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第十二章(2):魔王、恋の教科書で大誤算


あの「帝都ラブストーリー」の光景が、俺の脳裏から離れない。


陽子殿が「恋には駆け引きが必要!」と力説していた、あの奇妙な男女のやり取り。なぜ好いているのに突き放す?なぜ心を痛め合わせる?まるで理解不能な魔術の呪文だ。


そして、ドラマの女性が放ったあの言葉。


「私への愛情が重すぎるのよ!」


陽子殿は、「愛情が深すぎると、相手が息苦しく感じちゃうこともある。独占欲が強すぎたり、何でも相手に尽くしすぎたりすると、『重い』って言われちゃう」と説明した。


俺の知る愛とは真逆の概念。

しかし、もしセラフィナが、俺の無限の愛情を「重い」と感じているとしたら?

俺は、彼女の望むものを何も理解していないのではないか?



セラフィナが婚約を隠していること。


この世界の日常は、俺の知る魔界の常識とはあまりにもかけ離れた「ルール」に満ちているのではないか。このままでは、セラフィナの心は永遠に解き明かせぬ謎のままだ。




その日の夜、俺はアルドロンが購入した知の宝庫――大量の書籍の山へ、ひっそりと向かった。


まだ彼の手がつけられていない段ボールの奥から、「恋」や「人間関係」といった、いかにもこの世界の「常識」が詰まっていそうな本をいくつか引きずり出す。


陽子殿が見ていたようなドラマの原作小説、そして輝かしい表紙の「恋愛指南書」とやらだ。


俺は静かに、しかし真剣な面持ちでそれらのページをめくり始めた。


「…なるほど。『わざとそっけなくする』ことで、相手の気を引く…?」


「『他の異性と親密にすることで、嫉妬心を煽る』…?」


俺の心が、活字を追うごとに、微かに、しかし確実に揺れる。


愛する者には、迷うことなく愛を伝える。それが魔界の王としての俺の流儀であり、絶対の常識だった。


しかし、この人間界(特にここ日本)では、それが通用しないどころか、むしろ逆効果になるというのか!?



特に、あるページに釘付けになった。そこにはこう書かれていた。


『相手に尽くしすぎると、かえって「重い」と感じさせてしまうことがある。時には、少し突き放す態度も必要だ』 これだ!やはり陽子殿の言った通りだった!


俺の、セラフィナへの惜しみない愛が、もし「重い」と彼女に感じられていたとしたら…!

もしや、セラフィナが婚約を周囲に明かさないのも、この「駆け引き」とやらが関係しているのか…?

この世界の『恋』の作法とは、かくも複雑怪奇なものなのか…?



俺は、静かに、そして固く決意した。愛するセラフィナとの絆を深めるためならば、この未知の「駆け引き」とやらも、魔王の威信にかけて習得してみせる!





翌日からの俺の態度は、まさしく豹変していた。


朝、登校前。

ああ、愛おしいセラフィナの頬を撫でてやりたい。そうすれば、きっと彼女は頬を淡く染め、少し恥ずかしそうに微笑むだろう。

そして、俺も名残惜しそうに「また後で」と囁くはずだった。


だが、この日は違う。


俺はセラフィナのほうをあえて見向きもせず、隣に立つアルドロンと「今日の大学の講義について」などと、これ以上ないほど真面目な顔で話し込んだ。


「ルシアン様、行ってらっしゃい!」


可愛いセラフィナが、健気に手を振って見送ってくれるのが視界の端で捉えられた。その姿を目に焼き付けたい衝動に駆られる。

このまま抱きしめ、頬に口づけをしたい



だが、ここは心を鬼にする時。


俺はちらりと彼女に視線を向けただけで、何の返事もせず、足早に大学へ向かう。


(ふむ、完璧な「塩対応」だ。愛おしいセラフィナのことだから、きっと俺のことをより強く意識するはず。書物通り…いや、この効果は書物以上か!?)内心でほくそ笑む。



放課後。


学校から帰宅すると、俺は既にテレビの前に陣取り、画面の中の「帝都ラブストーリー」を鑑賞する。

まるで複雑な魔術理論でも解き明かすかのように、ドラマの登場人物たちの言動を分析する。


陽子殿が隣でクスクスと笑いながら「あらあら、ルシアンさん、そんなに真剣にならなくても」と声をかけているが、俺は頷くのみで、画面から目を離さない。


「…なるほど、ここで『わざと厳しい言葉を投げかけ、相手の真意を探る』と…」


(完璧なシミュレーションだ。この場面の主人公は、相手の女にわざと冷たくすることで、より自分のことを意識させている。やはり、あの書物に書かれていることは真実なのだろう。セラフィナも、きっと俺のことをより強く意識するはずだ。それにしても、この『帝都ラブストーリー』…なかなか奥深いな…)


俺は、リビングの入り口に立つセラフィナの存在に全く気づいていないかのように、ドラマの世界に没頭していた。


(これで、彼女は俺への愛情を再確認するだろう。計画通り!)俺は、完璧に役を演じているつもりだった。





そして、翌日。


昼休みになり、セラフィナが俺のいる大学のキャンパスへと向かってくるのが見えた。


俺は、セラフィナが自分に近づいてくるのを察知し、心の中で勝利のファンファーレを鳴らす。


俺の周りに女子学生たちが群がっている。いつものことだ。しかし、今日は違うのだ!


俺は、女子学生の一人と親しげに話しているのだ。


彼女の冗談に、普段は表情を崩さない俺が、微かに口元を緩め、楽しそうにしているように見せた。


(あくまで書籍に書かれた「模範例」に従い、わざと女子学生の目を見て、時折彼女の言葉に小さく頷くという、普段ならば決してしないような社交的な仕草を試みていたのだ。これぞ、高度な「嫉妬心煽り」!)


(よし、完璧だ。これでセラフィナは俺のことをさらに強く意識するだろう。彼女の嫉妬心は、俺への愛をより深くするはずだ)


その時、かすかに聞こえた「ルシアン様…」という声に、俺は内心でほくそ笑んだ。


完璧だ。 しかし、次の瞬間、キャンパスに響き渡る、明らかに怒りに満ちた「ルシアン様!」というセラフィナの声に、俺は顔を上げた。


一瞬、いつもの優しい眼差しで彼女をみたが、すぐに、感情を押し殺したような、そっけない表情に変わる。


(来たか、セラフィナ。これも作戦のうち。心を鬼にするのだ、魔王ルシアン!)



「セラフィナか。何か用か?」


その、まるで他人行儀な声を発した途端、セラフィナは顔を歪め、その場から走り去った。



「なぜだ!?」


俺は慌てて追いかける。


彼女の腕を掴むと、セラフィナはたまらず涙を溢れさせながら訴えた。


「ルシアン様…私、なんか悪いことした…!?なんでそんなに冷たいの…!?急に…急に私に優しくしてくれなくなった…っ!もう私のこと、嫌いになったの…!?日本の女子大生の方がいいの!?」


セラフィナの悲痛な問いかけに、俺の完璧だったはずの無表情が、音を立てて崩れ落ちた。


目の前でセラフィナが涙を流している。その光景は、強大な魔物を前にした時でさえ感じたことのない、俺にとって何よりも衝撃的だった。


俺の愛するセラフィナが、悲しみに打ちひしがれている。


自分が「駆け引き」と信じて行った行動が、これほどまでに彼女を傷つけているとは、想像すらしていなかったのだ。


(な、なぜだ…?なぜ、セラフィナが泣いている…!?まさか、この『駆け引き』とやらは、こんなにも恐ろしいのか…?いや、違う!これは、彼女が傷ついている証拠ではないか!どうすれば…!俺は、一体何を…!俺は間違っていたのか!?あの書物は、嘘つきだったのか!?)


「セ、セラフィナ…!?な、なぜ泣く…!」


俺は、狼狽したように声を上げた。冷たい態度を取るという「駆け引き」は、セラフィナの涙によって完全に打ち破られた。


俺は一歩セラフィナに近づこうとしたが、彼女の言葉がそれを阻んだ。


「もういい!ルシアン様なんて…ルシアン様なんて、もう知らない!」


彼女は、目にいっぱいの涙をためて、俺から背を向けた。


駆け出す彼女を、俺は何も言えずに見送る。俺の目には、セラフィナの涙に対する激しい動揺と、自分の浅はかさに対する後悔が浮かんでいた。





その日の夕食は、セラフィナは自室で済ませたという。

俺は、彼女が部屋にこもってからずっと、和室で考え込んでいた。


俺とセラフィナの間に、重く冷たい空気が流れるのが痛いほどに分かる。

俺の胸は、自分のしてしまったことへの痛みで締め付けられていた。





翌日。


俺の「駆け引き」は、セラフィナの涙によって完全に停止していた。


朝、俺はセラフィナにいつも通りの優しい眼差しを向けようとしたが、セラフィナの視線は俺を避けた。俺は、どうしたらセラフィナの機嫌を直せるのか、どうしたらこの状況を打破できるのかと困惑していた。





***





そして、その日の剣道の稽古中だった。心ここにあらずで竹刀を振るセラフィナの異変に、健太郎が気づいた。


「花、お前、どうかしたのか?いつもの集中力がないぞ」

「…なんでもない」


セラフィナは、無理に笑顔を作って答えていたが、声が震えているのが彼には分かった。


健太郎は、彼女の異変に気づいたのか、地稽古の後、彼女を呼び止めた。


「花、何かあったのか?無理に笑うな。お前らしくない」


健太郎の心配そうな眼差しに、セラフィナの堰き止めていた涙が再び溢れ出した。



彼女は、ルシアンの冷たい態度と、それに傷ついている自分の心を、健太郎にぶちまけた。


「ルシアン様が…ルシアン様が、急に冷たくなったの…!私、嫌われたのかな…?もう、魔界に帰っちゃうのかな…」


セラフィナの言葉を聞くにつれて、健太郎の顔に怒りの色が浮かび上がった。


「…なんだよ!あいつ…!ふざけるな!」


健太郎は、セラフィナの震える両肩を強く掴んだ。彼の目は、怒りに燃えている。


「そんな、お前を泣かせるような奴、やめてしまえ!何が異世界だ!あんな頭のおかしい変な奴!俺はお前を泣かせない!俺にしろ、花!」


健太郎が、そう言い放ち、セラフィナの体を強く引き寄せ、抱きしめようとした、その時だった。




「や、やめて、健太郎!」 セラフィナは、健太郎の腕の中から必死で逃れた。


彼女は顔を真っ青にして、道場の入り口へと視線を向けた。

その先に、血の気を失ったルシアンと、隣に立つアルドロンの姿を捉えた瞬間、セラフィナは息を呑んだ。


「ルシアン様…!」


セラフィナは、ルシアンと目が合うと、すぐに目を逸らし、その場から逃げるように駆け出した。

まるで、彼から逃げるように。


その光景を視界に捉えた瞬間、ルシアンは全身から血の気が引くのを感じた。


セラフィナが、健太郎の腕の中に…? これ以上見ていられない!


愛するセラフィナが、別の男の腕の中に――その事実が、彼の心に激しい痛みと、耐えがたいほどの屈辱を引き起こした。


ルシアンは、足元が崩れ落ちるかのような衝撃に襲われ、その場から一歩も動けなかった。





道場の奥で、健太郎がルシアンを睨みつけていた。


「おい、ルシアンさん」 ルシアンは、健太郎を見る。


その蒼い瞳は、何の感情も映していないように見えた。


「佐倉花の…花のこと、あんた、本当はどう思ってるんだ?花を泣かせやがって!」


健太郎の言葉には、抑えきれない敵意が滲んでいた。


ルシアンは、わずかに眉を下げ、静かに答えた。


「ああ、本当に申し訳ないことをしたと思っている。俺はこの世界の、特に『恋』というものに関する文化を全く理解していなかった。故に、無意識のうちに彼女を傷つけてしまった。それは、俺の不勉強と未熟さ故の過ちだ」


「はっ、よく言うぜ!あんたが本当に異世界の魔王だってんなら、その力、少しは見せてみろよ!俺の目の前で、そのへんの石ころでもぶっ壊してみせろ!」


健太郎は、腕を組み、挑発的な目でルシアンを睨みつけた。


ルシアンは、その挑発にわずかに目を伏せ、静かに首を横に振った。


「それはできない」


「できねぇ?なんでだよ!まさか、ただのコスプレ野郎だったってのか?!」


健太郎は、さらに声を荒げた。


ルシアンは、苦渋の色を浮かべながら答えた。


「この世界は、俺たちの世界とは異なる物理法則で成り立っている。俺の力が不用意に干渉すれば、この世界の均衡を大きく崩してしまう可能性がある。それは、決して許されることではない」


「へっ、言い訳ばっかり並べやがって!結局、あんたはただの人間だろ!魔王なんて嘘っぱちだ!だから力を見せられないんだ!嘘つき野郎!」


健太郎は、確信したように指をさし、ルシアンを激しく非難した。


「そんな嘘八百を並べて、花を騙しているんだ!あの純粋な花を、あんたみたいな奴が、もてあそんでるんじゃねぇだろうな!?自分の故郷に帰るまでの暇つぶしか!?飽きたらゴミみたいに捨てるつもりか!?そんな真似したら、絶対に許さねぇぞ!」


その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの表情から、それまでの静けさが、まるで堰を切ったように消え去った。


彼の涼やかな蒼い瞳は、瞬く間に深淵の闇を宿し、内側から妖しく、そして冷酷な光を放ち始めた。


道場を包んでいたはずの穏やかな空気が、一瞬にして鉛のように重く、肌を刺すほどに冷たくなる。床の板が、まるで生き物のように軋み、突如として嵐の前触れのような不穏な冷風が道場を吹き荒れた。


ルシアンの体からは、底なしの怒りが具現化したかのように、見る間に漆黒の、ドロリとしたオーラがとめどなく溢れ出し、彼の周囲を、そしてあたり一帯を昏い闇へと染め上げていく。


それは、この世の理を超えた、おぞましくも美しい、圧倒的な力の顕現だった。


「…俺が、セラフィナを弄ぶだと?」


その声は、もはや人間のそれではなく、遥か深淵の底から、あるいは世界そのものの怒りから響くかのような、凍てつくほど低く、地を震わせるほどの轟きを伴っていた。


健太郎は、目の前で繰り広げられる、おとぎ話のような、しかし紛れもない現実の光景に、全身の毛穴という毛穴から冷たい汗が噴き出すのを感じた。心臓が鉛の塊になったように重く、呼吸が喉の奥でひゅっと止まる。


目の前の男は、もはやルシアンさんなどではなかった。それは、想像を絶するおぞましい気迫を放つ、絶対的な『何か』だった。


この世に存在してはならない、人智を超えたその姿に、健太郎は恐怖で膝がガクガクと震え、理性も判断力も吹き飛んだまま、その場にへたり込んだ。


「ひっ…まさか…本当に、魔王…!」


健太郎は、もはや言葉にならない悲鳴を上げると、地面に尻餅をついたまま、必死に後ずさった。


全身を震わせながら、まるで泥水を掻き回すかのように手足を動かし、這うような惨めな姿で、一目散にその場から逃げ去っていった。その顔は、恐怖で引き攣り、今にも泣き出しそうだった。




その日、ルシアンの魔力が暴走寸前になったのは、アルドロンの介入によって辛うじて食い止められた。


しかし、道場を包んだあの圧倒的な闇と冷気は、健太郎の心に、そしてルシアン自身の心に、深い爪痕を残した。



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