第八章(2):嵐の後の教室と、明かされる秘密
一限の数学の授業が終わり、私は心底ホッとした。
顔の火照りは引かないし、心臓はまだドッキンドッキンと暴れている。
ルシアン様の至近距離からの囁き指導は、正直、授業どころではなかった。
(あの密着は反則でしょ!?心臓に悪いって!いや、むしろ心臓には良すぎる。刺激が強すぎる!推しが目の前にいて呼吸まで感じるとか、オタクには致死量だよ!)
「佐倉さん、ちょっといいかな」
声の主は、やはり山田先生だった。
彼の顔には困惑が色濃く浮かんでいる。
「あのね、この留学生さんたちが教室にいると、どうにも授業にならないようでね…。そこで、教頭先生に校内の案内を頼んだから、もうすぐいらっしゃるよ」
山田先生の言葉に、私は思わず天を仰いだ。
(ですよねー!私もそう思いますー!なんなら私も授業に集中できませんでしたー!というか、先生もよくこの状況で授業を続けたな!?プロ根性半端ない!)
そして、その数秒後、教室の入り口に現れたのは、髪の薄い、人の良さそうな教頭先生だった。
「やあ、皆さん!遠路はるばるようこそ!私はこの学園の教頭を務めております。校内案内は私にお任せください!」
教頭先生は満面の笑みでルシアン様たちに深々と頭を下げた。
なんだか、先生が後光を放っているように見えたのは気のせいだろうか。
(教頭先生、完全にミーハーになってる…!いや、王子様を前にしたら、そりゃ誰でもそうなるか!私も目の前の推しに平伏したいもん!)
しかし、ルシアン様は教頭先生の満面の笑みにもかかわらず、不満げに眉をひそめた。
その眼差しは、あたかも目の前の者が不敬を働いたかのように、わずかに冷ややかだった。
「教頭殿。校内案内、感謝申し上げる。だが、私は佐倉花と離れることを望まない。できれば、彼女も共に案内していただきたいのだが」
ルシアン様の突然の発言に、教頭先生は目を丸くし、山田先生も困惑した表情でルシアン様と私を交互に見た。
私は慌ててルシアン様を制しようと、彼の袖を引いた。
「ルシアン様、お気持ちは嬉しいですが、授業中ですから…!」
ルシアン様は私の言葉にも耳を貸さず、むしろ私を抱き寄せるようにして、教頭先生にまっすぐ視線を向けた。
その威圧感は、教室の空気を一瞬にして変えた。
「もし、花が同伴できないのであれば、校内案内は不要だ。この場で待つことにする」
彼の言葉には一切の妥協がなく、周囲の生徒たちからも「きゃー!」と黄色い声が上がった。
教頭先生は完全に戸惑っている。
「いや、しかし、佐倉さんは授業が…」
「授業など、後で聞けば済む話だ。それよりも、私の視界から彼女が消えることは、私にとっては看過できない事態なのだ」
ルシアン様の強引な態度に、教頭先生は額に汗を滲ませた。
(もうっ!ルシアン様ったら、このタイミングでそんな激重感情をぶつけないでくださいよぉ!授業は聞けば済むって、あんたにとってはそうかもしれないけど、私にとっては死活問題なんだからね!)
「ルシアン様!お願いですから!」
私が小声で懇願すると、ルシアン様は不承不承といった様子で私を解放した。
しかし、その口から放たれた言葉は、私への釘刺しだった
「……やむを得ない。だが、昼には必ず合流するぞ」
そう言って、ルシアン様は私に有無を言わせぬ視線を向けた。
――そして、その鋭い視線は、まるで獲物を定めるかのように健太郎へと向けられ、瞬時に彼の全身を射抜いた。
健太郎は、その視線を受けた瞬間、背筋に冷たいものがぞくりと走り、全身の毛穴が総毛立つ感覚に襲われる。何が原因かは分からないが、まるで捕食者のような、得体の知れない強い威圧感を肌で感じ取ったのだ。――
結局、ルシアン様たちは人の良さそうな教頭先生に校内を案内してもらうことになり、お昼には食堂で合流する約束をして、教室を出て行った。
彼らが完全に姿を消した瞬間、私は大きく息を吐き出した。
(はぁ〜〜、本当に疲れた…!この短時間で、私のライフポイントはゼロよ!これ、一日持つかな、私の精神と胃腸!)
張り詰めていた気が緩み、全身の力が抜ける。
この短時間で一体どれだけの冷や汗をかいただろう。
(やっぱりエリアス様、学生っていう設定、無理がありませんでしたか…?もうちょっとこう、目立たない感じとかどうにかならなかったんですか…?私の胃腸がマッハよ…!)
心の中で、異世界の案内役であるエリアス様に愚痴をこぼしていると、私の隣にいた健太郎が、「ううっ、まだ背中がぞくぞくする…」と呟きながら、ズイッと顔を近づけてきた。
「おい、花!あのルシアンってやつ、お前のなんなんだよ!?」
彼の声には、隠しきれない動揺が表れていた。
私が「ええと…」と答えを探していると、今度は有紀が私の腕を掴んだ。
「ちょっと花、来なさいよ!」
有紀は私を半ば引きずるようにして廊下に連れ出した。
教室から離れたところで、彼女は健太郎と全く同じ質問を、しかしもっと切羽詰まった声でぶつけてきた。
「ねぇ、あのルシアンさんて、花の、何なのよ!?なんなのあの『特別な存在』って!?」
私は、二人の真っ直ぐな問いかけに、思わず言葉に詰まった。
(うぐっ…やっぱりそこ食いつくよねー!当然だよねー!なんなら私だって知りたいわ!彼のその爆弾発言の根拠を!というか、これをどう説明しろと!?)
心の中では、色々な感情が渦巻いている。
この日本に今回戻ってきたのは、他でもない、ルシアン様との婚約の報告のためだ。
親友の有紀には、そしていつも私を気にかけてくれる健太郎にも、本当のことを話さないといけない。
でも、あまりにも突拍子もない話だ。
「実は私、異世界の勇者で、魔王様と婚約しました!」なんて、どうやって切り出せばいいんだろう。
完全に頭がおかしくなったと思われるに違いない。
「有紀、健太郎も。今日、うちに来て。その時、全部話すから」
私は、意を決して二人にそう告げた。
有紀は訝しげな顔をしていたが、私の真剣な目に、やがて頷いてくれた。
健太郎も不満げな顔はしているものの、何も言わずに腕を組んでいる。
(これで、今日、うちで話すしかない状況になった。もう、腹を括るしかない!)
一方、ルシアン様たちは、人の良さそうな教頭先生に連れられ、すっかり和やかな雰囲気で校内を案内してもらっているようだった。
彼らの周りには、相変わらず女子生徒たちの熱い視線が集まっていたけれど、教室でのあの騒動に比べれば、まだ平和な光景に見えた。
(どうか、お昼までこの平和が続きますように…!そして、私の胃腸も持ちこたえて…!)




