Ⅰ‐5
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翌日、正確に言えば兵舎に帰り着いたその日の正午前、中隊長のマイヤー少尉に呼び出された。
ろくに寝ていなかったので、かなり疲れていた。その日、大隊は市内を巡回するパトロール任務を与えられていたが、私だけ先に戻って中隊長と面会する手筈になっていた。
「昨晩は大変だったね」
そこは簡素な執務室で、マイヤー少尉は古い木の机の横で、椅子だけ窓の方を向けて煙草を吸っていた。
いくら〝パパマイヤー〟とはいえ、私は中隊長と単独で面会するのは初めてだったので少し緊張していた。
「中隊長殿にはお手を煩わせてしまったようで申し訳ございませんでした」
「いいんだよ。部下をそう何度も、保安部の頭のおかしな任務に付き合わせるのは心苦しいからね」
マイヤーは実に率直な言い方をした。
「六月二十六日の晩に付近の集落の襲撃、七月六日には大量処刑への召集。やりすぎだね。それも昨晩は君だけを名指し。保安部将校といかなる確執があったのかは知らんが……」
「最初の晩に、ユダヤ人の女を裸にひんむこうと、リトアニア人の協力者が提案しました。プリュッツマン少尉は最初は拒否しましたが結局いいじゃないかと応じようとしたのです。本官はそれに反対しました」
「続けたまえ」
「すると、少尉は我々が処刑するなら服を脱がさないと約束しました。そこで分隊長殿の指揮のもと、我々が女性たちを処刑しました。しかし私は体がひきつけを起こして……。少尉は私がユダヤ人を撃てない、臆病者、いえ、反逆者ではないかと疑っていました」
「それで目を付けられたと? 何とも理不尽な話だな」
マイヤーは煙草を灰皿におしつけた。
「それが本当なら、むしろ《品位なき態度》で訴追される恐れがあるのはプリュッツマンのほうだな。君は奴を訴追できた。奴は君を何としてでも共犯者、或いは味方にしたかったのだ」
私はマイヤーの言葉に凍りついた。そこまで明確な悪意を持って狙われている。保安部の将校に。
「……という推理はどうかね?」
マイヤーは人懐っこい笑顔を浮かべた。
「私如きがそこまで親衛隊少尉殿に警戒されているというのは、少し奇抜なお考えに思えます」
「いや、その話がほんとならそれはまずいよ。何とでも告発できるもの。証人も山ほどいたわけだし。プリュッツマンは相当なうっかり者ということさ。軍と親衛隊の上層部が問題にしてるのは、今のところソ連兵と政治将校、ユダヤ人の成年男子のみなんだよ。リトアニア人たちは見境なしに殺しまくっているが、まだはっきりとした命令は出ていないんだ、女や子供も殺せなんて命令は。ましてや裸にひんむくなんて下の下だ。相当な越権行為。いや、犯罪だ。君らもだよ。傍観して一緒に楽しんでたなんて言われたらな、かなりまずかったよ」
あの日の夜の状況をぼんやりと思い出した。私は間違っていなかったのか。
「ということは、君は中隊の救世主かもしれん。でもね、事態は複雑なんだ。こんな男に喧嘩売るなんてそんな愚かな真似はするべきじゃない。おれだってごめんだよ」
マイヤーは、先日プリュッツマンに託された封書を机の引き出しから取り出して言った。
「君がプリュッツマンから受け取った封書だが、これは凄いものだぞ。これを読まなければ、プリュッツマンの件はおれが報告してやるところさ。でもこんなの見ちまったらもう駄目だ。おれだって命が惜しい。なんて書いてあったと思う?」
あまりに疲れていたので、封書の中身まで考えられなかった。
「見当もつきません」
マイヤーは封書の中から几帳面に折りたたまれた紙を一枚取り出し、ゆっくり広げると、読み上げた。
一九四一年七月七日
第六五警察大隊第二中隊長
フリッツ・マイヤー警察少尉殿
第六五警察大隊、ミュラー下級巡査について
右の者、この戦時下において機智に富み、判断力に優れ、上官に対して率先して意見を申し述べ、命令に忠実かつ、敵を斃すことを厭わず、極めて優秀な人材であると認む
加えて、戦前においては教職を務め、社会的影響力も大きく、積極的に《民族共同体》における後輩青年の育成に熱心に取り組み、祖国に多大なる貢献をしたことを鑑みれば、指導者としての素養大なり、と認む
上記理由を持って、右の者に対する《巡査》への昇格が適当なりと《秩序警察本部》と、貴大隊長ケーニッヒ警察少佐へ推薦・上申したことを報告する
このたび、保安警察及び保安部に対する、右の者の貢献著しく、周囲の模範となり、任務に忠実たらんとする熱心な姿を見込み、誠に勝手ながら以下の者が証人となる
《「東国及び北ロシア」親衛隊及び警察高級指導者》
親衛隊中将及び警察中将
ハンス・アドルフ・プリュッツマン
《保安警察及び保安部の特別出動集団》EK3分遣隊指導者
親衛隊少尉及び警察少尉
ギュンター・アドルフ・プリュッツマン
「以上だ」
マイヤーが紙を元どおりに丁寧に折りたたみ、封書の中にしまう。
あまりのことに言葉が出ない。昇格? そう聞こえたが、聞き間違いだろうと考え、黙っていた。
「二階級特進だ。ただ事じゃあない。どう考えても」
マイヤーは再度煙草に火をつけて、ゆっくり大きく吸いこみ、もくもくと大量の煙を吐き出した。
「とんでもない大物に恩を売ったな。弱みを握ったというべきか。《分遣隊》のプリュッツマンが、まさか《「東国及び北ロシア」親衛隊及び警察高級指導者》のプリュッツマン親衛隊中将閣下の弟とはね。何で特殊部隊なんかにおるんだ?」
なおも言葉が出てこない。
「正式な辞令は《秩序警察本部》か、《親衛隊及び警察高級指導者》のどちらかから下るだろう。それを待つんだな。君が巡査に昇進するなら、ハンケの補佐、いや、当分はブックの補佐って形になるのかな? 二人して支えると。ハンケも両手に花だな」
マイヤーはそう言うと乾いた調子で笑った。
「辞退します。そんな昇進は受け入れられません」
「やっぱりそうか。まあ、一応大隊長殿には意見具申しておくが期待するな。多分無理だよ」
昇進が無理なのか? 辞退が無理なのか? マイヤーの乾いた笑いは、なんとなく後者を意味するように思えた。
「私は大したことはしておりません。それどころか、恥ずべきことをした想いの方が、よほど強くあります」
「わかってるよ。しかしこれは君にとって悪い話じゃないんじゃないかね? 開戦からわずか二週間で、生きて二階級特進だなんて、ドイツ軍ひろしと言えど君ぐらいだろ。それに大物とのコネもできたわけだし」
「しかし、部隊の皆になんと言われるか」
「安心したまえ。私は口が硬いほうだ。それより君、戦争前は教師だったのかい?」
「教師は三年で辞めました。その後は輸入販売業でした」
「ふうん。何売ってたの?」
「紅茶です」
「そこそこ儲かってた?」
「大したことはないです」
「そうかい。おれは運送会社を運営してたんだ。小さな会社で、自分でハンドルを握ることもあった。秩序警察は慢性的に人手不足だ。何かっていうと、やれ国防軍だ、やれ武装親衛隊だって、そっちにばかり若いのが取られる。若いのが来たと思ったら、だいたい親衛隊だ。慢性的に指導者不足なんだ。だから戦前の学歴とか、職業とか、経済力とか重視される。そこが良ければいきなり将校になることもある。どうせみんな予備役の寄せ集めだからね。君も教師をずっと続けていたら、おれの上司だったかもね。それ以前に秩序警察なんかに入りゃしないか。親衛隊だったりしてな」
マイヤーはさも可笑しそうに笑った。
「プリュッツマンの言い分も、まったくの戯言じゃないってことさ。指導者の素養あり。第七要塞で君が何を見て何をしたのか、聞かないことにするよ。聞かないほうがよさそうだ」
私は沈黙を守った。
「あとは君がまわりにうまく説明することだね、行っていいよ。少し休みなさい」
マイヤー少尉と面会した日の午後、任務に戻った。ドイツ軍当局は、方針を転換して無差別なポグロムを取り締まることにしたようで、市内は急速に落ち着きを取り戻した。今後ユダヤ人への虐待は暴力事件として処置される。
この移行措置は、何もナチスがユダヤ人に対する手を緩めることを意味するのではなく、逆だった。
我々は、ネリス川にかかる橋の周辺において、二、三人で一組になって散開し、各自街を練り歩いた。街は既に落ち着きを取り戻していた。再度緊迫感のない任務を強いられた。
仲間たちにかなりの心配をかけていたようで、第七要塞での出来事を盛んに聞かれたがうまく答えられなかった。実際かなり酔っていたので、今思い出しても現実感がなく、聞かれても黙り込むしかなかった。すると、聞いた者は沈黙に何か深い意味を見出すようで、それ以上は聞いてこないのであった。私の挙動については、中隊内部でもかなり噂になっていたようだが、概ねそれは同情に近いもので「ああならないよう気をつけよう」と、お互いに声をかけあうのがせいぜいだったに違いない。その空気を最大限利用し、沈黙を保つことにした。
その日、パトロール中にハンケが隣に来て話しかけてきた。彼だけはやはり周りの警官とは一味違っていた。
「おい、ミュラー。第七要塞で何を見たのか報告しろ」
なんと答えれば良いのかしばらく黙っていた。考えているうちに頭が混乱してきて、やはり何も言えなくなってしまった。
ハンケは私が悩んでいるのを見て、こう付け加えた。
「勘違いするなよ。だいたいわかってるんだ。自分に不利な証言はしなくてよい。一応小隊長殿に報告しなきゃならんからな。形式的な内容で良いから、数日中に報告書をまとめて提出しろ」
「かしこまりました」
そう答えるのがやっとだった。
「ここからは単なる世間話だが、まだドイツ軍も党も、ユダヤ人の女性と子供に関しては、殺せとも逮捕せよともはっきりとは命令していないそうだ。知ってたか?」
「我々はカウナスに到着したその日に、ユダヤ人であれば問答無用に殺すリトアニア人を、黙って見ていろと命令を受けました。あれはなんだったので?」
「大隊長殿は、浄化行動の妨害をするな、と仰ったのだ。女や子供を殺せとは言っておられん」
「詭弁ですよ」
「状況は流動的だということだ」
「分隊長殿も、あの夜ユダヤ人の女たちを処刑したじゃないですか?」
「そうさ。状況は流動的で、素晴らしい愛国者か、薄汚い殺人者か、まだ誰にもわからない。おそらく、保安部の連中もまだわからないんだよ、きっと」
ハンケはカフェの横のベンチの前に立って、通りを楽しげに走る子供たちを、愛おしげな瞳で見つめている。
「国にがきが三人いる。死にたくねえんだよ、こんな戦争で。だから警察を志願した。後ろの方で楽できるに違いない、そう思ったのさ」
ハンケが自分を語るのは稀だった。
「だが、ポーランド戦に従軍して甘い考えだったと嫌というぐらいわかった。あんな仕事を手伝うぐらいなら、前線で華々しく死んだ方がいい」
「煙草はいかがですか?」
私は上着のポケットからケースを取り出して、分隊長に勧めた。
「支給品の煙草か?」
「いえ、この国のです」
ハンケは煙草を一本手に取り、私はそれに火をつけた。そして自分にももう一本火をつけた。
「ロシアとの戦争は、長引くぞ、きっと。こんなでかい国が簡単に降伏するはずがない。《コミッサール指令》を知ってるか?」
「だいたいは」
「《バルバロッサ指令》は?」
私は肩をすくめた。
「この二つでな、だいたいどんな人間でもゲリラか共産主義者に仕立て上げて、勝手に処刑してもいいことになってる。殺人免許だ。これは《総統》の発案なのかもしれないが、命令の発行元は《国防軍総司令部》だ。この戦争が始まる前に、各軍集団に通達された命令だ。無論我々もこの権利を行使できる」
「誰でも? 裁判なしですか。上の許可もいらないのですか」
「ソ連はハーグ陸戦条約を批准していない。我が軍の捕虜を拷問して殺すそうだ。我々だけが奴らの捕虜を手厚く歓待するかといえば、そんなわけねえよな」
「つまり、女や子供を殺すのも合法だと? さっきそんな命令は出ていないと仰ったじゃないですか」
「多分合法になるよ。でも今は二の足踏んでる、そんなところじゃねえかな。誰だって女や子供は殺したくない。強い煙草だな」
ハンケは煙草の銘柄を読み取ろうと、まじまじとフィルターの先を見つめている。
「おれたちは、その過渡期にここへ来ちまったわけだ。でも保安部将校の命令で仕方なくって言える。だから心配はいらねえよ。神経質になってるのは上だろ? おまえまで神経質になる必要はねえ。話は以上だ」
仲間たちが、私とハンケが話し込んでいるのを遠くで見ている。
「待たせちまってるようだな」
ハンケと私は少しだけ早歩きになって、皆のもとに向かった。
「分隊長殿、あれを見てください」
ゲアハルトほか、分隊の警官たちが集まっていて、とある方を指し示した。
そこはカウナス北西のヴィリヤンポリ地区と呼ばれるところで、もともと今回のポグロムの火の手が上がった場所だった。
狭苦しく不衛生な貧困地区で、戦争前はここに五千人もの人々が住んでいたという。その地区の隅っこで、リトアニア人労働者と、国防軍の建設中隊と見られる部隊がせっせと壁を作っていた。
煉瓦を一枚一枚積み重ね、黙々作業をしているリトアニア人たち。我々が近づいてもまったく意に介すこともなく作業を続けている。
ハンケが、手前であれこれ指示を出している建設中隊の兵長に声をかけた。
「失礼。我々は警察大隊ですが、ここで何をしておいでかな?」
「壁を作ってるんですよ」
兵長は敬礼もそこそこにぶっきらぼうに答えた。
「なんのために?」
「さあね」
我々は、兵長の身分証と作業許可証を確認した。ドイツ軍政局の正式なものだ。兵長は忙しいから、とその場を去っていった。
「なんなんでしょうね」
シュミットが首を傾げた。ハンケは険しい表情を保っていた。私は建設中隊の通訳に話しかけた。
「何を作ってるんですか?」
「壁ですよ」
「見ればわかります。なんのために?」
「まだ言っちゃいけないと言われています。でも公式発表はすぐだろうし、あなたたちは警察官だし、だいたいわかってるんでしょう?」
「ゲットー(隔離地区)だな?」
ハンケが割って入った。
「ご明察」
リトアニア人通訳はにこりと笑った。
「ユダ公を殴り殺すのはやめて、閉じ込めて、順番に殺すというわけかい。ポーランドでも同じようなことしてたよ。飽きもせずよく殺すよ」
「我々はあなた達に命令されてやってるんですよ、ドイツ人にね」
リトアニア人は、最後の一言に悪意を込めて顔を歪めてみせた。
「勇気あるな。ぱくってもいいんだぜ?」
「私がいなけりゃ、壁は完成しませんよ。皆ドイツ語がよくわからないし、そもそもドイツ人が嫌いなんでね。こんな回りくどくて面倒で、いかにもドイツ人らしいやり方だ」
「通りで殴り殺す方がいいって言うのか?」
「復讐です。あなたたちだってそうでしょう? ユダヤは寄生虫だ。我々から奪い、殺し、閉じ込める。我々はリトアニア人だけの国を作りたいだけです。でもユダヤはいつまでもこの国に居座る。第九要塞の話をご存知で?」
「知ってるとも」
「皮膚のない溶けた死体が百三十体見つかったことは?」
「死体の山はこの目で見たよ」
私が答えた。
「ボリシェビキの連中が、沸騰した釜にリトアニア人を放り込んで、釜茹でにしやがったんですよ。スープにしやがった。そのスープを飲んだとも言われてる。連中は悪魔です」
「釜茹でだと。飲んだ? そんな話を信じてるのか?」
「奴らは神も殺した。我々は幼い頃からずっとそう教えられてきました。去年、ボリシェビキがこの国に攻め込んできて、一体何人殺されたと思ってるんですか。何人東の果てに追放されたと思ってるんです? 今さら釜で煮込んだぐらいで、驚きも何もありゃしませんよ。我々はいつまでもやられっぱなしじゃないんだって、身を以て示したんです。リトアニア人だけの国を作るための、愛国的行為ですよ」
「女や子供を殴り殺すことが愛国的行為だって?」
「それは一部の酔っ払いがやったことです」
「だから許されると?」
私はいつしか大声をあげていた。
「あなた、まるでユダの味方をしているようですよ」
にわかに我に帰った。
「あなたがたのフューラーは、我々にとっても希望の星だ。あの方なら全世界からユダヤを取り除いてくれるはずです。その崇高な使命を果たすあなたがたが、そんな腹の据わらないようでは困りますな。失礼、仕事に戻らねば」
彼らの憎悪には一点の曇りもない。私はそれが羨ましかった。要塞で、老人の頭を撃ったワルサーの感触が、まだ生々しく右手に残っている。
程なくして、ドイツ軍政局より、ヴィリヤンポリ地区にユダヤ人ゲットーが作られると公式発表された。表向きは野蛮な殺戮からユダヤ人たちを守るための処置である、そう宣言された。だが実際はその移住は強制で、期限までに移動しないユダヤ人は処刑すると脅されていたのだ。
我々はその後、カウナスのユダヤ人のゲットーへの移動を監視するいくつかの任務に就いた後、七月末、師団命令により、カウナスの北西の街、ラセイニャイへ出動することになった。これまでの惨劇は、まだしもリトアニア人のせいにすることもできた。しかし、これから先、ドイツ人によるユダヤ人の絶滅作戦が、本格的に開始されることになる。我々はその渦の中心に巻き込まれていった。それは抗うことは到底不可能な、巨大な巨大な渦だった。




