第32話 「新しい季節へ」
私、上野玲は鏡の前に立っていた。久しぶりの制服。袖を通すと、少し緊張する。
「大丈夫……」
小さく呟く。
「私は、大丈夫……」
今日から、学校に復帰する。
あの事件から、もう数週間以上が経った。
体の傷は、ほとんど治った。
頭の傷も、包帯が取れた。でも——記憶は、まだ戻っていない。半年分の記憶。
みんなが言うには、色々なことがあったらしい。
元樹に告白したこと。
振られたこと。
草壁穂香という人と仲良くなったこと。
そして、その穂香に誘拐されて、襲われたこと。
「全然、覚えてない……」
鏡に映る自分の顔を見つめる。
頭の横に、まだ少し傷跡がある。
髪で隠せるけど——触ると、少し痛む。
「玲、準備できた?」
お母さんの声が聞こえる。
「うん、今行く」
私はカバンを持って、部屋を出た。
階段を下りると、お母さんが心配そうな顔で待っていた。
「本当に、大丈夫?」
「うん」
私は頷く。
「早く、学校に行きたいの」
「無理しないでね」
「わかってる」
朝食を食べる。パンと目玉焼き。いつもの朝食。
でも何か、違和感がある。
半年前の私と、今の私は何かが、違っている気がする。
「行ってきます」
「気をつけてね」
家を出る。冬の朝は、寒い。白い息を吐きながら、歩き始める。
通学路。
見慣れた景色。
でもどこか、懐かしい気がする。
「半年……か」
小さく呟く。
半年分の記憶がない私。
学校で、何があったのか。
みんなと、どんな関係だったのか。
全然、わからない。
「元樹……」
その名前を呟くと、胸が温かくなる。
元樹。
幼馴染の、元樹。
私は、元樹のことが好きだ。
ずっと、好きだった。
でも——
元樹には、彼女がいる。
柊奈々美さん。
綺麗で、優しそうな人。
元樹が、選んだ人。
「どうして……」
小さく呟く。
「どうして、私じゃないの……」
涙が、溢れそうになる。
でも、我慢する。
今は、泣いている場合じゃない。
学校に行かないと。
みんなに、会わないと。
「頑張ろう……」
自分に言い聞かせて——
私は歩き続けた。
学校の門が見えてくる。
黒峠高校。
私の学校。
「着いた……」
深呼吸する。
門をくぐる。
すぐに——
視線を感じた。
「あれ、上野さんだ……」
「復帰したんだ……」
「大変だったよね……」
ヒソヒソと囁く声。
私を見る目。
同情。
好奇心。
そして、少しの恐怖。
「……」
私は下を向いて歩く。
仕方ない。あんな事件があったんだから。みんなが気になるのは、当然だ。
昇降口に着き、靴を履き替える。
その時——
「玲ちゃん!」
後ろから、声がした。振り返ると未菜が走ってきた。
「未菜……」
「玲ちゃん!」
未菜が私を抱きしめる。
「良かった……」
「復帰できたんだね……」
「うん……」
私は頷く。
「心配かけて、ごめんね」
「いいの、いいの」
未菜が涙目で言う。
「玲ちゃんが無事で、本当に良かった……」
その言葉に、私も泣きそうになる。
「ありがとう、未菜……」
「玲」
別の声がした。
顔を上げると光明くんがいた。
「光明くん……」
「よう」
光明くんが笑う。
「復帰、おめでとう」
「ありがとう……」
私は少し恥ずかしくなる。
「あの……」
「ん?」
「私、記憶がないから……」
「ああ」
光明くんが頷く。
「聞いてる」
「色々、わからないことがあるかもしれないけど……」
「大丈夫だ」
光明くんが笑う。
「俺たちが、助けるから」
「うん」
未菜も頷く。
「何でも聞いて」
「私たちが、教えるから」
その言葉に私は救われた気がした。
「ありがとう……」
小さく言う。
「二人とも、ありがとう……」
三人で教室に向かう。廊下を歩いているとまた、視線を感じる。
「上野さん、復帰したんだ……」
「草壁さんに誘拐されたんだよね……」
「怖い……」
囁く声。
私は、聞こえないふりをする。
でも胸が痛む。
「玲ちゃん」
未菜が私の手を握る。
「気にしないで」
「うん……」
私は頷く。
気にしないのは、難しい。
教室の前に着き、ドアを開ける。
中に入るとクラスメイトたちの視線が、一斉に私に集まった。
「あ……」
「上野さん……」
「復帰したんだ……」
ざわつく教室。
私は、硬直する。
「えっと……」
何を言えばいいか、わからない。
「おはよう」
その時——
前から、声がした。
顔を上げると元樹が、席に座っていた。
「元樹……」
その姿を見た瞬間——
私の心臓が、大きく跳ねた。
「元樹……」
もう一度、名前を呼ぶ。
元樹が、私を見る。
その目は複雑な色をしている。
「玲……」
「おはよう、元樹」
私は笑顔を作る。
「久しぶり」
「ああ……」
元樹が頷く。
「久しぶり……」
その声は少し硬い。
「元樹……」
私は元樹に近づく。
「隣、座っていい?」
「え?」
元樹が驚く。
「玲の席は……」
「私の席?」
私は首を傾げる。
「どこだっけ?」
「あ……」
元樹が言葉に詰まる。
「そうか、覚えてないんだ……」
「うん」
私は正直に答える。
「半年分の記憶がないから……」
「玲ちゃん」
未菜が私の肩を叩く。
「玲ちゃんの席は、そこだよ」
「え?」
未菜が指差す方を見る。
窓際の席。
元樹の席とは、少し離れている。席替えされたらしい。
「そうなんだ……」
私は少しがっかりする。
「元樹の近くじゃないんだ……」
その言葉に——
教室が、シーンと静まり返った。
「……」
元樹が、複雑な表情をする。
私は何か、変なことを言ったのだろうか。
「あの……」
「玲」
元樹が立ち上がる。
「席に行こう」
「え? うん……」
元樹が、私を席まで案内してくれる。
「ここだよ」
「ありがとう、元樹」
私は微笑む。
「優しいね」
「……」
元樹は、何も言わない。
ただ複雑な表情で、私を見ている。
「元樹?」
「なんでもない」
元樹が首を振る。
「じゃあ、俺は席に戻るから」
「うん」
元樹が去っていく。
私は、その背中を見つめる。
「元樹……」
小さく呟く。
「どうしたのかな……」
何か様子がおかしい気がする。
でも何がおかしいのか、わからない。
チャイムが鳴る。
ホームルームが始まる。
担任の先生が入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
みんなが起立する。
「座ってください」
先生が私を見る。
「上野、復帰おめでとう」
「ありがとうございます」
私は頭を下げる。
「まだ体調が万全じゃないかもしれないから」
先生が続ける。
「無理しないように」
「はい」
「何かあったら、いつでも言ってくれ」
「わかりました」
先生は、優しい目で私を見ている。
ホームルームが終わり、授業が始まる。
一時間目は、数学。
教科書を開く。
内容が、頭に入ってこない。
「……」
私は、チラッと元樹を見る。
元樹は、真剣にノートを取っている。
その横顔を見ていると胸が、ドキドキする。
「元樹……」
小さく呟く。
「好き……」
元樹のことが、好き。
その気持ちは記憶がなくても、変わらない。
元樹には、彼女がいる。
柊奈々美さん。
「どうして……」
私は、鬱々とした気持ちになる。
「どうして、私じゃないの……」
その疑問はいつまでも、頭から離れなかった。
昼休み。
私は、一人で教室にいた。
未菜と光明くんは、用事があるって言っていた。
「お昼、どうしよう……」
お弁当を開ける。
お母さんが作ってくれた、卵焼き弁当。
「いただきます……」
一人で、静かに食べ始める。
その時——
「玲」
声がした。
顔を上げると元樹が、私の前に立っていた。
「元樹……」
「一人?」
「うん」
私は頷く。
「未菜と光明くんは、用事があるって」
「そっか」
元樹が、少し迷ったような顔をする。
「じゃあ……」
「一緒に食べよう」
私は思わず言う。
「え?」
「お昼、一緒に食べよう」
私は元樹を見上げる。
「いいでしょ?」
「あ……うん」
元樹が頷く。
「いいけど……」
元樹が、私の前の席に座る。
「ありがとう」
私は嬉しくなる。
「元樹と一緒だと、安心する」
「……」
元樹は、複雑な表情をしている。
「元樹?」
「なんでもない」
元樹が首を振る。
「食べよう」
「うん」
二人で、お昼を食べる。
静かな時間。
私は、幸せだった。
元樹と一緒にいられるだけで、それだけで、嬉しかった。
「元樹」
「ん?」
「あのね……」
私は言葉を選ぶ。
「私、覚えてないことがたくさんあるの」
「ああ」
元樹が頷く。
「半年分……だよね」
「うん」
私は続ける。
「だから、教えてほしいの」
「何を?」
「この半年のこと」
私は元樹を見つめる。
「私と元樹の間で、何があったの?」
その質問に元樹の表情が、曇った。
「玲……」
「お願い」
私は言う。
「みんな、教えてくれないの」
「教えてくれない?」
「うん」
私は頷く。
「『今は気にしなくていい』って」
「でも、気になるの」
私は続ける。
「私と元樹、何があったの?」
元樹はしばらく、黙っていた。
そして——
「玲」
「うん」
「それは……」
元樹が言葉を選ぶ。
「今は、言えない」
「どうして?」
「玲のためだから」
元樹が言う。
「記憶が戻ってから、話す」
「でも……」
「お願いだ」
元樹が真剣な目で言う。
「今は、聞かないでくれ」
その目を見て私は、それ以上聞けなくなった。
「……わかった」
小さく言う。
「待つ」
「ありがとう」
元樹が、少し安心したような顔をする。
でも私は、納得できなかった。
何か私と元樹の間に、何かがあった。
それは、わかる。
でも誰も、教えてくれない。
「元樹……」
私は元樹を見つめる。
「一つだけ、聞いていい?」
「なに?」
「柊さんは……」
私は聞く。
「元樹の、彼女なんだよね?」
その質問に元樹が、少し戸惑う。
「ああ……」
「そうだ」
その答えを聞いて私の胸が、痛んだ。
「そっか……」
小さく呟く。
「やっぱり……」
涙が、溢れそうになる。
でも我慢する。
元樹の前で、泣きたくない。
「玲……」
「大丈夫」
私は笑顔を作る。
「聞いただけだから」
「……」
元樹は、辛そうな顔をしている。
「元樹」
「ん?」
「私ね……」
私は言う。
「元樹のことが、好きなの」
「……」
元樹が、息を呑む。
「柊さんと付き合ってるって、わかってる」
私は続ける。
「でも、この気持ちは、変えられない」
「玲……」
「だから……」
私は元樹を見つめる。
「諦めない」
「待ってて」
「いつか、元樹を振り向かせる」
その言葉に元樹は、何も言えなかった。
ただ複雑な表情で、私を見ている。
「ごめん」
私は笑う。
「困らせちゃったね」
「いや……」
「でも、これが私の気持ちだから」
私は立ち上がる。
「お昼、ありがとう」
「元樹と一緒で、嬉しかった」
そう言って私は教室を出た。
廊下を歩きながら涙が、溢れてきた。
「好き……」
小さく呟く。
「元樹のこと、好き……」
でも元樹には、彼女がいる。
私じゃない人。
「どうして……」
涙が、止まらない。
「どうして、私じゃないの……」
トイレに駆け込んだ。個室に入って声を殺して、泣いた。
同じ日、午後六時。
俺、渡部元樹は病院に来ていた。
奈々美の病室。
「元樹くん」
奈々美が微笑む。
「今日も来てくれたの?」
「ああ」
俺は頷く。
「約束したから」
「嬉しい」
奈々美の隣に座ると俺の手を握ってくる。
「今日、玲が復帰したんだ」
「そう」
奈々美の表情が、少し硬くなる。
「上野さん、大丈夫だった?」
「ああ」
俺は頷く。
「体は、もう大丈夫みたいだ」
「そっか」
奈々美が言う。
「良かったね」
「でも……」
俺は続ける。
「記憶は、まだ戻ってない」
「……」
奈々美が黙る。
「玲は……」
俺は言葉を選ぶ。
「俺のことを、まだ好きだって言った」
その言葉に奈々美の手が、強く俺を握りしめた。
「そう……」
「奈々美?」
「大丈夫」
奈々美が微笑む。
その微笑みは、少し硬い。
「上野さん、かわいそうだね」
「え?」
「記憶がないまま、好きな人に告白して」
奈々美が続ける。
「でも、その人には彼女がいる」
「辛いでしょうね」
「奈々美……」
俺は奈々美を見る。
奈々美は笑っている。
でも目が、笑っていない。
「ねえ、元樹くん」
「ん?」
「私のこと、好き?」
その質問に俺は即答する。
「好きだ」
「本当に?」
「ああ」
俺は強く言う。
「奈々美が好きだ」
「……」
奈々美が、少し安心したような顔をする。
「ありがとう」
「奈々美」
俺は奈々美の手を握り返す。
「俺の気持ちは、変わらない」
「玲が何を言っても」
「俺は、奈々美を選ぶ」
その言葉に奈々美が、涙を流した。
「元樹くん……」
「泣くな」
俺は奈々美の涙を拭う。
「心配しなくていい」
「うん……」
奈々美が頷く。
「信じてる……」
二人で、しばらく黙っていた。
静かな病室。
窓の外では冬の夕暮れが、広がっている。
「ねえ、元樹くん」
「ん?」
「私ね……」
奈々美が小さく言う。
「正直に言うね」
「うん」
「上野さんのこと、聞いた時……」
奈々美が続ける。
「嫌な気持ちになった」
「……」
「束縛したいって、思った」
奈々美の声が、震える。
「独占したいって、思った」
「奈々美……」
「元樹くんを、誰にも渡したくないって」
奈々美が泣く。
「また、あの頃の私に戻りそうで……」
「怖かった……」
俺は奈々美を抱きしめた。
「大丈夫だ」
「でも……」
「奈々美は、もう変わってる」
俺は言う。
「昔の奈々美なら、こんなことを言えなかった」
「……」
「自分の気持ちを、正直に言えるようになった」
俺は続ける。
「それは、すごいことだ」
「元樹くん……」
「俺は、今の奈々美が好きだ」
俺は奈々美を見つめる。
「束縛したくなっても、それを押し殺さないでいい」
「その気持ちを、俺に言ってくれ」
「一緒に、乗り越えよう」
その言葉に奈々美が、泣き崩れた。
「ありがとう……」
「元樹くん……」
「ありがとう……」
奈々美を強く抱きしめた。
「大丈夫だ」
「俺がいる」
「ずっと、そばにいる」
二人で、抱き合う。
静かで温かい時間。
でも俺の心の奥で玲の顔が、浮かんでいた。
玲の涙。
玲の言葉。
『元樹のことが、好きなの』
『諦めない』
「……」
俺はどうすればいいのか、わからなかった。
奈々美を愛している。
それは、確かだ。
でも玲を傷つけたくない。
それも、本当だ。
「元樹くん?」
奈々美が俺を見上げる。
「どうかした?」
「いや……」
俺は首を振る。
「なんでもない」
「そう?」
「ああ」
俺は笑う。
「奈々美こそ、大丈夫か?」
「うん」
奈々美が頷く。
「元樹くんがいれば、大丈夫」
その言葉に俺は、少し安心した。
「よかった」
「ねえ、元樹くん」
「ん?」
「私ね……」
奈々美が言う。
「我慢するんじゃなくて、本当に変わりたい」
「え?」
「昔の私は、束縛することでしか愛を表現できなかった」
奈々美が続ける。
「でも、今は違う」
「元樹くんを信じて、自由にしてあげたい」
「奈々美……」
「まだ、完璧じゃない」
奈々美が小さく笑う。
「上野さんのこと聞いた時、すごく嫉妬した」
「でも……」
奈々美が俺を見る。
「それを認めて、元樹くんに言えた」
「それが、私の成長だと思う」
その言葉に俺は、感動した。
「奈々美……」
「だから、元樹くんも」
奈々美が言う。
「上野さんのこと、ちゃんと向き合って」
「え?」
「逃げないで」
奈々美が強く言う。
「上野さんの気持ちを、受け止めてあげて」
「でも……」
「私は大丈夫」
奈々美が微笑む。
「元樹くんを、信じてるから」
その言葉に俺は、何も言えなかった。
奈々美がこんなことを言えるようになるなんて。
「ありがとう」
俺は小さく言う。
「奈々美」
「私こそ」
奈々美が俺の手を握る。
「元樹くんが、私を変えてくれた」
「ありがとう」
二人で静かに、微笑み合った。
窓の外では星が、輝き始めていた。
冬の夜空。
寒くて、でも——心は、温かかった。
翌日、朝。
俺は学校に向かっていた。
通学路を歩いていると——
「元樹!」
後ろから、声がした。
振り返ると玲が、走ってきた。
「玲……」
「おはよう、元樹」
玲が笑顔で言う。
「一緒に、学校行こう」
「あ、ああ……」
俺は頷く。
「いいけど……」
二人で、並んで歩き始める。
玲は嬉しそうだ。
「今日も寒いね」
「ああ……」
「でも、もうすぐ春だよね」
「そうだな……」
俺はどう接していいか、わからなかった。
玲は記憶がない。
俺に告白したことも、振られたことも、覚えていない。
今の玲は半年前の玲だ。
俺のことが好きでまだ、告白していない頃の玲。
「元樹」
「ん?」
「昨日ね、考えたの」
玲が言う。
「記憶がないまま、学校に来るの、怖かった」
「そっか……」
「でも、元樹がいてくれて」
玲が微笑む。
「安心した」
「玲……」
「元樹は、変わってないね」
玲が続ける。
「優しいまま」
「……」
何も言えなかった。
俺は、変わっていないだろうか。
この半年で色々なことがあった。
奈々美と出会って。
束縛されて。
自由になりたいと思って。
でも結局、奈々美を選んだ。
俺は変わったのか、変わっていないのか。
自分でも、わからない。
「元樹?」
「なんでもない」
俺は首を振る。
「考え事してた」
「そう」
玲が少し心配そうに言う。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「ならいいけど……」
学校に着く。
門をくぐる。
すると視線を感じた。
俺と玲を見る目。
「あれ、渡部くんと上野さん……」
「一緒に来てる……」
「柊さんと付き合ってるんじゃないの?」
ヒソヒソと囁く声。
俺は気まずくなった。
「玲」
「ん?」
「俺、先に行くな」
「え?」
玲が驚く。
「どうして?」
「いや……」
俺は言葉に詰まる。
「ちょっと、用事があって」
「そう……」
玲が、少し寂しそうな顔をする。
「わかった」
「ごめん」
俺は足早に去る。
後ろを振り返ると玲が、一人で立っていた。
「……」
俺は自分が嫌になった。
玲を傷つけている。
わかっている。
でもどうすればいいか、わからない。
奈々美のことも、玲のことも大切にしたい。
でもそれは、無理なんだろうか。
「くそ……」
小さく呟く。
「俺は……」
「どうすればいい……」
教室に入り、席に座る。
しばらくして玲が入ってきた。
玲は俺を見ない。
自分の席に、真っ直ぐ向かう。
「……」
俺は胸が痛んだ。
傷つけた。
玲を傷つけてしまった。
「元樹」
隣から、声がした。
光明だ。
「なあ」
「ん?」
「さっき、玲と一緒に来てたろ」
「ああ……」
「何があった?」
光明が聞く。
「玲、なんか元気ないぞ」
「……」
俺は何も言えなかった。
「元樹」
光明が真剣な顔で言う。
「玲は、記憶がないんだ」
「わかってる」
「お前に振られたことも、覚えてない」
「ああ……」
「だから……」
光明が続ける。
「今の玲にとって、お前はまだ『好きな人』なんだ」
「……」
「お前がどう思ってるかは、知らない」
光明が言う。
「でも、玲を傷つけるのはやめろ」
「傷つけてる……」
俺は小さく言う。
「わかってる」
「だったら……」
「でも、どうすればいいかわからないんだ」
俺は光明を見る。
「奈々美のことも、玲のことも大切だ」
「でも、どっちかを選ばないといけない」
「それが……辛いんだ」
光明はしばらく、黙っていた。
そして——
「元樹」
「ん?」
「お前、いつまで逃げてるつもりだ」
「え?」
「『どっちも傷つけたくない』って」
光明が言う。
「それは、優しさじゃない」
「優柔不断だ」
その言葉が俺の胸に、突き刺さった。
「光明……」
「お前は、もう選んだんだろ」
光明が続ける。
「奈々美を」
「だったら、玲にもちゃんと言え」
「ちゃんと向き合え」
「それが、玲への誠意だ」
光明の言葉は正しい。
俺は逃げていた。
玲を傷つけるのが怖くて。でも―
逃げ続けることでもっと、玲を傷つけている。
「……わかった」
俺は小さく言う。
「ありがとう、光明」
「礼を言うのは、玲に話してからだ」
光明が言う。
「がんばれ」
「ああ」
俺は玲の方を見る。
玲は窓の外を、見つめている。
その横顔は寂しそうだった。
「玲……」
俺は決意する。
今日ちゃんと、話をしよう。
逃げないで向き合おう。
放課後。
俺は玲を探していた。
教室にはいなかった。
「どこだ……」
廊下を歩く。
図書室。
中庭。
どこにもいない。
「もしかして……」
俺は屋上に向かった。
階段を上り、扉を開ける。
すると玲がいた。
フェンスの前に立って空を見上げている。
「玲」
俺が声をかけると玲が振り返った。
「元樹……」
「探したぞ」
「ごめん」
玲が小さく言う。
「一人になりたくて」
「そっか」
俺は玲に近づく。
「少し、話せるか?」
「……うん」
玲が頷く。
二人でフェンスの前に並んで立つ。
冬の風が、冷たい。
「玲」
「ん?」
「今朝は、ごめん」
俺は謝る。
「急に、離れて」
「いいよ」
玲が小さく笑う。
「元樹には、色々あるんでしょ」
「……」
「私、覚えてないから」
玲が続ける。
「わからないことが、たくさんある」
「でも……」
玲が俺を見る。
「元樹が困ってるのは、わかる」
「玲……」
「私のこと?」
玲が聞く。
「私のせいで、困ってる?」
「違う」
俺は首を振る。
「玲のせいじゃない」
「俺のせいだ」
「元樹のせい?」
「ああ」
俺は深呼吸する。
「玲、聞いてくれ」
「うん」
「俺は……」
俺は言葉を選ぶ。
「奈々美が好きだ」
「……」
「玲のことは、大切に思ってる」
俺は続ける。
「幼馴染として、友達として」
「でも……」
「恋愛の対象としては、見れない」
その言葉に玲の目から、涙が溢れた。
「そっか……」
小さく呟く。
「やっぱり……」
「ごめん」
俺は謝る。
「でも、嘘はつきたくなかった」
「うん……」
玲が涙を拭う。
「ありがとう」
「え?」
「ちゃんと、言ってくれて」
玲が微笑む。
でもその微笑みは、涙で滲んでいる。
「私ね……」
玲が言う。
「覚えてないけど、きっと前にも聞いたんだよね」
「同じこと」
「……ああ」
俺は頷く。
「去年の夏……」
「そっか」
玲が空を見上げる。
「二回目なんだ」
「振られるの」
「玲……」
「でもね」
玲が続ける。
「私、諦めない」
「え?」
「記憶がなくても、気持ちは変わらない」
玲が俺を見る。
「元樹のことが、好き」
「だから、諦めない」
「玲……」
「困らせてるのは、わかってる」
玲が言う。
「でも、嘘はつけないの」
「私も」
その言葉に俺は、何も言えなかった。
玲の気持ちは本物だ。
俺が何を言っても変わらない。
「元樹」
「ん?」
「私、待ってる」
玲が言う。
「いつか、振り向いてくれる日を」
「それまで、待ってる」
「玲……」
「柊さんが好きなんでしょ?」
玲が聞く。
「ああ」
俺は正直に答える。
「そっか」
玲が微笑む。
「じゃあ、仕方ないね」
「でも……」
玲が続ける。
「いつか、私を好きになってくれるかもしれない」
「その可能性を、信じてる」
俺は玲の強さに、驚いた。
振られても諦めない。
涙を流しながらも笑っている。
「玲は……」
俺は小さく言う。
「強いな」
「そうかな?」
「ああ」
俺は頷く。
「俺には、できない」
「そんなことないよ」
玲が言う。
「元樹も、強いよ」
「俺が?」
「だって……」
玲が続ける。
「ちゃんと、私に向き合ってくれた」
「逃げないで、話してくれた」
「それは……」
「優しさだけじゃ、できないよ」
玲が微笑む。
「強さがないと」
その言葉に俺は、少し救われた気がした。
「ありがとう、玲」
「こちらこそ」
玲が言う。
「話してくれて、ありがとう」
二人でしばらく、空を見上げていた。
冬の空。
灰色の雲が、広がっている。
でもその向こうには―
きっと、青空がある。
「寒いね」
玲が言う。
「ああ」
「帰ろうか」
「そうだな」
二人で、屋上を後にする。
階段を下りながら玲が言った。
「ねえ、元樹」
「ん?」
「私たち、友達でいられる?」
その質問に俺は即答した。
「当たり前だ」
「本当?」
「ああ」
俺は頷く。
「玲は、大切な幼馴染だ」
「それは、変わらない」
その言葉に玲が、嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
「ありがとう、元樹」
俺も少し、微笑んだ。
これで良かったのかはわからない。
でも少なくとも逃げないで、向き合えた。
それだけは間違いない。
午後七時。
奈々美の病室。
俺は今日あったことを、奈々美に話した。
「そっか……」
奈々美が言う。
「上野さんと、話したんだね」
「ああ」
俺は頷く。
「ちゃんと、向き合った」
「元樹くん……」
奈々美が俺の手を握る。
「辛かったでしょ?」
「ああ……」
俺は認める。
「でも、必要なことだった」
「うん」
奈々美が頷く。
「元樹くん、偉いね」
「そうかな?」
「うん」
奈々美が微笑む。
「私だったら……」
「できなかったかも」
「奈々美……」
「だって……」
奈々美が続ける。
「上野さんに、『諦めない』って言われたんでしょ?」
「ああ」
「普通なら、怒るよ」
奈々美が言う。
「『もう近づかないで』って」
「でも、元樹くんは違う」
「『友達でいよう』って言った」
「それは……」
俺は言葉を選ぶ。
「玲を、傷つけたくなかったから」
「うん」
奈々美が頷く。
「それが、元樹くんの優しさだよね」
「でも……」
奈々美が続ける。
「その優しさが、時々辛い」
「え?」
「だって……」
奈々美が小さく言う。
「元樹くんは、上野さんにも優しい」
「私にも優しい」
「みんなに、優しい」
「……」
「それは、素敵なことだけど……」
奈々美が俯く。
「私だけを、見てほしいって思っちゃう」
「奈々美……」
「ごめん」
奈々美が顔を上げる。
「また、束縛的なこと言っちゃった」
「いいんだ」
俺は奈々美を抱きしめる。
「言ってくれて、ありがとう」
「元樹くん……」
「俺は、奈々美が好きだ」
俺は強く言う。
「それは、変わらない」
「でも……」
俺は続ける。
「玲を、傷つけることもできない」
「それが、俺の弱さかもしれない」
「弱さ……」
「ああ」
俺は頷く。
「光明に言われた」
「『優柔不断だ』って」
「……」
「正しいと思う」
俺は言う。
「俺は、決断できない」
「誰かを傷つけるのが、怖いから」
「元樹くん……」
「でも……」
俺は奈々美を見つめる。
「変わりたいと思ってる」
「優柔不断じゃなくて……」
「自分の意志で、選べる人間に」
その言葉に奈々美が、泣いた。
「元樹くん……」
「俺は、奈々美を選んだ」
俺は言う。
「それは、俺の決断だ」
「誰にも、変えさせない」
「うん……」
奈々美が頷く。
「信じてる……」
二人で抱き合う。
静かな病室。
外では雪が降り始めていた。
「元樹くん」
「ん?」
「私も、変わりたい」
奈々美が言う。
「我慢するんじゃなくて」
「本当に、変わりたい」
「奈々美……」
「一緒に、変わろう」
奈々美が微笑む。
「二人で」
その言葉に俺も、微笑んだ。
「ああ」
「一緒に、変わろう」
窓の外では雪が、静かに降り続けていた。
白い雪。
冷たくて——
でも——
美しい。
俺たちの未来もそうであってほしい。
冷たい現実があっても美しい未来を信じていたい。
私、上野玲は学校に向かっていた。
復帰してから五日が経った。
少しずつ学校生活に、慣れてきた。
クラスメイトとも普通に話せるようになった。
「おはよう、玲ちゃん」
未菜が声をかけてくる。
「おはよう、未菜」
私は微笑む。
「今日も寒いね」
「うん」
未菜が頷く。
「でも、もうすぐ三月だよ」
「そうだね」
「春が来るよ」
春。
新しい季節。
「楽しみだね」
私は言う。
「桜、綺麗だろうな」
「うん」
未菜が笑う。
「お花見しようよ」
「いいね」
二人で、学校に向かう。
「そういえば」
未菜が言う。
「今日、転入生が来るんだって」
「転入生?」
「うん」
未菜が頷く。
「帰国子女だって」
「へえ……」
「アメリカから帰ってきたらしいよ」
「すごいね」
私は少し興味を持つ。
「どんな人だろう」
「わかんない」
未菜が笑う。
「楽しみだね」
学校に着く。
教室に入るとすでに、ざわついていた。
「転入生、可愛いらしいよ」
「女の子だって」
「帰国子女だって」
みんなが、転入生の話をしている。
私は自分の席に座る。
「玲」
元樹が声をかけてくる。
「おはよう」
「おはよう、元樹」
私は微笑む。
あの日以来、私と元樹は普通に話せるようになった。
友達として。
「転入生、来るんだって」
元樹が言う。
「うん、聞いた」
「どんな人かな」
「わかんない」
私は笑う。
「楽しみだね」
チャイムが鳴る。
ホームルームが始まる。
担任の先生が入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
みんなが起立する。
「今日は、お知らせがある」
先生が言う。
「新しい生徒が、転入してきた」
ざわつく教室。
「静かに」
先生が言う。
「入って」
ドアが開く。
入ってきたのは女の子だった。
長い金髪。
青い瞳。
整った顔立ち。
「ハーフ……?」
誰かが呟く。
女の子は教壇の前に立った。
「自己紹介をお願いします」
先生が言う。
「はい」
女の子が微笑む。
「初めまして」
「藤宮エマです」
「ふじみや……えま……」
「アメリカから、帰ってきました」
エマさんが続ける。
「お父さんが日本人で、お母さんがアメリカ人です」
「小学校三年生まで日本にいて、その後アメリカに行きました」
「今回、お父さんの仕事で、日本に戻ってきました」
「日本語は、まだちょっと変かもしれないけど」
「よろしくお願いします」
そう言ってエマさんが、深くお辞儀をした。
「可愛い……」
「綺麗……」
「ハーフだ……」
教室が、ざわつく。
「席は……」
先生が教室を見回す。
「あそこの空いてる席に」
先生が指差したのは私の後ろの席だった。
「よろしくお願いします」
エマさんが、私の横を通る。
ふわりいい香りがした。
「隣、よろしくね」
エマさんが微笑む。
「あ、うん……」
私は頷く。
「よろしく……」
エマさんが、席に座る。
ホームルームが終わり授業が始まる。
でも私はエマさんのことが、気になっていた。
綺麗な人。
笑顔が、眩しい。
「……」
授業中何度か、後ろを振り返ってしまう。
エマさんは真剣にノートを取っている。
「集中しないと……」
私は前を向く。
でもなぜか気になってしまう。
昼休み。
「玲ちゃん」
エマさんが話しかけてきた。
「え?」
「お昼、一緒に食べていい?」
エマさんが微笑む。
「まだ、友達いないから」
「あ、うん……」
私は頷く。
「いいよ」
「ありがとう」
エマさんが嬉しそうに笑う。
「エマでいいよ」
「え?」
「呼び方」
エマさん―エマが言う。
「『藤宮さん』とか、堅苦しいから」
「あ、うん……」
私は少し戸惑う。
「じゃあ、エマ……ちゃん?」
「うん」
エマちゃんが頷く。
「玲ちゃんって呼んでいい?」
「いいよ」
「やった」
エマちゃんが喜ぶ。
二人でお弁当を開ける。
「玲ちゃんのお弁当、美味しそう」
エマちゃんが言う。
「お母さんが作ってくれたの?」
「うん」
「いいなあ」
エマちゃんが羨ましそうに言う。
「私のは、自分で作ったの」
「え、自分で?」
「うん」
エマちゃんが頷く。
「お母さん、料理苦手だから」
「そうなんだ」
「だから、自分で作るようになった」
エマちゃんのお弁当を見る。
サンドイッチと、サラダ。
綺麗に詰められている。
「上手だね」
「ありがとう」
エマちゃんが微笑む。
「でも、日本のお弁当、難しいよね」
「キャラ弁とか、すごいよね」
「私には、無理」
エマちゃんが笑う。
「キャラ弁、私も作れないよ」
私も笑う。
「だよね」
二人で笑い合う。
「ねえ、玲ちゃん」
「ん?」
「この学校、どう?」
エマちゃんが聞く。
「楽しい?」
「うん……」
私は少し考える。
「楽しいよ」
「そっか」
エマちゃんが安心したように言う。
「良かった」
「エマちゃんは、なんでこの学校に?」
「お父さんの仕事の都合で」
エマちゃんが答える。
「この町に住むことになったから」
「そうなんだ」
「うん」
エマちゃんが窓の外を見る。
「日本、久しぶりだから」
「ちょっと、緊張してる」
「大丈夫だよ」
私は言う。
「みんな、優しいから」
「ありがとう、玲ちゃん」
エマちゃんが微笑む。
「玲ちゃんと友達になれて、嬉しい」
その言葉に私も、嬉しくなった。
「私も」
「エマちゃんと友達になれて、嬉しい」
二人で微笑み合う。
その時―
「玲」
声がした。
振り返ると元樹がいた。
「元樹……」
「昼、一緒に食べようと思ったんだけど……」
元樹が言う。
「もう、食べてたか」
「うん、ごめん」
私は謝る。
「エマちゃんと」
「エマちゃん……?」
元樹が、エマちゃんを見る。
「あ、転入生の……」
「うん」
エマちゃんが立ち上がる。
「初めまして」
「藤宮エマです」
「渡部元樹……です」
元樹が少し戸惑いながら答える。
「玲の、幼馴染で……」
「幼馴染?」
エマちゃんが興味深そうに言う。
「素敵だね」
「え?」
「小さい頃からの友達って、いいよね」
エマちゃんが微笑む。
「私、転校ばっかりだったから」
「そういう友達、いないの」
「そうなんだ……」
元樹が言う。
「大変だったね」
「うん、でも」
エマちゃんが笑う。
「今は、日本にいるから」
「たくさん、友達作りたい」
その言葉に元樹も、微笑んだ。
「よろしく」
「うん、よろしくね」
エマちゃんが元樹の手を握る。
「元樹くん」
「あ、うん……」
元樹が少し戸惑う。
「よろしく」
私はその光景を、見ていた。
エマちゃんと、元樹。
二人が握手している。
「……」
なぜか——
胸が、ざわついた。
「玲ちゃん?」
エマちゃんが私を見る。
「どうしたの?」
「え? なんでもない」
私は首を振る。
「なんでもないよ」
「そう?」
エマちゃんが首を傾げる。
「変な顔してたよ」
「気のせいだよ」
私は笑う。
「気のせい」
本当は気のせいじゃなかった。
エマちゃんと元樹が仲良くなっていくのを見て、なぜか嫌な気持ちになった。
「……」
私は自分の気持ちが、わからなかった。
放課後。
私は一人で、教室にいた。
みんなは、もう帰った。
元樹も病院に行った。
奈々美さんのお見舞いに。
「奈々美さん……」
小さく呟く。
元樹の彼女。
私が振られた人の恋人。
「どんな人なんだろう……」
会ったことは、ある。
病室で一度だけ。
綺麗な人だった。
優しそうな人だった。
でもそれ以上のことはわからない。
「私……」
私は考える。
本当に元樹のことが、好きなんだろうか。
記憶がないまま「好き」だと思い込んでいるだけじゃないだろうか。
「わからない……」
頭を抱える。
記憶があればもっと、はっきりするのに。
私と元樹の間に何があったのか。
なぜ振られたのか。
「思い出したい……」
でも思い出せない。
どんなに頑張っても半年分の記憶は霧の中だ。
「玲ちゃん」
声がした。
顔を上げるとエマちゃんがいた。
「まだ、いたんだ」
「エマちゃん……」
「忘れ物しちゃって」
エマちゃんが笑う。
「ノート、置いてきちゃった」
「そうなんだ」
エマちゃんが、自分の席に行く。
ノートを取って私の前に来る。
「玲ちゃん、何してるの?」
「え? 別に……」
「一人で、考え事?」
エマちゃんが首を傾げる。
「なんか、辛そうだったよ」
「……」
私は何も言えなかった。
「話したくなかったら、いいけど」
エマちゃんが言う。
「でも、聞くよ」
「話したいなら」
その言葉に私は少し、救われた気がした。
「ありがとう」
小さく言う。
「エマちゃん」
「どういたしまして」
エマちゃんが微笑む。
「友達だから」
「うん……」
私は頷く。
「あのね……」
「うん」
「私、記憶がないの」
「記憶?」
「うん」
私は説明する。
「事件に巻き込まれて……」
「半年分の記憶が、なくなったの」
「そうなんだ……」
エマちゃんが驚く。
「大変だったね」
「うん……」
「それで……」
私は続ける。
「元樹のことが、好きなんだけど……」
「元樹くんのこと?」
「うん」
私は頷く。
「でも、元樹には彼女がいて……」
「私、振られたみたいで……」
「でも、覚えてなくて……」
「複雑だね……」
エマちゃんが言う。
「自分の気持ちが、わからないの?」
「うん……」
私は頷く。
「本当に好きなのか……」
「それとも、思い込みなのか……」
「わからないの」
エマちゃんはしばらく、考えていた。
そして―
「玲ちゃん」
「ん?」
「私は思うんだけど……」
エマちゃんが言う。
「記憶がなくても、好きなら好きだよ」
「え?」
「だって、心が覚えてるでしょ?」
エマちゃんが微笑む。
「元樹くんを見て、ドキドキする?」
「……うん」
「一緒にいて、嬉しい?」
「うん……」
「じゃあ、好きだよ」
エマちゃんが言う。
「記憶とか、関係ない」
「心が、好きって言ってるんだから」
その言葉に私は涙が溢れた。
「エマちゃん……」
「泣かないで」
エマちゃんが私の肩を叩く。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「でも、元樹くんには彼女がいるんでしょ?」
「うん……」
「それは、辛いよね」
エマちゃんが言う。
「でも、諦める必要はないと思う」
「え?」
「だって、まだわからないでしょ」
エマちゃんが続ける。
「元樹くんと彼女さんが、ずっと一緒かどうか」
「将来のことは、誰にもわからない」
「だから、諦めなくていいと思う」
「エマちゃん……」
「ただ……」
エマちゃんが言う。
「今の彼女さんを、傷つけるのは良くないよね」
「だから、待つの」
「待つ……」
「うん」
エマちゃんが頷く。
「自分の気持ちを大切にしながら」
「でも、無理に何かしようとしない」
「時間が、解決してくれることもあるから」
その言葉に少し、救われた気がした。
「ありがとう」
涙を拭う。
「エマちゃん」
「どういたしまして」
エマちゃんが笑う。
「私、あんまり恋愛のこと詳しくないけど」
「でも、玲ちゃんの役に立てたなら、嬉しい」
「うん……」
私も笑う。
「役に立った」
「すごく」
「よかった」
エマちゃんが私の手を握る。
「玲ちゃん、頑張ってね」
「うん」
私は頷く。
「頑張る」
エマちゃんと二人で微笑み合った。
窓の外では夕日が、沈み始めていた。
オレンジ色の光が教室を、染めている。
「綺麗だね」
エマちゃんが言う。
「うん」
私も頷く。
「綺麗」
二人で窓の外を、見つめる。
冬の夕暮れ。
寒いけど心は温かかった。
三月一日、金曜日。
渡部元樹は病院にいた。
奈々美の病室。
「元樹くん」
奈々美が嬉しそうに言う。
「今日、退院が決まったの」
「本当か!」
俺も嬉しくなる。
「いつ?」
「来週の月曜日」
奈々美が微笑む。
「三月四日」
「やっと……」
俺は安心する。
「長かったな……」
「うん」
奈々美が頷く。
「でも、もう大丈夫」
「体調も、完全に戻ったし」
「よかった……」
俺は奈々美の手を握る。
「本当に、よかった」
「ありがとう、元樹くん」
奈々美が俺を見る。
「毎日、来てくれて」
「当たり前だ」
俺は言う。
「奈々美は、俺の彼女だから」
「うん……」
奈々美が涙ぐむ。
「嬉しい……」
「退院したら……」
俺は言う。
「デートしよう」
「え?」
「まともなデート、してなかっただろ」
俺は笑う。
「病院ばっかりで」
「うん……」
奈々美も笑う。
「そうだね」
「どこ行きたい?」
俺が聞く。
「んー……」
奈々美が考える。
「水族館とか……」
「いいな」
俺は頷く。
「決まりだ」
「楽しみ……」
奈々美が微笑む。
「元樹くんとのデート」
二人でしばらく、話をする。
退院後のこと。
学校のこと。
「そういえば」
俺が言う。
「転入生が来たんだ」
「転入生?」
「ああ」
俺は頷く。
「藤宮エマっていう子」
「アメリカからの帰国子女で」
「可愛い子だよ」
「へえ……」
奈々美の表情が少し、曇った。
「可愛いんだ」
「あ、いや……」
俺は慌てる。
「そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
奈々美が微笑む。
でもその笑顔は少し、硬い。
「奈々美……」
「大丈夫」
奈々美が言う。
「嫉妬してないよ」
「……本当?」
「うん」
奈々美が頷く。
「前は……」
奈々美が続ける。
「こういう話聞くと、すごく嫌な気持ちになってた」
「元樹くんの周りの女の子が、全部敵に見えた」
「でも、今は違う」
奈々美が俺を見る。
「元樹くんを、信じてるから」
「奈々美……」
「私は私」
奈々美が言う。
「他の誰でもない」
「元樹くんが選んでくれた、私」
「だから、自信を持つ」
その言葉に俺は感動した。
「奈々美……」
「変わろうと、思ってるの」
奈々美が続ける。
「我慢するんじゃなくて」
「本当に、変わりたい」
「そのために……」
奈々美が俺の手を握る。
「元樹くんを、信じる」
「信じて、自由にする」
「……」
俺は言葉が出なかった。
奈々美がこんなにも、成長している。
昔の奈々美なら考えられなかったことだ。
「ありがとう」
俺は小さく言う。
「奈々美」
「私こそ」
奈々美が微笑む。
「元樹くんが、変えてくれた」
「俺が……」
「うん」
奈々美が頷く。
「元樹くんがいなかったら」
「私は、ずっと同じだった」
「束縛して、独占して」
「最後には、また一人になってた」
「でも……」
奈々美が続ける。
「元樹くんが、側にいてくれた」
「逃げないで、向き合ってくれた」
「だから、私も変われた」
「ありがとう、元樹くん」
その言葉に俺も泣きそうになった。
「俺こそ……」
「奈々美に、救われた」
俺は言う。
「俺も……」
「優柔不断で、弱くて」
「誰も傷つけたくないって、逃げてばっかりで」
「でも……」
俺は奈々美を見る。
「奈々美がいたから」
「変わろうと思えた」
「自分の意志で、選ぼうと思えた」
「元樹くん……」
「だから……」
俺は奈々美を抱きしめる。
「ありがとう」
「奈々美」
「私こそ……」
奈々美が俺を抱きしめ返す。
「ありがとう、元樹くん」
二人で抱き合う。
静かな病室。
外では春の風が、吹き始めていた。
奈々美の退院の日。
俺は病院の前で、待っていた。
「元樹くん」
奈々美が出てきた。
私服姿の奈々美。
久しぶりに見る。
「お待たせ」
「待ってないよ」
俺は笑う。
「今、来たところだ」
「嘘」
奈々美も笑う。
「さっき、窓から見えた」
「バレたか」
「うん」
二人で笑い合う。
「帰ろうか」
俺が言う。
「うん」
奈々美が頷く。
二人で歩き始める。
「久しぶりの外……」
奈々美が深呼吸する。
「気持ちいい」
「だろ」
俺も深呼吸する。
「春の匂いがする」
「うん」
奈々美が微笑む。
「もうすぐ、桜が咲くね」
「ああ」
「楽しみ」
奈々美が俺の手を握る。
「元樹くんと、お花見したい」
「いいな」
俺も手を握り返す。
「約束だ」
二人で手を繋いで歩く。
冬が終わり春が、近づいている。
新しい季節。
新しい始まり。
「ねえ、元樹くん」
「ん?」
「私、学校に戻れるかな……」
奈々美が少し不安そうに言う。
「みんな、どう思ってるかな……」
「大丈夫だ」
俺は言う。
「みんな、奈々美の帰りを待ってる」
「本当?」
「ああ」
俺は頷く。
「未菜も、光明も」
「楽しみにしてたよ」
「そっか……」
奈々美が少し安心する。
「よかった」
「でも……」
奈々美が言う。
「上野さんは、どうかな……」
「玲?」
「うん」
奈々美が俯く。
「私のこと、嫌いだよね……」
「そんなことない」
俺は言う。
「玲は、そういう子じゃない」
「でも……」
「大丈夫だ」
俺は奈々美の手を強く握る。
「俺が、いるから」
「元樹くん……」
「心配するな」
俺は微笑む。
「一緒に、乗り越えよう」
「うん……」
奈々美も微笑む。
「ありがとう」
二人で歩き続ける。
春の日差しが温かい。
新しい季節が始まろうとしていた。
三月六日、水曜日。
今日柊奈々美さんが、学校に復帰する。
「どんな人なんだろう……」
小さく呟く。
病室で一度だけ会った。
でも話はほとんどしていない。
「玲ちゃん」
未菜が声をかけてくる。
「柊さん、今日復帰だって」
「うん、聞いてる」
私は頷く。
「ねえ、玲ちゃん」
未菜が心配そうに言う。
「大丈夫?」
「え?」
「だって、柊さんは……」
未菜が言いにくそうに言う。
「元樹くんの、彼女だから……」
「……うん」
私は頷く。
「わかってる」
「辛くない?」
「辛い……かな」
私は正直に答える。
「でも、仕方ない」
「玲ちゃん……」
「私は、振られたんだから」
私は言う。
「覚えてないけど」
「柊さんを、恨む理由はない」
「……」
未菜が、何か言いたそうな顔をする。
「未菜?」
「ううん、なんでもない」
未菜が首を振る。
「玲ちゃんが大丈夫なら、いいの」
「うん」
私は微笑む。
「大丈夫」
でも本当は大丈夫じゃなかった。
元樹の彼女に会うのが、怖い。
自分がどんな顔をすればいいか、わからない。
チャイムが鳴る。
ホームルームが始まる。
担任の先生が入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日も、お知らせがある」
先生が言う。
「柊奈々美さんが、復帰する」
ざわつく教室。
「入って」
ドアが開く。
入ってきたのは柊奈々美さんだった。
黒髪ショート。
整った顔立ち。
綺麗な人。
「柊です」
奈々美さんが言う。
「長い間、お休みしていてすみませんでした」
「今日から、また皆さんと一緒に頑張ります」
「よろしくお願いします」
深くお辞儀をする。
「柊さん、席に戻ってください」
「はい」
奈々美さんが席に向かう。
元樹の隣の席に。
「……」
私はその光景を、見つめていた。
元樹と奈々美さん。
二人が隣に座っている。
「元樹くん」
奈々美さんが小さく言う。
「ああ」
元樹が微笑む。
「おかえり」
「ただいま」
二人が微笑み合う。
「……」
私は目を逸らした。
胸が痛い。
「玲ちゃん……」
隣からエマちゃんの声が聞こえた。
「大丈夫?」
「うん……」
私は頷く。
「大丈夫」
でも全然大丈夫じゃなかった。
昼休み。
私は一人で、屋上にいた。
教室にいられなかった。
元樹と奈々美さんが楽しそうに話しているのを見ていられなかった。
「私……」
小さく呟く。
「バカみたい……」
わかっていたはずなのに。
元樹には彼女がいる。
私は振られた。
今更何を期待しているんだろう。
「玲ちゃん」
声がした。
振り返ると——
エマちゃんがいた。
「ここにいたんだ」
「エマちゃん……」
「探したよ」
エマちゃんが近づいてくる。
「一緒に、お昼食べよう」
「ごめん……」
私は首を振る。
「今日は、一人でいたいの」
「そう……」
エマちゃんが少し悲しそうな顔をする。
「でも……」
エマちゃんが私の隣に座る。
「一人にはさせない」
「え?」
「だって、友達だから」
エマちゃんが微笑む。
「辛い時こそ、一緒にいたい」
「エマちゃん……」
私は涙が溢れてきた。
「ありがとう……」
「泣かないで」
エマちゃんが私の肩を抱く。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「辛いよね」
エマちゃんが言う。
「好きな人の彼女が、目の前にいるの」
「辛くないわけない」
「うん……」
私は頷く。
「辛い……」
「泣いていいよ」
エマちゃんが優しく言う。
「私がいるから」
その言葉に私は泣き崩れた。
「元樹……」
「好き……」
「まだ、好き……」
エマちゃんが私を抱きしめてくれる。
温かい。
「大丈夫」
エマちゃんが言う。
「大丈夫だよ」
「私がいるから」
しばらく泣き続けた。
冬の風が私たちの髪を揺らす。
寒い。
でもエマちゃんの温もりが心を温めてくれた。
「ありがとう」
涙を拭きながら私は言う。
「エマちゃん」
「どういたしまして」
エマちゃんが微笑む。
「友達だから」
「うん……」
私も微笑む。
「友達……だね」
二人で空を見上げる。
灰色の雲が広がっている。
でもその向こうにはきっと青空がある。
いつか晴れる日が来る。
そう信じたい。
午後。
私、柊奈々美は教室で昼食を食べていた。
元樹くんと一緒に。
「久しぶりの学校……」
私は呟く。
「どう?」
「緊張する……」
正直に答える。
「でも、嬉しい」
「よかった」
元樹くんが微笑む。
「みんなも、喜んでたよ」
「うん……」
私は周りを見る。
クラスメイトたちがチラチラとこちらを見ている。
「見られてる……」
「気にするな」
元樹くんが言う。
「すぐ、慣れるよ」
「そうかな……」
「ああ」
元樹くんが私の手を握る。
「俺が、いるから」
「元樹くん……」
その温もりに安心する。
「ありがとう」
「どういたしまして」
元樹くんが笑う。
その時教室のドアが開いた。
入ってきたのは上野玲。
目が赤い。
泣いていたんだ。
「……」
私は胸が痛んだ。
上野さんを傷つけている。
わかっている。
でもどうしようもない。
「上野さん……」
小さく呟く。
「ん?」
元樹くんが私を見る。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
私は首を振る。
「なんでもないよ」
でも本当はなんでもなくなかった。
上野さんを見ると昔の自分を思い出す。
好きな人に振られた時の自分を。
「辛いよね……」
心の中で呟く。
「わかるよ……」
私も同じだったから。
元樹くんに拒絶された時―
死にたいくらい辛かった。
でも今は元樹くんと一緒にいる。
その幸せを噛みしめている。
「上野さん……」
私は上野さんに何か言いたかった。
でも何を言えばいいかわからなかった。
「ごめんなさい」
なんて言えない。
私は何も悪いことをしていないから。
でも上野さんを傷つけているのは事実だ。
「複雑……」
小さく呟く。
「奈々美?」
「ううん」
私は首を振る。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
私は微笑む。
「大丈夫」
でも心の中では色々なことを考えていた。
上野さんのこと。
元樹くんのこと。
そして私自身のこと。
「変わりたい……」
心の中で呟く。
「もっと、強くなりたい……」
束縛じゃなくて——
信頼で元樹くんを愛したい。
上野さんを敵視するんじゃなくて認められる人間になりたい。
「頑張ろう……」
小さく決意する。
「私、頑張る……」
放課後。
私は廊下を歩いていた。
帰ろうとしていた時―
「柊さん」
声がした。
振り返ると上野さんがいた。
「上野さん……」
「少し、話せる?」
玲さんが言う。
「え……」
私は驚く。
「話……?」
「うん」
玲さんが頷く。
「二人で」
「……わかった」
私は頷く。
「じゃあ、中庭に」
二人で中庭に向かう。
ベンチに座る。
しばらく沈黙が続く。
「あの……」
玲さんが口を開く。
「私、記憶がないから……」
「うん」
「柊さんのこと、よく知らないの」
「そう……」
「でも……」
玲さんが続ける。
「元樹の彼女だってことは、わかってる」
「……」
「元樹が、選んだ人」
玲さんが私を見る。
「どんな人なのか、知りたくて」
「私のこと……」
私は少し戸惑う。
「知りたい……?」
「うん」
玲さんが頷く。
「元樹が好きになった人だから」
「……」
私は何と言えばいいかわからなかった。
「私は……」
言葉を選ぶ。
「普通の、女の子だよ」
「普通……」
「うん」
私は続ける。
「元樹くんのことが、好き」
「それだけ」
「それだけ……」
玲さんが呟く。
「でも……」
私は言う。
「昔の私は、違った」
「え?」
「昔の私は……」
私は正直に話す。
「元樹くんを、束縛してた」
「独占しようとしてた」
「他の誰にも、渡したくなかった」
「……」
玲さんが黙って聞いている。
「でも、それは間違いだった」
私は続ける。
「元樹くんを、苦しめてた」
「だから……」
「変わろうと思った」
私は玲さんを見る。
「今の私は、昔の私とは違う」
「まだ完璧じゃないけど……」
「変わろうとしてる」
「そうなんだ……」
玲さんが呟く。
「柊さんも……」
「苦しんでたんだね」
「うん」
私は頷く。
「たくさん、苦しんだ」
「……」
玲さんが、少し考えてから——
「私も」
「え?」
「私も、苦しいの」
玲さんが言う。
「元樹のことが、好きなのに」
「振られて……」
「でも、諦められなくて……」
「上野さん……」
「ごめん」
玲さんが謝る。
「こんなこと、言っても仕方ないよね」
「柊さんには、関係ない」
「関係なくないよ」
私は言う。
「上野さんの気持ち、わかるから」
「え?」
「私も……」
私は続ける。
「元樹くんに、拒絶されたことがある」
「束縛が嫌だって、言われた」
「その時……」
私は目を閉じる。
「死にたいくらい、辛かった」
「柊さん……」
「だから、わかる」
私は玲さんを見る。
「好きな人に、振られる辛さ」
「でも……」
玲さんが言う。
「柊さんは、今元樹と一緒でしょ?」
「うん」
「どうして……」
「元樹くんが、私を選んでくれた」
私は言う。
「色々あったけど……」
「最後には、私を選んでくれた」
「……」
玲さんが俯く。
「いいな……」
小さく呟く。
「私も、選んでほしかった……」
その言葉に私の胸が、痛んだ。
「上野さん……」
「ごめん」
玲さんが顔を上げる。
「変なこと、言った」
「忘れて」
「忘れない」
私は言う。
「上野さんの気持ち、忘れない」
「柊さん……」
「でも……」
私は続ける。
「私は、元樹くんを譲らない」
「え……」
「元樹くんは、私の彼氏だから」
私は真剣に言う。
「上野さんには、悪いと思ってる」
「でも、譲れない」
「……」
玲さんが黙る。
「これが、私の答え」
私は言う。
「上野さんの気持ちは、わかる」
「でも、私も本気だから」
「……わかった」
玲さんが頷く。
「柊さんの気持ち、わかった」
「上野さん……」
「私も、諦めない」
玲さんが言う。
「柊さんが本気なら、私も本気」
「……」
「正々堂々、勝負する」
玲さんが微笑む。
「いつか、元樹を振り向かせる」
その言葉に私は少し、笑ってしまった。
「ふふ……」
「え?」
「ごめん」
私は笑いを堪える。
「なんか……」
「面白い」
「面白い……?」
「だって……」
私は言う。
「こんな話をするなんて、思わなかった」
「恋敵と……」
「正々堂々、勝負しようなんて……」
「……」
玲さんも少し笑う。
「確かに……」
「変だよね」
「うん」
二人で笑い合う。
不思議な気持ち。
恋敵なのに憎めない。
「上野さん」
「ん?」
「私たち……」
私は言う。
「友達には、なれないかもしれない」
「でも……」
「敵でもないと思う」
「……」
玲さんが考える。
「そうかも」
「うん」
私は頷く。
「同じ人を、好きになっただけ」
「どっちが悪いわけでもない」
「そうだね……」
玲さんが微笑む。
「そう思うと、少し楽になる」
「私も」
二人でしばらく、黙っていた。
中庭に春の風が吹く。
「もうすぐ、春だね」
玲さんが言う。
「うん」
「桜、咲くかな」
「咲くと思う」
私は空を見上げる。
「綺麗だろうね」
「うん……」
二人で空を見る。
灰色の雲。
でもその向こうには青空がある。
きっと春が来る。
新しい季節が始まる。
「じゃあ、私行くね」
玲さんが立ち上がる。
「うん」
私も立ち上がる。
「また、明日」
「うん、また明日」
玲さんが去っていく。
私はその背中を見送る。
「上野さん……」
小さく呟く。
「負けないよ」
でも不思議と嫌な気持ちはなかった。
「元樹くん……」
空を見上げる。
「私、変われたかな……」
昔の私なら上野さんを敵視して排除しようとしていただろう。
でも今は違う。
上野さんの気持ちを認められる。
「成長……かな」
小さく微笑む。
「少しは……」
春の風が私の髪を揺らす。
温かい風。
新しい季節の始まり。
私は深呼吸して歩き出した。
三月二十二日、金曜日。
終業式の日。
俺、渡部元樹は体育館にいた。
「これで、一年が終わるんだな……」
小さく呟く。
この一年色々なことがあった。
奈々美が転校してきて。
束縛されて。
自由を求めて。
でも最終的には奈々美を選んだ。
玲に告白されて。
振って。
傷つけて。
草壁さんの事件があって。
玲が記憶を失って。
「色々あったな……」
隣を見る。
奈々美がいる。
真剣な顔で——
校長先生の話を聞いている。
その横には玲がいる。
少し寂しそうな顔をしている。
「玲……」
小さく呟く。
玲の記憶はまだ、戻っていない。
医者の話ではいつか戻るかもしれないし戻らないかもしれない。
わからないらしい。
「辛いだろうな……」
玲のことが心配だった。
でも俺にできることは限られている。
「元樹くん」
奈々美が小声で言う。
「何?」
「終わったら、一緒に帰ろうね」
「ああ」
俺は頷く。
「約束だ」
終業式が終わる。
教室に戻る。
「皆さん、一年間お疲れ様」
担任の先生が言う。
「四月からは、二年生だ」
「新しいクラスで、また頑張ってくれ」
「はい」
みんなが答える。
「それでは、良い春休みを」
「ありがとうございました」
みんなが立ち上がる。
「元樹」
光明が声をかけてくる。
「春休み、どうする?」
「んー……」
俺は考える。
「特に予定ないけど」
「じゃあ、遊ぼうぜ」
「いいな」
俺は頷く。
「未菜も誘おう」
「おう」
光明が笑う。
「楽しみだ」
「元樹くん」
奈々美が来る。
「帰ろう」
「ああ」
俺は立ち上がる。
「じゃあな、光明」
「おう、また」
二人で教室を出る。
廊下を歩いていると―
「元樹」
声がして、振り返ると玲がいた。
「玲……」
「終業式、終わったね」
玲が微笑む。
「うん」
「春休み、楽しんでね」
玲が言う。
「ああ、玲も」
「うん」
玲が奈々美を見る。
「柊さんも」
「ありがとう、上野さん」
奈々美が答える。
「上野さんも、良い春休みを」
「うん」
玲が微笑む。
二人の間に以前のような緊張感はない。
「じゃあね」
玲が去っていく。
俺はその背中を見送る。
「元樹くん?」
「なんでもない」
俺は首を振る。
「行こう」
「うん」
二人で歩き出す。
校門を出る。
春の日差しが温かい。
「もうすぐ、桜が咲くね」
奈々美が言う。
「ああ」
「お花見、楽しみ」
「俺も」
二人で手を繋ぐ。
「奈々美」
「ん?」
「この一年、ありがとう」
俺は言う。
「色々あったけど……」
「奈々美がいてくれて、よかった」
「元樹くん……」
奈々美が涙ぐむ。
「私こそ……」
「ありがとう」
二人で見つめ合い、そしてキスをした。
春の風が二人を包む。
温かい風。
新しい季節の始まり。
「愛してる」
奈々美が言う。
「俺も」
俺も言う。
「愛してる」
二人でまた歩き出す。
新しい季節へ向かって。
新しい未来へ向かって…
学校に戻った。半年分の記憶がないまま。
元樹への気持ちだけは、はっきりと覚えていた。好きだという気持ち。でも元樹には彼女がいる。柊奈々美さん。
彼女と話をした。恋敵なのに、憎めない人だった。「譲らない」と言われた。私も「諦めない」と答えた。不思議な関係。敵でもない、友達でもない。
終業式の日、二人が手を繋いで歩いていくのを見た。
春が来る。桜が咲く。新しい季節が始まる。
私はまだ、元樹のことが好きだ。
―上野玲




