第42話 「約束の形」
朝、目が覚めた時、昨日の夜に決めたことがまだ頭の中に残っていた。
あかりに会いに行く。
それだけだった。それだけを持って起きた。
カーテンの隙間から、夏の朝の光が細く入ってきた。時計を見ると、六時五十分だった。いつもより早かった。眠れていたような気はするが、深く眠れていたかというと、そうでもない。意識の浅いところで何かをずっと考えていたような、そういう夜だった。
布団の上に座って、スマホを見た。
あかりから返信が来ていた。
……はい。いつでも
「午前中に商店街で」と返してあった。あかりの返信は「わかりました」の一言だけだった。
俺はスマホを置いて、顎に手を当てた。
今日、あかりに言う言葉を、昨夜から何度も頭の中で考えていた。でも、うまく文章にならなかった。「応えられない」という言葉は出てくる。でも、その前に何を言うか。その後に何を言うか。あかりが傷ついた顔をしたら、俺はどうするか。
考えれば考えるほど、頭が重くなった。
窓を開けた。夏の朝の空気が入ってきた。少し湿っていたが、昨日ほどじゃなかった。空は白く晴れていた。近所の木が風にわずかに揺れている。遠くで鳥が鳴いた。
今日やることを、一つだけ考えた。
それでいい、と思った。全部を今日終わらせようとしなくていい。今日できることを、今日やる。
俺は立ち上がって、顔を洗いに洗面台へ向かった。
母親がすでに台所にいた。「早いね」と言われた。「まあ」と答えた。それだけで会話が終わった。
トーストを食べながら、外を見ていた。朝の通りは静かだった。夏休みで学校がないから、登校する人間もいない。たまに自転車が通り過ぎる程度だった。
七時を過ぎた頃、由美が台所に入ってきた。寝ぐせがついたまま、目をこすっていた。
「お兄ちゃん、また早起き?」
「まあ」
「どこか行くの?」
「ちょっと」
「ちょっとって何」
「ちょっとだよ」
由美がトーストを焼きながら、俺をじろじろと見た。
「……なんか顔色悪い」
「そうか」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない顔してる」
由美が断言した。
俺は苦笑いした。
「由美は医者になれるんじゃないか」
「なれないけど、お兄ちゃんのことはわかるから」
由美がトーストを取り出しながら、さらっと言った。その言い方に、からかう気配がなかった。本当にそう思っているらしかった。
「心配しなくていいよ」
「……じゃあ、頑張って」
「ありがとう」
由美が「玲さんとちゃんと話してるといいね」と呟いた。俺は少し驚いて由美を見たが、由美はトーストにバターを塗ることに集中していた。
妹は、思ったより色々と気づいているらしい。
俺はコップを流しに戻して、部屋に引っ込んだ。
待ち合わせの時間は九時だった。
商店街の入口に近い自動販売機の前。去年の夏、奈々美と歩いた場所の近くだった。あの時も夏で、暑くて、俺はいろんなことを整理できないままここを歩いていた。
今年は。
整理できているかというと、まだそうじゃない部分もある。でも、今日から整理を始めようとしていた。それだけは去年と違った。
自動販売機の前に立って、少し待った。
三分ほどで、あかりが来た。
白いシャツ。薄い色のスカート。鞄を両手で持って、少し早歩きで来ていた。俺に気づいて、足がわずかに止まった。それからまた歩いてきた。
「……おはようございます」
「おはよう」
あかりの顔色は、あまり良くなかった。昨夜はよく眠れなかったんだろうと思った。
「暑くなる前に歩こうか」
「はい」
二人で商店街の中を歩いた。まだ朝早い時間で、シャッターが開いていない店が多かった。パン屋だけが開いていて、焼きたての匂いが漂っていた。
俺は少し歩きながら、言葉を探した。昨夜考えた順番が、頭の中にある。でも、声に出すとどう聞こえるか、まだわからなかった。
「本屋で話した時のこと、覚えてるか」
俺が先に言った。
「……はい」
「本の話をした。梶井基次郎の話。俺のライトノベルの話。あかりが話している時、どんどん前のめりになっていた」
あかりが少し俯いた。
「……自分でも気づいてました」
「本のこと話している時間が、好きだった。本の話ができる相手が、あまり周りにいないから」
「……私も、そうです」
あかりの声が少し小さくなった。
俺はそこで一度止まった。
あかりが歩を緩めた。
「知ってたんだ。あかりが俺のことを気にしていたこと。廊下で待っていたこと。帰り道でついてきたこと」
「……知ってたんですね」
「そうか、と思った。それ以上でも以下でもない」
あかりが静かに歩いた。
「あかりの気持ちには、応えられない」
言った。
あかりの足が、一瞬だけ止まりかけた。でも止まらなかった。そのまま歩いた。
「……わかってました」
「そうか」
「わかってて、でも止められなくて。自分でもよくわからなくなって」
「俺が悪かった。ごめん」
あかりが少し止まった。
「謝らなくていいです。ただ私が好きになっちゃっただけですから」
「泣きたいとか、怒りたいとか、そういうのはないんです」
あかりが少し息を吸った。
「だから、今日先輩から連絡来た時も、何となく今日だと思いました」
「そうか」
商店街の外れまで来た。突き当たりに、小さな広場があった。ベンチが一つある。子供が遊ぶような場所ではないが、誰かが時々座っている場所だった。
俺はそのベンチに目を向けた。
「少し座るか」
「……はい」
二人でベンチに腰を下ろした。
朝の空は高かった。白い雲が、ゆっくりと動いていた。
「一つだけ聞いていいか」
俺が言った。
「はい」
「本の話は、続けていいか」
あかりが少し固まった。
「本の話を……するんですか?」
「あかりと話すと、俺の言葉が出てきやすかった。それが本当のことだから、言う。応えられない気持ちとは別に、あかりと話したいという気持ちがある。ただ、あかりの状況があるから、無理にとは言わない」
あかりはしばらく黙っていた。
広場の向こうで、誰かが自転車で通り過ぎた。夏の朝の光が、アスファルトに白く反射していた。
「……はい」
あかりが言った。
「本の話なら、続けられると思います」
「それでいいか」
「……はい」
声は小さかった。でも、確かに聞こえた。
「ありがとう」
「……こちらこそ」
あかりが少し顔を前に向けた。目が少し赤かった。泣いていたわけではないと思う。ただ、何かを堪えているような顔だった。
「先輩が好きな本を、読んでみます」
あかりが言った。
「どれを読む」
「先輩のオススメを。気になって」
「一緒に読んで感想を言い合おう」
「……そういう感じでいいんですか」
「そういう感じでいい」
あかりが少し、頬が動いた。笑顔とは言えないが、笑顔に向かう何かが動いた。
「じゃあ、読んでおきます」
「うん」
俺たちはしばらく、並んでベンチに座っていた。
何も話さなかった。でも、沈黙が重くなかった。夏の朝の空気が、二人の間を通り抜けていた。
あかりが立ち上がったのは、それから五分ほど後だった。
「帰ります」
「ああ」
「……今日、来てくれてよかったです」
「俺も」
あかりが小さく頭を下げた。それから、商店街の方へ歩いていった。
俺はベンチに座ったまま、その背中が角を曲がって消えるまで見ていた。
空が、高かった。
午後になった。
昼を家で食べてから、俺は玲にメッセージを送った。
今日、時間はあるか
しばらくして返信が来た。
あるよ。どこかで会う?
俺は少し考えた。どこがいいか。
公園でいい? 駅前の小さいやつ
わかった。何時?
十五時で頼むよ
俺はスマホをしまった。
時計を見ると、十三時半だった。まだ時間がある。
部屋に戻って、ベッドの上に仰向けになった。天井を見た。
玲と話す。文化祭が終わったら話す、と言っていた約束だった。あれからずっと、タイミングを見計らって、先延ばしにしてきた。夏休みに入ってから、玲の方から「急いでないよ」と言ってくれていた。でも急いでいないのと、しなくていいのは違う。
今日のあかりとの話が、何かを後押しした気がした。
あかりに「応えられない」と言えた。言いたいことを、ちゃんと言えた。言うことで誰かを傷つけるかもしれないと恐れていたが、言わないでいる方が、もっと傷つけることがある。光明がずっとそう言っていた。
玲は傷ついている。でも、傷ついたまま止まっている人間を、俺が「傷つけたくない」という理由で保留にし続けることは、良いことじゃない。
俺は目を閉じた。
今日言うことを、頭の中で一度だけ整理した。
奈々美を選ぶ。
それだけだった。
駅前の公園は、小さかった。
砂場と、小さな滑り台と、ベンチが二つある。子供が使う公園だったが、夏の昼間は誰もいなかった。暑すぎて、外に出る子供がいないのだと思う。
俺が着いた時、玲はすでにいた。
ベンチに座って、鞄を膝に置いて、空を見上げていた。
俺が近づくと、気づいて顔を向けた。
「来た」
「ああ」
俺もベンチに座った。玲と俺の間に、少し間があいた。
二人でしばらく、公園の中を見ていた。砂場の砂が、夏の光にきらきらしていた。滑り台の金属の部分が、熱そうに光っていた。
玲が先に口を開いた。
「もう答えは聞かなくていい」
俺は玲を見た。
「でも、一つだけ言わせて」
玲が少し息を吸った。
「ゴールデンウィークの海で、砂の城を作ったじゃん」
「……ああ」
「あの時、私が言ったことを覚えてる?」
「「どれだけ作っても波が来たら終わる。それでも作った」」
玲が少し笑った。
「覚えてたのか」
「頭から離れなかった」
「そうか」
玲が遠くを見た。公園の向こうの道を、自転車が通り過ぎていった。
「あの時、なんでそんなこと言ったのか、私もよくわかってなかった。あの砂の城を見てたら、出てきた言葉だった。でも今は、少しわかる気がする」
「どういう意味だったんだ」
「砂の城って、作り終えた瞬間から壊れていくじゃん。完璧に作っても、波が来たら終わる。でも、それがわかっていても、作った。みんなで。笑いながら」
「うん」
「私が元樹を好きになったのも、そういうことだったのかもしれない。壊れるかもしれないとわかっていても、その気持ちを持っていた。告白した時も、振られた時も、穂香のこともあって、全部含めて……作り続けていた、みたいな感じ」
俺は何も言えなかった。
「元樹に告白したこと、後悔してない。振られたことも、後悔じゃない。ただ……その後に穂香のことがあって、記憶がなくなって、また全部思い出して、ようやく今ここにいる」
「玲」
「波が来た、って感じがした。あの記憶の中にいる時は。全部が流されたみたいで。でも、流された後にもまだここにいて、元樹がいて、未菜がいて、エマもいる。それだけでいい気がしてる、今は」
玲が俺を見た。
「幼馴染のままでいさせて」
その言葉は、静かだった。
「それだけでいい。「幸せになれよ」とか、「元樹の選択を応援する」とか、そういう綺麗なことは言えない。まだそこまで達してないから」
「……ありがとう」
俺が言った。
「正直に言ってくれて」
「元樹に嘘はつけないから」
玲が少し下を向いた。砂場の砂を、ぼんやりと見ていた。
「一つだけ言う」
俺が言った。
玲が顔を上げた。
「奈々美を選ぶ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
これだけのことを、ずっと言えないでいた。奈々美に正直に話せなかった期間も、玲との関係が宙ぶらりんになっていた期間も、全部「言えなかった」から続いていた。
でも言えた。
「……そっか、わかっててもやっぱり辛いね」
玲が涙を浮かべながら一言だけ言った。
怒っていなかった。悲しそうでもなかった。ただ、受け取った、という顔だった。
「奈々美のことが、わからないことがまだある。でも、それでも。俺が選ぶのは奈々美だ」
「うん」
「それを玲にも言いたかった」
「……聞かせてくれてよかった」
玲が立ち上がった。
鞄を肩にかけて、俺の方を見た。
その目の奥に、何があるのかは読めなかった。でも、読もうとすることを、俺はやめた。玲が見せる分だけ、受け取ればいい。
「じゃあね」
それだけ言って、玲は歩き始めた。
「幸せになれよ」とも言わなかった。「頑張って」とも言わなかった。「また話そう」とも言わなかった。
ただ、「じゃあね」と言って、歩いていった。
俺はベンチに座ったまま、玲の背中が公園の出口を出るまで見ていた。
出口を曲がって、玲の姿が消えた。
公園に俺一人が残った。
砂場の砂が、風に少し動いた。
どれだけ作っても波が来たら終わる。それでも作った。
玲の言葉が、またぐるりと頭の中を回った。
俺は少しの間、そのまま座っていた。
空が、夏の高さで続いていた。
玲と別れた後、俺はすぐには帰らなかった。
公園を出て、住宅街の方を少し歩いた。特に目的地があるわけじゃなかった。ただ、少し歩かないと頭が落ち着かない気がした。
奈々美に連絡するタイミングを、考えていた。
今日、このまま会いに行くか。それとも、明日にするか。
でも、明日にする理由はなかった。今日やれることは今日やる。それだけだった。
スマホを出した。
今から会えるか。黒峠にいる?
しばらくして返ってきた。
いる。どこで?
俺は少し考えた。夕日が見える場所がいい、と思った。今日はどこかで夕日の下で話したかった。理由は特にない。でも、そういう気がした。
三田橋のたもと、わかるか
わかる。何時ごろ?
今から三十分後で
わかった
三田橋は、黒峠の南側を流れる川にかかった橋だった。橋のたもとに、少し開けた場所がある。川沿いに小さな遊歩道があって、夕方にたまに散歩している人がいる程度の、人の少ない場所だった。去年の夏、一度だけ光明と三人でそこを通ったことがある。西に向いているから、夕日が正面から見えた。
俺は三田橋に向かって歩いた。
三田橋に着いた時、奈々美はすでにそこにいた。
橋のたもとの、川沿いの柵のそばに立っていた。俺に気づいて、少し振り返った。
「来た」
「ああ。待ったか」
「ちょっとだけ」
奈々美はいつもの格好だった。夏らしい薄い色のシャツと、スカート。鞄にエイのぬいぐるみがついていた。
二人で川沿いの遊歩道を少し歩いた。風があった。川の向こうに、夕日が傾き始めていた。まだ完全な夕暮れじゃないが、光が斜めになっていた。
「急に呼んで悪かった」
「大丈夫。来たかったから」
奈々美がさらっと言った。
俺は少しの間、川を見ていた。夏の川は水嵩が多く、緑色に濁っていた。上流で雨があったんだろうと思った。
「今日、玲と話してきた」
俺が言った。
奈々美が一拍、止まった。歩き続けていたが、ほんのわずかに足が重くなった気がした。
「……そっか」
奈々美の声は穏やかだった。でも、穏やかさの奥に何かを堪えているような感触があった。
「俺が奈々美を選ぶと、玲とあかりに言ってきた」
奈々美が止まった。
今度は、はっきりと止まった。
俺も足を止めた。
川沿いの遊歩道の、人がいない部分に二人で立っていた。川の音が聞こえた。遠くで鳥が鳴いた。
奈々美は俺を見ていた。何かを確認するような目だった。
「……なんで、今日」
「奈々美が不安がっているのが伝わってきた。メッセージのやり取りを通じて。だから、今日やろうと思った」
奈々美の表情が、わずかに動いた。
「わかってたの?」
「メッセージを読んでいて、そう感じた」
「……全部、見えてる」
「全部は見えない。でも、何かは見える」
奈々美がまた歩き始めた。俺もそれに合わせた。
しばらく、黙って歩いた。川沿いの道が続いていた。草が生えている部分もあって、夏の草の匂いがした。
俺は少し間を置いた。
川の音が、続いていた。
「一つだけ言っていいか」
「……うん」
「俺は奈々美を選ぶ。でも、奈々美が止まれない夜が続くなら、俺一人じゃなくて、他の人にも頼ってくれ」
奈々美が俺を見た。
「もっと交友関係をもう少し広げてほしい。玲でも、光明でも。俺だけが出口になるのは、俺一人には重いし、奈々美にとっても良くないと思う」
奈々美がしばらく黙った。
川沿いの柵に、少し手を置いた。川の方を見た。
「……上野さんには頼れない気がする」
「なんで」
「あの人は元樹くんのことが好きで、元樹くんに振られた人でしょ。私が元樹くんの彼女なのに、玲に頼るのは……違う気がする」
「玲がどう思うかは、俺にはわからない。でも、玲はそういう人間じゃないと思う」
「そう言えるの?」
「確信はないけど、そう思ってる」
奈々美が川を見続けていた。
夕日がさらに傾いた。川の水面が、オレンジに染まり始めていた。
「私……元樹くんじゃなきゃダメなの」
小さな声だった。
「わかってる。俺も、そう言われるとわかっていた」
「でも、それが困ることなの?」
「困るというか……俺一人が奈々美の全てになると、どこかで俺が揺れた時に、奈々美も揺れる。それが続くと思うから」
「……それ、私が思ったことと同じだわ」
「どういうことだ」
「元樹くんが揺れているから、私も揺れるって、昨夜思った。元樹くんが揺れていなければ、私も怖くならないって」
「そうか」
「お互いが支え合えればいいって言いたいの?」
「それが理想だけど、簡単じゃない。だから、俺たちだけじゃなくて、他の人を入れた方がいいと思う」
奈々美がまた黙った。
「知ってる。でも、知ってても言う」
俺が言った。これはさっきあかりに言った言葉と同じだった。自分でも気づいた。
奈々美が少し笑った。複雑な笑い方だった。
「元樹くん、最近変わった」
「どう変わった」
「ちゃんと言うようになった。怖いことでも」
「そうか」
「怖くないの?」
「怖い。でも、言わない方がもっと怖い」
奈々美が川の方を向いた。
夕日がさらに赤くなっていた。川面がオレンジから赤に変わっていく。雲が少し薄く広がって、その端が金色だった。
「……わかった」
奈々美が言った。
「全部わかったわけじゃない。でも、今日のところは、わかった」
「それでいい」
「今日、あかりさんとも会ったんでしょ?」
「……ああ」
「何を話したの」
「応えられないと言った」
奈々美が少し間を置いた。
「……そっか」
「あかりとは、本の話をする友達として続けることにした」
「友達として」
「うん」
奈々美がまた黙った。何かを考えているような顔だった。
二人で並んで、川を見ていた。
夕日が、西の山の向こうに落ち始めていた。空が赤くなって、川の水面がその色を受けて輝いていた。
奈々美がほんの少し、俺の方に近づいた。肩と肩が触れるかどうかの距離。
「元樹くん」
「うん」
「私を選ぶって言った。上野さんにも言ってきたって」
「ああ」
「それを言ったとき……どんな気持ちだったの?」
俺は少し考えた。
「怖かった。でも、言い終わった後、少し楽になった気がした。ずっと言えないでいたものを、言えた気がして」
「そっか」
奈々美が少し笑った。
「元樹くんらしい」
「そうか」
その言い方が、何を意味するのか、完全にはわからなかった。でも、悪い意味じゃないのはわかった。
川に、最後の夕日が映っていた。
空の端が赤から紫に変わり始めていた。
夏の夕暮れは長い。まだしばらく、この色が続く。
俺は奈々美の横に立って、その川を見ていた。
夜。
窓を少し開けた。
夜の空気が部屋に入ってきた。黒峠の夏の夜は、ある程度涼しくなるが、湿気がまとわりついてくる。それでも、昼間の熱がまだ地面に残っていて、風が当たると少しだけ楽になった。
俺はベッドに腰を下ろして、スマホを確認した。
奈々美からのメッセージが一件来ていた。
今日は話せてスッキリした、ありがとう。
それだけだった。
俺は少し息を吐いた。
よかった。
返した。
すぐに既読がついた。返信は来なかった。
それでよかった。
俺はスマホを置いて、天井を見た。
今日一日のことを、順番に思い返した。あかりとのベンチでの会話。玲の「じゃあね」という声。三田橋での奈々美との夕日。
全部が、今日一日に起きたことだった。
言えなかったことが、少し言えた。
宙ぶらりんだったものが、少しだけ形になった。
でも、全部が終わったわけじゃない。奈々美との関係は、これで完成したわけでも解決したわけでもない。また怖くなる夜が来るかもしれない。止まれない夜が来るかもしれない。それでも、今日のことは今日起きた。それは変わらない。
窓から、虫の声が聞こえた。
夏の夜の虫の声は、黒峠の夏の定番だった。この声を聞くと、小さい頃の夏を思い出す。母親が縁側で団扇を使っていた夏。由美がまだ幼くて、虫の声が怖いと言っていた夏。
桜ヶ丘の夏も、思い出した。あそこも虫の声があった。奈々美が窓を開けて、桜ヶ丘の夜の空気を吸っていたかもしれない。
俺は目を閉じた。
奈々美の部屋は、暗かった。
電気を消して、窓を少し開けて、外の光だけが薄く差し込んでいた。夜の黒峠の光が、雲に反射して、部屋の中に微かな橙色を作っていた。
ベッドに横になって、天井を見ていた。
今夜は、止まれている。
スマホを手に取ってから、また置いた。確認したいという気持ちが一瞬浮かんだが、今夜はそこで止まれた。
三田橋での元樹の顔を思い出していた。
「俺は奈々美を選ぶ」と言った。
玲にも言ってきた、と言った。
その言葉を、奈々美はまだ完全には受け取れていなかった。嬉しいのかどうかも、まだはっきりしない。七年間追い求めていた言葉のはずなのに、いざ聞いてみると、思っていたのとは違う感触があった。
思っていたより、軽かった。
軽いというのは悪い意味じゃない。もっと重くなるかと思っていた。でも実際に聞いてみると、それはただの言葉だった。言葉は言葉だった。
それより重かったのは、元樹が今日来てくれたこと、だった。
あかりに会いに行って、玲に言いに行って、その後に奈々美のところに来た。来るという選択をして、来た。
その行動の方が、「選ぶ」という言葉より重かった。
(約束のことを、思っていた)
あの公園で、元樹くんが言ってくれた言葉。「ずっと一緒にいる」。
奈々美は八歳の時から、その言葉を文字通りに信じていた。ずっと一緒にいる、というのは、常に隣にいるということだと思っていた。だから追いかけた。だから確認した。だから、離れることが怖かった。
でも。
今日の元樹を見ていると、そうじゃないのかもしれない、という気がした。
ずっと一緒にいる、というのは、距離のことじゃないのかもしれない。場所のことじゃないのかもしれない。
あかりのところに行って、玲のところに行って、それでも奈々美のところに来た。その「それでも来た」という事実が、ずっと一緒にいる、の別の形なのかもしれない。
その考え方が正しいかどうか、奈々美にはわからなかった。
でも今夜は、その考え方が少しだけ、楽に感じた。
まだそれだけかもしれない。でも、それだけが今夜の奈々美には十分だった。
窓から風が入ってきた。
虫の声が続いていた。
奈々美は目を閉じた。
「ずっと一緒にいる」という言葉の意味を、私はずっと間違えていたのかもしれない。
でも、間違えていたとしても、消えないものがある。
元樹が来てくれた、という事実。
怖かったんだなと言ってくれた声。
そして今夜、「選ぶ」と言ってくれた言葉。
それを、約束の別の形と呼んでいいのか、まだわからない。
でも。
確かに、私たちの関係は続いている。
それは目に見えないけど私たちの確かな愛の形だった……
エピローグ
カフェの窓際の席で、奈々美はコーヒーカップを両手で包んでいた。
あれから七年、夏。
今の奈々美の目に映る世界は、あの頃とはずいぶん違って見えた。
窓の外を、人が行き交っている。黒峠の商店街は、七年前より少し人が増えた気がした。それとも自分の見方が変わっただけかもしれない。あの頃は、商店街の人たちを見ながらも、どこかで遠くにいる感覚があった。今は、同じ道を歩いている感じがする。
コーヒーを一口飲んだ。
苦かった。でも、この苦さが今は好きだった。高校生の頃は苦いものが苦手で、砂糖を入れないと飲めなかった。いつ頃から飲めるようになったか、はっきりとは覚えていない。気づいたら、ブラックの方が落ち着く自分になっていた。
テーブルの上に、スマホを置いていた。画面には時刻が出ていた。
待ち合わせまで、あと十分くらいある。
奈々美は窓の外を見ながら、いつものように、昔のことを少し考えていた。
昔のこと、と言っても、遠い遠い昔の話ではない。高校生の頃の話だ。あの夏から、七年しか経っていない。でも、あの頃と今では、自分の中の何かが、根本から変わった気がした。
何が変わったのか。
うまく言葉にするのは難しかった。でも、一つだけ言えることがあるとすれば、「誰かを信じることが、すこしずつ怖くなくなった」ということかもしれない。
あの頃の奈々美には、信じることが怖かった。信じたら失う、という経験を何度も重ねてきたから。両親を失った。施設を転々とした。慣れた頃に引き離された。だから信じる前に全部把握しようとした。それが束縛になり、監視になり、あんなことになった。
あの頃を思い出す。「信じる練習をする」という言葉を、最初は半信半疑だった。練習で信じることができるようになるのか、と思っていた。でも、練習しかなかった。一回できた、また一回できた、また止まれなかった、でもまた一回できた——そういうことを積み重ねて、今の自分がいる。
止まれない夜は、今でも来る。
完全に消えたわけじゃない。
でも、来る頻度が減った。来ても、以前より早く止まれるようになった。
それが「変わった」ということなのか、今でもわからない。でも少なくとも、あの頃より今の方が、呼吸がしやすい。
奈々美はコーヒーカップを置いた。
元樹と付き合って、七年が経つ。高校二年生の夏から、今まで。途中で別れそうになったことも、何度かあった。正確には、別れそうになった、というより、奈々美が壊しかけた、というべきだろう。
大学一年生の冬、奈々美はまた「止まれない」を繰り返した。元樹が大学の友人と出かけた日、その行き先を確認しようとして、止まれなかった。元樹にまた正直に話した。その頃には、「正直に話す」ということが、まだ完全じゃないながらも、身についていた。
元樹が「わかった、また話そう」と言ってくれた。
「また話そう」と言い続けてくれた元樹が、今もそこにいる。
それが奈々美には、一番大きかった。
言い訳をしても、失敗しても、止まれなくても、元樹は「また話そう」と言った。怒らなかったわけじゃない。傷ついた顔をしていた夜もあった。でも、離れなかった。
(来年も来る)
高校二年生の夏、桜ヶ丘で元樹が言った言葉。
あの言葉が、七年後の今も続いている。言葉のとおり、元樹は来年も桜ヶ丘に来た。その次の年も。大学生になってからは、お互い忙しくなって、毎年は難しくなったが、それでも夏に一度は桜ヶ丘を歩いた。
高橋さんの花屋は、今も続いている。奈々美が行くと「大きくなって」と言われる。毎年言われる。毎年同じことを言ってくれる人がいることが、奈々美は好きだった。
外がにぎやかになっていた気がして、奈々美は窓の方を見た。
商店街の方から、声が聞こえた。
女性の声だった。聞き覚えのある声だった。
奈々美はカフェのドアの方を見た。
ドアが開いた。
玲が入ってきた。
ショートカットは変わっていなかった。以前より少し髪が長くなったが、それでもショートで、ボーイッシュな雰囲気はそのままだった。Tシャツにジーンズという格好で、リュックを片方だけ肩にかけていた。奈々美を見つけると、手を上げた。
「ごめん、遅くなった」
「そんなに待ってないわ」
「商店街でパン屋が気になって、ちょっと止まった。帰りに寄ろう」
「そうしましょう」
玲が向かいに腰を下ろした。店員が来たので、玲はアイスコーヒーを注文した。
「今日も暑いね」
「ほんとに。黒峠の夏は変わらないわね」
「七月からこんな感じだもん」
玲がリュックを椅子の横に置いた。顔がすこし赤い。外を歩いてきたからだろう。
「奈々美ちゃんは仕事、今日は早上がりだったっけ」
「うん。在宅作業の日だったから、午前には終わったわ」
「いいな。私のとこは今月ずっとバタバタで」
玲は今、黒峠から電車で三十分ほどの町にある福祉施設で働いていた。元々スポーツが好きだったが、大学で福祉を専攻してから、子供や高齢者と関わる仕事に就いていた。体を動かしながら人と関わる仕事が向いていると言っていた。
奈々美は翻訳の仕事をしていた。大学で英語と文学を専攻して、卒業後はフリーランスで英日の翻訳を引き受けるようになった。在宅で一人で作業することが多かったが、それが性に合っていた。
「今月、忙しいの?」
「夏休みの時期って子供が多くなるから、それに合わせて行事が増えて……でも嫌いじゃないよ、忙しいのは」
「玲ちゃんはそういうの向いてるよね」
「そう?」
「昔から体動かしてるの好きだったし、面倒見も良かった。由美ちゃんがいつも玲さんって呼んでた」
玲が少し笑った。
「懐かしい。由美、元気にしてるの」
「うん。バレーで今も頑張ってる。社会人になってからもクラブチームに入ってて」
「さすがだな。あかりちゃんは?」
「あかりさん? 最近メッセージが来て、大学院で研究してるって言ってた。理系の」
「あかりちゃんらしいな」
玲がアイスコーヒーを受け取って、一口飲んだ。
「エマちゃんは来月帰ってくるんだっけ」
「そう。アメリカの向こうの仕事が今月で一区切りするって言ってたから、また黒峠に来るかもしれない」
「会いたいな。もう二年以上会ってないから」
「連絡してみたら」
「そうする」
二人でしばらく、知り合いたちの近況を話した。
光明と未菜は、去年結婚した。結婚式に呼ばれて出席した。光明が泣いていた。航は独身のままで「まだ全然考えてない」と言っていた。
玲が元樹に告白したこと、振られたこと、草壁穂香のこと、記憶を失ったこと——そういう過去を、奈々美と玲が一緒に座って話せる日が来るとは、あの頃の奈々美には想像もできなかった。
でも、今はこうして向かい合って、コーヒーを飲んでいる。
いつの間にそうなったのか、正確には覚えていない。少しずつだった。元樹を介した関係だったのが、いつしか奈々美と玲の間に、直接の言葉が積み重なっていった。
最初に玲から話しかけてきたのは、大学一年生の秋だった。元樹を通じてではなく、奈々美に直接。「元樹のことで少し話したいことがある」と言ってきた。奈々美は警戒した。でも、玲が言いたかったのは「あいつ、最近顔色が悪いから、奈々美も気をつけてやってくれ」という内容だった。
それだけだった。
それだけのことが、奈々美には予想外だった。
玲は元樹を好きで、元樹に振られた人間だ。なのに、元樹のことを心配して、その彼女である奈々美に伝えに来た。その事実が、奈々美には長い時間をかけてじわじわと届いた。
玲という人間は、複雑だと思っていた。でも実際には、思っていたより単純だった。好きなものを好きと言い、心配なものを心配と言い、関わりたい人間には関わる。それだけの人間だった。複雑に見えていたのは、奈々美の目のせいだったかもしれない。
「で、今日はプレゼント選びだよね」
玲が言った。
「そう。誕生日が近いから、そろそろ買わないとと思って」
「何にするか決めてるの?」
「大体は。でも玲ちゃんに一緒に見てもらいたかった」
「私が見てもわかるかな」
「元樹くんの趣味を一番長く知ってるのは玲ちゃんでしょ」
玲が少し苦笑いした。
「それはそうかもしれないけど」
「昔からのことは玲ちゃんの方がよく知ってるから、確認してもらった方がいい」
「まあ、わかった。何を考えてるんだ」
「今年は、本を贈ろうと思ってる」
「本?」
「元樹くんが最近また読書してるって言ってたから。仕事が忙しくなってからずっと読めてなかったって話してたけど、最近また時間ができたって」
「確かに、高校の頃はライトノベルばっかり読んでたね」
「今は少し違うジャンルも読むようになってたから。それで、この一冊がいいかなと思って」
奈々美がスマホを出して、画面を玲に見せた。
玲が画面を覗き込んだ。
「うん。あかりさんに勧められて読んだのがきっかけで、元樹くんも気になるって言ってたから」
「あかりちゃんつながりか」
「そう。元樹くんが高校の時に本屋であかりさんと話したって言ってたのを、後から聞いて。でも結局ちゃんと読まないままだったって言ってたから、誕生日のタイミングで渡そうと思って」
「いいんじゃない、それ」
「でも一冊だけじゃ少ない気がして。何かもう一冊、一緒に入れたいんだけど、何がいいかわからなくて」
「そういう相談か」
「そういう相談」
玲が少し考える顔をした。
「元樹が最近話してたこと、何かある? 仕事以外で」
「映画は好きでよく見てるって言ってた。あとは、散歩。最近また散歩するようになったって」
「散歩か」
「ゆっくり歩くのが好きで、カメラを持って出かけることがあるって」
「写真始めたの?」
「ちょっとだけ。本格的じゃないけど、スマホで撮るのが好きになったって」
「知らなかった。そういうこと、俺より奈々美ちゃんの方が知ってるね」
玲が少し笑った。
「当然でしょ、彼女だから」
「まあそうか」
「玲ちゃんは元樹くんが変わったと思う? 昔と今で」
奈々美が聞いた。
玲がアイスコーヒーを一口飲んで、少し考えた。
「変わった、と思う。あいつ、高校の頃は何も言えなかったから。言いたいことがあっても黙って、誰かが傷つくのを恐れて先に引き下がる。そういうやつだった」
「今は?」
「今は、ちゃんと言う。怖くても言う。傷つけるかもしれなくても、言わないよりいいと判断したら言う。そういうふうに変わった気がする」
「そうだよね」
「奈々美ちゃんのおかげかもしれない」
玲がさらっと言った。
「え?」
「奈々美と付き合ってから、あいつが変わっていったから。簡単に諦めたり、黙って耐えたりしなくなったから。それって奈々美と関わっていく中で、言わないとダメだって学んだんじゃないかと思って」
奈々美はしばらく黙った。
「……そういう言い方、してくれるんだね」
「本当のことだから。あいつが変わったのは、奈々美ちゃんと向き合い続けたからだと思ってるよ」
「でも、私がたくさん傷つけたよ、元樹くんを」
「傷つけて、それでも向き合い続けた。それだけのことだよ」
玲の言い方は、さらっとしていた。
でも、その言葉は奈々美にとって、思いがけず重かった。
玲が、そういうことを言う。
これが不思議だった。
高校生の頃の奈々美には、玲を「敵」として見ていた。元樹を奪いに来る存在として。でも今の玲は、奈々美にとってそういう存在じゃない。
どちらかといえば、信頼できる人間の一人だった。
「……玲ちゃんは、元樹くんへの気持ちはもう?」
奈々美が、少し躊躇いながら聞いた。
玲が少し笑った。
「ないとは言えないよ。好きだったものを全部消せるほど、人間は強くない。でも、今は違う形になってる気がする。心配とか、応援とか、そういうものと混ざって」
「それで、しんどくないの」
「しんどいこともある。光明と未菜の結婚式、素直に嬉しかった反面、あの二人を見てたら少し気持ちが動いた夜もあった。でも、それは自分の中のことだから」
「自分の中のことだから」
「奈々美ちゃんに言うべきことじゃない。私の内側の話だから」
奈々美はしばらく玲の顔を見ていた。
「……玲ちゃんは、すごいね」
「そう?」
「うん」
「奈々美ちゃんに言われると、不思議な感じがするな」
玲が苦笑いした。
「なんで」
「高校の頃、奈々美ちゃんはずっと私を見てたじゃない。なんかこう、鋭い目で。「この人はどういう人間か」って測るみたいな目で」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。あの頃の奈々美ちゃんが、そうするしかなかったのはわかってるから」
「玲ちゃんは怖くなかったの、あの頃」
「怖かったよ。でも元樹のためにある程度は我慢しようって思ってたから」
「今は?」
「今は怖くない。奈々美ちゃんのことが、わかってきたから」
その「わかってきた」という言葉が、奈々美には深く届いた。
わかってきた。
奈々美という人間を、玲はわかってきたと言う。
施設にいた頃の奈々美は、「わかってもらえない」という感覚の中にいた。大変だったことより怖かったことの方が大きかったのに、怖かったと言えなかったから。
わかってもらうためには、言わないといけない。
元樹に言えるようになったのは、時間がかかった。元樹と正直に向き合い続けて、それで少しずつ言えるようになった。
玲とは、もっと時間がかかった。
でも、今はこうして、わかってきたと言ってもらえている。
「……ありがとう、玲ちゃん」
奈々美が言った。
玲が少し眉を上げた。
「珍しいな、奈々美ちゃんがありがとうって言うの」
「そうかな」
「最初の頃は、絶対言わなかった。私に対して」
「……あの頃の私、本当に色々と申し訳なかったと思ってる」
「水に流したよ、全部。七年前に」
「七年前?」
「元樹が「奈々美ちゃんを選ぶ」って言った夏。あの頃から、私は水に流すことにした。あの夏があったから、今がある気がするから」
奈々美はその言葉を、静かに受け取った。
三田橋での夕日を思い出した。
元樹が「奈々美を選ぶ」と言った、あの夕方。
あの瞬間から、色々なことが変わり始めた。
全部が一気に変わったわけじゃない。少しずつ、少しずつだった。止まれない夜は何度も来た。元樹と言い合いになったこともあった。池田先生のところに通い続けた。玲とも、ぎこちない時期があった。あかりさんとも、距離があった。
でも、変わった。
「ねえ、玲ちゃん」
「うん」
「本の話に戻るんだけど、もう一冊のやつ、何にするか一緒に選んでほしい」
「行こうか、本屋」
「行こう」
玲がアイスコーヒーを飲み干した。奈々美もコーヒーを最後に一口飲んだ。苦かった。でもその苦さが、今はちょうど良かった。
「元樹の誕生日、九月四日だっけ」
「うん。今年で二十三歳になる」
「早いな。高校生だった頃が、もう遠い感じがする」
「そうだね」
玲が少し笑いながら立ち上がった。
奈々美も立ち上がった。財布を出して、カウンターに支払いに向かった。
玲が「今日は私が払う」と言った。
「いいよ、私が呼んだから」
「コーヒー一杯くらい払わせて。毎回割り勘じゃ面白くない」
「じゃあ、次は私が払う」
「そういうことで」
二人でカフェを出た。
黒峠の夏の夕方の空気が、外に広がっていた。まだ日差しが残っていたが、少しだけ和らいでいた。商店街の端の方から、夕方の匂いがした。
「本屋、この方向だっけ」
「うん。駅前のやつ」
二人で商店街を歩いた。
夕方の光が、商店街の屋根の上から斜めに差していた。お総菜屋から揚げ物の匂いがした。花屋の前に、夏の花が並んでいた。
奈々美はその花を横目で見ながら、歩いた。
桜ヶ丘の高橋さんの花屋のことを、思い出した。施設にいた頃、水やりを手伝いながら、しゃべらなくても一緒にいられた場所。
今も、花を見ると少し落ち着く気がする。
「今年の夏、桜ヶ丘に行った?」
玲が聞いた。
「先月行った。元樹くんと一緒に」
「あの喫茶店、まだある?」
「まだある。変わってなかった。カレンダーも、多分同じのが貼ってある気がした」
「あそこって変わらないよな」
「変わらない。それが好き」
玲が少し笑った。
「ほんと、奈々美ちゃんは変わらないものが好きだな」
「好きだよ。変わらないものがあると、安心するから」
「七年前も言ってた気がする、それ」
「言った覚えある。でも今言う時と、あの頃言う時と、意味が少し違う気がする」
「どう違う?」
奈々美は少し考えた。
「あの頃は、変わらないものが好きなのは、変わるものが全部怖かったから。でも今は……変わるものもあっていい、でも変わらないものも好き、っていう感じ。怖さからじゃなくて、好きだから好き、みたいな」
「それが変わったってことだね」
「そうかもしれない」
本屋に着いた。
駅前の書店は、昼間より夕方の方が人が多かった。仕事帰りの人や、学生が来ているようで、文庫コーナーには何人かいた。
奈々美と玲は、文芸の棚の前に立った。
奈々美が棚から一冊を取り出した。
「これと一緒に入れるやつを探してる。元樹くんに向いてそうなものを」
「ジャンルは?」
「特に決めてない。何でもいいけど、元樹が楽しめそうなもの」
玲が棚をゆっくり眺めた。奈々美も隣で見た。
文芸、ミステリ、エッセイ、ファンタジー。様々な背表紙が並んでいた。
「元樹、散歩が好きになったって言ってたんだよね」
「うん」
「だったら、こういうのはどう?」
玲が一冊を取り出した。
旅行とも違う、ただ「歩く」ことを書いたエッセイだった。日常の中の歩行についての本だった。
「歩くことについて書いてある本か」
「哲学的なやつじゃなくて、こういうさらっとした感じのエッセイ、元樹は読みやすいと思う。散歩好きになったなら、こういうの気に入るんじゃないかな」
奈々美はその本を手に取って、裏の説明を読んだ。
「……いいかもしれない」
奈々美は二冊を並べて持った。
「これにする」
「よかった」
「玲ちゃんに相談して正解だった」
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃない。本当に」
玲が照れたような顔をした。そういう顔も、七年前と変わらなかった。
レジに向かった。奈々美が二冊をカウンターに置いた。店員がバーコードを読み取った。
「じゃあ、パン屋寄って帰ろっか」
本屋を出たところで、玲が言った。
「行こう」
二人で商店街の方へ引き返した。
夕方の光が、少し弱くなっていた。空の端が少しだけ色づいていた。本格的な夕暮れはもう少し先だったが、昼間の熱が和らいで、歩きやすい気温になっていた。
「元樹、今日はどこにいるの?」
「家にいるって言ってた」
「今夜会うの?」
「うん。一緒に夕飯食べようって」
「そっか」
玲が少し笑った。
「元樹、喜ぶと思うよ」
「そうかな」
話しているとパン屋に着いた。
焼きたてのパンの匂いがした。
奈々美は思い出した。高校二年生の夏、桜ヶ丘の商店街で元樹と寄ったパン屋。食べながら歩いて、「行儀が悪い」と言ったら「夏休みだから」と言い返された。
あの日の元樹の顔を、今でも覚えていた。
「何にする?」
玲が聞いた。
「メロンパン」
「今日はそれか。私はチョコパンにしよう」
二人でパンを選んで、会計した。
店を出ると、空が少し赤くなっていた。
「元気そうで良かった」
玲が歩きながら言った。
「え?」
「奈々美ちゃんが。なんか今日、以前より顔が柔らかい気がして」
「そうかな」
「ちゃんとここにいる気がする」
奈々美はその言葉を、少しの間考えた。
ちゃんとここにいる。
施設にいた頃の奈々美は、どこかでいつも「ここにいない」感じがしていた。体はそこにあっても、気持ちはどこか別の場所にいた。元樹を探していた。元樹がどこにいるか確認しようとしていた。今目の前にあることよりも、見えないところにあるものの方が気になっていた。
今は。
目の前に玲がいる。夕方の商店街がある。パンの匂いがある。本が袋の中にある。今夜、元樹と夕飯を食べる。
全部が、今ここにある。
「……そうかもしれない」
奈々美が言った。
「ここにいる気がする、今は」
「それでいいじゃないか」
「うん」
商店街を歩きながら、二人で並んだ。
夕方の光が、橙色になってきた。
夏の夕暮れは長い。まだしばらく、この色が続く。
奈々美はパンを一口食べた。メロンパンの甘さが、夕方の空気の中に広がった。
遠くで鳥が鳴いた。
夏が、ゆっくりと傾いていた。
九月になれば、元樹の誕生日が来る。
あの公園で交わした「ずっと一緒にいる」という約束が、今でも続いている。形は変わったかもしれない。でも続いている。
それで、十分だと思っていた。
玲が「そろそろ駅の方に向かうね」と言った。
「うん。今日ありがとう」
「こっちこそ。また誘ってね」
「ええ」
「元樹によろしく」
玲が手を上げながら、駅の方へ歩いていった。
奈々美はしばらく、その背中を見ていた。
夕方の光の中で、玲が遠ざかっていく。ショートカットの髪が、少し風に揺れた。
玲がいなくなってから、奈々美は少しだけその場に立っていた。
本屋の袋を持って、商店街の端に立っていた。
夕日が、西の方に傾いていた。
オレンジ色の光が、屋根の上から差し込んでいた。
あの夏の夕日に似ていると、奈々美は思った。三田橋のたもとで、元樹が「俺は奈々美を選ぶ」と言った、あの夕方の色に似ていた。
あの日から、七年が経った。
色々なことがあった。止まれない夜も、ちゃんと話せた朝も。泣いた夜も、笑った日も。怖かった時間も、少しだけ軽くなった瞬間も。
全部が、あったことになった。
消えない。
奈々美はスマホを出した。
元樹にメッセージを打った。
今から帰るわ。今夜、何食べに行きたい?
すぐに返ってきた。
何でもいいよ。帰りを待ってる
奈々美はその文字を少し見てから、スマホをしまった。
袋を持って、歩き始めた。
夕方の商店街の道を、奈々美は歩いた。
七月の終わりの夕方、元樹のことを探していた頃の自分を、今の奈々美は知っている。今の自分が、あの頃の自分に何か言えるとしたら、何を言うだろう。
「大丈夫だよ」とは言えない。大丈夫じゃない日が、たくさんあるから。
「全部うまくいくよ」とも言えない。うまくいかなかったことの方が、たくさんあったから。
ただ、こう言えるかもしれない。
信じる練習を、続けていれば。
それだけで、今の場所には立てる。
夕日が、奈々美の背中から差していた。
影が、道の先に長く伸びていた。
夏の終わりが、少しずつ近づいていた。
けど私たちはずっと新しい一歩を歩き続ける。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
『奈々美さんの裏の顔』は、「ヤンデレヒロインを書く」という、ある意味単純な動機から始まりました。でも書き進めるうちに、奈々美はどんどん私の手を離れていきました。計算高くて、怖くて、でも怖いだけじゃなくて。愛情と執着の区別がつかないまま七年間を生きてきた女の子が、少しずつ「止まれた」を積み重ねていく話に、いつの間にかなっていました。
元樹も、最初は「断れない優柔不断な主人公」のつもりで書き始めました。でも彼も途中から変わっていきました。言えなかったことを言えるようになって、傷つけることを恐れながらも向き合い続けて、最終話でようやく「奈々美を選ぶ」と口にできた。それだけのことに、四十二話かかりました。
玲のことも、書いていてずっと好きでした。「じゃあね」と言って歩いていく背中が、私には一番忘れられないシーンです。
この物語を「ハッピーエンドか」と問われると、正直に答えるのが難しいです。奈々美は変わっていない部分がまだあります。元樹もすべてを乗り越えたわけじゃない。それでも二人の関係は続いていて、玲とも続いていて、商店街の夕日は変わらずそこにある。そういう終わり方を選びました。
きれいに終わらせなかったのは、人間がそうじゃないからです。何かが解決したからといって、全部が終わるわけじゃない。続いていくことが、生きているということだと思っているから。
ここまで読んでくださった方へ。感想をくださった方へ。途中で追いかけてくださった方へ。本当にありがとうございました。あなたが読んでくれたから、奈々美たちはちゃんと存在できました。
――――暁の裏




