第34話 「笑顔だった彼女の目は、笑っていなかった」
二年生になって、最初の一週間が過ぎた。
新しいクラス、新しい教室、新しい顔ぶれ。
全てが、新鮮だった。
でも――
俺、渡部元樹の心には、まだ不安が残っていた。
二年B組の教室。
朝のホームルームが始まる前、俺は窓の外を眺めていた。
桜の花びらが、風に舞っている。
綺麗だ。
でも、その美しさを素直に楽しめない自分がいた。
「元樹くん」
後ろから、声がした。
奈々美だ。
「おはよう」
「ああ……おはよう、奈々美」
俺は振り返る。
奈々美が、微笑んでいる。
穏やかな笑顔。
柔らかい表情。
「今日も、一緒に勉強しようね」
「ああ」
俺は頷く。
「昨日のプリント、わからなかったところあった?」
「ちょっとだけ……」
奈々美が俺の机の横にしゃがむ。
「どこ? 見せて」
ノートを開く。
二人で、並んで確認する。
奈々美の髪が、俺の肩に触れた。
春の日差しの中で。
静かな朝の教室の中で。
こうしていると――
全てが穏やかに見える。
全てが上手くいっているように見える。
「ここの計算式ね」
奈々美が丁寧に説明してくれる。
「ありがとう。わかった」
「よかった」
奈々美が嬉しそうに微笑む。
その笑顔は――
本当に、綺麗だった。
でも。
チャイムが鳴って、田中先生が教室に入ってきた。
「おはよう、みんな。席につけ」
奈々美が自分の席、俺の後ろに戻る。
朝のホームルームが始まった。
先生が連絡事項を読み上げる。
その間、俺はぼんやりと考えていた。
奈々美のこと。
あかりのこと。
そして――
玲のこと。
「渡部」
田中先生に名前を呼ばれた。
「はい」
「今日から委員会が動くから、放課後、教室に残るように」
「わかりました」
俺は頷く。
委員会。
今年は学級委員に選ばれてしまった。
断れない性格が、またも裏目に出た。
「元樹くん」
後ろから、奈々美の声が聞こえた。
「委員会、何時に終わる?」
「たぶん、四時くらいには終わると思う」
「じゃあ、四時に昇降口で待ってる」
「……ああ」
俺は頷く。
その言葉は、さりげなかった。
でも――
確実に、俺の行動を把握しようとしていた。
昨日も、一昨日も、奈々美は必ず放課後に一緒にいた。
笑顔で、自然に。
でも――
離れない。
どこにも行かせない。
そんな意図が、透けて見えるような気がして。
俺は自分が、過剰に考えすぎているのかもしれないと思った。
奈々美は変わったんだ。
一緒にいたいのは、当然だ。
俺も、奈々美が好きだ。
そう言い聞かせながら――
俺は前を向いた。
同じ日の放課後。
奈々美は、一人になっていた。
委員会で教室に残っている元樹を待つと言ったけれど、まだ一時間近くある。
奈々美は廊下を歩きながら、スマホを取り出した。
画面を開く。
アプリを起動する。
それは、SNSのアプリだった。
検索欄に、名前を入力する。
『星野あかり』
すぐに、アカウントが出てきた。
非公開設定にはなっていない。
奈々美は無言で、それを見つめた。
最新の投稿は、昨日の夕方。
教室の窓から撮った空の写真。
コメントはない。
いいねもない。
ただ、一枚だけ。
奈々美は指でスクロールする。
過去の投稿を、遡っていく。
本の写真。
猫の写真。
桜の写真。
笑顔の写真は、一枚もない。
(……この子は、一人なのね)
奈々美は表情を変えない。
感情は、顔に出ない。
ただ、静かに画面を見つめている。
次に、奈々美は別の場所に向かった。
図書室。
廊下から、ドアのガラス越しに中を覗く。
生徒は何人かいる。
でも――
あかりの姿は、なかった。
(来ていない)
奈々美の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
目は、笑っていない。
(よかった。おとなしくしているのね)
奈々美はスマホをポケットにしまった。
廊下の窓から、校庭を眺める。
サッカー部が練習をしている。
バスケ部が声を上げている。
普通の放課後。
普通の春の景色。
奈々美は小さく呟いた。
「変わった、って思ってくれてていい」
声は、誰にも聞こえない。
「元樹くんのためなら、私は何でもできる」
一拍、間があった。
「でも……」
奈々美の目が、細くなる。
「元樹くんは、私のもの」
その言葉は――
春の風の中に、溶けて消えた。
誰も、聞いていない。
誰も、知らない。
ただ――
奈々美の心の中に、それは確かに刻まれていた。
彼女の全ての行動の、核心として。
一年A組の教室は、放課後になると静かになる。
星野あかりは、その静寂の中に一人でいた。
机の上に、開いた本が置いてある。
でも――
目は、ページの上で止まっていた。
同じ行を、もう三回読んだ。
でも、内容が頭に入ってこない。
(駄目だ……)
あかりは息を吐く。
本を閉じた。
窓の外を見る。
空が、オレンジ色に染まりかけている。
夕暮れ時。
誰もいない教室。
机と椅子だけが、整然と並んでいる。
あかりはそこに、一人だった。
(図書室に……行けない)
そう思う。
図書室は、先輩がいる場所だった。
一年間、あかりにとってのお気に入りの場所だった。
でも、もう行けない。
柊先輩に、あんな目で見られたら。
思い出すだけで、体が縮こまる。
「先輩のことが……」
あかりは呟いた。
誰もいない教室に、小さな声が落ちた。
「……好きです」
その言葉は、静かな教室に溶けていった。
告白。
ちゃんとした告白は、図書室でしてしまった。
でも、今もう一度、誰もいないところで言うのは――
諦めたくないから、かもしれない。
「馬鹿だな、私」
あかりは目を閉じる。
「ちゃんと、わかってるのに」
先輩には、彼女がいる。
自分には、脈がない。
現実は、シンプルだ。
でも、心はシンプルじゃない。
目を開けた時。
「あら」
声がした。
あかりは弾かれたように顔を上げる。
教室のドアのところに――
人が立っていた。
柊奈々美、だった。
「星野さん。放課後も、頑張ってるのね」
奈々美が、微笑みながら教室に入ってきた。
その笑顔は――
完璧だった。
口元が、優しく弧を描いている。
声も、穏やかだ。
でも――
目が、笑っていない。
黒い瞳が、あかりを映しながら――
何も映していないような、冷たさがあった。
「……柊、先輩」
あかりの声が、震えた。
「邪魔しちゃった?」
奈々美が近づいてくる。
「いえ……別に……」
「良かった」
奈々美は、あかりの斜め前の席に腰を下ろした。
誰の席かもわからないのに、まるで自分の場所かのように。
「最近、図書室に来てないのね」
奈々美が言った。
それは、質問ではなかった。
ただの、確認だった。
(見てたの……?)
あかりの背筋に、冷たいものが走る。
「……勉強しようと思って」
「そう」
奈々美が頷く。
「勉強、大事よね」
「はい……」
あかりは俯く。
早く、終わってほしい。
でも、奈々美は立ち上がる様子がなかった。
「ねえ、星野さん」
「……はい」
「少し、話してもいいかしら」
それは、許可を求める言い方ではなかった。
既成事実として、話す意思を宣言しているようだった。
「……どうぞ」
あかりは答えるしかなかった。
「ありがとう」
奈々美が微笑む。
「元樹くんのこと……好きなのね」
単刀直入だった。
あかりは息を呑んだ。
「それは……」
「隠さなくていいわ」
奈々美が続ける。
「あの日、図書室で言っていたもの」
「……はい」
あかりは頷いた。
逃げることはできない。
「正直に言ってくれてありがとう」
奈々美の声は、穏やかだった。
怒っているわけではない。
責めているわけでもない。
ただ――
その穏やかさが、逆に怖かった。
「私ね、星野さんのことを怒ってるわけじゃないの」
「……そう……ですか」
「恋愛感情は、止められないものだもの」
奈々美が言う。
「誰かを好きになるのは、当然のことよ」
「……」
「元樹くんは、優しいし、穏やかだし」
奈々美が続ける。
「好きになるのは、わかる気がするわ」
「……はい」
あかりは小さく頷いた。
「でもね、星野さん」
奈々美の声が、わずかに変わった。
気温が、一度だけ下がったような。
「元樹くんは、私の彼氏なの」
「……わかってます」
「わかってるのね」
奈々美が繰り返す。
「でも、諦めると言っていなかったわね」
あかりは答えられなかった。
「中庭で、元樹くんに言ったじゃない」
奈々美が続ける。
「『諦められません』って」
(聞いてたんだ……)
あかりは唇を噛んだ。
「隠すつもりじゃなかったです」
「そう」
「ただ……素直な気持ちを……」
「わかるわ」
奈々美が遮った。
その声は、柔らかかった。
でも。
「だから、一つだけお願いがあるの」
「……何ですか」
「元樹くんの邪魔を、しないでほしいの」
あかりは顔を上げた。
奈々美と目が合う。
笑顔のままの奈々美と。
目が、笑っていない奈々美と。
「邪魔……」
「そうよ」
奈々美が続ける。
「元樹くんはね、優しいから」
「星野さんみたいな子が泣いていたら、放っておけないの」
「……」
「だから、元樹くんが困らないように」
奈々美の声は、どこまでも穏やかだった。
「星野さんが、自分で距離を置いてあげてほしいの」
「それが……あなたのためでもあると思うから」
「私のため……」
「そう」
奈々美が頷く。
「叶わない恋に執着しても、苦しいだけでしょう?」
「……」
「早く諦めて、別の誰かを見つけた方が」
奈々美が笑う。
「星野さんも、幸せになれると思うから」
その言葉は――
表面だけを取れば、正論だった。
親切心からの忠告のように聞こえた。
でも。
あかりは、全身が震えているのを感じていた。
怖い。
何が怖いのかはっきりわからないけど、ただ怖い。
この人が、怖い。
「……わかりました」
あかりは答えた。
「わかってくれてよかった」
奈々美が立ち上がる。
「星野さん、可愛いのにもったいないわよ」
奈々美が言う。
「ちゃんと、自分を大切にしてね」
「……はい」
「あと」
奈々美が歩きながら振り返った。
「元樹くんに、変なことを吹き込まないでね」
その一言は、先ほどとは打って変わって、冷たかった。
笑顔のままだったけれど。
「変な、こと……」
「私のこと」
奈々美が言う。
「例えば、『柊先輩が怖かった』とか」
「それを元樹くんに言えば……」
奈々美は一瞬、沈黙した。
「元樹くんが、困るから」
「……」
「元樹くんを、困らせたいわけじゃないでしょう?」
「……困らせたく、ないです」
「そうよね」
奈々美が微笑む。
「じゃあ、わかってくれてると思う」
ドアの前で、奈々美は立ち止まった。
「またね、星野さん」
そして、去って行った。
ドアが閉まる音が、静かに響いた。
しばらく、あかりは動けなかった。
(怖かった……)
心臓が、まだ速く打っている。
怒鳴られたわけじゃない。
手を上げられたわけでもない。
ただ話しただけ。
なのに。
「なんで……こんなに怖いんだろう……」
あかりは自分に呟いた。
答えは、わかっていた。
あの人は、笑顔の下で何を考えているのかわからない。
穏やかな言葉の裏に、何があるのかわからない。
怒りを見せないのに、圧力が伝わってくる。
それが、怖かった。
「先輩……」
あかりは目を閉じる。
渡部先輩の顔が浮かんだ。
(どうして、あの人と一緒にいるの……)
優しい先輩は、あの人の本質を知っているのだろうか。
それとも――
知らないのだろうか。
あかりは、本を鞄にしまった。
もう、勉強は続けられそうになかった。
「帰ろう……」
椅子を引いて立ち上がった瞬間。
「あの、失礼します」
またドアが開いた。
あかりは思わず、びくりとした。
でも――
入ってきたのは、知らない顔だった。
金髪。
青い瞳。
長い髪をふわりとさせた、外国人のような外見の女の子。
制服を見ると、一年生じゃない。
でも、見た事がない。
「えっと……」
その子が、あかりを見てにっこりと笑った。
「ごめんなさい、人違いだったかな」
日本語は、少しだけ不自然だった。
「あなた、一年生?」
「……はい」
「なんか、ここの教室から柊奈々美が出てくるの見えて」
その子が続ける。
「気になって……ちょっと確認したくて」
「柊先輩を……知ってるんですか?」
「一応ね」
その子が肩をすくめる。
「私、2-Cの藤宮エマ。途中で転校してきたの」
エマ、と名乗った彼女は、あかりの顔をじっと見た。
「あなた、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「……あ、えと」
「もしかして、柊さんに何か言われた?」
その問いに、あかりは思わず固まった。
エマが、静かに近づいてくる。
「無理に言わなくていいよ」
椅子を引いて、あかりの隣に腰を下ろした。
「ちょっと話してもいい? 私のことも教えるから」
あかりは、その青い瞳を見つめた。
穏やかで、真っ直ぐな目。
さっきの奈々美の目とは、全く違う。
「……はい」
あかりは、小さく頷いた。
「転校してきたのは、先月」
エマが話し始めた。
「アメリカの学校に行ってたんだけど、家庭の事情で日本に戻ることになって」
「お父さんが日本人なの?」
「そう。お母さんがアメリカ人で、私はハーフ」
エマが自然に言う。
「2-Cにいる。柊さんとは同じ二年生だから、廊下とかで見かけることがあって」
エマが続ける。
「転校してきて日が浅いから、知ってることは少ないんだけど」
「知ってることって、何ですか」
あかりは前のめりになった。
「まず」
エマが指を一本立てる。
「柊さんは、渡部くんの彼女」
「……はい、知ってます」
「でも、それだけじゃなくて」
エマが少し考えてから続けた。
「私、先週偶然見かけたんだよね」
「奈々美が、あなたのSNSを見てる場面」
「え……」
あかりは息を呑んだ。
「図書館の近くのベンチで、スマホを操作してたの」
エマが言う。
「たまたま後ろ通ったら、画面に名前が見えてね」
「あなたのことを、調べてたみたいだった」
あかりの手が、震えた。
(やっぱり……)
「それから、図書室の前を通って中を確認してた」
エマが淡々と続ける。
「誰かを確認してるみたいで……あなたのことかなって思った」
「……そうだったんですね」
「私、直接は知らないけど」
エマが言う。
「柊さんって……普通じゃないと思う」
「普通じゃない……」
「アメリカにいる時、似たようなことを経験した友達がいてね」
エマが少し遠くを見た。
「その子も、そういう目をしてた」
「目……?」
「笑ってるのに、笑ってない目」
あかりは思わず頷いた。
「わかる?」
「……さっき、まさにそれでした」
「そうでしょ」
エマが静かに言う。
「気をつけた方がいいと思う」
「何を……何をすればいいんですか」
あかりは問いかける。
「わからない、正直」
エマが首を振る。
「ただ……一人でいると、狙われやすいかも」
「友達と一緒にいた方がいい」
「でも……」
あかりは俯く。
「私、高校生になったばかりで、まだ友達があまりいなくて……」
「そっか」
エマが頷く。
「じゃあ、私と一緒にいる?」
あかりは顔を上げた。
「え……でも、2-Cですよね?」
「放課後は関係ないじゃん」
エマが笑う。
その笑顔は、自然だった。
目も、ちゃんと笑っていた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
エマが立ち上がる。
「今日は帰るよ。でも、また話しかけていい?」
「はい……ぜひ」
「名前、教えて」
「星野あかりです」
「あかりか。かわいい名前だね」
エマが微笑む。
「私はエマ。藤宮エマ。よろしくね」
「よろしくお願いします、藤宮先輩」
「エマでいいよ、先輩っていうのなんか変だから」
エマが笑いながら、教室を出て行った。
あかりは、しばらくその場に立ち尽くした。
(エマ先輩……)
不思議な人だと思った。
でも、嫌な感じはしない。
むしろ――
少し、楽になった気がした。
(気をつけた方がいい、か……)
あかりは窓の外を見る。
空は、もうすっかり夕焼けになっていた。
赤い空。
遠くに、鳥が一羽飛んでいる。
(先輩は……どうしてるんだろう)
渡部先輩の顔が浮かぶ。
諦めるべきだと、わかっている。
でも。
(まだ……好きです)
その気持ちだけは、本当だった。
翌朝。
俺は、朝食を食べながら窓の外を見ていた。
今日も、桜が揺れている。
もうすぐ散ってしまうだろうと思いながら。
「お兄ちゃん」
由美が入ってきた。
「おはよ」
「おはよう、由美」
由美は冷蔵庫を開けながら言う。
「今日、いい天気だね」
「そうだな」
「今日、部活の朝練あるから先に出るね」
由美がパンをトースターに入れながら言う。
「中学三年になったの、実感わいた?」
「まだ全然……」
由美が笑う。
「受験があると思うと、ちょっと怖いけど」
「頑張れよ」
「お兄ちゃんも、高校生活楽しんでよね」
由美が俺を見る。
「なんか最近、暗い顔してるから」
「暗い……そうか?」
「してるよ」
由美が断言した。
「大丈夫? 奈々美さんと、うまくいってる?」
「……ああ、うまくいってるよ」
「そっか」
由美が少し安心したように頷く。
トーストが焼けた音がした。
「行ってくるね!」
「ああ、気をつけて」
由美が飛び出していく。
俺は、一人で朝食を続けた。
今日、何かいいことがあるといい。
そんなことを思いながら。
休み時間。
奈々美は俺の隣の机に座って、一緒に話をしていた。
「昨日の委員会、大変だった?」
「まあ、普通だったよ」
「そうなんだ」
奈々美が微笑む。
「元樹くん、なんでも引き受けちゃうから、心配してたの」
「大丈夫だ」
「私、心配性かな」
「いや……奈々美が心配してくれるの、嬉しいよ」
「本当に?」
「ああ」
奈々美が、ぱっと顔を明るくする。
「よかった」
その笑顔に、俺の心が温かくなった。
「ねえ、元樹くん」
「ん?」
「今日の帰り、ちょっと寄り道してもいい?」
「どこに?」
「駅前に、新しいクレープ屋さんができたらしくて」
奈々美が続ける。
「一緒に行きたいな」
「いいよ」
「本当に?!」
「ああ」
俺は頷く。
「楽しみ」
奈々美が嬉しそうに言う。
その時、ドアが開いた。
「渡部くん」
声がした。
振り返ると、黒髪の女の子がいた。
落ち着いた雰囲気の、同じクラスの子。
「えっと……森川、さん?」
「そう。森川詩織」
彼女が近づいてくる。
「昨日のプリント、聞いてもいいかな」
「ああ、構わないけど……」
俺はノートを取り出す。
「どこがわからなかった?」
「この部分なんだけど……」
詩織が、ノートを指差す。
俺は説明を始めた。
「ここは、まず括弧の中から計算して……」
「うん……」
「それで……」
その時。
俺は、奈々美の気配が変わったのを感じた。
振り返ると、奈々美が笑顔のまま、俺と詩織を見ていた。
でも――
その笑顔は。
目が、笑っていなかった。
(あ……)
俺の心臓が、少し縮んだ。
「森川さんって、読書と音楽が好きなんだよね」
突然、奈々美が話しかけた。
「え、そうだけど……なんで知ってるの?」
「自己紹介の時、言ってたから」
奈々美が微笑む。
「印象に残っちゃって」
「そう……」
「私も、読書好きなんだよね」
奈々美が言った。
「え、本当に?」
詩織が少し驚いたように言う。
「何が好きなの?」
「最近は、純文学が多いかな」
「私も!」
詩織が目を輝かせた。
「なんか嬉しい、同じクラスに好きな人がいるって」
「私も嬉しい」
奈々美が微笑む。
「元樹くんは、ライトノベル専門だから」
「そうなの?」
詩織が俺を見る。
「まあ……」
俺は苦笑した。
「ジャンルが違うとあんまり共感してもらえなくて……」
「あはは、それはそうかも」
詩織が笑う。
「でも、純文学も面白いよ?」
「一回、試してみようかな……」
「何か紹介してあげようか?」
「本当に?」
「うん。次の休み時間に、おすすめ持ってくるね」
詩織が嬉しそうに言う。
「楽しみだな。奈々美さんは、最近何読んでるの?」
「昨日ね、夜に読み終わったのがあって」
奈々美が話し始める。
「タイトルは……」
二人の会話が、弾み始めた。
俺は二人の話を聞きながら、奈々美の表情を確認した。
さっきの、目が笑っていなかった顔は――
もう、消えていた。
今は、普通に笑っている。
詩織と話しながら、本当に楽しそうにしている。
(よかった……)
俺は息を吐いた。
奈々美が、また誰かを「敵」と認識したのかと思った。
でも、違ったみたいだ。
「渡部くん」
詩織が俺を見た。
「ありがとね、プリントの説明」
「ああ、わかった?」
「うん! ありがとう」
詩織が笑う。
「奈々美さんも、仲良くしてね」
「こちらこそ」
奈々美が微笑む。
詩織が戻っていった。
「奈々美、森川さんと仲良くなれたな」
「うん」
奈々美が頷く。
「あの子、好きかも」
「そうなの?」
「読書の趣味が合うのって、嬉しいじゃない」
奈々美が言う。
「そうだな」
「元樹くんは、もうちょっと読書してもいいと思うよ」
「はは……気をつける」
俺は笑った。
そして――
さっきの瞬間を、思い出した。
詩織が話しかけてきた時の、奈々美の目。
あれは、気のせいじゃないと思う。
(でも……今は大丈夫だ)
俺は自分に言い聞かせた。
奈々美は変わろうとしている。
嫉妬しても、ちゃんと対処できている。
それが、成長だと思おう。
でも――
心の奥の、小さな不安は、消えなかった。
「元樹!」
光明が俺に駆け寄ってきた。
「おう」
「今日の放課後、暇か?」
「委員会はないけど……」
「航も来るんだけど、ちょっと遊びに行かないか」
光明が言う。
「三人で」
「どこに?」
「ゲーセンとかどうだ? 駅前の」
「いいけど……」
俺は少し考える。
奈々美に、帰りに寄り道しようと言っていた。
「ちょっと待ってくれ、奈々美に確認してから」
「おう」
俺は奈々美のところに行った。
「奈々美」
「どうかした?」
「悪いんだけど、光明と航に誘われて……」
俺は正直に言った。
「男三人で、ゲーセン行かないかって」
「そうなんだ」
奈々美が少し考える。
「クレープ、また今度でもいい?」
「……いいよ」
奈々美が微笑む。
「男の子の時間も、大切だもの」
「ありがとう、奈々美」
「でも」
奈々美が付け加えた。
「ちゃんとラインしてね」
「わかった」
奈々美が頷く。
「楽しんできてね」
その笑顔は、穏やかだった。
俺は光明のところに戻った。
「大丈夫だって」
「よし!」
光明が拳を上げる。
その後ろから、佐々木航が近づいてきた。
「元樹、行けそうか?」
航が明るく言う。
「行けるよ」
「やったー! 楽しみだな」
航が笑う。
三人で、放課後の計画を立て始めた。
放課後。
俺と光明と航は、駅前に向かって歩いていた。
「いい天気だな」
光明が空を見上げる。
「桜、まだ少し残ってるな」
「散り始めてるよな」
俺も見上げる。
「散り際の桜もきれいだよな」
航が言う。
「そうだな」
「俺さ、桜が散ってる公園とか好きで」
航が続ける。
「花びらが積もってるやつ。アニメみたいじゃないか」
「わかる」
俺は笑った。
「元樹、アニメ好きなんだよな?」
「ああ、好きだよ」
「俺も好きなんだよ! 最近何見てる?」
「最近は……なんだろ、あんまり時間なくて……」
「恋愛で忙しいんだろ」
光明がにやりと言った。
「うるさい」
三人で笑いながら、駅前に到着した。
ゲームセンターは、駅前のビルの三階にある。
自動ドアが開くと、電子音の洪水が押し寄せた。
「うわ、久しぶりだな」
光明が言う。
「俺は最近よく来てる!」
航が嬉しそうに言う。
「何やる?」
「クレーンゲームから始めようか!」
航が先頭に立って歩き始めた。
俺と光明は、その後に続く。
航は目当てのものを見つけたらしく、足を止めた。
「これ!」
大きなクレーンゲームの前に立つ。
中には、アニメキャラのぬいぐるみが並んでいた。
「このキャラ好きなんだよ!」
「何のアニメだ?」
光明が覗き込む。
「ファンタジーの! 剣と魔法の!」
「俺、それ見てるよ」
俺は言った。
「え、本当か!」
「二期が特によかった」
「わかる!! 二期の最終話とか泣いた」
「俺も泣いた」
俺は笑った。
「二人で何の話してるの」
光明が少し置いてけぼりになった顔をする。
「光明は、アニメ見ないもんな」
「スポーツ漫画は読むんだけどな」
「じゃあ、俺と元樹が取って光明にプレゼントするよ」
「俺は別にいらないけど……」
航が笑いながらコインを入れた。
クレーンが動く。
一回目。
惜しくも外れた。
「くっ」
航が悔しそうにする。
「もう一回」
二回目。
クレーンが、ぬいぐるみの頭に引っかかった。
持ち上がる。
少し動いて……
落ちた。
「あっ!」
でも、ちょうど口の中に入った。
「やったーーー!!」
航が大喜びする。
ぬいぐるみを受け取って、嬉しそうに抱きしめた。
「元樹、取れたよ!」
「よかったな」
「一個取ったら調子乗れる気がしてきた!」
「はははは」
俺と光明は笑った。
その後、三人でメダルゲームや音楽ゲームを楽しんだ。
音楽ゲームでは、俺と航で対戦した。
「元樹、上手いな!!」
「たまにやるから」
「俺、ランキング入りしたことあるよ」
「マジで?」
「地方で十三位だけど!」
「十分すごいだろ」
光明が呆れた顔で言う。
「光明もやってみろよ」
「俺はいい……リズム感ないから」
「そんなことないと思うけどな!」
航が光明を引っ張る。
光明が渋々プレイする。
初級でも、かなりひどかった。
「……なんで簡単な方でもこうなるんだ」
「光明、運動神経はあるのにリズムはダメなんだな」
「うるせー」
三人で笑い合った。
時間が経つのを忘れるくらい、楽しかった。
夕方になって、ゲームセンターを出た。
「腹減ったな」
光明が言う。
「ファミレスでも行くか?」
航が提案する。
「そうしよう」
駅前のファミレスに入った。
席に座って、メニューを開く。
「俺、ハンバーグ」
俺は即決した。
「俺もそれにしよう」
光明が続く。
「俺はパスタにで」
航が言う。
「甘いものも頼もう」
「何にする?」
「パフェがいいな」
注文を終えて、三人で話し始めた。
「元樹って、一年の時どんな感じだったんだ?」
航が聞いた。
「一年の時?」
「なんか、波乱万丈だったって聞いてな」
「誰から聞いたんだ」
「光明から少しだけ」
俺は光明を見た。
「悪かった。詳しくは言ってない」
「ちょっとだけ教えてくれ」
航が身を乗り出す。
「まあ……色々あった、とだけ言っておく」
「モテる系か」
「そういう感じじゃないけど……」
「元樹は色々と複雑なんだよ」
光明が言う。
「複雑……」
航がしみじみと頷く。
「そういう感じに見えるな」
「見えるのか」
「なんか、考えてることが多そうというか」
航が言う。
「目が、いつも少し遠いから」
「……そうかな」
「俺、直感で人を見るタイプだから」
航が笑う。
「元樹は、すごく優しくて、すごく不安なんだろうなって」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「一週間で、そこまでわかるのか」
「わかる」
航が照れ笑いする。
「なんか、すまんな。余計なこと言って」
「いや……当たってると思う」
俺は苦笑した。
光明が俺を見た。
「元樹、最近どうなんだ。正直に」
「どうって……」
「奈々美のこと」
俺は少し間を置いた。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「……うまくやってる」
「そうか」
光明が頷く。
でも、その目は信じきっていないように見えた。
「光明」
俺は話を変えた。
「お前こそ、最近どうなんだ」
「何が」
「未菜と、うまくいってるか?」
一瞬、光明の顔が曇った。
「……なんで」
「なんかあった気がして」
「……」
光明は黙った。
航が俺と光明を交互に見た。
「俺、席を外した方がいいか?」
「いや、いてくれ」
光明が言った。
「お前にも聞いてほしい」
そう言って、光明は息を吐いた。
「実は……最近、未菜と連絡があんまり取れてなくて」
「え、なんで?」
「別に喧嘩したわけじゃないんだけど」
光明が続ける。
「未菜、なんか忙しいらしくて」
「友達と遊んでる系の忙しさ?」
「違くて……ちょっと落ち込んでる感じがして」
「落ち込んでる?」
「玲のこと、すごく心配してるんだと思う」
光明が言う。
「玲の記憶が戻らないことを」
俺は黙った。
「でも……俺に相談してくれなくて」
光明が続ける。
「心配事があるなら俺に言ってほしいんだけど、なんか遠慮してるみたいで」
「遠慮……」
「俺のことを心配させたくないのかもしれない」
光明が眉を寄せる。
「でも、それって逆に距離を感じるんだよな」
「心配かけたくなくて、一人で抱えてるってことか」
「たぶんそう」
光明が頷く。
「お前ならどうする、元樹」
俺は考えた。
「……直接、聞くしかないんじゃないか」
「聞いたんだよ。でも、大丈夫って言われた」
「大丈夫じゃないやつの大丈夫か」
「そう」
俺は知っている。
その感覚は、わかる。
「なんか、力になりたくても力になれない感じがして」
光明が言う。
「もどかしいんだよな」
「でもさ」
航が口を開いた。
「落ち込んでる時でも光明と一緒にいたくて、でも心配かけたくなくて、どうすればいいかわからないんじゃないか」
「……かもな」
「だとしたら、何も言わなくてもそばにいてあげるのが一番いいだろ」
「何も言わなくても?」
「無理に話させようとしないで、ただいる」
航が言う。
「それだけで、安心することってあると思うぞ」
光明は少しの間、黙っていた。
「……俺、未菜に何かしてあげようとしすぎてたかもしれないな」
「優しい人ほど、そうなりやすいと思う」
航が笑う。
「なんかお前、年齢より大人っぽいな」
光明が少し笑った。
「大人っぽく見られようとしてるだけだよ」
「はは」
三人で笑った。
「ありがとな、航」
「おう」
「俺も、ありがとう。聞いてくれて」
光明が俺を見る。
「当たり前だろ」
俺は答えた。
料理が来た。
ハンバーグの匂いが、テーブルに漂う。
「いただきます」
三人で食べ始めた。
「元樹、ハンバーグ好き?」
「好きだよ。母親の手料理で一番好きなのが、ハンバーグで」
「わかる! お母さんのハンバーグって特別だよな」
光明が言う。
「俺んちはカレーが得意料理で」
「うちはシチューだな」
航が言う。
「ホワイトシチューが好きで」
「それもいいな」
「元樹のお母さん、一人で育ててるんだよね」
「ああ」
「すごいな……」
「そうだな」
「仲いい?」
「まあ、普通に話すよ」
「いいな」
航が言う。
「俺の父親、ちょっと厳しくて、あんまり話せなくて」
「そうか」
「なんか、ゲームとか漫画とか好きだって言ったら、くだらないって言われそうで」
航が少し苦笑する。
「言ったら怒られるかな」
「言ってみたらいいんじゃないか」
俺は言った。
「俺も、母親には割と何でも話すけど……意外と受け入れてくれることも多いから」
「そうかな……」
「まあ、関係によるけど」
「一回、勇気出してみるか」
航が頷いた。
他愛もない話が続いた。
学校のこと。
好きなアニメのこと。
進路のこと。
たくさん話した。
久しぶりに、何も考えずに笑えた気がした。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
「そろそろ帰るか」
光明が時計を見て言う。
「だな」
航が頷く。
会計を済ませて、三人で外に出た。
「今日楽しかったな」
「また行こうか!」
航が言う。
「次は、何か一個目標作らないか? クレーンゲームで特定のやつを取るとか」
「面白そうだな」
「俺も参加する」
光明が笑う。
「じゃあ決定だな!」
駅で別れた。
俺は家への帰り道を歩いた。
夜の空気が、冷たくて気持ちいい。
頭が、少し晴れた気がした。
スマホを見ると、奈々美からラインが来ていた。
『楽しんでる?』
『ちゃんと返信してくれないと嫌だからね』
俺は返信した。
『帰るところ。楽しかった』
すぐに既読がついた。
『よかった。気をつけてね』
スタンプが来た。
可愛いスタンプ。
俺は少し笑った。
家までの道を、一人でゆっくり歩いた。
光明の話を、考えていた。
未菜さんのことを心配させたくなくて、一人で抱えている未菜さん。
そして、そばにいてあげるしかできない光明。
(俺も、誰かのそばにいてあげられているのかな)
玲のことを、考えた。
玲が記憶を失ったまま、一人で抱えているものがどれほど重いか。
俺には、想像しかできない。
(玲……)
家の灯りが見えてきた。
俺は足を速めた。
家に入ると、リビングの灯りがついていた。
「ただいま」
「おかえり!」
由美の声がした。
リビングに入ると、由美がソファでスマホをいじっていた。
「今日、遅かったね」
「光明たちと遊んでた」
「誰と?」
「光明と、新しい友達の航ってやつ」
「航くん?」
「クラスメイト」
「なんか、楽しそうだね」
由美が言う。
「久しぶりにちゃんと遊んだから」
「そうなんだ」
俺はソファに腰を下ろした。
「由美は今日、どうだった」
「朝練があって、ちょっと疲れた」
「部活、大変か」
「受験もあるし、なんかバランス取るのが大変で」
由美が言う。
「でも、続けたい」
「そうか」
「お兄ちゃんは、高校どう?」
由美が俺を見る。
「まあまあかな」
「まあまあって、なんか歯切れ悪い」
由美がずばりと言う。
「直接だな」
「だって、心配じゃん」
由美が続ける。
「お兄ちゃん、一年の時いっぱいいっぱいだったから」
「……そうだったな」
「今は、もう大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
「奈々美さんとは?」
俺は少し間を置いた。
「うまくいってる」
「本当に?」
「うん」
「なんか、煮え切らない感じがするけど」
由美が首を傾げる。
「奈々美さん、また変な感じになってない?」
「変な感じって何だよ」
「一年の時みたいな、ぴったりくっついてる感じ」
俺は答えなかった。
「……元樹お兄ちゃん」
由美が少し声を低くした。
「何?」
「あのさ、正直に言うと……私、ちょっと後悔してるんだ」
「後悔?」
「奈々美さんにいろいろ教えてたこと」
由美が言う。
「一年の時、お兄ちゃんのこと教えてたじゃん。好きな食べ物とか、趣味とか」
「……ああ」
「そのせいで、お兄ちゃんが苦しんだのかなって思うと」
由美が膝を抱える。
「それは由美のせいじゃないよ」
「でも……」
「由美は、善意でやってたんだろ」
「そうだけど」
「だったら、責める必要はないよ」
由美が少し顔を上げる。
「お兄ちゃん、優しいな」
「別に」
「でもさ」
由美が続ける。
「今も、奈々美さんに対して我慢してること、あるんじゃないの」
「……」
「お兄ちゃんって、我慢する人だから」
「そんなことはないよ」
「あるでしょ」
由美が直球を投げてくる。
「今日、光明くんとちゃんと遊べたのも、奈々美さんが許可したからじゃないの?」
「許可って言い方は……」
「でも、そういうことでしょ?」
俺は答えられなかった。
「お兄ちゃんが幸せなら、私は何も言わない」
由美が言う。
「でも、お兄ちゃんが一人で全部抱えてたら……私、悲しい」
「……由美」
「言いたいことあったら、言っていいからね」
由美が俺を見た。
「お母さんにも、私にも」
「そっか……ありがとう」
「どういたしまして」
由美が立ち上がる。
「私、勉強してくるね」
「受験頑張れよ」
「頑張ります! 志望校、決まったから」
「どこ?」
「黒峠高校!」
「俺と同じ学校か」
「そう! お兄ちゃんがいる学校の方が、なんか安心だから」
由美が笑う。
「頑張れよ」
「うん!」
由美が部屋に消えた。
俺は一人、リビングに残った。
テレビをつけていないから、静かだ。
由美の言葉が、頭の中で繰り返されていた。
(我慢してること、あるんじゃないの)
正直に言えば――
あると思う。
奈々美への不安。
詩織が話しかけた時の、あの目。
あかりへの、見えない圧力。
全部、気のせいだと思いたい。
奈々美は変わったんだと、信じたい。
でも――
(俺は……どうすればいいんだろう)
答えは、出ない。
ただ、一つだけわかることがある。
奈々美のことが、好きだということ。
それは、変わらない。
だから――
もう少し、信じてみようと思った。
もう少しだけ。
スマホを取り出した。
奈々美にラインを送る。
『ただいま。今日、楽しかった』
すぐに既読がついた。
『よかった! おかえり、元樹くん』
ハートのスタンプが来た。
俺は少し笑った。
スマホを置いて、天井を見上げる。
明日も、学校がある。
奈々美がいて、光明がいて、航がいて。
詩織という新しいクラスメイトも、いる。
玲は、別のクラスだけど。
あかりは、どこかで一人でいるかもしれないけど。
全部が複雑で、全部がまだ解決していなくて。
でも――
前に進むしかない。
「頑張るか……」
小さく呟いた。
夜の静寂の中で。
春の夜が、静かに更けていった。
同じ夜。
奈々美は部屋の窓から、外を眺めていた。
夜空に、星が見えた。
スマホを手に持っている。
元樹からのライン。
『ただいま。今日、楽しかった』
奈々美は、その文字を見つめた。
楽しかった。
光明と、あの航という子と。
三人で、笑っていたのだろう。
(男の子同士で、楽しそうに)
奈々美は息を吐く。
嫉妬ではない。
それは、わかっている。
光明は、元樹の親友だ。
航は、新しいクラスメイト。
脅威ではない。
でも――
奈々美は、ふと思う。
自分は今、元樹と一緒にいる時間を、どれほど持っているだろうか。
毎朝、待っている。
放課後、一緒に帰る。
ラインを確認する。
それが、今の自分の行動だ。
(変わった、って言った。信じてくれてる)
奈々美は、窓に手を当てた。
冷たいガラスの感触。
(でも……やっぱり、不安になる)
あかりの顔が浮かぶ。
今日の放課後、教室で話した。
ちゃんと、伝えた。
あの子は、怯えていた。
怯えさせたかったわけじゃない。
ただ、わかってほしかっただけ。
元樹は自分のものだと。
誰にも渡さないと。
(それは……変わっていない)
奈々美は、自分の心を見つめた。
元樹を信じたいと思っている。
束縛じゃなく、信頼で繋がりたいと思っている。
でも――
怖いのだ。
離れていくことが。
誰かに奪われることが。
七年間、一人で待ち続けた時間の重さが。
今も、奈々美の中に残っている。
「元樹くん……」
小さく呟く。
夜空の星が、瞬いている。
「どうかずっと、私のそばにいて」
その言葉は、誰にも届かない。
ただ、夜の空気に溶けていくだけ。
でも――
奈々美は、明日も笑顔でいるつもりだった。
元樹のために。
変わろうとしている自分を、信じてほしいから。
窓の外で、風が吹いた。
桜の花びらが、夜の空に舞い上がった。
散りながら、でも美しく。
奈々美は、その花びらを目で追った。
そして――
静かに目を閉じた。
春の夜は、まだ少し、冷たかった。
翌朝。
学校へ向かう道で、俺は奈々美と並んで歩いていた。
「今日、天気いいね」
「そうだな」
「桜、そろそろ終わりかな」
奈々美が空を見上げる。
「もったいないな……」
「また来年、咲くよ」
「そうだけど」
奈々美が少し笑う。
「来年も、一緒に見よう」
「ああ」
俺は頷いた。
「約束だよ」
「約束だ」
奈々美が俺の腕を掴んだ。
そのまま、二人で歩く。
朝の通学路。
春の空気の中で。
今は、ただ穏やかだった。
(このままでいられたら……)
俺は思った。
この平穏が、続けばいい。
ただそれだけを、願いながら。
二人で、学校への坂道を登った。
青い空が、広がっていた。
遠くで、鳥が鳴いている。
新しい一日が、始まっていた。
春は、好きな季節だった。
子供の頃も、今も。
でも、春は終わる。
必ず、終わる。
だから、その瞬間瞬間を、大切にしなければならない。
私は今、元樹くんの隣にいる。
それだけで、十分なはずだ。
十分なはずなのに――
心が、揺れる。
いつか、また、元樹くんが離れていくような気がして。
あかりのような子が現れて。
詩織さんみたいな子が、元樹くんに近づいて。
不安が、消えない。
変わらなければ、と思っている。
本当に、そう思っている。
でも――
変わることって、こんなに難しいのかと、思う。
頭でわかっていても、心がついてこない。
元樹くんを信じたい。
でも、信じきれない自分がいる。
矛盾している、とわかっている。
でも、止められない。
ただ――
一つだけ、確かなことがある。
元樹くんのことが、好きだということ。
それだけは、何があっても変わらない。
だから、私はもう少しだけ、頑張ってみる。
笑顔で、穏やかに。
信じる方向へ、少しずつ。
春の風が、窓から吹いてくる。
桜の匂いが、部屋に満ちた。
明日も、元樹くんの隣に立っていよう。
それだけを、願いながら。
奈々美




