第35話 「信じようとしている彼女は、やっぱり確かめずにはいられない」
桜は、もう散っていた。
木の枝に残るのは、薄緑の若い葉だけ。
四月の柔らかい色が消えて、空気はどこか締まった、五月のそれに変わっていた。
五月上旬。
ゴールデンウィークまで、あと少し。
黒峠高校、二年B組。
朝のホームルームが始まる前の教室は、どこかそわそわとした空気に満ちていた。
連休前の浮き足立つ感じ。
どこかに行く計画を話し合っている声。
俺、渡部元樹は窓際の席に座って、外を見ていた。
校庭の木が、風に揺れている。
緑が濃い。
良い朝だった。
なのに、なぜか胸の奥がすっきりしない。
その理由は、わかっていた。
昨日の夜のことを、まだ引きずっていたから。
「元樹くん」
後ろから声がした。
奈々美だ。
振り返ると、奈々美が俺の机の横に立っていた。
いつもの、穏やかな笑顔。
「おはよう」
「おはよう、奈々美」
俺も笑う。
奈々美は、俺の机の脇にそっと手を置いた。
それから、少しだけ声のトーンを落として言った。
「昨日のライン、返信が三十分くらい遅かったね」
責めているわけではない。
明らかに。
口調は穏やかで、目は微笑んでいる。
でも――
「あ……ごめん。光明とゲームしてて、気づくのが遅れて」
「そうなんだ」
奈々美が小さく頷いた。
「心配したよ。具合でも悪いのかなって」
「ごめん。大丈夫だから」
「うん、わかった」
奈々美がふわっと微笑む。
「でも、気にしてくれると嬉しいな。ちゃんと返してくれると」
「……わかった」
俺は頷いた。
謝罪が、口から出ていた。
謝る理由が、どこにあるのかよくわかっていなかったけれど。
光明とゲームをするのは、悪いことではない。
返信が三十分遅れることも、普通にあることだ。
でも――
奈々美が「心配した」と言う時の、あの表情。
柔らかくて、傷ついたようで。
その顔を見ると、俺は謝ってしまう。
(これでいいのか……)
そう思いながら、俺は窓の外に目を向けた。
若葉が、風に揺れている。
奈々美は、俺の後ろの席に戻っていった。
チャイムが鳴る。
一日が始まった。
一時間目は、現代文だった。
先生が教科書を読み上げる。
俺は机の上でペンを持ったまま、どこか上の空だった。
「渡部、聞いてるか」
先生の声に、はっと顔を上げた。
「はい」
「集中しろよ。三十二ページだ」
「……はい、すみません」
隣で光明が、こっそり「大丈夫か」と目で問うてくる。
俺は小さく頷いた。
大丈夫だ。
ただ、少し考えていただけで。
(三十分……か)
ラインの返信が三十分遅れた。
光明たちとオンラインゲームで盛り上がって、スマホを見ていなかった。
それだけのことだ。
でも、奈々美は「心配した」と言った。
心配、という言葉は正しいと思う。
それは本当のことだろう。
奈々美は心配性だから。
でも――
心配することと、毎回それを元樹に伝えて、謝らせることは、別の話だ。
(別の話……なのか?)
俺は自分でも確信が持てない。
考えすぎているだけかもしれない。
奈々美はただ、素直に自分の気持ちを伝えているだけかもしれない。
それを「重い」と感じるのは、俺の問題かもしれない。
(でも……)
俺は教科書に目を落とした。
先生の声が遠くなっていく。
五月の空気が、教室に差し込んでいた。
外は、今日も青くて、清々しかった。
なのに、俺の胸の中は、どこか靄がかかっていた。
昼休み。
一年A組の教室は、賑やかだった。
星野あかりは、窓際の席に座って、お弁当の蓋を開けた。
「ごめん、待った?」
声と同時に、隣の椅子が引かれた。
藤宮エマだ。
金髪が、昼の光に輝いている。
「待ってないです」
「よかった。今日、帰り道が混んでて」
エマが自分のお弁当袋を机に置く。
「エマさん、今日もサンドイッチ?」
「うん。お母さんが毎朝作ってくれるから」
「いいな」
「あかりは?」
「卵焼きと……あと、唐揚げ」
「美味しそう」
二人で、お弁当を広げる。
教室の中では、別のグループが笑い合っている。
男子が窓から身を乗り出して叫んでいる。
その賑やかさの中で――
あかりとエマは、静かに向かい合っていた。
二年生のエマが、わざわざ一年生の教室まで来るようになって、もう一週間が経つ。
最初は、あかりも戸惑った。
なぜ来てくれるのか。
なぜ自分と一緒にいてくれるのか。
でも、エマはそういうことを特に説明しなかった。
ただ来て、ただ一緒にいた。
それが、いつの間にか、あかりには当たり前になっていた。
「あかり」
エマが言った。
「ん?」
「渡部くんのこと、まだ好き?」
あかりは、一瞬固まった。
唐突な問いだった。
でも――
エマに嘘はつきたくない、と思った。
この一週間で、それだけははっきりわかっていた。
「……はい」
あかりは正直に答えた。
エマは特に驚いた顔もしなかった。
「そっか」
サンドイッチを口に運びながら、頷く。
「諦めなきゃ、とは思ってるんですけど」
「うん」
「でも……なかなか」
「諦めろって言うつもりはないよ」
エマが言った。
「好きな気持ちは、そう簡単に消えないから」
「……でも、彼女がいるって、わかってて好きでいるのは」
「辛いよね」
「はい……」
「だからって、その気持ちが間違ってるわけじゃない」
エマがあかりを見た。
「ただ、一人で抱えてると、どんどん苦しくなる。それは確かだよ」
「……エマさんは」
「エマ、でいい」
「……エマは、なんで私のことそんなに気にかけてくれるの?」
あかりは聞いた。
ずっと聞きたかったことだった。
転校してきたばかりで、まだ学校に慣れていない時期なのに、わざわざ下の学年の、自分なんかのそばにいてくれる理由。
エマは少し間を置いてから、言った。
「アメリカにいた時にね、友達が一人でいっぱいになって、気づいた時にはもう遅かったことがあって」
「……そうなんだ」
「その時、私が気づけていれば、違ったかもしれないって、ずっと思ってる」
「エマ……」
「だから、大事にしたい人が困ってそうな時は、ちゃんとそばにいようって決めた」
あかりの胸が、温かくなった。
「私が……大事な人」
「友達でしょ」
エマがにっこりと笑う。
「いつからかって言われたら、困るけど。でも今は、そう思ってる」
「……ありがとう、エマ」
「だから」
エマが続けた。
「もし何かあったら、私に言って。一人にしないから」
「何かあったら、って……」
「あの人のこととか」
エマの目が、少し真剣になった。
「あの人、っていうのは」
「柊奈々美さん」
名前を、はっきりと言った。
あかりは、息をのんだ。
「私、あの人が怖くて……」
「うん」
「でも元樹先輩の彼女だから、何も言えなくて」
「言わなくていいよ」
エマが言った。
「何かあった時に、私に言って。それだけでいい。あかりが一人で抱えなくていいように、私がいるから」
「……エマ」
「一人じゃないよ」
あかりは、顔を上げた。
エマが、まっすぐこちらを見ていた。
目が、笑っていた。
心から笑っている目。
(こういう目をして笑う人が、いたんだ)
あかりは、思った。
柊奈々美の笑顔は、怖かった。
口は笑っているのに、目が笑っていなかった。
でも、エマは違う。
「ありがとう……エマ」
「どういたしまして」
エマがサンドイッチをかじりながら言う。
「GW、何か予定ある?」
「特には……」
「じゃあ一日、海に行かない?」
「海?」
「日本の海、まだちゃんと見てないから。電車で行けるとこ」
「行けるよ……片道一時間ちょっとくらいで」
「決まり。GW中の空いてる日にしよう」
エマが笑う。
あかりも、思わず笑った。
今日は、それが自然にできた気がした。
先輩のことを、まだ好きだ。
諦めてなんていない。
でも――
こうして、エマといる時間は。
少しだけ、世界が広く感じられた。
同じ昼休み。
廊下を歩いていた奈々美は、一年A組の前を通った。
用事があったわけではない。
ただ――
この廊下が、目的地へのルートだった。
そう、自分に言い聞かせていた。
教室のドアは、半開きになっていた。
中から声が聞こえる。
笑い声。
にぎやかな昼休みの声。
奈々美は、歩きながらさりげなく視線を向けた。
窓際。
星野あかりがいた。
隣に、エマ。
二人で、笑いながら話している。
エマが何かを言って、あかりが笑い返している。
奈々美は、足を止めなかった。
廊下を歩き続けた。
でも、脳裏に残った。
あかりの笑顔。
教室で一人で本を読んでいた時の、あの怯えた目とは違う。
エマといる時のあかりは、別の顔をしている。
(エマが……変えてる?)
奈々美はスマホをポケットから出した。
歩きながら、エマのアカウントを開く。
昨日も見た。
一昨日も見た。
投稿は少ない。
日本に来てから数件だけ。
いずれも、食べ物か風景。
人の顔は出てこない。
(用心深い子ね……)
奈々美はスマホをポケットにしまった。
階段のそばで立ち止まり、窓の外を見た。
五月の空。
青くて高い。
校庭を歩いている生徒たちが見える。
どの顔も、明るい。
連休前の、浮かれた空気がある。
(私も、浮かれればいいのか……)
自嘲するように思った。
奈々美は、ちゃんとわかっている。
エマを調べることが、正しいことではないかもしれないと。
あかりのSNSを確認することが、信頼とは相反することだと。
でも――
やめられない。
確認しないと、怖いのだ。
元樹の周りに何があるのかを把握していないと、不安で仕方がない。
(これは守るためだ)
奈々美は、自分に言い聞かせた。
(元樹くんを守るための情報収集だ)
でも――
その言葉は、自分自身にも完全には信じられなかった。
窓の外で、五月の風が木を揺らした。
若葉が、光の中でざわめいている。
奈々美は、しばらくそれを見ていた。
それから、静かに歩き出した。
教室に向かって。
昼休みが終わるまで、まだ時間がある。
元樹が今、どこにいるか。
光明と一緒にいるはずだ。
もし確認したければ、できる。
でも――
(しない)
今日は、しない。
信じると、決めたから。
奈々美は廊下を歩いた。
胸の中に、矛盾が同居したまま。
信じたい気持ちと、確認せずにはいられない衝動が。
どちらも、本物だった。
五時間目。
上野玲は、英語の授業を受けていた。
先生の声が聞こえている。
板書が目に入る。
ちゃんと、意識はある。
でも――
こめかみが、じわじわと痛み始めていた。
最初は気のせいかと思った。
でも、五分経っても、十分経っても消えない。
むしろ、少しずつ強くなっていく。
(集中しないと)
玲は首を振る。
先生の声を聞こうとする。
でも、頭の中が重くて、言葉が入ってこない。
授業が始まって三十分。
玲はとうとう手を挙げた。
「先生、すみません。頭が痛くて……保健室に行かせてもらえますか」
「はい、どうぞ。気をつけてね」
玲は静かに席を立った。
クラスメートたちが、少し心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫?」
隣の席の女子が、小声で言った。
「うん、ちょっと痛いだけだから」
廊下に出ると、静かだった。
授業中の廊下の、あの独特の静けさ。
自分の足音だけが聞こえる。
こめかみが、ズキズキと痛む。
でも、歩けないほどではない。
玲は保健室に向かった。
「上野さん? どうしたの」
鈴木先生が振り返った。
「頭が……急に痛くなってしまって」
「入って入って。横になりなさい」
奥のベッドに横になる。
カーテンが引かれると、静かになった。
白い天井。
消毒液の匂い。
玲は、目を閉じた。
(少し休めば、治る)
そう思った。
何かが、来た。
眠ったわけではない。
ただ目を閉じていただけなのに――
映像が、浮かんだ。
正確には映像ではない。
光と影。
暗い場所の輪郭。
どこか、閉じた空間。
そこに、誰かがいる。
玲の前に。
誰?
顔は見えない。
でも、誰かがいる。
その存在が、玲を見ている。
怖い。
なぜか、怖い。
論理的な理由がわからないのに、体が怖いと感じている。
(誰……?)
もっと近づこうとした。
その顔を、確認しようとした。
でも――
「――やめて」
声が聞こえた。
自分の声?
違う。
もっと、震えている。
苦しそうな、声。
(これは……)
手が、伸びてきた気がした。
誰かの手が、玲に向かって。
そこで――
ぷつ、と切れた。
映像が消えた。
天井が見えた。
白い天井。
保健室。
玲は、気づかないうちに、息を止めていた。
ゆっくりと、息を吐く。
「……上野さん?」
カーテンの外から、鈴木先生の声。
「少し眠れた?」
「眠ってないです」
玲は答えた。
「でも……変なものが見えて」
カーテンが少し開いて、先生が顔を覗かせた。
「変なもの?」
「目を閉じたら……暗い場所と、誰かの声が」
先生の表情が、少し変わった。
「はっきりはしないんですけど、なんか、誰かがいて。怖かって」
「そっか……」
先生がそばの椅子に座った。
「上野さん、記憶のことで担当の先生がいるって、聞いてるよ」
「池田先生です」
「次の診察で、今日のことを必ず話してみてね。こういう断片が出てくることは、大事なことだから」
「……はい」
「無理に思い出そうとしなくていい。体が準備できた時に、自然に戻ってくるから」
「怖かったです」
玲は素直に言った。
「暗い場所に、誰かいて……その人が、怖かった」
「怖い人だった?」
「わかんないです。顔は見えなかったから」
「そっか」
先生が頷く。
「でも、なんか……悲しかった。映像の中の声が」
「そう……」
「自分の声みたいな気もして、でも、違う気もして」
「夢みたいな感じかな」
「そうかもしれないです」
玲は天井を見上げた。
(あの暗い場所、どこだったんだろう)
(あの声は、誰の声だったんだろう)
思い出そうとすると、霞のようにすり抜けていく。
でも――
確かに、何かがあった。
今まではそれがなかった。
記憶を失ってから、断片的なものでさえ、浮かんでくることはなかった。
今日初めて、何かが姿を見せようとした。
(戻ってくるのかな……)
怖い、という気持ちと。
戻ってきてほしい、という気持ちが。
玲の中で、同居していた。
「少し休んでいなさい。次の時間に間に合いそうだったら行きなさい」
「はい」
「何かあったら、声かけてね」
「……ありがとうございます」
カーテンが静かに閉まった。
玲はもう一度、天井を見た。
白い天井。
保健室の静けさ。
(あの人は、誰だったんだろう)
その問いだけが、胸の中に残った。
答えは、まだない。
でも――
確かに、誰かがいた。
その記憶が、壁の向こう側でまだ、存在している。
玲は目を閉じた。
静かに、呼吸した。
五月の昼の光が、カーテンを通して差し込んでいた。
放課後。
四時ちょうど。
昇降口の壁に、奈々美は背をつけていた。
スマホを手に持っている。
画面は見ていない。
ただ、持っている。
時計を確認する。
四時一分。
委員会は、四時頃には終わると元樹は言っていた。
だから、今来ないのはおかしくない。
そうわかっていても、玄関の奥に続く廊下に、何度も目をやってしまう。
四時三分。
まだ来ない。
別の生徒が、ぞろぞろと昇降口を通り過ぎる。
誰かが「お疲れ」と言い合っている。
四時六分。
奈々美は、スマホの画面を開いた。
元樹へのトーク画面。
最後のやりとりは、昨日の夜だ。
メッセージを送ろうかと思った。
「今どこ?」
でも、やめた。
送らなかった。
信じると、決めたから。
委員会が長引いているだけだ。
四時十分。
廊下の奥に人影が見えた。
元樹だ。
プリントを手に持って、少し急いだ様子で歩いてくる。
奈々美は、笑顔を作った。
「ごめん、遅くなった」
元樹が言った。
「議案がまとまらなくて」
「大丈夫」
奈々美は微笑んだ。
「待ってたよ」
その言葉は、穏やかだった。
声も、表情も。
でも――
元樹の手を取った時。
いつもより、強く。
わずかに、強く。
元樹が少し目を瞬かせた。
奈々美はその手をそのまま引いて、昇降口を出た。
「委員会、大変だった?」
「まあ……今日はちょっと揉めた」
「何が?」
「文化祭の展示スペースの割り当てで、クラス間でちょっと意見が分かれて」
「そうなんだ」
奈々美が頷く。
「元樹くん、うまく仕切れた?」
「なんとか。田村が上手くまとめてくれた」
「田村くんって誰?」
「委員会のやつ。背が高くて、しゃべるの上手い」
「元樹くんのクラス?」
「いや、三組だったかな」
「そっか」
奈々美は頷きながら、元樹の手を握る力を、少しだけ緩めた。
緩めて、でも離さなかった。
夕方の通学路。
五月の風が吹いている。
気持ちいい風だった。
「GW、もうすぐだね」
元樹が言った。
「うん」
「光明たちと一回集まる話、してて……奈々美も一緒にどう? 玲も誘って」
奈々美は一瞬、何かを考えた。
「上野さんも?」
「ああ。最近元気なさそうだから、みんなで気分転換になったらって」
「……そうだね」
奈々美は微笑んだ。
「それは、いいと思う」
「じゃあ、日程合わせよう」
「うん」
二人で歩く。
夕日が、家々の屋根に当たって、オレンジに染まっている。
奈々美は、握った元樹の手を見た。
元樹の手は、温かい。
いつも温かい。
「元樹くん」
「ん?」
「今日……疲れてる?」
「まあ、少しかな。委員会、集中したから」
「そっか」
「奈々美は?」
「私は……平気」
奈々美が微笑む。
「元樹くんと一緒に帰れてるから」
その言葉は、素直だった。
装っていない。
本当のことを言っている。
元樹も、それはわかっているはずだ。
「……そうか」
元樹が頷いた。
その目が、少し遠かった。
奈々美は気づいていた。
でも、何も言わなかった。
今は、ただ一緒に歩いている。
それで、いい。
それで、いいはずだった―
「元樹」
帰り道の途中で、光明から電話がかかってきた。
奈々美と別れた後だった。
「今、帰り中か?」
「ああ」
「ちょっと聞いていいか」
「ん?」
光明の声が、少し真剣だった。
「奈々美、最近どう?」
「……なんで?」
「いや、さっき未菜から連絡が来て。未菜がエマから聞いた話なんだけど」
「エマって……藤宮エマか」
「ああ。玲のクラスの転校生」
「うん」
「そのエマが、奈々美のことを気にしてるらしくて」
元樹は足を止めた。
「気にしてる?」
「あかりのSNSを奈々美が調べてるのを見た、って話が来て」
「……」
「元樹?」
「聞いてる?」
元樹は歩き始めた。
夕暮れの道を。
「それ、ただ見てるだけだろ?」
「俺にはわからない。でも、エマは一度見ただけじゃなく、何度か確認してるっぽい、みたいな話だったらしい」
「……」
「どう思う?」
元樹は答えられなかった。
すぐには。
(あかりのSNS……)
確認して、いる。
もしかして、とは思っていた。
でも、はっきり聞かされると。
「元樹」
「ん」
「怒ってるか?」
「怒ってる、というか……」
元樹はしばらく考えた。
「複雑、かな」
「そうか」
「奈々美は……変わろうとしてる。それは本当だと思う」
「うん」
「でも、変わろうとしながら、同じことを繰り返してる部分がある、ってことか」
「そういうことかもしれない」
「……どうすればいいんだろう」
それが、正直な言葉だった。
光明は少し間を置いてから言った。
「俺には、そこまでわからない。ただ……元樹が一人で全部抱えなくていいとは思う」
「うん」
「玲の時も、一人で抱えて限界になっただろ」
「……そうだな」
「今度は、早めに誰かに言えよ。俺でもいいし」
「……ありがとう、光明」
「GW中に遊ぼうって話、まだ有効だから。航も来たがってるし」
「わかった。合わせる」
「じゃあな」
電話が切れた。
元樹はしばらく、道の端に立っていた。
夕焼けが、空の端に残っている。
(奈々美……)
その名前を、心の中で呼んだ。
責めたいわけではない。
ただ――
どうすればいいのか、わからない。
奈々美を信じたい。
でも、信じきれない何かが、少しずつ積み重なっていく。
それを、どう扱えばいい。
答えは、今日も出なかった。
元樹は歩き始めた。
家への道を。
オレンジの空が、どんどん暗くなっていく。
五月の夜が、静かに降りてきていた。
家に帰ると、由美がリビングにいた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
「遅かったね。委員会?」
「ああ」
俺はソファに座った。
鞄を置いて、ため息をついた。
「疲れてる顔してる」
由美が言う。
「まあな」
「奈々美さんと一緒だった?」
「帰り道は」
「そっか」
由美がスマホを置いて、俺の方を向いた。
「最近、どうなの」
「何が」
「奈々美さんとのこと」
直球だった。
さすが由美、と思いながら、俺は頭をかいた。
「……普通だよ」
「普通ってどんな感じの普通?」
「毎日一緒に学校行って、昼も一緒で、帰りも一緒で」
「それって、お兄ちゃんが望んでそうしてるの?」
また、直球。
「……奈々美が、一緒にいたいから」
「お兄ちゃんは?」
「俺は……、一緒にいるのは好きだけど」
「でも?」
「……なんで『でも』がつくってわかるんだよ」
「だって、お兄ちゃんの顔してる」
由美が少し笑った。
「一年の時のお兄ちゃんに、少し似てきた気がする」
「そんなことないよ」
「ほんとに?」
「……」
俺は答えられなかった。
「お兄ちゃん」
由美が、少し真剣な声になった。
「私、一年の時のこと、まだ後悔してるよ」
「由美……」
「奈々美さんにいろいろ教えてたこと。お兄ちゃんのこと、好きな食べ物とか、よく行く場所とか」
「それは、由美は悪くないって言ったじゃないか」
「でも……もしそのせいで、お兄ちゃんが苦しんだなら」
「由美のせいじゃないよ」
「お兄ちゃんが言っても、私が感じることは別じゃない」
それは、そうだな、と俺は思った。
「だから」
由美が続けた。
「今度、また同じことになりそうだったら、言ってね。何かできることはしたいから」
「できることって、何かあるか?」
「わかんない。でも……一人で全部我慢するの、やめてほしい」
俺は、由美を見た。
中学三年生の妹は、いつの間にかこんな顔で話せるようになっていた。
子どもみたいな言い方はしない。
ちゃんと、対等に話しかけてくる。
「……ありがとう、由美」
「どういたしまして」
由美がぱっと立ち上がった。
「ご飯、できてるよ。お母さんから言われてた」
「わかった」
「今日、からあげだよ」
「いいな」
俺も立ち上がった。
由美の後ろを歩きながら、ふと思った。
「言えてるか」と、光明に聞かれた。
「我慢してるな」と、由美に言われた。
みんな、気づいてる。
なのに、俺だけがまだ、どうすればいいかわかっていない。
(どうすれば、いいんだろう)
その問いを抱えたまま、俺はリビングに入った。
夕食の匂いが、家の中に満ちていた。
その夜。
奈々美の部屋は静かだった。
机に向かって、教科書を開いている。
でも、読んでいない。
ページの上に、目を向けているだけだ。
スマホが置いてある。
元樹からのラインは、一時間前のものが最後だ。
『今日はゆっくり休んで』
ひと言。
短い。
奈々美は返信していた。
『元樹くんも。おやすみ』
既読がついている。
返信はない。
(寝たのかな)
そう思う。
もう夜十時を過ぎている。
疲れているなら、寝ていてもおかしくない。
でも――
(ちゃんと寝てるのかな)
スマホを手に取る。
トーク画面を開く。
「大丈夫?」
と送りかけて、やめた。
寝ているなら、起こしてしまう。
起こすほどのことじゃない。
スマホを置く。
ため息をつく。
奈々美は引き出しを開けた。
ノートを取り出す。
何かを書くわけではない。
ただ、開く。
ページに、文字がある。
昨日、書いたもの。
「藤宮エマ」という名前。
その下に、観察したことが書いてある。
あかりと一緒にいる時間。
廊下での行動。
目が合った時の反応。
奈々美は、そのページを見た。
(私は……何をしてる)
珍しく、自問した。
これは何のためにやっている。
元樹を守るため。
そう言い訳していた。
でも――
エマがあかりと仲良くすることが、どうして元樹の脅威になるのか。
論理的に考えれば、直接的な繋がりはない。
あかりは元樹に告白して断られた子だ。
だから監視している。
でも、エマはあかりの友達で、それ以上ではない。
(なのに、私は……)
奈々美はノートを閉じた。
引き出しにしまった。
深呼吸する。
変わろうとしている。
本当に、そう思っている。
一年生の頃みたいな束縛はしたくない。
元樹を信じたい。
でも――
(怖い)
その感情は消えない。
誰かが奪いに来るかもしれないという恐れ。
七年間、一人で追いかけてきた人が、また離れていくかもしれないという恐怖。
それが、どうしても、消えない。
「元樹くん……」
小さく呟いた。
窓の外に、夜空が広がっている。
星が、いくつか見えた。
(変わりたい)
奈々美は、その星を見ながら思った。
(本当に、変わりたい)
でも、どうやって変わればいいのか、まだわからない。
怖さを消すことが、変わることなのか。
それとも、怖くても信じることが、変わることなのか。
答えが、出ない。
窓の外で、風が吹いた。
若葉の揺れる音が、かすかに聞こえた。
奈々美は、ノートのことを思った。
あのページを、捨てるべきかもしれない。
いつか、捨てようと思った。
でも、今日はまだ、捨てられなかった。
電気を消した。
ベッドに横になる。
暗い天井を見上げた。
(明日も、笑顔でいよう)
その決意は、本物だった。
信じよう、と思った。
でも――
眠れない時間が、しばらく続いた。
五月の夜は、静かで、少しだけ冷たかった。
翌日の朝。
いつもより早く家を出た元樹は、坂道を一人で登っていた。
今日は奈々美より先に学校に着こうと思っていた。
理由は自分でもうまく言えないが――
少しだけ、一人で考える時間が欲しかった。
五月の朝。
空気が澄んでいる。
鳥が鳴いている。
通学路の木が、青々とした葉を揺らしている。
一年前の今頃――
桜が咲いていた。
奈々美が転校してきた。
最初から、何かがおかしかった。
でも、おかしいとはっきり気づくのに、時間がかかった。
今は。
気づいている。
でも、どうすればいいか、わからないでいる。
(前より、成長したのか?)
自問した。
よくわからなかった。
(奈々美に、ちゃんと言えるか)
感じていることを。
少し窮屈だということ。
三十分の返信遅れで謝らなくていいということ。
あかりのSNSを調べることは、やめてほしいということ。
言えるか。
言えない気がした。
言ったら奈々美を傷つける気がして。
傷ついた奈々美が、また暴走する気がして。
でも――
(それって……ずっと続けられるのか?)
光明の言葉が、頭に残っていた。
「自分の気持ちを言うことは、奈々美を責めることとは別の話だと思う」
そうなのかもしれない。
でも、どうやって言えばいいのか。
言い方が、わからない。
学校の門が見えてきた。
元樹は、立ち止まった。
深呼吸した。
(GWが終わったら……ちゃんと、考えよう)
それが、今の答えだった。
今はまだ、GW前だ。
みんなで遊ぶ計画もある。
今日は今日のことをやり切ろう。
元樹は、歩き出した。
門をくぐって、学校の中へ。
そして、GW前日。
六時間目が終わって、チャイムが鳴った瞬間――
教室の空気が変わった。
「やっとだ!」
誰かが叫んだ。
笑い声。
拍手。
椅子を引く音。
連休が始まる解放感。
元樹も、その空気に少し笑った。
「元樹、GWどうする」
光明が声をかけてくる。
「光明たちと集まる話してたろ。いつにする?」
「四日はどうだ。航も空いてるって言ってた」
「俺は大丈夫」
「奈々美は?」
「聞いてみる」
「玲も誘っていいか」
「もちろん」
「じゃあ、未菜にも言う。どこ行く?」
「海か、山か」
「海でいいんじゃないか。五月だし」
「そうだな」
二人で話しながら、鞄をまとめる。
「元樹くん」
奈々美が後ろから声をかけた。
「GW、光明くんたちと遊ぶんでしょ?」
「ああ、四日の予定で。奈々美も来ない?」
「……うん、行く」
奈々美が微笑む。
「みんなで海、楽しそう」
「よかった」
「それとは別に、二人だけで行きたいとこ、ある?」
「奈々美は?」
「水族館、ずっと行きたいって言ってたから」
「じゃあ行こうか。二日あたり」
「本当に? 嬉しい」
奈々美が、少し顔を輝かせた。
その表情は、素直で、純粋だった。
作っていない顔。
こういう時の奈々美が――
俺は、好きだ。
複雑なことが色々あっても、この顔を見ると、思う。
この人のことが、好きだと。
「じゃあ決まりだ。二日に水族館」
「約束だよ」
「約束」
奈々美が、少し嬉しそうに笑った。
航が「元樹、お疲れさん!」と遠くから声をかけてくる。
「GW楽しもうぜ!」
「ああ」
「俺、クレーンゲームで狙ってるやつがあるから」
「また?」
「大事なんだよ!」
光明が「あいつ、いつもそれ言う」と呆れている。
教室が、どんどん騒がしくなっていく。
連休前の、特別な空気。
元樹は窓の外を見た。
五月の空は、高くて青い。
雲が、ゆっくり流れている。
(GW……か)
複雑なことは、まだある。
考えなければいけないことも。
でも――
少しだけ、楽しみでもあった。
みんなと会える。
笑える。
今はそれでいい。
「帰ろう、元樹くん」
奈々美が言った。
「ああ」
俺は立ち上がった。
鞄を持って、奈々美の隣に並んだ。
光明と航が先に出て行く。
「光明、四日な」
「わかった。詳細はラインで」
「了解!」
航が手を振る。
俺たちも、廊下へ出た。
にぎやかな廊下。
帰宅する生徒たちの声。
奈々美が俺の隣を歩く。
「楽しみだね、水族館」
「ああ」
「元樹くん、クラゲ好きって言ってたから、絶対連れていきたかった」
「俺、そんなこと言ったっけ」
「言ってたよ。ぼーっと見てたくなるって」
「……覚えてるんだな」
「全部、覚えてるよ」
奈々美が笑った。
階段を下りながら、昇降口を出ながら。
五月の夕方の空気が、体を包んだ。
温かくて、さわやかで。
ゴールデンウィークが、始まろうとしていた。
この連休の間に、何かが変わるのか。
何も変わらないのか。
元樹には、まだわからなかった。
ただ――
奈々美の隣を歩きながら。
この人のことが好きだということは、確かだと思った。
だから、どうするべきかを、ちゃんと考えなければいけない。
その時が、近づいてきている気がした。
「元樹くん」
「ん?」
「GW、よろしくね」
「ああ。よろしく」
二人で歩く。
学校から駅へ続く道を。
五月の空に、白い雲が浮かんでいた。
いくつかの問いを抱えたまま――
それぞれの連休が、静かに始まった。
「信じる」って、こんなに難しいのか、と毎日思う。スマホを確認するたびに、廊下を歩くたびに、手が動いてしまう。
やめようとする。
やめる。
でも、また動く。わたしは、怖いのだ。七年間、一人だった。施設を転々として、誰にも本当のことを話せなくて、ただ元樹くんのことだけを考えて生きてきた。その時間の重さが、今も体に染みついている。
「変わる」ということは、その重さを手放すことなのかもしれない。
でも――どうやって手放すのか、まだわからない。
わかっている。
このままでは、いけないということは。
だから、もう少しだけ、時間をください。
わたしは、変わりたいと思っている。
元樹くんの隣で、笑っていたいと思っている。
それだけは、本当のことだから。
― 柊奈々美




