は本当に何もわからなかった。頭が真っ白で、ただ暗い中にいた感じ。でも、その時に……いろんなものが出てきた」
「うん」
「最初は断片みたいな感じだった。一枚の写真みたいに、ぽっと浮かんでくる感じ。でも、繋がっていくのがわかった。病院で横になって、落ち着いてから、一個一個確認した」
玲の声は揺れていなかった。
でも、それは感情がないからじゃなくて、きっと来るまでにたくさん自分の中で繰り返したからだと思った。ここに来るまでに、何度もひとりで確認したんだと思った。
「元樹に告白したこと、覚えてる」
「……うん」
「振られたこと」
「うん」
「奈々美さんのこと。元樹と奈々美さんが付き合ってること」
「ああ」
「穂香のこと……あの、橋の下のこと」
俺は少し間を置いてから「ああ」と言った。
「全部、覚えてる」
玲が立ち止まった。
俺も止まった。
玲はしばらく下を向いていた。
「最初に全部戻ってきた時、少し怖かった。なんか、記憶が一気に押し寄せてくる感じで。穂香に誘われた夜のこととか、暗い場所で声をかけられた時の感触とか。そういうのが、ざーっと来た」
「……辛かったな」
「辛いっていうか……」
玲は顔を上げた。
「現実だったんだな、って感じがした。ちゃんとあったことなんだ、って。記憶がなかった間は、あの出来事が自分の外側にあった感じだったけど。全部戻ってきたら、自分の中に入ってきた感じがして」
「うん」
「怖かったのは最初だけで、今は……ただ、正面から向き合おうって思ってる。逃げても、記憶がある以上は意味がないから」
「玲……」
「元樹に告白して振られたことも、ちゃんと覚えてる。だから、変なふうに思わないで。今さらそれをどうこうしたいとか、そういうことじゃないから」
俺は何も言えなかった。
「ただ、元樹は知っていた方がいいと思った。私が全部思い出したってこと。これから、色々変わるかもしれないから」
「変わる……って」
「自分でもまだわからない。でも、記憶がない状態と、ある状態じゃ、物の見え方が違うから。今まで何も知らずに元樹と普通に話してたのと、これからは全部知った上で話すのとじゃ、何かが変わる気がして」
玲がまた歩き始めた。
俺もついていった。
「穂香のこと、誰かに話したのか」
「まだ。未菜ちゃんには伝えようと思ってる」
俺は黙って頷いた。
「元樹に迷惑はかけないよ。ただ、知っていてほしかった」
「迷惑とか、そういうことじゃない」
「うん」
「俺は、玲のことが心配だ」
玲は少し間を置いてから、「ありがとう」と言った。
それから、少し笑った。
記憶のある玲の笑い方だ、と思った。
記憶をなくしていた頃の玲とは、少し違う。どこかに力がある。でも、明るいわけじゃない。複雑なものを全部抱えた上で、それでも立っている、という笑い方。
「奈々美さんに、私のことを話す?」
玲が聞いた。
「話す……と思う。どう話すかは、考えないといけないけど」
「そっか」
「玲は、奈々美のことをどう思ってる」
俺は少し迷ったけど、聞いた。
玲は少し間を置いた。
足が、一瞬だけゆっくりになった。
「怖い人だと思ってた。今も、それは変わってない」
「うん」
「でも……元樹が選んだ人だから」
それだけだった。
そのことを、玲はそれ以上続けなかった。
俺も、続けなかった。
校庭を半周していた。
「じゃあ私、今日はここまで」
玲が立ち止まった。
「うん」
「また話す」
「ああ」
「文化祭、劇なんだって? 航が言ってた。浦島太郎だって」
「コメディ版になった」
「面白そうじゃない」
玲が少し笑った。
「頑張ってね、学級委員」
「そう思うならクラス違っても応援してくれ」
「応援してる」
玲は笑いながら言って、それから歩いていった。
俺はその背中を、しばらく見ていた。
(玲……)
胸の中で、何かが揺れていた。
記憶が戻った玲。
全部を思い出して、それでも前に向こうとしている玲。
あの笑い方は、かつての玲のものだった。
空を見上げた。
夕方の空が、少しずつオレンジに変わり始めていた。
屋上に、奈々美がいる。
迎えに行かないといけない。
でも、足がすぐに動かなかった。
俺は少しの間、校庭に立っていた。
屋上のドアを開けると、奈々美はベンチに座っていた。
スマホは見ていなかった。
ただ、空を見ていた。
夕日が西の方にあって、そこから光が薄く広がっていた。
「待たせた」
「ううん」
奈々美が立ち上がった。
夕日が奈々美の横顔を染めていた。
「上野さんと、話せた?」
「ああ」
「そっか」
奈々美はそれだけ言って、それ以上は聞かなかった。
俺たちは並んで屋上の縁に立った。
黒峠の街並みが、夕日の中に広がっている。
商店街の屋根。踏切の白い遮断機。小さな公園の緑。
「文化祭、楽しみにしてる」
奈々美が言った。
「今年は元樹くんが仕切るんだから、去年より良いものになる気がする」
「プレッシャーかけるな」
「プレッシャーじゃなくて、期待」
奈々美が少し笑った。
「浦島太郎のコメディ版、面白いと思うよ。龍宮城のシーン、にぎやかになりそう」
「そうだな。航が亀役になりそうで、それだけでもう面白い」
「ふふ」
奈々美が笑った。
「いい脚本にしたい」
「脚本チームに入ったんだから、頑張れよ」
「うん」
少しの間、黙って夕暮れを見ていた。
「奈々美」
「ん?」
「今日のこと、何か言いたいことあるか」
奈々美は少し間を置いた。
夕日を見ながら、静かに言った。
「何も。元樹くんが大事なものを大事にするのは、当然だと思ってるから」
その言葉が、俺には少し重かった。
怒っているわけじゃない。刺があるわけでもない。でも、何もかも見えているような言い方だった。
「帰ろうか」
「うん」
二人でドアに向かった。
俺は奈々美の横顔を、ちらっと見た。
奈々美は普通の顔をしていた。
でも、普通の顔をしていることが、時々一番怖い。
家に帰ってから、俺はずっと玲のことを考えていた。
夕食の間も、風呂の中でも、ベッドに横になってからも。
玲の声が、耳に残っていた。
「元樹に告白したこと、覚えてる」
「振られたこと」
「奈々美さんのこと。元樹と奈々美さんが付き合ってること」
「全部、覚えてる」
あの夜の告白のことを、玲はどう思っているんだろう。
振られたことを思い出して、玲は今何を感じているのか。
「今さらそれをどうこうしたいとか、そういうことじゃない」と言った。
俺はその言葉を信じたいと思っている。
でも同時に、何かが引っかかる。
玲が「怖い人だと思ってた」と言った奈々美のことを、俺は好きだ。
それは本当だ。
でも、玲のことを何とも思っていないかと言われると、違う。
大切だ、と思う。
幼馴染だから、という理由だけじゃないかもしれない。
でも、その感情を「恋愛」と呼んでいいのかどうか、俺にはわからない。
(俺は何を選ぼうとしているんだ)
天井を見つめながら、思った。
奈々美は「信じる練習をしてる」と言った。
俺は、奈々美を信じているのか。
玲を、どう思っているのか。
答えを出さないまま、いつまでも宙ぶらりんにしているのは、誰かを傷つけ続けることになる。
それは、わかっている。
わかっているのに、俺は答えを出せない。
出す勇気が、まだ足りないのか。
それとも、心の中にある何かをまだ認めたくないのか。
どちらなのか、自分でもわからなかった。
スマホが鳴った。
奈々美からだった。
─────────────────
元樹くん、今日はお疲れさまでした。
文化祭の準備、始まるね。楽しみにしてる。
脚本チームで昨日から少し考えてたんだけど、龍宮城のシーンに「一番大切なものは目の前にあるのに気づかない」っていうテーマを入れたいなって思ってる。
浦島太郎って、亀も浜辺の景色も目の前にあるのに、ついつい別のものに引き寄せられちゃうでしょ。目の前にあるものを大切にできない人の話だと思って。
コメディの形を借りながら、その辺を丁寧に書きたいな。
おやすみなさい。
─────────────────
俺はその文章を二回読んだ。
(目の前にあるものを大切にできない人の話)
なんでもないメッセージに見えた。
でも、なんでもないとは思えなかった。
奈々美はいつも、こうだ。
刃が見えない。
でも確かに、何かが刺さっている。
俺の胸の中にある何かを、見透かしているような気がした。
「おやすみ」とだけ打って、スマホを置いた。
天井を見た。
しばらく、俺は動かなかった。
翌日から、文化祭の準備が本格的に動き始めた。
まずは役割分担だ。
俺は放課後のホームルームの時間を使って、全員に希望を聞いた。
「大きく分けて、脚本・大道具・衣装・音響照明・広報の五チームです。どれが希望か教えてください。得意なことや、やってみたいことで選んでもらえると助かります」
じゃんじゃん手が挙がった。
脚本チームは奈々美、中尾、吉田の三人で決定。
大道具は男子が中心に七人が希望した。龍宮城のセットや浜辺のセットを作る担当だ。
衣装は女子が中心に五人。乙姫の衣装や亀の甲羅をどう作るかが課題だと言っていた。
音響照明は航が「やりたい!」と言ったので、航と機械好きの橋本が担当した。
広報は二人。
俺は全体を見渡して、人数の偏りを微調整した。
「大道具が七人で少し多めだから、一人か二人、音響照明のサポートに入ってもらえますか。橋本、他に誰かいますか」
「林でどうよ。電気好きだったよな」
「あー、いいっすよ。そっちに入ります」
こんなふうに進めていくと、役割分担は意外とスムーズに決まった。
光明が「お前、思ったより向いてるかもな」と言った。
「買い被るな」
「でも前の委員よりはるかにテキパキしてる」
「それは前の委員が……まあいいか」
航が「元樹、さすが!」と言いながらサムズアップをした。俺は苦笑いした。
翌日の昼休み、脚本チームの三人が集まって話し合い始めた。
俺は学級委員として顔を出した。
「序盤は、浦島が浜辺で亀を助けるところから始めよう」
中尾が言った。
「ただ、この亀が超高飛車な設定で。助けてもらったのに「礼は不要。同行せよ」みたいな感じで」
「浦島が「え、助けたのに礼なしですか!?」って抗議するの面白くない?」
吉田が言って、笑いが起きた。
「でもせっかくだから、浜辺でちょっとしたシーンを入れたい」
奈々美が言った。
「どんなシーン?」
「浦島に好意を持ってる女の子が、浜辺にいるの。浦島はその子に気づいていない。そこに亀が現れて、浦島は海に行ってしまう」
「あー。気づかずに行っちゃうやつか」
「でも終盤で玉手箱を開けた後に、その女の子のことを思い出す。でも、もう手が届かない」
教室が少し静かになった。
「それ、ちょっと切ない終わり方にならない? コメディでしょ」
「コメディの中に少し切ないものを入れた方が、余韻が生まれる。笑いっぱなしより、少しだけ刺さる劇の方が印象に残る」
奈々美の言い方は、静かだった。
正論だと思った。
でも俺は、奈々美がその「気づかずに行ってしまった男」と「手が届かなくなった女の子」という設定を提案した理由について、少し考えた。
「わかった。その設定で行こう。コメディの流れは変えず、ただ浦島に気づいてもらえなかった女の子の存在を、さりげなく入れる感じで」
中尾が言った。
「そうそう。説明的にしすぎず、ほんの少しだけ。最後のシーンで初めて観客が「あ、そういうことか」って気づく感じで」
奈々美が頷いた。
俺は聞いていながら、何も言わなかった。
最初の脚本の骨格が出来上がったのは、翌々日だった。
脚本チームが放課後に残って作り上げ、俺に見せた。
「確認してほしい」
「ああ」
俺は座って読んだ。
おおまかな流れはこうだ。
浜辺で亀を助ける浦島。亀はぶっきらぼうで上から目線。「感謝はするが感動はない。龍宮城へ来い」と言われ、うっかりついていく浦島。その瞬間、浜辺の端で見ていた女の子の姿が一瞬映る。でも浦島は気づかない。龍宮城では海の生き物たちが宴会を開いている。タコが料理人。クラゲがMC。龍宮城の乙姫が「おもてなし」と言いながらどんどん料理を持ってくる。浦島は断れない性格なので全部食べる。食べ過ぎてお腹を壊す。それでもなんやかんやで楽しい時間を過ごす。帰る時に玉手箱を渡される。「開けないでください。絶対に」と念押しされる。浦島は「開けない」と約束するが、帰り道で「でもやっぱり気になる」という葛藤シーンがコメディタッチで描かれる。結局開けてしまい、老人になる。そして浜辺に戻ったとき、自分を待っていてくれた女の子の姿がない。亀が一言言う。「それが、置いてきたものだ」。
俺は読み終えて、少し間を置いた。
「いいと思う」
「本当に?」
「コメディとして面白いし、最後の亀のセリフがちゃんと効いてる。あと、断れない性格の浦島というのは、共感しやすくていい」
「元樹が言うとリアルだな」
中尾が笑った。
「うるさい」
奈々美は黙って俺を見ていた。
俺と目が合った。
奈々美はすぐに視線を中尾に戻した。
「じゃあ、このベースで細かいセリフを肉付けしていく感じで」
「そうしよう」
「来週から配役の検討に入りますか」
「そうだな。大筋が固まったら配役決めて、再来週から練習に入りたい」
「わかった」
俺は立ち上がった。
「いい脚本だよ。ありがとう」
三人が少し嬉しそうにした。
奈々美だけは、淡々としていた。
でも、俺が「いい脚本だよ」と言った瞬間に、わずかに目が細くなった気がした。
嬉しかったのか。
それとも別の何かだったのか。
読めなかった。
その週の終わりには、大道具チームも動き始めた。
浜辺のセット、龍宮城のセットを作る班が分かれた。
龍宮城は教室の後ろに縦長の段ボールを積み上げて、青と水色の絵の具で塗っていく計画だった。
放課後の教室が、段ボールと絵の具の匂いで満たされた。
「元樹、ここの色どう思う?」
大道具担当の女子が聞いてきた。
「もう少し青を濃くした方がいいかな。今はちょっと薄い」
「そっか、やり直す」
「待って、上の部分に濃いやつを重ね塗りする方が楽だよ。全部塗り直さなくていいから」
「あ、それいいね。ありがとう」
俺は右往左往しながら、各チームの進捗を確認していた。
衣装チームでは、乙姫の衣装をどう作るかで話し合いが起きていた。
「本格的にやったら大変じゃない?」
「でもちゃちいのは嫌だよ」
「じゃあ乙姫だけは本格的にして、他はシンプルにする」
「それがいいと思う。主役と脇役で差をつける感じで」
俺が提案すると、話がまとまった。
こんなふうに、細かい判断を求められることが多かった。
委員の仕事は、決して難しいことをするわけじゃない。ただ、判断を求められる回数が多い。そのたびに少し考えて答えを出す。それを繰り返す。
気づいたら夕方になっていた。
翌週になって、第一稿の脚本が完成した。
中尾、吉田、奈々美の三人が仕上げたそれを、俺は朝のホームルーム前に読んで、思ったより感動した。
亀のセリフが特によかった。
高飛車で上から目線なのに、どこかで浦島のことを見守っている。表面的なセリフは「不要だ」「行くぞ」みたいな短い命令形なのに、動きの説明や状況描写の中に、亀なりの心配が滲んでいる。
龍宮城のシーンはにぎやかで笑えるのに、帰り際の「それが、置いてきたものだ」というセリフが、後から静かに効いてくる。
浜辺の女の子のシーンは、本当にほんの少しだけだった。セリフもない。ただ、幕の端で遠くを見ている、というト書きだけ。でも、最後のシーンでその子の姿がないとわかった時に、観客が「あ、そういうことか」と気づく仕掛けになっていた。
「これ、いい脚本だよ」
俺は脚本チームの三人に言った。
「誰がどのシーン書いたの」
「亀のセリフ、私が書いた」
奈々美が言った。
「龍宮城の宴会シーンは中尾くんで、玉手箱を開けるかどうか悩む独白は吉田さんが書いた」
「全部がちゃんと噛み合ってる。よくできてる」
「……よかった」
奈々美が静かに言った。
その声には、珍しく安堵の色があった。
「亀の、「置いてきたものだ」っていうセリフ。どういうつもりで書いたの」
俺は奈々美に聞いた。
奈々美は少し考えた。
「浦島が本当に失ったものは、時間じゃないと思って。亀も乙姫も玉手箱も、目の前に何度もヒントがあったのに、気づけなかった。気づけないうちに、大切なものを置いてきた。そういう話にしたかった」
「……なるほど」
「コメディだけど、そこだけは真剣に書いた」
奈々美が俺を見た。
その目が、一瞬だけ違う色を帯びた気がした。
俺には、それがどういう意味なのか、わからなかった。
でも、その目は確かに俺に向いていた。
まっすぐに。
配役を決める日が来た。
朝のホームルームで、クラス全体に候補を募った。
「浦島太郎役、やりたい人」
何人か手が挙がった。
「亀役、やりたい人」
また手が挙がった。
俺は黒板に希望者の名前を書きながら、進めた。
「立候補が重なっているところは、後で話し合いで決めましょう。では主要な役から」
浦島太郎役は、最終的に松田という男子になった。おっとりした性格で、断れない浦島に向いていると全員が言った。当の松田は「えー俺なの?」と言いながら、あまり嫌そうでもなかった。
亀役は、圧倒的に航の名前が挙がった。
「航?」
「絶対ハマるって」
「亀の上から目線キャラ、航にやらせたい」
「ちょっと待ってよ俺高飛車のキャラとか難しいんだけど」
「いや、似合う。自覚がないだけ」
笑いが起きた。
航も笑いながら「まあいいか、やる」と言った。なんだかんだ楽しそうだった。
乙姫役は、衣装チームの中心にいた中村という女子。しっかり者で声も大きく、存在感があった。
タコ役は、動きが大袈裟で面白いというので大木が立候補した。本人が「タコ踊り考えてある」と言い出して、誰もがそれで決まりだと思った。
クラゲMC役は長尾。
浜辺の女の子役は、静かに手を挙げた女子がいた。
藤田という女子だった。いつも教室の端にいて、あまり目立たないタイプだった。でも、手を挙げた時の顔に、静かな意志があった。セリフはほとんどないが、最後に舞台の端に立つだけで場の空気を変えるような役だ。
「藤田さん、お願いしていいですか」
「はい」
藤田さんは静かに答えた。
脚本チームの奈々美が、藤田さんの方を一瞬だけ見た。
何を考えているのか、読めなかった。
でも、その視線は短かった。
配役が決まってから、練習が始まった。
最初は台本を読むだけの読み合わせ。
龍宮城のシーンは、最初から笑いが起きた。
「お前たち、この方をおもてなしせよ!」
航の亀が、台詞に入った瞬間に教室の空気が変わった。
高飛車な亀のはずなのに、航がやると何かに本気の熱量があって、それが逆に面白かった。脚本に書いてある以上の迫力がそこにあった。
「あ、これ航に頼んで正解だったな」
光明が小声で言った。
「完全に憑依してる」
「亀に憑依されてる男」
二人でこそこそ笑った。
読み合わせが終わった後、少し立ち稽古をした。
「浜辺のシーン。松田、もう少しおっとりした感じで。そこ急がなくていいよ」
「あー、こう?」
「そうそう。断れない感じを出して。亀に「同行せよ」って言われた時に「えっと……あの……」みたいな間を作ると面白い」
「わかった、やってみる」
航の亀は最初から完成度が高かった。台詞を言うたびに周りが吹き出した。
「航さん、もう少し抑えてください。笑わせすぎると浦島のセリフが聞こえない」
奈々美が言った。
「難しいな俺」
航が困った顔をした。
「笑われるのはいいの。でもセリフの間は取ってほしい。観客が笑い終わった後に次のセリフが来る感じで」
「そういうことか。コントのテンポってこと」
「そう」
奈々美の演出の説明は、正確だった。俺は横で聞きながら、なるほどと思った。
玲が去年脚本をやっていた時も、奈々美は的確なことを言っていた。去年は脚本の中に別の意図が混じっていたので、俺には素直に聞けなかった。今年は少し違う気がした。ただ、完全に信じきれているかというと、そうでもない。
その複雑さが、俺の中に残っていた。
練習が三日目に入った夕方。
俺は廊下に出て、少し頭を冷やしていた。
ドアの向こうから笑い声が聞こえた。
みんなが楽しそうにやっている。
悪くない、と思った。
去年の文化祭は、準備の途中でいろんなことがあった。脚本で玲と奈々美が火花を散らしていた。俺は王子役で、奈々美にべったりくっついていた。楽しかったかというと、楽しいとも言えなかった。
今年は違う。
俺は仕切る側で、みんなが動いている。それを見ながら、少し外側から眺めている感覚がある。
これはこれで、いい。
そう思っていた時、廊下の奥から玲が歩いてきた。
別のクラスだから、練習には関係ない。放課後に偶然通りかかっただけだ。
「玲」
「あ、元樹」
「何してんの、こっちに」
「購買に行ってた帰り」
玲が消しゴムを見せた。
「準備、うまくいってる?」
「まあまあ。今日は笑いが多かった」
「それはいい感じじゃない」
玲が少し笑った。
「あのさ、元樹」
「うん」
「少し聞いていい?」
「どうぞ」
玲は少し間を置いた。
「文化祭が終わったら、もう一度ちゃんと話したい。連休の時のこと。これからのことも含めて」
「うん」
「今すぐじゃなくていいし、焦ってもない。でも、話したい」
「わかった」
「元樹が都合のいい時に合わせるから」
「文化祭、終わったらすぐ話そう」
「ありがとう」
玲が頷いた。
「じゃあ、頑張って」
「ああ」
玲が歩いていった。
俺は廊下に立ったまま、玲の背中が曲がり角を消えるまで見ていた。
(文化祭が終わったら、話す)
それまでに、俺も何かを整理しないといけない。
答えを出す勇気が、あるかどうか。
まだ、わからなかった。
でも。
今は、文化祭を成功させることだけ考えよう。
そう思って、俺は教室のドアを開けた。
練習が続く日々の中で、少しずつ劇が形になっていった。
松田の浦島は、日を追うごとに「断れない感じ」がよく出るようになった。亀に「同行せよ」と言われた時の「えっと……はい……」という間が、だんだんと上手くなってきた。
「そこ、もう少し引きずられるような動きも入れると面白い」
奈々美がアドバイスした。
「引きずられる?」
「亀が先に歩き始めて、浦島が慌ててついていく。でも途中で「あ、待って待って」ってなる感じ」
松田がやってみると、また笑いが起きた。
音響照明チームが最初の照明テストをした日は、教室が一気に舞台っぽくなった。
「龍宮城のシーン、水色の照明入れてみます」
橋本が言って、部屋の電気が消えた。
代わりに、段ボールで作った龍宮城のセットに水色の光が当たった。
「わあ」
誰かが言った。
確かに、雰囲気が変わった。
「これ、本番はもっと本格的にできますよ。照明の角度も変えられるし」
「すごいな。頼むわ」
航が感心して言った。
俺は照明が当たった龍宮城のセットを見た。
段ボールと絵の具で作った、手作りのセット。
でも、光が当たると本物みたいに見えた。
その次の週の昼休みに、光明と二人で話した。
屋上に上がって、ベンチに腰掛けた。
光明が先に口を開いた。
「玲から聞いた。記憶が戻ったって」
「ああ」
「元樹から話してくれるのを待ってたんだけど、玲が先に俺に言ってきた」
「そうか。玲、ちゃんと話せてるならよかった」
「穂香のこと、かなり辛そうだったよ。でも、前を向こうとしてる感じだった」
「うん」
「元樹は、どうなんだ」
光明が俺を見た。
「玲が記憶を取り戻したことで、何か変わった気がしてるか」
俺はしばらく考えた。
「変わった……と思う。自分の中で何かが揺れてる感じがする」
「そうか」
「奈々美のことが好きだ、ってのは本当だよ。そこは変わってない」
「でも」
「でも、玲のことも、何かある気がしてる。それが何なのか、まだわからない」
光明は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
「急かすつもりはないけど、元樹」
「うん」
「どっちかを傷つけないようにしようとして、結果的にまた両方を宙ぶらりんにしてたら、それは一番ダメだぞ」
「……わかってる」
「わかってて、動けてないんだよな」
「ああ」
光明が少し笑った。
「正直だな」
「嘘ついても意味ないから」
「そうだな。まあ、文化祭終わってから考えろよ。今はその仕切りに集中しとけ」
「そうする」
「文化祭、いい感じになってきてるじゃないか」
「そうか?」
「俺の目には、去年より全然いい感じに見えてるよ。みんながちゃんと動いてる」
「それはみんなが頑張ってるからだよ」
「お前がうまく場を作ってるからでもある。自分でわかってないだけで」
光明の言い方は、さらっとしていた。
だから、素直に受け取れた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
文化祭前日。
準備は最終段階に入っていた。
昨日で大道具がほぼ完成した。龍宮城の壁は青と水色のグラデーションで、廊下側から見るとそこだけ海の底みたいに見えた。浜辺のセットは砂浜の絵と貝殻の飾りで、こっちはかなり手作り感があったけど、それがかえって味になった。
「いいな、これ」
俺が言うと、大道具チームの面々が達成感で頷いた。
「ほんとに頑張った」
「来週取り壊すのが惜しい」
「写真撮っておこう」
「それいいな」
衣装チームも全衣装が揃った。
乙姫のドレスは白と水色のサテン生地で、想像以上に出来が良かった。中村が試着して教室を歩くと、どっと笑いが起きた。でも笑いの中に「すごい」という声もあった。
「本当に乙姫じゃん」
「本格的すぎる」
航の亀の衣装は甲羅をダンボールと緑の布で作り、頭に黄緑のフード。見た目だけでもう面白かった。
「完璧じゃないか」
「亀にしか見えない」
「最高」
航が「そこまで笑わんでいい!」と言ったが、自分でも鏡を見てふきだしていた。
音響照明も最終確認が終わった。
「照明、バッチリです」
橋本が報告してきた。
「龍宮城のシーンで水色の照明入れると、一気に雰囲気変わりますよ。今日の最終リハで確認してください」
「わかった。ありがとう」
午後から最終リハが始まった。
台詞が出てこなくなる場面がいくつかあった。
「あー、なんだっけ」
「「龍宮城においでくださいまして」だよ」
「あ、そうだそうだ」
俺は脚本を持って舞台袖に立って、台詞が飛んだ時に小声でフォローした。
本番はできないが、最終リハでは許容範囲だろう。
全体を通したリハが終わった時、みんなが少し疲れた顔をしていた。でも達成感もあった。
「お疲れさまでした。明日が本番です」
俺は言った。
「緊張するな」
「でも楽しみでもある」
「絶対ウケると思う。龍宮城のシーン」
航が腕を組んで言った。
「俺の亀、自信があるぞ」
「頼むよ」
笑いが起きた。
後片付けが終わって、みんなが帰り始めた。
俺は最後まで教室に残って、セットのチェックをしていた。
段ボールの龍宮城が、教室の後ろにそびえている。
明日の本番に備えて、ガムテープで補強が必要なところを確認した。
「元樹くん」
声がして振り返ると、奈々美が立っていた。
鞄を持って、出口のところにいた。
「まだいたんだ」
「忘れ物した。もう帰るところ」
奈々美が少し教室の中に入ってきた。
龍宮城のセットを見上げた。
「大きくなったね。最初、これが本当に形になるのかなって思ってたけど」
「確かに、最初は骨組みだけで不安だったな」
「でも出来上がった」
「うん」
奈々美がセットを見たまま、静かに言った。
「明日、楽しみだよ」
「俺も」
「脚本、受け入れてもらえてよかった。浜辺の女の子のシーン、最後まで入れるか迷ったけど」
「あそこがあるから、最後の亀のセリフが効くんだよ」
「そうかな」
「そうだよ。あのシーンがなかったら、ただ「時間を失った」っていう話で終わる。でもあのシーンがあるから、「気づかずにいた間に、大切なものがなくなった」っていう話になる」
奈々美が俺を見た。
「元樹くん、ちゃんと読んでくれたんだね」
「脚本チームに聞いたから、ちゃんと読んだよ」
「よかった」
奈々美が少し笑った。
その笑顔は、普通の笑顔だった。
でも、笑顔の奥に何があるのか、俺にはわからない。
「帰ろうか」
「うん」
二人で教室を出た。
廊下は既に静かだった。
ほとんどの生徒が帰った後の、がらんとした廊下。
足音だけが響いた。
俺は奈々美の横を歩きながら、明日のことを考えていた。
明日、文化祭が始まる。
劇が上演される。
玲との話は、その後だ。
奈々美のこと、玲のこと、自分のこと。
俺が答えを出さないといけないことが、ある。
文化祭が終わってから、向き合う。
そう決めた。
階段を下りながら、奈々美が言った。
「元樹くんって、今どんな気持ち?」
「今?」
「文化祭の前日の、今」
俺は少し考えた。
「緊張と、楽しみが半々かな」
「仕切ってきた分、本番がちゃんと成立してほしいっていう気持ちも?」
「それも、ある」
「うん」
奈々美が頷いた。
「明日、絶対うまくいくよ」
「根拠は?」
「元樹くんが頑張ってたから。みんなが頑張ってたから」
その言い方は、さらっとしていた。
でも、嘘くさくなかった。
俺は「ありがとう」と言った。
昇降口を出ると、夕暮れの空気が体を包んだ。
六月の終わりの夕方。
空はもうオレンジを通り越して、深い色になり始めていた。
この空の下に、明日が待っている。
文化祭の朝が、待っている。
俺は深く息を吸った。
奈々美が隣を歩いていた。
二人の足音が、夕暮れの道に響いていた。
俺は前を向いて歩き続けた。
ねえ、元樹くん。
浦島太郎のお話、好きだよ。
あの人、悪い人じゃないんだよね。ただ、目の前にあるものが見えなかっただけで。亀も、龍宮城も、玉手箱も——全部、サインだったのに。気づかないまま、大切なものを置いてきてしまった。
私が亀のセリフを書いたのは、理由があるよ。
「それが、置いてきたものだ」って言えるのは、ずっと見ていた側だけだから。
浦島が海に飛び込む瞬間も、龍宮城で笑っている間も、玉手箱に手を伸ばす時も——亀は全部、見ていた。止めなかった。ただ、見ていた。
似てると思わない?
私のこと、どう思った?
怖いって思った? それとも——
まあ、いいよ。
明日は本番だから、今日は早く寝てね。
おやすみなさい、元樹くん。
ちゃんと、夢を見てね。
奈々美




