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奈々美さんの裏の顔  作者: 暁の裏


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第36話 「砂の城と引き潮」

 ゴールデンウィークが、始まった。


 前の晩から、少し眠れなかった。


 楽しみで眠れないなんて、子どもみたいだと自分でも思いながら、ベッドの上で天井を見つめていた。


 理由は単純だ。


 明日、奈々美と二人で水族館に行く。


 それだけのことなのに、なぜか胸がそわそわしていた。


 前の週は色々あった。


 奈々美のラインの件で複雑な気持ちになったり、光明から奈々美がSNSを何度も確認していると聞いたり。


 考えなければいけないことがある。


 でも今日は、とにかく今日のことだけを考えることにした。


 待ち合わせは九時。


 俺は八時半に家を出た。


 駅の改札前に着くと、奈々美はもう来ていた。


 俺が近づく前から遠くに見えた。


 白地のブラウスに薄いブルーのワンピース。


 春から夏に移り変わる五月らしい装いで、改札の柱のそばに立ってスマホを見ていた。


「奈々美」


 声をかけると、奈々美がぱっと顔を上げた。


「元樹くん」


 少しだけ歩みを速めて近づいてくる。


 嬉しそうな顔だった。


 学校で見る顔とは少し違う。


 制服でもなく、クラスメートが周りにいるわけでもない。


 二人きりの、普通の顔。


「待った?」


「ぜんぜん。私が少し早く来ただけだから」


「そっか」


「今日、天気よくてよかった」


 奈々美が空を見た。


 五月の空は、気持ちがいいくらい青かった。


「今日行く水族館の下調べ、してきた?」


「してきた」


 奈々美がスマホを見せてくれた。


 水族館の公式サイトが開いていて、フロアマップに細かくチェックがついている。


「クラゲのエリアは三階の奥で、エイはその手前……深海ゾーンが一番混むから先に行った方がいいかも、って書いてあった」


「しっかり調べてるな」


「せっかく行くから」


 奈々美がスマホをしまった。


「楽しみにしてたんだ。ずっと」


 その声に、嘘がなかった。


 俺は改札に向かいながら言った。


「俺も楽しみにしてた」


 奈々美が少し横を見た気がした。


 でも、俺は前を向いたままだったから、どんな顔だったかはわからなかった。


 電車は四十分ほどかかった。


 座席に並んで腰を落ち着けると、窓の外を五月の緑が流れていく。


 桜が散ってしばらく経って、今は若葉の深い緑が続いている。


「緑が濃いな」


「うん。もう夏みたいな色」


 奈々美が窓に視線を向けた。


「夏みたいな色って、思う」


「夏みたいな色」


 俺は少し笑った。


「なんかそれ、詩みたいな言い方だな」


「そう? ただ思ったことを言っただけだけど」


「いや、悪くない。確かに夏みたいだ」


 窓の外の緑が、どんどん流れていく。


 電車の揺れが、ゆったりとしている。


「元樹くんって、自然を見てどんなことを考える?」


「唐突だな」


「気になった」


「うーん……何も考えない時が多いかな。ぼーっと見てる感じ」


「それが好きなんだよね。何も考えなくていいの」


 奈々美が静かに言った。


「クラゲを見たくなるのも、それと同じでしょ」


「……そうかもな」


 俺は少し驚いた。


 奈々美は俺のことをよく見ている。


 そのことが、時々怖いと感じることもある。


 でも今日は、なぜかそれが温かかった。


「奈々美は何を考えてる事が多い?」


「いろいろ。心配とか、確認とか」


 さらっと言うので、俺は一瞬なんと返すか迷った。


「心配や確認が、多いのか」


「うん。でも最近、少し減ってきたと思う」


「そうか」


「完全にはなくなってないけど……前より、ましになってる気がする」


 奈々美が窓の外に目を戻した。


「信じる練習をしてる」


「元樹くんのことを?」


「うん」


 声が静かだった。


「難しい?」


「難しい。でも、やる」


 短い答えだった。


 でも、そこに本音がある気がした。


 俺はそれ以上何も言わずに、窓の外を見た。


 電車が速度を落とし始めた。


 もうすぐ目的地だった。




 水族館は、海沿いに立っている大きな施設だった。


 GWだけあって入口付近は賑わっていたが、二日は比較的空いている曜日らしく、並ばずにチケットを買うことができた。


 入口を入ると、すぐに大きな水槽が出迎える。


 縦に長い壁面水槽で、色とりどりの熱帯魚が泳いでいた。


「わあ……」


 奈々美が小さく声を上げた。


 俺も思わず立ち止まった。


 水槽を照らすライトが水の中に散って、床まで揺れた光が届いている。


 魚の鱗に反射するきらめきが、ゆらゆらと揺れている。


「きれいだな」


「うん……」


 奈々美が水槽に近づいて、ガラスのそばに立った。


 青い光が横顔に当たって、奈々美の肌が淡い色に染まっている。


「あの細長いの、向きを変えるのが好き」


「どれ?」


「あのシルバーのやつ。群れで泳いでてさ、急にみんなが同じタイミングでくるって向きを変えるでしょ」


 見ていると、確かにそうだった。


 群れ全体が、まるで一つの生き物みたいに動く。


「なんで同じタイミングでできるんだろうな」


「体で感じ取るらしいよ、水流とか」


「詳しいな」


「調べた」


 奈々美が少し微笑んだ。


「水族館のこと、色々調べてきたから」


「楽しみにしてたんだな、本当に」


「本当に」


 奈々美が俺を見た。


「元樹くんと来たかったから」


 俺は視線を水槽に戻した。


 照れくさかったが、嫌ではなかった。


「そういや奈々美、魚が好きなの?前も水族館来たよね?」


「好き、というか……水の中を見ていると落ち着く」


「そうなのか」


「養護施設にね、小さな水槽があったの」


 奈々美がガラスに指先を触れさせながら言った。


「金魚が二匹いて。みんなで当番で世話してた」


「そうか……」


「水を見ると、その頃を思い出すから。落ち着くのかもしれない」


 奈々美の声はさらっとしていたが、その言葉の奥に何かがあった。


 俺は何と返すかわからなくて、ただ「そっか」と言った。


 奈々美は少し間をおいてから、「行こう」と言った。


 その横顔は、普通だった。


 俺たちは奥に進んだ。




 クラゲのエリアは、施設の三階の奥まった場所にあった。


 廊下のライトが絞られて、水槽から漏れる光だけが空間を彩っている。


 紫、青、白、ピンク。


 様々な色の光の中に、クラゲが静かに漂っていた。


「……」


 俺は入口で立ち止まった。


 声が出なかった。


 ただ、見た。


 クラゲが傘を開いて、閉じる。


 また開いて、閉じる。


 それだけのことを繰り返しながら、水の中をゆっくり漂っている。


 急いでいない。


 どこかに向かおうともしていない。


 ただ、浮いている。


「好きでしょ、こういうの」


 奈々美が隣で言った。


「ぼーっとできる感じ」


「……ああ」


「なんも考えなくていい、って言ってたから」


「言ったっけ、そんなこと」


「前に、光明くんと話してるのが聞こえた。廊下ですれ違った時に」


「盗み聞きじゃないか」


「通りかかっただけ。私が盗み聞きするなんて思ってないよね?」


「……そうだな。ごめん」


「謝らなくていい、冗談だから」


 奈々美が小さく笑った。


 俺は水槽の前に立った。


 目の前に、白いクラゲがいる。


 レースみたいな触手が、水の揺れに従って、ゆったりと動いている。


「なんで好きなんだろうな、クラゲ」


「なんで?」


「見てると、何もしなくていい気がするから、かな。クラゲって、何も急いでないから」


「そうだね」


「人間ってさ、何かをしなきゃいけない気になってる時が多い気がして。でもクラゲはそれがないでしょ」


「うん」


「漂ってるだけで、それがクラゲの普通の状態で」


「羨ましい?」


「少しだけ」


 奈々美が俺の隣に立った。


「私も羨ましいかも」


「奈々美も?」


「考えなくていいなら、その方が楽なこともあるから」


 その言葉が少し重かった。


 奈々美が何を指しているのか、わかる気がした。


 でも、俺は何も言わなかった。


 クラゲが、傘を大きく広げて通り過ぎた。


「元樹くん」


「ん?」


「今日、連れてきてくれてありがとう」


「俺が来たかったから来た。礼を言われるようなことじゃない」


「そうかもしれないけど……嬉しかったから、言いたかった」


 俺は前を見たまま、「ああ」と返した。


 クラゲの水槽の前で、しばらく二人で黙っていた。


 その沈黙が、不思議と苦しくなかった。


 ただ、並んでいた。




 深海のゾーンに入ると、より空気が変わった。


 天井が低く、薄暗い。


 両側の水槽に、見たことのないような形をした生き物が並んでいる。


「これ、なに……」


 奈々美が立ち止まった。


 大きな口と、とんでもなく目が飛び出した魚だった。


「深海魚ってみんなこういう顔してるんだな」


「なんか怖い顔してる……でも、愛嬌ある」


「奈々美ってこういうやつも好きなのか」


「見てて飽きないから」


 奈々美が次の水槽に移動した。


 透明な体に骨格が透けて見える小さな魚がいた。


「透明だ!」


「深海は光がないから、透けてても目立たないんだろうな」


「海の中のこと、詳しいの?」


「いや、今考えた」


「それっぽかったから驚いた」


 俺は少し笑った。


 奈々美も笑っていた。


 その笑いが自然だった。


 計算した感じがなかった。


 こういう表情が、俺は好きだ。


 さらに先に進むと、大きな真っ暗なゾーンがあった。


 水槽の中に、発光する生き物がいた。


 青白い光が、暗闇の中でぼんやりと揺れている。


「きれいだな、こっちも」


「うん……なんか、夢みたい」


 奈々美が立ち止まった。


 壁の水槽いっぱいに、青い光が広がっている。


「クラゲのエリアに似てる」


「そうだね。どっちも暗い中で光ってる」


「光ってるものって、暗い場所の方が映えるんだろうな」


「明るい場所だと埋もれちゃうから」


 奈々美が光の揺れを見ながら言った。


「私も……暗い場所にいる時間が長かったから、そういう感じがわかる気がする」


 俺は奈々美を見た。


「暗い場所にいると、小さな光がすごく大きく見える」


「……そうか」


「今は、少し明るくなった気がしてる。でも、暗い場所のことは忘れてない」


 奈々美の声は静かだった。


 俺は何を言うべきかわからなかった。


 でも、何も言わなくてもいい気がした。


 ただ、奈々美の隣に立っていた。


 発光する生き物が、水槽の中でゆっくりと動いていた。


 しばらく深海のゾーンを歩いていると、通路の奥に大きな水槽が見えた。


 奈々美の足が速まった。


「あ」


 水槽の中を、エイが泳いでいた。


 数枚の、大きなエイ。


 平たい体を揺らして、ひれを羽ばたかせながら、ゆったりと移動している。


「エイだ」


 奈々美の声が少し変わった。


 嬉しそうな声だった。


「奈々美、エイが好きなのか」


「実は……ずっと好き、口元をこっちに向けてくれてるとなんかファンサしてくれてるみたいだし、それに」


 奈々美が水槽に近づいた。


「泳ぎ方が好きなの。飛んでるみたいで」


「飛んでるみたいな泳ぎ方、か」


 俺も水槽を見た。


 確かに、エイのひれの動きは羽ばたきに似ていた。


 鳥が翼を動かすような、ゆったりとした上下の動き。


「昔、水族館でエイを見た時に、そう思った」


「昔、この間じゃなくて?」


「うん、もっと前にも行ったよ。水族館」


「奈々美と一緒に?」


「元樹くんと」


 俺は少し驚いて奈々美を見た。


「俺と?」


「桜ヶ丘にあった、小さな水族館」


「桜ヶ丘に水族館なんてあったっけ……」


「あったよ。今は閉まってるけど」


 俺は記憶を探った。


 桜ヶ丘での記憶は断片的だ。


 奈々美と公園で遊んだこと。


 雨の日に走ったこと。


 ぼんやりしたイメージしか残っていない。


「……覚えてないな」


「覚えてなくていい。でも、行ったの。そこにもエイがいて」


「そこで好きになったのか、エイが」


「そこで元樹くんが言ったの。飛んでるみたい、って」


 俺は黙った。


「それが元樹くんの言葉だったから、ずっと好きになった」


 奈々美がエイを見たまま言った。


 その声は静かで、重くなかった。


 ただ事実を言うような声だった。


「覚えてるんだな」


「全部、覚えてる」


 奈々美が俺を見た。


「元樹くんと過ごした時間は、全部」


 俺は返す言葉が見つからなかった。


 ただ、水槽の前に立って、エイを見た。


 エイがひれをゆっくり動かしながら、水槽の端まで泳いで、ゆっくりと向きを変えた。


「今日、また一緒に見られてよかった」


 奈々美が言った。


 俺は「ああ」と返した。


 それだけで、十分な気がした。




 昼は水族館内のレストランで食べた。


 海が見える窓際の席で、俺はパスタを、奈々美はクリームスープとサンドイッチのセットを頼んだ。


「ここ、外が見えていいな」


「景色がいいから選んだ。ホームページで見てた」


「本当に下調べが徹底してる」


「元樹くんに楽しんでもらいたかったから」


 奈々美がスープを一口飲んだ。


「美味しい。元樹くんのパスタは?」


「美味しいよ。一口食べる?」


「いい?」


「どうぞ」


 俺が皿を向けると、奈々美がフォークを借りて一口食べた。


「おいしい……」


「このスープも美味しそう」


「食べる?」


「いただく」


 窓の外に海が見えた。


 五月の海は、空と同じ色をしていた。


「明後日はあの海に行くんだな」


「うん。みんなで」


「玲も来るんだろ」


「木口くんから聞いてる」


 奈々美がスープを飲みながら言った。


 その口調は、特別に引っかかりがあるものじゃなかった。


「上野さん、元気になってきてるの?」


「少しずつ、だと思う。学校では普通にしてる」


「記憶は、まだ?」


「まだらしい」


「そっか」


 奈々美が海を見た。


 少し間があった。


「元樹くん、上野さんのことが気になるんだよね」


 問いかけというより、確認みたいな口調だった。


「友達として、気になってる。それは隠さない」


 俺は正直に答えた。


「うん」


「それが奈々美に不安を与えてるのはわかってる」


「……わかってるの?」


「薄々な」


 奈々美が少し目を落とした。


「不安は、ある。正直に言うと」


「うん」


「でも……元樹くんが正直に話してくれる方が、嬉しい」


「そうか」


「隠されるより、ずっといい」


 奈々美が顔を上げた。


「信じる練習してるって、さっき言ったじゃない。それ、本当のことだから」


 俺は奈々美を見た。


 難しいことを、この人は努力している。


 俺が知っている奈々美は、一年前、監視と確認を手放せなかった人だ。


 それが今は「信じる練習」と言っている。


(変わろうとしてる……)


 それは本物だと思った。


「俺も、ちゃんとしなきゃな」


「ちゃんとって?」


「なんか……心配させないように、とか」


「謝らなくていい。私が心配するのは私の問題だから」


「でも、俺が返信を遅らせたり……」


「それは普通のことでしょ」


 奈々美が少し笑った。


「朝あのこと言っちゃったのは……ちょっと言いすぎたと思ってる」


「奈々美が謝ることじゃない」


「でも言いすぎた。三十分くらい遅れても、普通のことだよ。元樹くんにだって自分の時間がある」


 その言葉が、予想外だった。


 俺は少し黙った。


「言えるようになったんだな、それが」


「少しずつ。本を読んだり、考えたり……池田先生にも話してるから」


「そうか」


「まだまだだけど」


 奈々美がサンドイッチを一口食べた。


 窓の外で、波が光っている。


 白い波頭が立って、消えていく。


 五月の穏やかな海だった。




 午後はイルカショーを見た。


 GWということで席はほぼ埋まっていたが、端の列に二席確保できた。


 目の前の大きなプールで、三頭のイルカが泳ぎ回っている。


「大きいな」


「テレビで見るより全然大きい」


 奈々美が前のめりになった。


 ショーが始まると、イルカが一斉に動き始めた。


 スタッフの合図に応えて、ジャンプして、輪をくぐって、水面を跳ねる。


 観客席から歓声が上がった。


 奈々美が「すごい」と言った。


 夢中で見ていた。


 俺は少し奈々美の横顔を見た。


 目を輝かせている。


 いつもとは違う顔だった。


 クラゲを見ている時もそうだった。


 エイを見ている時もそうだった。


 何かに夢中になっている時の奈々美は、計算とか監視とか、そういうものとは無縁の表情をしている。


(こういう顔が、好きだな)


 そう思った。


 心の中でそう思った瞬間、俺は少し胸が締め付けられた。


 複雑なことは色々ある。


 信じきれない部分も、怖い部分もある。


 でも、こういう顔を見ると、思ってしまう。


 この人のことが、好きだと。


 クライマックス、三頭のイルカが同時にジャンプした。


 水しぶきが上がって、前の席の客が少し濡れた。


 奈々美が「わっ」と肩をすくめた。


「かかった?」


「ちょっとだけ。でも気持ちいい」


「五月だからちょうどいいな」


「ねえ、元樹くん、もう一度来る?」


「今日また来るのか?」


「また今度、別の日に」


「来てもいい」


「約束?」


「約束」


 奈々美が少し嬉しそうに笑った。


 イルカが最後のジャンプを終えて、観客席が拍手に包まれた。


 拍手しながら、俺も少し笑っていた。


 今日みたいな日が、また来ればいいなと、素直に思った。


 ショーが終わって、席を立った。


「楽しかった」


「そうだな。俺もよかった」


「何がよかった?」


「奈々美が夢中になってる顔」


 奈々美が少し固まった。


「……え」


「ショー見てる時の奈々美の顔。いい顔してた」


「そんなこと急に言わないで」


「急じゃない。思ってたことだ」


 奈々美が少し前を向いた。


「……今日は、元樹くんが変」


「何が変なんだ」


「そういうこと、あんまり言わないから」


「たまには言う」


「たまには言うんだ」


 奈々美が小さく笑った。


 その笑顔が、少し照れくさそうで、でも嬉しそうだった。


 俺も笑った。


 二人で出口に向かって歩いた。




 出口に向かいながら、土産コーナーに寄った。


 棚には水族館らしいぬいぐるみやキーホルダーが並んでいた。


「エイのぬいぐるみがある」


 奈々美が立ち止まった。


 掌ほどの大きさの、リアルなエイのぬいぐるみだった。


「ほしい?」


「ちょっと迷ってる」


「買えばいい」


「こういうの買うと部屋に増えていくから」


「それで困るのか」


「困らないけど……かわいい」


 奈々美がエイのぬいぐるみを手に取った。


「買う」


「そっちがよかったのか」


「こっち一択だった」


 奈々美がレジに向かった。


 俺はクラゲのキーホルダーを一つ手に取った。


 透明な素材でできていて、ミニチュアのクラゲが中に浮いているやつだ。


 鞄につけるか、と思いながらレジに持っていった。


 二人で会計を済ませて、外に出た。


 もう夕方だった。


 空がオレンジに染まり始めていた。


「今日、楽しかった?」


 奈々美が歩きながら聞いた。


「楽しかった」


「本当に?」


「本当に。奈々美と来てよかった」


 奈々美がそのまま黙った。


 俺はちらっと横を見た。


 奈々美が少し前を向いて、口元に笑みが浮かんでいた。


 照れているのかもしれなかった。


「俺もだ」


 奈々美が小さく言った。


「今日、すごくよかった」


 海沿いの道を、二人で駅に向かって歩いた。


 潮の匂いがした。


 波の音が遠くに聞こえた。


 奈々美の手が、俺の手の近くにあった。


 しばらく歩いたところで、奈々美の指が俺の指に触れた。


 俺は握り返した。


 何も言わずに、そのまま歩いた。


 夕日の中で、二人の影が長く伸びていた。


 駅に着いて、帰りの電車に乗った。


 行きと同じような席に並んで座る。


 窓の外を、夕暮れの景色が流れていく。


 行きに見た若葉の緑が、今は夕日の橙色に染まっていた。


「元樹くん」


「ん」


「今日ね、すごくよかった」


「何が」


「全部」


 奈々美が窓の外を見たまま言った。


「クラゲも、エイも……あと、元樹くんがイルカのショー見てた時の顔」


「俺の顔?」


「うん。楽しそうだった」


「奈々美の顔の方がよかったよ」


 奈々美がこちらを向いた。


「さっきも言ってた」


「二回言っても本当のことだから」


 奈々美が少し前を向いた。


 耳が少し赤くなっていた気がした。


「また来ようね」


「さっき約束したな」


「約束を確認してる」


「ちゃんと覚えてる」


 電車が揺れた。


 奈々美の肩が、俺の肩に少し当たった。


 どちらも動かなかった。


 窓の外が、だんだん暗くなっていく。


 今日という一日が、静かに終わっていく。


 今日は、いい一日だった。


 それだけははっきりと言えた。



 五月四日。



 待ち合わせは黒峠駅の南口、九時半。


 俺が改札を出ると、航と光明がすでにいた。


「元樹、おはよう!」


 航が大きく手を振る。


「おはよう。早いな」


「航が一時間前から来てた」


 光明が呆れたように言う。


「海が久しぶりだからテンション上がって早く目が覚めた!」


「小学生みたいなことを言うな」


「いいじゃないか! 海だぞ、海!」


 航が嬉しそうに言う。


 確かに、航と一緒にいると単純に楽しくなる。


 こいつの明るさには、そういう力がある。


「未菜と玲は?」


「一緒に来るって、さっき未菜からラインが来た。もうすぐ着くはず」


 光明がスマホを確認した。


「奈々美は?」


「今日は別」


「そっか」


 しばらくして、改札から未菜が出てきた。


 その後ろに玲がいた。


「みんな、おはよう!」


 未菜が手を振る。


「おはよう」


「未菜、おはよう。玲も来たんだな」


「おはよう」


 玲が言った。


 白いシャツに淡いデニム。


 髪を後ろで軽く束ねていた。


 学校の外で見る玲は、少し印象が違う。


「玲、体はもう大丈夫なのか」


「うん。先週の頭痛は池田先生に話したし、外出は許可もらってる」


「そうか」


「来られてよかった。ありがとう、誘ってくれて」


「みんなで遊ぶ方が楽しいから」


 玲が少し微笑んだ。


「元樹」


「ん?」


「光明くんとあの人は?」


「ああ、佐々木航。新しい友達で。同級だから気楽に話して」


「うん」


「航!俺の幼馴染の上野玲。同い年だから」


「ああ、知ってる。俺は佐々木航、よろしく!」


 航がぐいっと近づいた。


「玲って呼んでいい?」


「……いいよ」


「俺も航って呼んで!」


「わかった、航」


 玲が少し笑った。


 航の勢いに気圧された顔だったが、悪い感じではなかった。


 しばらくして奈々美が来た。


「おはよう」


「おはよう、奈々美」


 奈々美が俺の隣に来て、次に玲に視線を向けた。


「柊さん、おはよう」


「上野さん、おはよう」


 二人が視線を合わせた。


 言葉は短かったが、それだけで十分だった。


 六人で電車に乗って、海を目指した。




 海岸についたのは十時過ぎだった。


 電車を降りた瞬間から、潮の匂いがした。


「海だ……!」


 航が叫んだ。


 改札を出ると、海が見えた。


 青い、広い海。


「行こう行こう!」


 航が走りかけた。


「まず荷物置く場所決めよう」


 光明が止める。


「そうだな。日除けになるとこ探そう」


「はーい」


 砂浜に降りると、足元の砂が日光で温かかった。


 波が遠くに見える。


 五月の海は泳ぐには少し寒いくらいの気温だったが、それでも解放感があった。


「レジャーシート、広げよう」


 未菜が鞄から大きなシートを出した。


 六人で広げると、ちょうどいい広さになった。


「靴脱いでいい?」


 航がもう脱いでいた。


「勝手にしろ」


 光明が呆れる。


「砂、温かい! みんな来い!」


 俺も靴を脱いだ。


 砂が素足に当たる。


 ほんのり温かかった。


 波打ち際まで歩いた。


 波が来て、足首まで海水が包んだ。


「冷たいな、流石に早かったかな、暑いから行けると思ったけど」


「でも気持ちいい!」


 航が両手を広げた。


 未菜が靴を脱いで波打ち際に来て、「つめた!」と叫んで飛び退いた。


「最初から入るから」


 光明が笑う。


「突然来るんだもん!」


「予告なしで来るのが波だろ」


「そういう問題じゃない!」


 奈々美が俺の隣に来た。


 素足で砂浜に立って、波が来るたびに少し身を引く。


「冷たい?」


「ちょっとだけ。でも気持ちいい」


 玲は少し離れたところに立っていた。


 波打ち際から少し引いた場所で、海を見ていた。


「玲、来ないか」


「……うん」


 玲が波打ち際に来た。


 波が来て、玲が少し目を細めた。


「冷たい」


「冷たいな」


 俺も返した。


 玲が海を見た。


「久しぶりだね、海」


「そうだな。中学の頃に一回来て以来か」


「光明くんもいたね」


「フラミンゴの浮き輪を持ってきた」


「あったあった! なんで持ってきたのかいまだにわからない」


「光明くん」


 玲が少し後ろに向かって言った。


「なんだ」


「中学の時、フラミンゴの浮き輪持ってきたのはなんで?」


「……なんとなく」


「なんとなく!?」


 未菜が笑った。


「光明くんって時々そういうことするよね」


「うるさい」


 みんなが笑った。


 玲も笑っていた。


 久しぶりに見る、自然な玲の笑顔だった。




 昼になって、持ってきた食べ物をシートに広げた。


 コンビニのおにぎりや唐揚げ、未菜が作ってきた卵焼きやポテトサラダ。


「すごい量だな」


「みんなで食べるから」


 未菜が嬉しそうに言う。


「未菜、卵焼き作ってきたのか」


 航が目を輝かせた。


「好きなの、卵焼き」


「作ったよ。甘めにした」


「最高! 未菜ちゃん、好き!」


「はいはい」


 未菜が笑う。


「いただきます」


 六人で手を合わせた。


 食べ始めると、すぐに会話が始まった。


「そういえばどうだった、水族館」


 航が俺に聞いた。


「よかったよ」


「何が一番よかった?」


「クラゲのエリアかな。静かで、ぼーっとできた」


「渋い! 俺はイルカショーが見たいな」


「GW中にまた行けばいい」


「その手があった!」


 玲は黙っておにぎりを食べていた。


 会話には加わらないが、笑顔はある。


「玲、元気そうだな」


 俺が言うと、玲が顔を上げた。


「うん。来てよかった。海、久しぶりで」


「そっか」


「海って広いよな、やっぱり」


 玲が海を見た。


「どこまでもあるのに、端がどこかにある。でも、ここから見えない」


「見えない端、か」


「うん。あると思ってるけど、見えない。そういうことって、意外と多い気がして」


 玲が静かに言った。


 その言葉が、何かを指しているのか、ただ思ったことを言っているのかは、わからなかった。


「ささ、おにぎり食べて」


 未菜が明るく言った。


「せっかく海に来たんだから」


「そうだな」


 航がポテトサラダを口に入れた。


「これ美味しい! 未菜ちゃんが作ったの?」


「そう」


「料理上手いな!」


「ありがとう」


 場が少し和らいだ。


 六人で、海を見ながら食べた。


 波の音が、ずっと遠くに聞こえていた。




 食べ終わった後、砂で何かを作ろうという話になった。


 航が「城を作ろう」と言い出した。


「城って作り方わかるのか」


「わからないけど積めばいい!」


「雑な発想だな」


「やってみれば意外と形になる!」


 六人で砂を集め始めた。


 航と光明が大きな土台を作ろうとして、土台が崩れて言い合いをしている。


 未菜が「ここはこうすると固まる」と砂を叩いて固めていた。


 奈々美が表面をならしていた。


 手先が器用で、きれいな平面を作っていく。


「奈々美、上手いな」


「細かい作業は得意」


 玲は少し離れた場所で座って見ていた。


「玲も来いよ」


「……うん」


 玲がシートから立ち上がって、砂の城の隣にしゃがんだ。


「どこをやればいい?」


「門を作ってほしい。入り口みたいな」


「わかった」


 玲が両側から砂を積んで、アーチ状の入り口を作り始めた。


 手つきが慎重だった。


「器用だな、玲」


「子どもの頃、砂遊びよくやってたから」


「俺と一緒にか」


「そう。公園の砂場で」


 玲がちらっと俺を見た。


「覚えてる?」


「砂遊びしてた記憶はある。形まではっきりはしないけど」


「そっか」


 玲が砂を丁寧に積み上げた。


 アーチが形になってきた。


「あの頃は……楽しかったね」


 玲が静かに言った。


「そうだな」




 城が完成すると、六人で並んで見た。


 土台が少しいびつで、塔は低すぎるけれど、それなりに城らしい形にはなっていた。


「なかなかいいじゃないか!」


 航が満足そうに言う。


「光明が何回も崩したせいで小さくなったけどな」


「俺のせいじゃない」


「俺のせいじゃないって言う時は大抵光明のせい」


「うるさい」


 みんなが笑った。


「砂の城って……いいよね」


 玲がぽつりと言った。


 みんなが玲を見た。


「どれだけ時間をかけて作っても、波が来たら終わる。それはわかってるのに、みんな一生懸命作った」


 玲が海を見た。


「それでいいと思う。今あることが大事なんだよな、きっと」


 誰も何も言わなかった。


 砂の城が、潮風に少し削られながら、それでもその場に立っていた。


「玲ちゃん、今日詩人みたい」


 未菜が笑った。


「そうかな」


「そうだよ。かっこいい」


「変なこと言った気がして、恥ずかしい」


「変じゃないよ。なんかわかる、その感じ」


 玲が少し照れたように砂をならした。


「写真撮ろうよ! 記念に!」


 航が言い出した。


「城と一緒に?」


「みんなで!」


 六人が砂の城を囲んで、航がスマホを持った。


「誰かが撮ってくれないと俺が入れない」


「俺が撮る」


 光明が航からスマホを受け取った。


「じゃあ、城の前でみんな並んで」


 砂浜に六人が並んだ。


 玲が端で、隣に未菜、俺、奈々美、航という順だった。


「もう少し詰めて」


 光明が言う。


 みんなが少し近づいた。


 奈々美の腕が俺の腕に触れた。


「撮るよ」


 光明がカメラを構えた。


「はい、チーズ」


 シャッター音。


「もう一回」


 またシャッター音。


「光明も入れよ」


「俺が撮ってるから無理だろ」


「タイマーで撮れ」


「そのやり方わからない」


「じゃあ俺が教える!」


 航が光明のスマホを受け取って、設定を変えた。


 タイマーをセットして、砂浜に置いた。


「急いで並べ! 十秒しかない!」


 みんなが急いで並んだ。


 光明が端に来た。


 シャッターが鳴った。


「撮れた?」


「撮れた! みんないい顔してる!」


 航がスマホを見せる。


 六人が砂浜に並んで笑っている写真だった。


 玲も、笑っていた。




 午後になって、風が少し変わった。


 気持ちよかった風が、少し強くなった。


 俺は波を見ながら感じた。


 さっきと、波の音が違う気がした。


 音が少し大きい。


 沖の方の色も、わずかに変わっている気がした。


 潮が変わった、そういう感じがした。


 航が「貝殻を集めよう」と言い出して、未菜と二人で砂浜を歩き始めた。


 光明は砂浜に寝転がっていた。


 奈々美が俺の隣に来て、並んで座った。


「楽しいね、今日」


「そうだな」


「みんなと来てよかった」


「奈々美が来てくれてよかった」


 俺が言うと、奈々美が少し照れたように前を向いた。


「さっきの写真、光明くんが送ってくれるって」


「そうか」


「上野さん、笑ってたね」


「うん」


「よかった……元気になってきてるんだね」


 奈々美が海を見た。


「上野さんのこと、私は……複雑なこともある。でも、元気でいてほしいとも思う」


「それで十分だと思う」


「そうかな」


「全部の気持ちが綺麗じゃなくていい。元気でいてほしいと思う部分があるなら、それは本物だろ」


 奈々美が少し考えた。


「そうかもしれない」


「奈々美、正直だな」


「元樹くんには、嘘をつきたくないから」


 その言葉が、静かに俺の中に落ちた。


 波の音が、また少し大きくなっていた。


 玲は砂浜の端で、膝を抱えて海を見ていた。


 何かを考えている顔だった。


 俺はそれを少し遠くから見ていた。


「波、少し強くなってきたかもな」


 俺が言うと、光明が海を見た。


「そうかも。引き潮が変わったのかな」


「少し内側に入った方がいいかもな」


「そうだな。みんな、シートの方に戻ろう」


 航が「え、もうちょっとだけ」と言いかけたが、俺の顔を見て「わかった」と頷いた。


 未菜が靴を持って立ち上がった。


 奈々美が俺の隣に来た。


「波、変わったね」


「少し怖い感じがする」


「そうだな」


 みんなが徐々にシートの方向に向き直り始めた。


 俺も内側に向こうとした。


 その時だった。


 玲が立ち上がりかけた。


 持ってきた袋を取ろうとして、腰を上げた、その瞬間。


 波が来た。


 普通の波ではなかった。


 唐突に、砂浜の奥まで届くような、太く大きな波。


 ドン、という鈍い衝撃音がして、白い壁みたいな水が一気に駆け上がってきた。


「あっ」


 玲が声を出した。


 立ち上がりかけていた体に、波が直撃した。


 足元の砂が引き波に削られた。


 玲の体が傾いた。


「玲!」


 俺が声を出した。


 次の波が来た。


 玲の体を飲み込んだ。


「玲ちゃん!!」


 未菜が叫ぶ。


 俺は走っていた。


 考えたわけじゃない。


 気づいたら、砂浜を駆けていた。


 波打ち際まで来た。


 引き波の先に、玲の姿が見えた。


 うつぶせで、腕が動いていない。


(まずい)


 波に入った。


 冷たかった。


 膝、腰、胸まで水が来た。


 足を取られそうになる。


 それでも進んだ。


 波がまた来た。


 俺ごと押し戻されそうになった。


 踏ん張った。


 玲の腕が見えた。


 手を伸ばした。


 届いた。


 掴んだ。


「玲!」


 玲の体を引き寄せた。


 重かった。


 引き波がまた来た。


 足が砂底を感じた。


 まだ立てる。


 玲を抱えて、砂浜の方向に向いた。


 歩いた。


 波が押す。


 それでも歩いた。


「元樹!」


 光明が波打ち際に来ていた。


 光明が俺の腕を掴んだ。


 玲ごと砂浜に引き上げられた。


「玲ちゃん!」


 未菜が泣きながら叫んでいる。


 俺は玲を砂の上に寝かせた。


 顔が青白かった。


 目が閉じている。


 胸が動いていない。


(呼吸がない)


「救急車!」


 光明が叫ぶ。


「航! 119!」


「もうかけた!」


 航の声が聞こえた。


 俺は動いた。


 玲の顔を横に向けた。


 耳を近づけた。


 息が来ない。


 両手を重ねた。


 胸の中央。


 腕をまっすぐに伸ばして、体重をかける。


 押した。


 リズムを刻んだ。


(頼む)


 心の中で言った。


 数えた。


 三十回。


 玲の顎を上げた。


 気道を確保した。


 鼻をつまんで、息を吹き込んだ。


 胸が膨らんだ。


 もう一度。


 また胸骨圧迫。


「玲……」


 押す。


 数える。


 未菜が泣いている。


 光明が「頑張れ」と言っている声が聞こえる。


 航が何かを話しながら電話している。


 そして。


 奈々美が。


 俺の視界の端に、奈々美が立っていた。


 何も言っていなかった。


 動いてもいなかった。


 ただ、立っていた。


 俺と玲を、見ていた。


 その表情は、今は確認できなかった。


 確認する余裕がなかった。


 ただ、奈々美がそこにいることは、わかった。


 また胸骨圧迫。


 また人工呼吸。


「玲……!」


 その時だった。


 玲の口から、水が流れた。


 俺は素早く玲の体を横向きにした。


 玲が咳き込んだ。


 激しく咳き込みながら、海水を吐き出した。


「玲!」


「……っ……ごほっ……」


 玲の目が、開いた。


 焦点が合っていない。


 でも、目が開いた。


「玲、俺だ。聞こえるか」


「……元、樹……」


 声が出た。


「よかった……!」


 未菜が泣き崩れた。


「玲ちゃん……よかった……!」


「息してる」


 光明が言った。


 俺は玲の背中を支えながら、「大丈夫だ。ゆっくり息して」と言った。


「……うん……」


 玲が細く息を吐いた。


 色が少し戻ってきた気がした。


 救急車のサイレンが、遠くから聞こえてきた。


 俺はようやく、後ろを振り返った。


 奈々美が立っていた。


 少し後ろで、一人で立っていた。


 その表情は。


 複雑だった。


 よかった、という気持ちがある。


 それは見えた。


 でも、それだけじゃなかった。


 何かが混ざっていた。


 俺が玲に人工呼吸をしていた。


 その場面を、奈々美はずっと見ていた。


 何を感じていたのか、俺には全部はわからなかった。


 でも、奈々美は叫ばなかった。


 止めなかった。


 動かなかった。


 ただ、立っていた。


 その場に留まって、見ていた。


(奈々美……)


 その表情が、何かを言っている気がした。


 でも、今は玲を見なければいけなかった。


 救急車が砂浜の入口に止まった。


 救急隊員が担架を持って走ってきた。


「意識はあります。溺れていて、心肺停止状態でした。胸骨圧迫と人工呼吸をしました」


 光明が説明した。


「わかりました。確認しますね」


 救急隊員が玲に声をかけた。


「聞こえますか? お名前を言えますか?」


「上野……玲……」


「大丈夫です。病院に行きましょう」


 玲が担架に乗せられた。


「一緒に行っていいですか」


 未菜が聞いた。


「ご家族の方は」


「家族に連絡します。同行させてください」


「一名でしたら」


「俺が行く」


 俺が言うと、光明が頷いた。


「行け。ここは俺たちで片付ける」


「ありがとう」


「玲、大丈夫か? 痛いとこはないか」


 俺は担架の玲に聞いた。


「……うん……体が重い……だけで」


「すぐ病院だから」


「うん……」


 玲が俺を見た。


「ありがとう、元樹……」


「礼はあとでいい」


 救急車のドアに向かいながら、俺は後ろを振り返った。


 奈々美がこちらを見ていた。


 目が合った。


 俺は一瞬だけ奈々美を見た。


 奈々美が小さく頷いた。


 行って、と言うように。


 俺は救急車に乗った。


 ドアが閉まった。


 砂浜が遠ざかった。


 病院では一時間以上かかった。


 玲の母親が駆けつけて、泣きながら俺の手を握った。


「本当にありがとう……元樹くん、ありがとう……」


「俺は……当然のことをしただけです」


「当然じゃない。あなたが助けてくれたから」


 医師から説明があった。


 肺の状態は問題ない。


 意識も明瞭。


 念のため今夜は入院で経過観察を。


 俺はその言葉を聞いて、ようやく力が抜けた気がした。


 廊下に一人で立ったまま、しばらく動けなかった。


 さっきの砂浜のことが、頭の中で繰り返された。


 波の音。


 玲の体の重さ。


 胸骨圧迫の手応え。


 水を吐いた玲の顔。


(よかった……)


 心の中で、何度も思った。


 本当に、よかった。


 しばらくして、玲が廊下に出てきた。


 点滴のスタンドを持った看護師と一緒に、車椅子で出てきた。


「元樹くん」


 玲が俺を見つけた。


「玲、大丈夫か」


「うん。もう落ち着いてる」


「そっか」


 俺は玲の隣に立った。


「一緒に帰れない。ごめん、みんなに」


「そっちは光明が言ってる。気にしなくていい」


「そっか」


 玲が少し目を落とした。


「元樹、助けてくれてありがとう」


「礼はいらない」


「いるよ」


 玲が俺を見た。


「波に入ってきてくれたの、見えてた。飲み込まれる直前に」


「見えてたのか」


「少しだけ。その後は何もわからなくなったけど」


「そうか」


 俺は何も言わなかった。


「おかしな感じだった、水の中で。頭が真っ白になって……でも、ぼんやりした中で色々が浮かんで」


「色々?」


「うん」


 玲が少し間をおいた。


 その目が、俺の目を見ていた。


 何かを確かめるような目だった。


(……)


 俺は何かを感じた。


 玲の目が、昨日まで見ていた玲の目と違う。


 記憶のない玲の目は、どこかぽかんとしたものがあった。


 でも、今は違う。


 何かを知っている目。


 何かを持っている目。


「大丈夫か、玲。今はそっちより体の方が」


「大丈夫」


 玲が言った。


 でも、声が少し低かった。


「今日は休んだ方がいい。お母さんもいるから」


「うん……」


「何かあったら連絡して」


「……うん」


 玲がまた俺を見た。


 その目に、何かがあった。


 俺はそれが気になったが、今日は休んでほしかった。


「じゃあ、また連絡する」


「うん」


「体、大事にしろよ」


「……うん」


 玲の「うん」が、少し遠かった。




 翌日、例が退院すると連絡があった。


 俺はちょうど出掛けていたので、迎えに行った。


 病院の前で玲と合流した。


 玲は昨日よりずっと顔色が良かった。


 リュックを背負って、普通に立っていた。


「元気そうだな」


「もう大丈夫だよ」


「そっか。帰ろう」


 二人で歩き始めた。


 夕方の住宅街。


 空がオレンジに染まっている。


 日が沈み始めていた。


 玲は静かだった。


 何も話さなかった。


 俺も特に話さなかった。


 商店街を抜けると、人通りが少なくなった。


 静かな住宅街の道。


 並んで歩く足音だけが聞こえた。


 でも、その沈黙が、いつもと違った。


 玲は昔から口数が多い方じゃない。


 二人でいると、沈黙があることも普通だった。


 でも、今日の沈黙は違う。


 何かが、そこにある気がした。


 玲の横顔を、俺はちらっと見た。


 前を向いている。


 表情は穏やかだ。


 でも、どこかに、力が入っているような気がした。


(何かを、抱えている)


 そう感じた。


「玲」


「うん」


「昨日、病院で……なんか、目が変だった」


 玲の足が、一瞬だけ遅くなった。


「変?」


「いつもと違う目をしてた。なにか考えてるやつ」


「……そうかな」


「気のせいじゃないと思う」


 少しの間があった。


 玲が前を向いたまま歩いていた。


「俺に言えないことがあるか」


「……」


「別に俺に言わなくてもいい。でも、何かあるなら」


「…………」


 また沈黙。


 路地を曲がった。


 遠くの方で、夕方の踏切が鳴っていた。


 子どもが走っていく音がした。


 カラスが電線に止まって鳴いた。


 そういう普通の夕方の音の中で、俺と玲は歩いていた。


「元樹」


 玲が止まった。


 俺も止まった。


 顔を上げると、玲の家の前だった。


 門扉。


 表札。


 夕暮れの光が、玲の横顔に当たっていた。


「玲?」


 玲は少し下を向いた。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


 俺を、まっすぐに見た。


 その目を見た瞬間、俺は確信した。


 玲の目が、変わっていた。


 記憶のない頃の玲の目ではない。


 もっと、重いものを持っている目。


「昨日、波に飲まれた時のこと、話す」


 俺は黙って聞いた。


「頭が真っ白になって、息ができなくて……その時に、なんか、浮かんでくるものがあったの」


「浮かんだ?」


「記憶が」


 俺は固まった。


「玲……」


「最初は何がなんだかわからなかった。でも……病院で横になって、落ち着いて考えたら、全部が繋がった」


 玲の声は静かだった。


 震えていなかった。


 でも、その言葉の重さが、俺には伝わってきた。


「全部……思い出した」


「…………」


「元樹とのことも」


 俺は息を止めた。


「穂香とのことも」


 声が、わずかに揺れた。


 穂香。


 草壁穂香。


 玲を誘拐して、石で殴った。


 あの事件で、玲は頭を打って記憶を失った。


 その記憶が。


 全部、戻ってきた。


「全部……思い出した」


 夕日が、ゆっくりと低くなっていく。


 玲の目が、俺をまっすぐに見ていた。


 その目の中に。


 記憶がある。


 全部の記憶が。


 元樹に告白して、振られたことも。


 奈々美という存在がいることも。


 穂香に誘われて、暗い場所に連れていかれたことも。


 あの夜の恐怖も。


 全部。


 俺は何も言えなかった。


「全部……思い出したよ、元樹」


 玲が、静かに言った。


 夕暮れの静かな住宅街に、その言葉だけが残った。


 遠くの踏切の音が止まった。


 カラスが鳴いた。


 また、静かになった。


 俺は玲の目を見つめていた。


 玲が俺の目を見ていた。


 長い沈黙が流れた。


 俺にも、言いたいことは、聞きたいことは、山ほどあった。


 でも、今は何も言えなかった。


 ただ、その夕暮れの中に、二人で立っていた。


 玲は、俺を見ていた。


 その目の中に、様々なものが混ざっていた。


 怒りなのか、悲しみなのか、安堵なのか。


 全部が一度に来たような、複雑な目だった。


 でも、玲は泣いていなかった。


 ただ、静かに立っていた。


(玲……)


 俺は玲の名前を心の中で呼んだ。


 なんと言えばいい。


 謝ればいいのか。


 それとも、ただ聞けばいいのか。


 答えが出ないまま、夕日が少しずつ低くなっていった。


 玲が視線を少し落とした。


 それから、また俺を見た。


「今日は……疲れた。家に入る」


 静かな声だった。


「ああ」


「また話す。今は、まだ」


 玲が門扉に手をかけた。


「玲」


「うん」


「ゆっくりでいい」


 玲が少しの間、動かなかった。


「……うん」


 小さく返した。


 門扉が開いた。


 玲が家の中に入った。


 扉が静かに閉まった。


 俺は一人で、夕暮れの道に立っていた。


 玲の最後の顔が、頭から離れなかった。


 全部を思い出した、と言った玲の目。


 あの目が、これからどんなことを意味するのか。


 俺には、まだわからなかった。


 夕空が、深い藍色に変わり始めていた。


 俺は少し立っていてから、ゆっくりと歩き始めた。



 砂浜に、立っていた。


 波の音が大きくなって、少し怖いと思っていた。


 元樹くんが走っていくのが見えた。


 止める間もなかった。


 止めるべきでも、なかった。


 その先に、玲さんが波に飲まれていた。


 元樹くんが波の中に入った。


 私はそれを見ていた。


 動けなかった。


 足が砂に埋まっているみたいだった。


 元樹くんが玲さんを引き上げた。


 元樹くんが玲さんの胸に両手を当てた。


 私はそれを見ていた。


 全部、見ていた。


 何かが込み上げた。


 名前をつけるなら、嫉妬、だと思う。


 でも、違う気もした。


 元樹くんが玲さんに人工呼吸をしていた。


 ちゃんと、見えた。


 目を逸らそうとしたけど、逸らせなかった。


 なんでかは、わからない。


 見ていなければいけない気がした。


 上野さんが咳き込んで、目を開いた時。


 私は安心した。


 本当に。


 嫉妬も怖さも、消えなかったけれど。


 でも、よかったとも、思った。


 上野さんが生きていてよかった、と。


 その二つが、同時にあった。


 元樹くんが救急車に乗る前に、こちらを振り返った。


 私は頷いた。


 行って、と言いたかった。


 伝わったかわからない。


 でも、元樹くんは行った。


 砂浜に残った俺は、しばらくその場に立っていた。


 まだ残っている感情の名前が、今夜はうまくわからない。


 でも、ひとつだけわかることがある。


 私は、元樹くんがそういう人だと知っていた。


 大切な人のために、躊躇なく波に入れる人だと。


 知っていた。


 だから、好きになった。


 だから、苦しい。


 でも、それでも好きだ。


 その気持ちだけは、今夜もはっきりしていた。


 木口くんと佐々木くんと山田さんと、電車に乗って帰った。


 誰もあまり喋らなかった。


 みんなが疲れていたのかもしれないし、それぞれに考えていたのかもしれない。


 私も、考えていた。


 元樹くんのことを。


 玲さんのことを。


 自分のことを。


 電車の窓の外を、夕暮れの景色が流れていた。


 今日あったことが、頭の中でゆっくりと整理されていった。


 元樹くんが波に入った。


 玲さんを助けた。


 私はそれを見ていた。


 何もできなかった。


 何もするべきでもなかった。


 それはわかっている。


 でも、何かが揺れた。


 その揺れが、まだ治まっていない。


 改めて気づいたことがある。


 私は、元樹くんのことが、怖くて好きで、好きで怖い。


 その矛盾が、私の全てだと、今日改めて思った。


 駅に着いて、光明くんたちと別れた。


 一人で家に帰った。


 部屋に入って、カバンを下ろした。


 水族館で買ったエイのぬいぐるみが、机の上にあった。


 昨日、帰ってきてから置いたやつ。


 俺が買ってくれた。


 私はそれを手に取った。


 やわらかくて、軽かった。


「……大事にする」


 昨日、元樹くんの前で言ったその言葉を、今夜も一人で繰り返した。


 窓の外に、夜が来ていた。


 星が、いくつか見えた。


 明日も、元樹くんに会える。


 そのことを、今は思っていた。


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