第十二章(1):日常の「駆け引き」と、魔王の憂い
数日が過ぎた。
セラフィナは毎朝の剣道の稽古と、帰宅してからの稽古、そして山積みの学校の宿題に追われ、慌ただしい日々を送っているようだ。
異世界での激動はまるで遠い過去の出来事であるかのように、彼女の日常はすっかり元の生活に戻ったように見えた。
学校では、カスパールとローゼリアがいつも彼女の傍らに寄り添い、彼女に近づこうとする健太郎をそれとなく牽制している。以前の喧嘩以来、有紀はセラフィナと気まずい雰囲気を引きずっているらしく、距離を置いているようだった。
そんな昼下がり、アルドロンが大学院の研究を見学中で、俺が先に家に戻っていた時のことだ。
リビングに足を踏み入れると、陽子殿が温かい笑顔で俺を迎えてくれた。
「あら、ルシアンさん、お茶でもいかが?」差し出された温かい茶と菓子を受け取りながら、俺は彼女が夢中になって見ている薄いパネルに目を向けた。
それは、目まぐるしく移り変わる光景と、耳慣れない音が流れる、不思議な光る板だ。陽子殿が「ドラマ」と呼ぶその物語は、若い男女が、奇妙なやり取りを繰り返していた。
「陽子殿、この物語は、いったい……?」
俺が問うと、彼女は光る板から目を離さずに、朗らかな声で答えた。
「これはね、『帝都ラブストーリー』っていうの!再放送なんだけど、今、すごく人気なのよ!」
光る板の中では、どう見ても互いを深く想い合っているはずの男女が、激しく言い争い、わざと相手を突き放すような言葉を投げかけていた。
俺は困惑した。想い合う者が心を偽るなど、俺の感覚ではありえない。素直な感情が何よりも尊ばれると信じている俺にとって、その行動は理解の範疇を超えていた。
「なぜこの者たちは、お互い好いていると見えるのに、このような言葉を交わし、心を痛め合うことをするのだ?」
俺の純粋な疑問に、陽子殿はクスクスと笑う。
「あらあら、ルシアンさんはお堅いこと。これがいいんですよ。こうやって、やきもちを焼かせたり、ちょっと意地悪してみたり……。恋にはね、そういう『駆け引き』っていうのが必要なんですよ!」
陽子殿の言う「駆け引き」という言葉に、俺は首を傾げた。
その瞬間、画面の女性が、男性に向かってこう言い放った。
「もう無理よ、あなた!私への愛情が重すぎるのよ!」
その言葉に、俺は目を見開いた。愛情が、重い?信じられない思いで、俺は陽子殿を見た。
「陽子殿、今、この女は『愛情が重い』と言ったが……愛は、軽んじてはならない、最も尊い感情ではないのか?なぜ、それを『重い』と貶すのだ?」
彼女はまた、楽しそうに笑う。
「ふふふ。そうですね、ルシアンさんのお国ではそうかもしれませんね。でもね、日本では、愛情が深すぎると、相手が息苦しく感じちゃうこともあるんですよ。特に、独占欲が強すぎたり、何でも相手に尽くしすぎたりすると、『重い』って言われちゃうんです。バランスが大事なんですねぇ」
バランス……?俺には、その概念がまるで理解できなかった。
愛とは、惜しみなく与え、受け取るもの。尽くすことに何の問題があるというのか。
その愛が、なぜ相手を息苦しくさせるのか。
陽子殿の言葉は、俺の持つ「愛」の定義とあまりにもかけ離れていた。
その後、険悪な雰囲気だったカップルが、次の瞬間には抱き合い、そして、唇を重ねた。
俺は、その光景に再び目を見開き、息を呑んだ。
口づけ。
それは、俺にとって全く未知の行為だった。
頬への口づけはセラフィナに教えられ、愛情表現の一つとして会得した。
しかし、まさかここまで深く唇を重ねる「口づけ」という行為がこの世界に存在するとは、想像すらしなかったのだ。それは、考えられないほど、親密で、そして見慣れない情景だった。
「あら、海外の方だから、挨拶代わりにキスをするって聞いたことがあるけど、ルシアンさんのところは違うのね?北の方のお国だから、厳格なのかしら?」
陽子殿の無邪気な言葉に、俺の頬が微かに熱くなる。
何よりも、己が知らぬことばかりだという事実に、軽い焦燥感が募る。
自分の和室に戻っても、俺の思考はドラマの情景と陽子殿の言葉から離れなかった。
彼女の言う「駆け引き」とは何なのか。なぜ、想い合う者同士が互いを突き放す必要があるのか。「愛情が重い」とは、いったいどういうことなのか。
そして、あの口づけ。
―――もし、セラフィナが、あのような「駆け引き」を望んでいるとしたら?
もし、俺の彼女への愛情が、この世界では「重い」と感じられるとしたら?
俺は、彼女の望むものを何も理解していないのではないか?
セラフィナは婚約指輪を外している理由を、周囲に目立つから、家族に秘密にしているから、と述べたが、もし、それが本心でなかったとしたら?
彼女は、この自分の世界に戻ってきて、やはりファンタジーな世界よりも、テクノロジーや文化にあふれるこの日本が、本来の居場所だと感じているのではないだろうか。だから、彼女は誰にも婚約のことを言わない。左手の薬指に、あの指輪もつけていない。彼女の心は、もう俺から離れてしまったのではないか。―――
魔王としての絶大な力も、魔界での絶対的な地位も、この世界の「日常」という壁の前では、あまりにも無力に感じられた。
佐倉花の世界では、己の常識は通用しない。この不安は、強大な魔物を前にした時でさえ感じなかった種類の焦りだった。




