第31話 「半年前の気持ちのまま」
病室の窓から、冬の朝日が差し込んでいる。
俺、渡部元樹は椅子に座ったまま、じっと玲のベッドを見つめていた。
白いシーツに包まれた玲の体。
頭には包帯が巻かれている。
顔は青白く、目を閉じたまま。
「玲……」
小さく名前を呼ぶ。
でも、返事はない。
モニターの電子音だけが、規則正しく響いている。
ピッ、ピッ、ピッ。
それが、玲が生きている証。
「頼む……」
俺は拳を握りしめる。
「目を覚ましてくれ……」
三日前。
草壁穂香が玲を誘拐し、襲撃した。
石で頭を殴られ、玲は意識不明の重体。
手術は成功したと医者は言った。
でも、まだ目を覚まさない。
「俺のせいだ……」
呟く。
「全部、俺のせいだ……」
もっと早く気づいていれば。
もっと真剣に警告していれば。
玲を守れたかもしれない。
でも、俺は何もできなかった。
いや――
俺が玲を傷つけたから、こんなことになった。
「ごめん……」
涙が溢れてくる。
「本当に、ごめん……」
俺の頭にも包帯が巻かれている。
穂香にバットで殴られた傷。
幸い、軽傷で済んだ。
数日で退院できると医者は言った。
でも――
玲は、まだ目を覚まさない。
「玲……」
もう一度、名前を呼ぶ。
指が、わずかに動いた気がした。
「玲!」
俺は立ち上がり、ベッドに近づく。
でも、それ以上の反応はない。
「気のせい……か」
力なく座り込む。
時計を見ると、午前十時を過ぎている。
もうすぐ、看護師が来る時間だ。
「玲……」
俺は玲の手を握った。
冷たい手。
でも、確かに温もりがある。
「待ってる……」
小さく呟く。
「いつまでも、待ってるから……」
「目を覚ましてくれ……」
窓の外では、冬の空が広がっている。
灰色の雲。
雪が降りそうな空。
寒い朝だった。
俺は椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げた。
ここに来るまでの道のりを、考える。
全ての始まりは――
去年の春だった。
奈々美が転校してきた日。
あの日から、全てが変わった。
最初は、優しい転校生だと思っていた。
でも、次第に束縛が始まった。
常に監視され、行動を制限され、自由を奪われた。
玲との関係もぎくしゃくし始めた。
幼馴染なのに、話すことさえ憚られるようになった。
そして――
玲が告白してくれた。
あの夏の日。
水族館での一日。
玲の真っ直ぐな想い。
「元樹のこと、好き」
その言葉が、今でも耳に残っている。
俺は、どう答えるべきだったのか。
あの時、玲を選んでいれば――
こんなことにはならなかったかもしれない。
でも、俺は奈々美を選んだ。
束縛から逃れたいと思いながらも、奈々美の過去を知り、放っておけなくなった。
7年前の約束。
両親を失った奈々美。
「ずっと一緒にいる」と誓った、幼い日の記憶。
それが、俺を縛っていた。
「責任……か」
小さく呟く。
奈々美の両親の死。
それが、俺の父親の仕事に関係していたこと。
間接的にでも、俺に責任があるような気がしていた。
だから、奈々美を見捨てられなかった。
でも――
その選択が、玲を傷つけた。
「ごめん……玲……」
涙が止まらない。
玲は、どれだけ辛かっただろう。
幼馴染に告白して、振られて。
しかも、その相手が束縛的な女性と付き合い始めて。
そんな中、草壁穂香が現れた。
玲の弱っている心につけ込んで。
俺と同じように、執着して。
そして――
こんな結果になった。
「俺が……」
拳を握りしめる。
「俺が、もっと強ければ……」
玲を守れたかもしれない。
奈々美との関係をきちんと整理できたかもしれない。
でも、俺は優柔不断で、弱くて。
誰も守れなかった。
時計の針が、ゆっくりと進んでいく。
看護師が入ってきた。
「渡部さん、また来ていたんですね?」
優しい声で聞かれる。
「はい……」
俺は頷く。
「もう少し、いさせてください」
「どうぞ」
看護師は玲のバイタルをチェックする。
「上野さん、安定していますよ」
「そうですか……」
「きっと、もうすぐ目を覚ますと思います」
看護師が励ますように言う。
「待っていてあげてください」
「はい……」
看護師が出て行った後、また静寂が戻る。
俺は玲の顔を見つめる。
「玲……」
名前を呼ぶ。
「俺、待ってるから……」
「いつまでも……」
窓の外で、雪が降り始めた。
白い雪が、静かに舞い落ちていく。
冬の朝。
病室の中で、俺は祈り続けた。
玲が目を覚ますことを。
そして――
俺の罪を、許してもらえることを。
同じ日、午前十時
黒峠高校。
私、山田未菜は光明くんと一緒に廊下を歩いていた。
周りの生徒たちの視線が、私たちに集まる。
ヒソヒソと囁く声。
「あれが、上野さんの友達……」
「誘拐事件、怖いよね……」
「犯人、同じ学校の生徒だったんだって……」
私は下を向いて歩く。
「未菜」
光明くんが私の肩に手を置く。
「気にするな」
「うん……」
でも、気にしないわけにはいかない。
草壁穂香の事件は、学校中で大きな話題になっていた。
同級生が、誘拐と傷害事件を起こした。
しかも、被害者も同じ学校の生徒。
「信じられない……」
「草壁さんが、そんなことするなんて……」
生徒たちの声が聞こえる。
私たちは教室に入った。
クラスメイトたちが、一斉にこちらを見る。
「山田さん……」
誰かが小さく呼ぶ。
「上野さん、大丈夫なの?」
「まだ……意識が戻ってないの」
私は力なく答える。
「そう……」
重苦しい空気が教室を包む。
自分の席に座ると、隣の席の子が話しかけてきた。
「山田さん、大変だったね……」
「うん……」
「草壁さんのこと、全然気づかなかった……」
「誰も、気づけなかったよ……」
私は小さく答える。
確かに、誰も気づけなかった。
草壁穂香の異常性を。
玲への執着を。
いや――
気づいていたかもしれない。
でも、見て見ぬふりをしていた。
「私も……」
小さく呟く。
「気づいていたのに……」
違和感は感じていた。
草壁さんの玲ちゃんを見る目。
あまりにも熱烈すぎる態度。
でも、確信が持てなくて。
「もっと早く、動いていれば……」
後悔が押し寄せてくる。
「未菜」
光明くんが隣に来る。
「お前のせいじゃない」
「でも……」
「誰にも予想できなかった」
光明くんが強く言う。
「草壁が、あんなことをするなんて」
その言葉に、私は涙が溢れてきた。
「玲ちゃん……」
「大丈夫だ」
光明くんが私の肩を抱く。
「玲は、強い」
「絶対に、目を覚ます」
「うん……」
私は涙を拭う。
「信じる……」
「玲ちゃんを、信じる……」
チャイムが鳴り、ホームルームが始まる。
担任の先生が入ってきた。
「みんな、座ってください」
先生の表情は、いつもより硬い。
「今日は、大事な話があります」
教室が静まり返る。
「上野玲さんの件について」
先生が続ける。
「すでに知っている人も多いと思いますが」
「上野さんは現在、入院中です」
「容態は安定していますが、まだ意識が戻っていません」
ざわめきが広がる。
「そして、草壁穂香さんは」
先生が言葉を選ぶ。
「警察に逮捕されました」
「傷害と誘拐の容疑です」
教室が、さらにざわつく。
「怖い……」
「信じられない……」
生徒たちの声。
「みんな」
先生が声を上げる。
「この件について、憶測で話すのはやめてください」
「SNSに投稿することも、絶対にしないように」
「わかりましたか?」
「はい……」
生徒たちが小さく答える。
「それから」
先生が続ける。
「もし、心に不安を感じている人がいたら」
「いつでも、相談してください」
「カウンセラーも来ています」
その言葉に、私は少し安心した。
学校も、ちゃんと対応してくれている。
ホームルームが終わり、授業が始まる。
でも、私の心は上の空だった。
玲ちゃんのことが、頭から離れない。
「大丈夫かな……」
小さく呟く。
「早く、目を覚まして……」
昼休み。
私は光明くんと一緒に、屋上にいた。
「未菜」
光明くんが話しかける。
「元樹から連絡あった?」
「今朝、メッセージが来た」
私はスマホを見せる。
『玲の容態は安定してる。でも、まだ目を覚まさない』
その文面を見て、光明くんも暗い表情になる。
「そうか……」
「元樹くん、ずっと病室にいるみたい」
「そうだろうな……」
光明くんが頷く。
「元樹も、自分を責めてるだろうから」
「うん……」
私は空を見上げる。
灰色の雲が、重く垂れ込めている。
「雪、降るかな……」
「かもな」
光明くんも空を見る。
「寒くなってきたし」
二人で黙って、空を見つめる。
しばらくして――
屋上のドアが開いた。
振り返ると、そこには――
草壁穂香の友達、佐藤愛が立っていた。
「山田さん……」
愛さんが小さく呼ぶ。
「佐藤さん……」
私は驚く。
「どうして……」
「少し、話したくて……」
愛さんが近づいてくる。
その表情は、暗く沈んでいる。
「いいですか?」
「うん……」
私は頷く。
愛さんが、私たちの前に立つ。
そして――
深く頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい……」
その声は、震えている。
「佐藤さん……」
「私、穂香ちゃんの友達だったのに……」
愛さんが続ける。
「何も気づけなかった……」
「穂香ちゃんが、あんなに……」
涙が、ポタポタと床に落ちる。
「あんなに苦しんでいたのに……」
「佐藤さん……」
私は愛さんの肩に手を置く。
「顔を上げてください」
「でも……」
「あなたは、悪くないよ」
私は優しく言う。
「誰も、予想できなかった」
「草壁さんが、あんなことをするなんて」
愛さんが顔を上げる。
目は真っ赤に腫れている。
「でも……私、友達だったのに……」
「友達だからって、全部わかるわけじゃない」
光明くんが言う。
「人の心の奥まで、見えないだろ」
「でも……」
愛さんが泣き続ける。
「穂香ちゃんにもっと寄り添ってあげるべきだった……」
「中学の時のこと、聞いてたのに……」
幼馴染への執着。
束縛。
そして、その子の転校。
「穂香ちゃん、すごく傷ついてた……」
愛さんが続ける。
「『裏切られた』って、ずっと言ってた……」
「でも、違うの……」
「裏切ったんじゃなくて、逃げたんだよ……」
愛さんの声が震える。
「束縛から、逃げたんだよ……」
「でも、穂香ちゃんは気づかなかった……」
「自分の愛し方が、間違ってるって……」
その話を聞いて、私は胸が痛んだ。
草壁穂香。
彼女も、被害者だったのかもしれない。
愛し方を知らなかった。
健全な愛情と、執着の違いを理解できなかった。
「そして……」
愛さんが続ける。
「高校に入って、上野さんと出会った……」
「穂香ちゃん、すごく嬉しそうだった……」
「『やっと』って……」
「でも……」
愛さんが泣く。
「また、同じことを繰り返してた……」
「執着して、束縛して……」
「私、気づいてたのに……」
「何も言えなかった……」
愛さんが再び頭を下げる。
「本当に、ごめんなさい……」
私は愛さんを抱きしめた。
「佐藤さん……」
「あなたは、悪くない……」
「絶対に、悪くない……」
愛さんが私の肩で泣く。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
光明くんも、優しく愛さんの背中をさする。
「大丈夫だ」
「お前のせいじゃない」
三人で、しばらくそうしていた。
冬の風が吹いて、髪が揺れる。
寒い昼休み。
でも、三人の心は――
少しだけ、温かかった。
同じ日、午後二時
警察署、取調室。
私、草壁穂香は椅子に座っていた。
向かいには、二人の刑事。
男性と女性。
「草壁穂香さん」
男性刑事が口を開く。
「これから、事情を聞きます」
「はい……」
私は小さく答える。
「まず、あなたの権利について説明します」
刑事が続ける。
「黙秘権があります」
「話したくないことは、話さなくてもいい」
「でも、話してくれた方が、あなたのためになります」
「わかりますか?」
「はい……」
私は頷く。
「では、始めます」
刑事がノートを開く。
「あなたは、上野玲さんを誘拐しました」
「それは、事実ですか?」
その質問に、私は答える。
「はい……」
「どこに連れて行きましたか?」
「桜ヶ丘の……廃工場です……」
「なぜ、そこに?」
刑事が聞く。
「中学の時……」
私は小さく言う。
「よく、一人で行ってた場所だから……」
「誰も来ない、静かな場所……」
「そこで、上野さんと何をするつもりでしたか?」
その質問に、私は答えられなかった。
「草壁さん」
女性刑事が優しく言う。
「ゆっくりでいいから、話してください」
「あなたの気持ちを、聞かせてください」
その言葉に、私は少し気持ちが楽になった。
「私……」
小さく呟く。
「玲さんと、ずっと一緒にいたかったんです……」
「ずっと一緒に?」
「はい……」
私は頷く。
「玲さんは、優しくて……」
「私が辛い時、側にいてくれて……」
「大切な人だったんです……」
「でも……」
刑事が促す。
「でも……」
私は続ける。
「玲さんは、私から離れようとした……」
「『友達でいられない』って……」
涙が溢れてくる。
「それが、怖かったんです……」
「また……裏切られるのが……」
「裏切られる?」
刑事が聞く。
「中学の時も……」
私は過去を話し始めた。
幼馴染のこと。
彼女への執着。
そして、彼女の転校。
「『穂香は、おかしい』って言われました……」
「『ストーカーだ』って……」
「でも、違うんです……」
私は強く言う。
「私は、ただ愛してただけなんです……」
「一緒にいたかっただけなんです……」
「それの、どこがおかしいんですか……」
刑事は黙って聞いている。
「そして……」
私は続ける。
「高校に入って、玲さんと出会った……」
「玲さんも、傷ついてたんです……」
「渡部元樹に、振られて……」
「だから、私が支えようと思った……」
「玲さんを、守ろうと思った……」
「でも……」
私の声が震える。
「玲さんも、私を拒絶した……」
「『重すぎる』って……」
「『執着だ』って……」
「みんな、同じことを言う……」
私は泣き始めた。
「私の愛は、そんなにおかしいですか……」
「ただ、一緒にいたいだけなのに……」
「独占したいだけなのに……」
「それが、どうして悪いんですか……」
女性刑事が、ティッシュを差し出す。
「ありがとうございます……」
私は涙を拭う。
「草壁さん」
女性刑事が優しく言う。
「あなたの気持ち、わかります」
「愛する人と一緒にいたい」
「それは、自然な感情です」
「でも……」
刑事が続ける。
「相手の気持ちも、大切にしないといけません」
「相手が嫌がっているのに、無理やり一緒にいる」
「それは、愛じゃありません」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「でも……」
「愛は、相手を幸せにするものです」
女性刑事が言う。
「相手を苦しめるなら、それは愛じゃない」
「執着です」
「支配です」
「束縛です」
一つ一つの言葉が、重い。
「私……」
小さく呟く。
「私、間違ってたんですか……」
「はい」
刑事が頷く。
「あなたは、間違っていました」
「でも……」
刑事が続ける。
「それに気づくことが、大切です」
「今からでも、遅くありません」
その言葉に、私は泣き崩れた。
「ごめんなさい……」
「玲さん……」
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
涙が止まらない。
玲さんを傷つけた。
殺そうとした。
全てが、間違っていた。
「私……」
小さく呟く。
「私、病気だったんですか……」
「病気……」
刑事が考える。
「それは、専門家に診てもらう必要があります」
「でも、あなたには」
刑事が続ける。
「治療が必要だと思います」
「心の治療が」
「心の……治療……」
私は呟く。
「はい」
刑事が頷く。
「カウンセリングを受けたり」
「薬を飲んだり」
「そうすれば、きっと良くなります」
「良く……なれますか……」
「なれます」
女性刑事が優しく言う。
「あなたは、まだ若い」
「これから、やり直せます」
「やり直す……」
私は考える。
「本当に……できますか……」
「できます」
刑事が強く言う。
「でも、それには」
「まず、自分の過ちを認めることです」
「そして、償うことです」
「償う……」
私は玲さんのことを思い出す。
「玲さん……」
「今、どうしてるんですか……」
刑事が少し躊躇してから答える。
「上野さんは……」
「まだ、意識が戻っていません」
その言葉に、私の血の気が引いた。
「え……」
「頭部への打撃で、重傷です」
刑事が続ける。
「手術は成功しましたが」
「いつ目を覚ますかは、わかりません」
「そんな……」
私は震える。
「私……玲さんを……」
「殺そうとしたんですか……」
「結果的には、そうです」
刑事が厳しく言う。
「あなたの行為は、殺人未遂に問われる可能性があります」
「殺人……未遂……」
私は信じられなかった。
自分が、そんなことを。
「玲さん……」
涙が溢れる。
「ごめんなさい……」
「本当に、ごめんなさい……」
泣き続ける私を、刑事は黙って見ている。
「草壁さん」
しばらくして、男性刑事が口を開く。
「これから、どうしますか?」
「どう……?」
「罪を認めますか?」
刑事が聞く。
「それとも、否認しますか?」
その質問に、私は迷わず答えた。
「認めます……」
「全部、認めます……」
「私が……」
涙を流しながら言う。
「私が、悪かったんです……」
「玲さんを、傷つけたんです……」
「全部、私の責任です……」
刑事が頷く。
「わかりました」
「それでは、調書を作成します」
「サインしてください」
差し出された書類に、私はサインする。
震える手で。
「草壁さん」
女性刑事が最後に言う。
「これから、裁判があります」
「弁護士も付きます」
「でも、あなたの罪は重い」
「覚悟してください」
「はい……」
私は頷く。
「でも……」
刑事が続ける。
「あなたには、更生のチャンスがあります」
「まだ若いから」
「だから、諦めないでください」
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
「ありがとうございます……」
取調室を出る。
留置場に戻される。
冷たい部屋。
鉄格子。
ここが、私の居場所。
「玲さん……」
小さく呟く。
「ごめんなさい……」
「本当に……」
「ごめんなさい……」
涙が止まらない。
でも――
後悔しても、遅い。
玲さんを傷つけた事実は、消えない。
「私……」
ベッドに横になる。
「これから、どうなるんだろう……」
天井を見つめる。
答えは、出ない。
ただ――
玲さんが、無事に目を覚ますことを。
そして――
いつか、許してもらえることを。
祈るしかなかった。
数日後、俺は退院した。
頭の傷は、思ったより早く治った。
医者も驚いていた。
「若いからですね」
そう言われた。
でも――
心の傷は、まだ癒えていない。
病院を出て、すぐに別の病棟に向かう。
玲が入院している病棟。
エレベーターに乗り、三階へ。
廊下を歩く。
看護師たちが、忙しそうに動いている。
玲の病室の前に着く。
ドアをノックする。
「失礼します……」
中に入ると――
「元樹……」
ベッドに座っている人がいた。
玲だった。
「玲!」
俺は駆け寄る。
「目を覚ましたのか!」
玲は、不思議そうに俺を見る。
「元樹……?」
「ああ、俺だ」
俺は涙が溢れてくる。
「良かった……」
「本当に、良かった……」
玲は、混乱している様子だった。
「あの……」
小さく言う。
「ここは……どこ?」
「病院だよ」
俺は答える。
「玲、怪我をして……」
「怪我……?」
玲が首を傾げる。
「私……何があったの?」
その質問に、俺は言葉に詰まった。
「玲……」
「覚えてない……?」
「うん……」
玲が頷く。
「何も……」
その時、医者が入ってきた。
「上野さん、目が覚めましたね」
「はい……」
玲が小さく答える。
医者は玲の様子を確認する。
「少し、質問してもいいですか?」
「はい……」
「今日は、何月何日ですか?」
「え……」
玲が考える。
「わかりません……」
「そうですか」
医者がメモを取る。
「では、ここはどこかわかりますか?」
「病院……ですよね?」
「はい」
医者が頷く。
「では、あなたの名前は?」
「上野玲……です」
「いいですね」
医者が微笑む。
「では、最後に」
「今、何歳ですか?」
「十五歳……です」
玲が答える。
医者は俺の方を見た。
「渡部さん、少し外で話しましょう」
「はい……」
俺は玲に言う。
「すぐ戻るから」
「うん……」
玲が頷く。
廊下に出る。
医者が説明を始めた。
「上野さんは、記憶障害があります」
「記憶……障害……」
「はい」
医者が続ける。
「頭部への打撃で、脳に損傷がありました」
「そのため、最近の記憶が曖昧になっています」
「最近の……」
「おそらく、ここ半年ほどの記憶です」
医者が言う。
「はっきりとは思い出せないようです」
その言葉に、俺は愕然とした。
「半年……」
「そうです」
「それって……」
俺は考える。
半年前。
去年の夏。
玲が俺に告白した頃。
「玲は……」
俺は医者に聞く。
「俺のことを、覚えてますか?」
「覚えています」
医者が頷く。
「でも、最近の出来事は曖昧です」
「あなたと何があったか」
「詳しくは思い出せないでしょう」
俺は、頭が真っ白になった。
「そんな……」
「ただ」
医者が続ける。
「記憶は、徐々に戻る可能性があります」
「完全に失われたわけではありません」
「本当ですか……」
「はい」
医者が頷く。
「でも、無理に思い出させようとしないでください」
「ゆっくりと、自然に思い出すのを待ちましょう」
「わかりました……」
俺は深く息を吐く。
「それでは、また様子を見に来ます」
医者が去っていく。
俺は、その場に立ち尽くした。
玲が、半年分の記憶を失った。
俺との関係。
告白。
別れ。
全てを、忘れている。
「玲……」
小さく呟く。
どうすればいいんだ。
どう接すればいいんだ。
答えは、出ない。
でも――
玲のところに戻らなければ。
俺は病室に戻った。
ドアを開けると、玲が窓の外を見ていた。
「玲」
声をかけると、玲が振り返る。
「元樹」
微笑む。
その笑顔が――
昔の玲の笑顔だった。
俺を見る目が――
優しくて、温かくて。
「元樹、座って」
玲がベッドの横を指す。
「ああ……」
俺は椅子に座る。
「ねえ、元樹」
玲が聞く。
「私、どうして怪我したの?」
その質問に、俺は答えられなかった。
「それは……」
どう説明すればいいんだ。
草壁穂香のこと。
誘拐のこと。
全てを話すべきか。
「元樹?」
玲が不思議そうに見る。
「ごめん……」
俺は小さく言う。
「今は、ゆっくり休んで」
「話は、また後で」
「うん……」
玲が頷く。
「でも、心配……」
「大丈夫」
俺は微笑む。
「玲は、大丈夫だから」
「そう……」
玲が安心したように微笑む。
そして――
俺の手を握った。
「元樹……」
小さく呟く。
「ありがとう……」
「側にいてくれて……」
その言葉に、俺の胸が締め付けられる。
玲は――
まだ俺のことを、信頼してくれている。
半年前の、幼馴染としての俺を。
告白する前の、友達としての俺を。
「玲……」
俺は玲の手を握り返す。
「俺も……」
言葉が続かない。
ただ――
玲の手の温もりが、優しかった。
しばらくして、ノックの音が聞こえた。
「はい」
俺が答えると、ドアが開く。
入ってきたのは――
奈々美だった。
「元樹くん……」
奈々美が俺を見る。
「奈々美……」
俺は立ち上がる。
「来てくれたのか」
「うん……」
奈々美が玲の方を見る。
「……」
「あの……」
玲が不思議そうに奈々美を見る。
「あなた、誰?」
その言葉に、奈々美の表情が変わった。
「え……」
「玲……」
俺は玲に言う。
「この人は……」
どう説明すればいいんだ。
奈々美は、俺の彼女。
でも、玲はそれを知らない。
「元樹くん……」
奈々美が俺を見る。
「上野さん、記憶が……」
「ああ……」
俺は頷く。
「ここ最近の記憶が、曖昧なんだ」
「そう……」
奈々美が玲に近づく。
「初めまして、上野さん」
「私は、柊奈々美」
「柊……さん……」
玲が首を傾げる。
「どこかで……会いましたか?」
「ええ」
奈々美が微笑む。
「同じ学校よ」
「そうなんだ……」
玲が頷く。
「でも、覚えてなくて……ごめんなさい」
「いいのよ」
奈々美が優しく言う。
「今は、ゆっくり休んで」
「はい……」
奈々美は俺の方を見る。
「少し、外で話せる?」
「ああ……」
俺は玲に言う。
「ちょっと、席を外すね」
「うん」
玲が頷く。
廊下に出る。
奈々美が俺を見つめる。
「元樹くん……」
「奈々美……」
「上野さん、本当に覚えてないの?」
「ああ……」
俺は頷く。
「医者が言うには、半年分の記憶が曖昧らしい」
「半年……」
奈々美が考える。
「それって……」
「ああ」
俺は続ける。
「俺と玲の関係も」
「告白も、別れも」
「全部、覚えてない」
その言葉に、奈々美は複雑な表情をした。
「そう……」
「奈々美……」
俺は奈々美の手を握る。
「ごめん……」
「どうして謝るの?」
「玲が……」
俺は言葉を選ぶ。
「俺のことを、まだ好きだと思ってるかもしれない」
「半年前の記憶のまま……」
その言葉に、奈々美は少し寂しそうに微笑んだ。
「そう……」
「でも……」
俺は強く言う。
「俺の気持ちは変わらない」
「奈々美が好きだ」
「元樹くん……」
奈々美が俺を見る。
「本当に……?」
「ああ」
俺は頷く。
「だから、心配しないで」
「うん……」
奈々美が微笑む。
「信じてる」
二人で病室に戻る。
玲は、まだベッドに座っていた。
「お待たせ」
俺が言うと、玲が微笑む。
「おかえり」
そして――
奈々美を見る。
「柊さん……」
「はい?」
「あの……」
玲が少し恥ずかしそうに言う。
「元樹と、どういう関係ですか?」
その質問に、俺と奈々美は顔を見合わせた。
「それは……」
俺が答えようとする。
でも、奈々美が先に言った。
「私は、元樹くんの彼女よ」
その言葉に、玲の表情が固まった。
「え……」
「彼女……?」
「ええ」
奈々美が頷く。
「元樹くんと、付き合ってるの」
玲は、俺を見る。
「元樹……本当……?」
「ああ……」
俺は頷く。
「本当だ」
その瞬間――
玲の目から、涙が溢れた。
「そんな……」
小さく呟く。
「嘘……」
「玲……」
俺は近づこうとする。
でも、玲は顔を背けた。
「来ないで……」
震える声。
「私……」
涙が止まらない。
「私、元樹のこと……」
「好きなのに……」
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「玲……」
「どうして……」
玲が泣く。
「どうして、私じゃないの……」
「玲……」
俺は何も言えなかった。
ただ――
玲の涙を見ることしかできなかった。
奈々美も、辛そうな顔をしている。
「上野さん……」
でも、玲は答えない。
ただ、泣き続けるだけ。
「ごめん……」
俺は小さく言う。
「本当に、ごめん……」
でも、その言葉は――
玲には届かなかった。
数週間後、二月十四日、午前十時
私、山田未菜は台所に立っていた。
今日は、バレンタインデー。
手作りチョコを作る日。
「よし……」
材料を確認する。
チョコレート、生クリーム、バター。
全部、揃っている。
「頑張ろう……」
ボウルを取り出す。
チョコレートを刻む。
湯煎にかける。
ゆっくりと溶かしていく。
「うまくできるかな……」
不安になる。
料理は得意じゃない。
でも――
光明くんのために、頑張りたい。
チョコレートが溶けたら、生クリームを入れる。
よく混ぜる。
「いい感じ……」
型に流し込む。
冷蔵庫に入れる。
「あとは、固まるのを待つだけ」
時計を見る。
午前十時半。
光明くんと会うのは、午後二時。
「それまでに、ラッピングもしないと……」
リボンを用意する。
メッセージカードも。
「何て書こうかな……」
ペンを持つ。
『光明くんへ』
『いつもありがとう』
『これからも、よろしくね』
『未菜より』
シンプルだけど、気持ちを込めて。
「よし……」
カードをリボンに添える。
冷蔵庫を開ける。
チョコは、いい感じに固まっている。
「完璧……」
型から外す。
綺麗なハート型。
「できた……」
嬉しくなる。
ラッピングする。
透明な袋に入れて、リボンで結ぶ。
「かわいい……」
自分でも満足の出来。
「光明くん、喜んでくれるかな……」
ドキドキする。
時計を見ると、もう午後一時。
「そろそろ、準備しないと……」
着替える。
ワンピースに、コート。
髪も整える。
メイクも少し。
「よし……」
鏡を見る。
「いい感じ……」
チョコを持って、家を出る。
午後二時
駅前の広場。
私は光明くんを待っていた。
「遅いな……」
時計を見る。
午後二時五分。
「もうすぐ来るはず……」
周りを見回す。
カップルたちが、たくさんいる。
バレンタインデーだから。
「みんな、幸せそう……」
少し羨ましくなる。
でも――
私にも、光明くんがいる。
「未菜!」
後ろから声がした。
振り返ると、光明くんが走ってきた。
「ごめん、遅れた」
「ううん、大丈夫」
私は微笑む。
「待ってたよ」
「ありがとう」
光明くんが息を切らしている。
「どうしたの?」
「ちょっと、用事が長引いて……」
光明くんが笑う。
「でも、間に合って良かった」
「うん」
私も笑う。
二人で歩き出す。
「どこ行く?」
光明くんが聞く。
「んー……」
私は考える。
「カフェとか、どう?」
「いいね」
光明くんが頷く。
「じゃあ、あの店」
近くのカフェに入る。
窓際の席に座る。
「何飲む?」
光明くんが聞く。
「カフェラテ」
「了解」
光明くんが注文しに行く。
私は、バッグからチョコを取り出す。
「ドキドキする……」
心臓が早鳴る。
光明くんが戻ってきた。
「お待たせ」
二つのカップを置く。
「ありがとう」
私はカフェラテを一口飲む。
「おいしい……」
「そう?」
光明くんも飲む。
「うん、いい感じ」
しばらく、他愛もない話をする。
学校のこと。
玲ちゃんのこと。
「そういえば……」
光明くんが言う。
「玲、もうすぐ退院らしいよ」
「え、本当?」
「ああ」
光明くんが頷く。
「元樹から聞いた」
「良かった……」
私は安心する。
「でも、記憶は……」
「まだ、戻ってないみたい」
光明くんが続ける。
「半年分の記憶が、曖昧なまま」
「そう……」
私は少し悲しくなる。
「玲ちゃん、辛いだろうな……」
「ああ……」
光明くんも暗い表情になる。
「でも、元樹が支えてるから」
「うん……」
しばらく、沈黙が続く。
「あの……」
私は意を決して言う。
「光明くん」
「ん?」
「これ……」
バッグからチョコを取り出す。
「バレンタインのチョコ……」
光明くんの目が、大きくなった。
「未菜……」
「受け取って……」
私はチョコを差し出す。
光明くんは、少し驚いた顔をしてから――
嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
チョコを受け取る。
「手作り?」
「うん……」
私は恥ずかしくなる。
「初めて作ったから、うまくできてるかわからないけど……」
「嬉しい」
光明くんが言う。
「未菜が、俺のために作ってくれたんだ」
「うん……」
私は頬が熱くなる。
「光明くんのために……」
光明くんは、チョコを大切そうに持つ。
「大事に食べる」
「ありがとう、未菜」
「こちらこそ……」
私は微笑む。
「いつも、ありがとう」
「俺も」
光明くんが私の手を握る。
「未菜がいてくれて、ありがとう」
その言葉に、私の胸が温かくなった。
「光明くん……」
「好きだよ、未菜」
「私も……」
私は涙が溢れそうになる。
「光明くんのこと、大好き……」
二人で見つめ合う。
窓の外では、雪が降り始めていた。
バレンタインデーの雪。
静かで、美しい。
午後四時
私、上野玲は病室のベッドに座っていた。
今日、退院が決まった。
「やっと……」
小さく呟く。
長い入院生活だった。
でも――
記憶は、まだ戻っていない。
半年分の記憶。
みんなが言うには、色々なことがあったらしい。
でも、思い出せない。
特に――
元樹のこと。
「元樹……」
名前を呟く。
元樹は、今彼女がいる。
柊奈々美さん。
綺麗な人。
優しそうな人。
でも――
私は、受け入れられない。
元樹のことが、好きだから。
幼い頃から、ずっと好きだった。
その気持ちは、今も変わらない。
「どうして……」
涙が溢れてくる。
「どうして、私じゃないの……」
ノックの音が聞こえた。
「はい」
答えると、ドアが開く。
入ってきたのは――
元樹だった。
「玲」
「元樹……」
私は涙を拭う。
「来てくれたんだ」
「ああ」
元樹が近づいてくる。
「退院、おめでとう」
「ありがとう……」
私は小さく答える。
元樹は、椅子に座る。
「これ……」
何かを差し出す。
「何?」
「バレンタインのチョコ」
元樹が言う。
「買ってきた」
私は、そのチョコを受け取る。
「ありがとう……」
「玲が好きだったやつ」
元樹が微笑む。
「覚えてたから」
その言葉に、私の胸が温かくなった。
「元樹……」
「何?」
「あのね……」
私は言葉を選ぶ。
「私……来年は、手作りする」
「え?」
元樹が驚く。
「手作りのチョコ」
私は続ける。
「元樹に、渡す」
「玲……」
「だから……」
私は強く言う。
「待ってて」
「来年のバレンタイン」
「絶対に、手作りのチョコを作る」
その言葉に、元樹は複雑な表情をした。
「玲……」
「元樹は、柊さんと付き合ってる」
私は言う。
「それは、わかってる」
「でも……」
涙が溢れてくる。
「私の気持ちも、わかって……」
「元樹のことが、好きなの……」
「ずっと、好きだったの……」
「だから……」
私は続ける。
「諦められない……」
「諦めたくない……」
元樹は、何も言わなかった。
ただ、俺を見つめている。
「ごめん……」
私は謝る。
「困らせて……」
「でも……」
私は強く言う。
「これが、私の気持ち……」
「変えられない……」
元樹は、深く息を吐いた。
「玲……」
「何?」
「俺は……」
元樹が言葉を選ぶ。
「奈々美が好きだ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「わかってる……」
私は小さく言う。
「でも……」
「でも、玲の気持ちも大切にしたい」
元樹が続ける。
「幼馴染として」
「友達として」
その言葉に、私は少し救われた気がした。
「ありがとう……」
「玲」
元樹が私の手を握る。
「無理しないで」
「ゆっくりでいい」
「記憶も、徐々に戻るから」
「うん……」
私は頷く。
「信じる……」
二人で、しばらく黙っていた。
窓の外では、雪が降り続けている。
白い雪が、静かに積もっていく。
「綺麗だね……」
私が呟く。
「ああ……」
元樹も窓を見る。
「綺麗だ……」
二人で雪を見つめる。
この瞬間が――
ずっと続けばいいのに。
そう思った。
でも――
時間は、止まらない。
元樹は、いつか帰らなければならない。
柊さんのところに。
「元樹……」
私は小さく呟く。
「ありがとう……」
「来てくれて……」
「どういたしまして」
元樹が微笑む。
「また、来るから」
「うん……」
私も微笑む。
「待ってる……」
元樹が立ち上がる。
「じゃあ、また」
「うん……」
元樹が病室を出ていく。
私は、一人になった。
手の中には、元樹がくれたチョコ。
「来年……」
小さく呟く。
「絶対に、手作りする……」
「元樹に、渡す……」
その決意を胸に――
私は、窓の外の雪を見続けた。
バレンタインデーの雪。
冷たくて、美しい。
でも――
私の心は、温かかった。
元樹への想いで。
二月十五日。
元樹は奈々美の病室に来ていた。
「元樹くん」
奈々美が話しかける。
「昨日、上野さんに会ったんでしょ?」
「ああ……」
俺は頷く。
「チョコを渡しに行った」
「そう……」
奈々美が少し寂しそうに微笑む。
「上野さん、喜んでた?」
「ああ……」
俺は答える。
「でも……」
「でも?」
「玲は、まだ俺のことが好きだって言った」
その言葉に、奈々美は立ち止まった。
「そう……」
「奈々美……」
俺は奈々美を見る。
「でも、俺の気持ちは変わらない」
「奈々美が好きだ」
「元樹くん……」
奈々美が俺を見る。
「本当に……?」
「ああ」
俺は頷く。
「絶対に」
奈々美は、少し涙ぐんだ。
「ありがとう……」
「俺こそ」
俺は奈々美を抱きしめる。
「いつも、そばにいてくれて」
「ありがとう」
二人で抱き合う。
静かで、平和な時間。
「これから……」
奈々美が小さく言う。
「どうなるんだろう……」
「わからない」
俺は正直に答える。
「玲の記憶が戻ったら……」
「色々、変わるかもしれない」
「怖い……?」
奈々美が聞く。
「怖い」
俺は認める。
「でも……」
俺は奈々美を見る。
「一緒に乗り越えよう」
「二人で」
その言葉に、奈々美は微笑んだ。
「うん……」
「一緒に……」
未来は、わからない。
玲の記憶が戻ったら、何が起こるか。
草壁穂香の裁判が、どうなるか。
全てが、不透明。
でも――
今は、奈々美と一緒にいる。
それだけで、十分だった。
窓の外を見上げる。
灰色の雲が、広がっている。
また、雪が降りそうだ。
「元樹くん」
奈々美が手を握ってくる。
「ん?」
「好きだよ」
その言葉に、俺も答える。
「俺も」
「好きだ、奈々美」
二人で手を繋ぐ。
この状況がどこまで続くのか、わからない。
でも――
一緒なら、大丈夫。
そう信じて。
第31話、お読みいただきありがとうございました。
今回は穂香事件の余波と、玲の記憶障害という新たな展開を描きました。
元樹は病室で玲を見守り、自分のこれまでの選択を振り返ります。奈々美を選び、玲を傷つけた過去。その結果、玲は穂香の執着の対象となり、命の危機に瀕しました。
学校では穂香の事件が大きな話題に。未菜と光明は玲を心配し、穂香の友人・佐藤愛が謝罪に訪れます。「あなたは悪くない」という言葉が、愛を救います。
警察での取調べシーンでは、穂香の心情を詳しく描きました。中学時代のトラウマ、愛と執着の境界線がわからない苦しみ、そして玲を傷つけた後悔。彼女もまた、被害者であり加害者です。
そして玲が目を覚ましますが、半年分の記憶を失っていました。元樹への告白も、別れも、穂香との出来事も覚えていない。彼女の中では、まだ元樹が「好きな幼馴染」のままです。
奈々美が病室を訪れ、「元樹くんの彼女」だと告げると、玲は涙を流します。記憶を失った玲にとって、それは突然の衝撃でした。
バレンタインデーには、未菜が光明に手作りチョコを渡す温かいシーン。そして元樹が玲に買ってきたチョコを渡すと、玲は「来年は手作りする」と宣言します。記憶を失っても、想いは消えていませんでした。
次回以降、玲の記憶は戻るのか。戻ったとき、彼女は何を思うのか。元樹と奈々美の関係はどうなるのか。
物語は新たな局面を迎えます。
暁の裏




