Ⅰ-4
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翌日もその翌日も同様の任務が与えられた。
七月六日、単調な検問任務が与えられて三日目。人の出入りも少なくなり、たまにキューベルワーゲンやサイドカー付きオートバイに乗った将兵が通る程度だ。あくびをしながら出勤してくる。どんな仕事を割り当てられているのか知る由もないが緊張感のない様子が目についた。『中』でサッカーの親善試合でも行われているんじゃないかと錯覚しそうになる。
我々は最初の晩に感じた嫌な気持ちを三日目にはすっかり忘れていた。退屈な時間をまぎらわせるためによく話しをした。
「昨日も今日も静かですね。とりあえすユダヤ人を『中』に送り込んで、尋問でもしてるんでしょうか」
すっかりおなじみの話し相手になったシュミットが、緊張感のない様子で話しかけてきた。
「いや、最初の晩、帰るときに聞いたのは確かに銃声だった。『中』で行われているのは処刑に違いない」
「でもあれから全然聞こえないですよ、銃声」
「おれはまた暗くなってからやるんだと思う。付近の住民が家に帰った頃に。昨日は初日に殺したユダヤ人の片付けをしていたのかも」
カウナスでは夜間外出禁止令が出されていた。
「その推理、当たってるかもしれません。今夜あたりまたはじまるかも」
「確かにそう考えれば辻褄があうね」
ゲアハルトが丸眼鏡をハンカチで拭きながら会話に入ってきた。
「上も現地民の目を一応気にかけてるのかな。ユダヤ人の排除を快く思わない人もいるのかも」
ゲアハルトの意見ももっともだ。ポグロムに加担していたリトアニア人の多くは男で、女の姿は稀だった。女性が無軌道な暴力を好むはずはない。
「男ってどうしようもないね。本来的に我々は破壊を好むのかもしれない」
ゲアハルトがため息をついた。
「男だからって文民とは限りませんよ。《リトアニア行動戦線》って知ってますか?」
「なんだいそれ」
「アルギルダス・クリ……なんとかってのが率いてる極右団体ですよ。リトアニアにはもともと《鉄の狼》って極右団体もあって……」
「シュミット君は時々そういうの詳しいよね」
ゲアハルトが関心したように言う。
「そうなんですよ、こいつヴァルター・ダレを引用したりとかね、時々インテリぶるんです」
私も重ねて言う。
「最近では、《リトアニア保安警察》ってのもできたそうです。リトアニア版のゲシュタポですよ」
シュミットが得意げに語る。
「ゲシュタポ? くわばらくわばら……」
ゲアハルトが心から不快そうに眉を潜めた。
任務中の私語を嫌うハンケが鋭い目線でこちらを見ているが、結局何も言ってこなかった。今回の任務は実に単調で長時間に及んでいたので、多少の私語には目を瞑ってくれるらしい。
ハンケは誰とも話さず短機関銃に手を添え、路上に立ちはだかっていた。
「分隊長殿は真面目だな……」
思わず独り言が漏れた。
「ミュラーさん、分隊長殿が酒飲むとやたら饒舌になるって本当ですか? なんだか奇妙に思えるのですが。だって誰も分隊長殿がアルコールを飲んでる姿なんて見たことないじゃないですか!」
「けっこう話し好きみたいだぜ。もっとも、次あんな風に喋りまくるのをみるのはだいぶ先かもしれないが」
「分隊長殿はわりと話すよ。仕事中の私語が嫌いなんだよ」
「へえ、ゲアハルトさんまで。悔しいなあ。今度はおれが喋らせてみせますよ」
弛緩した空気の中でも午後の時間は過ぎていった。辺りが徐々に暗くなり、問題の夜がやってくると要塞へ行こうとする者が増えて慌ただしくなってきた。
今夜は明らかに武装したリトアニア人の比率が多く、酒を飲んで千鳥足だった。大声で歌いながらよろよろ歩き、どう考えても役に立ちそうにないのだが、彼らを率いる保安部員たちは完璧に身分証と通行証を準備していた。我々としては通さない理由はどこにもなかった。
そのようにしてどんどん送り出していたところ、突如黒塗りのベンツが我々の前で停車し、窓から見覚えのあるのっぺりとした顔がのぞいた。
「やあ、誰かと思えばいつぞやの晩は世話になったね」
「ハイルヒトラー!」
ゲアハルトとシュミットが慌ててナチ式の敬礼をした。ベンツに乗っていたのは黒い旧式の軍服を着用したプリュッツマンだった。
私も二人に少し遅れて敬礼をした。
「ハイルヒトラー!」
ハンケもすかさずやってきた。
「ハイルヒトラー、親衛隊少尉殿、任務ご苦労様です」
「そう硬くならなくてよい。今日はミュラー下級巡査の顔が見えたものだから嬉しくなってね」
プリュッツマンはそう言ってにたりと笑った。
「今要塞で、こないだ大量に連行したスパイやソ連兵捕虜たちの始末をしているところなんだが、銃殺班が足りなくてね。なにしろリトアニア人に酒を配ったら片っ端から飲んでしまって、すぐ寝てしまうんだ。役に立たない連中さ。おかげでだいぶ予定より遅れてる。そこで国防軍や武装親衛隊、警察官から銃殺班を募ってるんだよ。そこでミュラー君に是非やってもらいたいと。今そう思ったんだよ」
「お言葉ですが親衛隊少尉殿、そのような特殊任務には、直属の上官の許可が必要になります」
「ハンケ上級巡査、君の懸念はもっともだ。君はあの晩も手際良くやってくれた。君のことはよくわかっているんだ。優秀な第三帝国の警察官だとね。もちろん君の部下たちも。しかし、ミュラー君に関しては、まだ見てないんだよ。この目で見て確認しておきたいんだ。ユダヤ人と闘えるドイツ青年だということを。君は確かあの晩撃てなかったはずだ。私の記憶違いでなければ」
そしてじとりと私を横目で見た。
「君は確かあの時、軍人の名誉について皆に教えてくれたはずだ。そんな君が、ユダ公の一匹や二匹、撃ち殺せないなんて、そんなはずないだろう? このままでは叛逆者と何が違うのか私も説明できなくてね」
「恐れながら、持ち場を勝手に離れてはならない、と中隊長のマイヤー少尉殿からもきつく申し付けられております。いかに親衛隊少尉殿のご要望とはいえ、今は任務中であり、ここを離れるわけには……」
「上級巡査、今この街にいるドイツ軍・警察は、皆等しく同じ目的に向かって走っているんだよ。この地を浄化し、秩序と正義を再び甦らせるために。不穏分子がうろつく今、とにかく敵と闘える兵士を国家は求めている。だがそうだな、我々も君たちも命令で動く。よろしい、私は《特殊部隊3》に所属していて、その《分遣隊》を率いている。指揮官は親衛隊大佐、カール・イェーガー殿だ。必要ならばイェーガー殿の署名入りの命令書を出そう。まだ足りないなら《親衛隊及び警察高級指導者》による、正式な命令書を発行してもいい。もちろんそこまでするからには、ミュラー君の特殊部隊への永続的な「転籍」を意味するが、ミュラー君はそこまで希望するかな?」
「そこまで仰るなら、従うより他にありません」
ハンケは抵抗を諦めた。
「ただ、本官がマイヤー少尉殿の許可を求めた、という部分、書面にて正確に照会できるようにしていただきたい。以上、飲んでいただけるなら、これ以上は」
「上級巡査、保安部への協力に感謝するよ」
プリュッツマンは口の端を持ち上げて満足気に笑った。
私は第七要塞への出頭を命じられた。
最初は上手く飲み込めなかった。中隊から離れてたった一人で行動するなんて。じきに気分は最悪となり体が全力で拒否をはじめた。いつかみたいに四肢が震戦しはじめ、胃と腸に締め付けられるような圧迫感をおぼえた。要塞までの一歩一歩がひどく重く感じられた。一本道には、見知った中隊の顔ぶれが並んでいて、声をかけてくる者もいた。
「ミュラー下級巡査。何しとるんだ? 持ち場を離れると厳罰だぞ」
こう言われると私も事情を話さないわけには行かず「保安部に出頭を命じられた」と答えるようにした。それを聞いた警官たちは、判を押したように同じ反応をした。憐れみに満ちた目で私の顔を見たあと、こう尋ねるのだった。「何やらかしたんだ?」と。
要塞の南門へたどり着くと途方にくれた。入って良いのだろうか。しばし佇んでいると、親衛隊の灰色の軍服を着た男がやってきて「君も《臨時徴集》か?」と声をかけてきた。襟の階級章を見ると親衛隊伍長で、背が低くて年配だった。親衛隊といってもイメージ通りの背が高い金髪なんて滅多にいないのだ。
「ハイルヒトラー、親衛隊伍長殿、本官はミュラー下級巡査であります。プリュッツマン親衛隊少尉殿の要請により出頭しました」
「要請? 命令の間違いだぞ」
伍長が露骨に訝しむ。
「はあ、それが本官にもよく……。つい先ほど少尉から口頭で言われたばかりでして、正式な書面はまだ……」
「鈍臭いな君は」
伍長が呆れたように遮った。
「今、ここカウナスでプリュッツマン殿に声をかけられたら、国防軍大佐でも逆らえないよ。あの方はかなり高いところから命令を受けて、この地で特殊任務を行っているのだから。さっさと行かないと《親衛隊=警察法廷》に引き出されて銃殺だよ」
「はあ」
「さっさと行った方がいいよ」
「はい」
私は急いで門をくぐろうと小走りになった。
「あ、待って。一応もう一回名前と所属教えてもらえる?」
私は所属と名前と階級を伝えた。
「ミュラー……下級巡査……第六五警察大隊……」
伍長は私の名前と階級を手帳に書き留めると、再度こう言った。
「さっさと行った方がいいよ」
とりあえず中に入ったものの、どこに行けば良いのかわからない。門を潜ると広大な内庭を望む渡り廊下へと至り、内庭では、囚人たちがぼろぼろの衣服のままスコップで穴を掘っていた。すぐ傍で特徴的なデザインの春季迷彩スモックを着用した武装親衛隊兵士が監視している。
渡り廊下を進むと、暗く口を開けた建物の入り口へと至り、入ってみると想像よりはるかに広大なホールが広がっていた。ホール中央にはいかにも頑丈そうな扉があって、見上げるほどに背の高い武装親衛隊兵士が二人並んで立っていて、私をまったく意に介すこともなく直立不動を保っている。
「ハイルヒトラー、プリュッツマン親衛隊少尉殿に、要塞へ出頭するようにと、ようせ……命令を受けたのですが」
兵士二人はこちらを見ようともせず、微動だにせず、何一つ反応がない。彫像のようだった。
「あの、どこへ行けば良いかご存知ですか?」
実に長い時間が経った。実際はほんの十秒ぐらいだったかもしれないが、私には大変長く感じられた。じっとその時間を耐えた。
「さあね」
待った挙句、兵士はたったそれだけ言って肩をすくめ、また彫像に戻った。魔女に石になる呪いでもかけられたように。私は途方にくれた。
しばらく兵士たちと一緒に黙ってその場で待機していたら、どこかから絶叫とも悲鳴ともつかない声が聞こえてきた。二日前の晩に並木道で聴いた奇怪な音に酷似していた。
彫像同然だった兵士二人は、急に魔法を解かれたゴーレムのように動き始めた。
「おいお前、邪魔だよ。ここは囚人用の入り口なんだから。銃殺班なんだろ? だったら上から入りな。保安部の人も、みんな上にいるよ」
「上?」
「鈍臭いおっさんだな。上っつったら上だろうがよ」
周囲を見渡すとホールの隅っこに薄暗い階段を認めた。
「ダンケ(ありがとう)」
礼を述べてその場を去ろうとすると、私が来た入り口からどやどやと大量にみすぼらしい格好をした人々が押し寄せてきた。古い軍服を着た男たちに鞭で打たれ、悲鳴をあげながら扉の前へまっすぐ進んでくる。
「おっさんどけったら。いい加減にしろよ、撃ち殺すぞ!」
兵士は吐き捨て、いかにも大儀そうに二人がかりで扉を押し始めた。扉の先には競技場のように開けた空間があって、一面に砂利がしきつめてあった。その中では、人々が民兵に監視されながら、規則正しく一定の間隔をあけて座り込んでいた。そこへ囚人の群れが雪崩れ込む。呆気にとられて見ていたが、先ほどの兵士が鋭い目で睨んでいるのに気づき、急いでその場をあとにした。
「次のショーまであと十五分ぐらいだぜ!」
兵士が私の背中に向けて大声で叫んだ。
階段を登ると、不安げな表情で立ちすくむ警官がいた。いや、よく見れば武装親衛隊や国防軍の兵士も混ざっている。ただし、多くはリトアニア人の酔っ払いで、ベンチの上で昏倒している者もいれば、床で高いびきをかいている者もいた。多くは疲れ切った表情で座り込んでいて、浴びるように酒を飲んだり、果物やパンにかじりついていた。
不安げな警官は私と同じ秩序警察の下級巡査で、少し安心したので早速話しかけてみた。
「グーテンナハト(こんばんは)。貴方も出頭を命じられたのですか?」
下級巡査はまだあどけない顔をしていて、顔中にそばかすがあって、碧色の瞳を不安げに潤ませていた。
「こんばんは。貴方もですか? ぼ……私もさっきここに来るようにと」
「私はミュラー下級巡査。第六五警察大隊。君は?」
「アイヒホルンと申します。下級巡査。私も第六五警察大隊です」
「へえ、私は第二中隊だ」
「私は第一中隊です」
「今日はまたなんだってここに?」
「それは……。貴方の方こそどうなんです?」
「長い話なんだ。どうも保安部の将校殿に嫌われたらしい」
「僕は中隊長殿に……あまり好かれていないのかもしれません」
「そっちの中隊長は親衛隊大尉の階級を持っているんだよね?」
「ええ、とても厳しい人です。それに性格も歪んでいて、皆から嫌われています」
アイヒホルンは心底追い詰められた顔をしていた。私は話題を変えることにした。
「今から何が起こるんだろう?」
「人間狩りです」
「は?」
何かの聞き間違えかと思ったが、そうではなかった。二階ホールには一階と同様の扉があって、その扉が不意に開いたのである。中は回廊のような広大なバルコニーになっていて、観客席のように上から下の谷地を望めるようになっていた。
「我々はここで人間を相手に猟をするのです。今は死体の片付け作業中で、次の『チャプター』まであと十分ぐらいです」
「なんなんだいそれは」
「じきにわかりますよ。ここは猟師の詰所のようなものです」
呆気にとられる私を見て、アイヒホルンは辛そうに微笑んだ。
「僕もまだ未体験です。さっき来たんですが、その時は狩りの真っ最中で、先に見る機会があったんですよ。だから今はとても暗澹たる気持ちです。ユダヤ人や共産主義と戦わなければならないのはわかっているのですが。ここには女性や子供もいるので……。本当に彼らは公正な取り調べを受けた上でここにいるのでしょうか。もしもスパイなんかじゃなくて、良民だったらと思うと」
私も同様の不安を抱えていた。皆そうだったと思う。にもかかわらず、私は今思えばかなり奇妙なことを話した。
「心配しても仕方がない。私たちは命令に従うためにここにいるんだ」
くそ面白くもなんともない正論を吐いてしまったのだ。アイヒホルンが自分より大分年下に見えたから、急に強がりたくなったのかもしれない。完全にハンケの受け売りだ。
「そうですよね……」
案の定、アイヒホルンはそれきり黙りこんでしまった。
自分が愚かだったとよくわかっていた。しかし、どうすることもできなかったのだ。これから自分が野蛮な殺戮にいよいよ加担するのだという事実をまだ受け入れられなかった。プリュッツマンの言い分によれば、私は国家の敵と戦う勇気がない。叛逆者の疑いがかけられている。相当危険な状況だ。疑いを晴らすにはまず間違いなく今夜ユダヤ人を殺さなければならないだろう。それもアイヒホルンの話を聞いた限りでは、一人や二人ではすみそうにない。私が想像する以上に、保安部は野蛮な殺し方をしている。どうにも疑いようがなかった。
保安部の特殊部隊は事実上の懲罰部隊かもしれない、ハンケが言っていた通りのように思えてきた。この結果は自らが招いた結果なのか。つくづく情けなくなってきた。どうすれば良かったのか。あの夜、リトアニア人たちがユダヤ人の妊婦を辱める様を黙って楽しんでいれば良かったとでもいうのか? このような運命を与えた神に呪いの言葉の一つでも吐きたい気分だった。
刹那、このような堂々巡りの観念に陥っていると、後方から複数の人間が階段を登ってくる音がした。
振り返ると、保安部将校が四人立っていた。そのうち一人はプリュッツマンで、私に気付いたはずだが何も声をかけてこなかった。中心に、大柄で口髭を生やした親衛隊大佐がいて「随分いるな」と呟いた。
親衛隊大佐をこんなに間近で見たのは初めてだったので、しばし呆気にとられた。周囲の兵士たちが、まばらにナチ式敬礼をしたり、軍靴を打ち鳴らしたりとおなじみの挨拶をしているのを見て正気に戻り、とりあえず右手を上げた。アイヒホルンもそれに倣った。
「アーハトン!」
すかさず号令がかかる。
「ハイルヒトラー。諸君、蒸し暑い夜にご苦労である。早速本題だが、実はかなり作業が遅れている。まだ五百人ぐらいだ。上層部からあと二千五百は今夜中に、と命令を受けている。かなり困難な仕事だ。そこで国防軍や警察から、助っ人をかなりの数、臨時徴集した。交替で仕事してくれたまえ。《特殊部隊3》の幕僚部員も射撃に参加しつつ、周囲を監督することになった。お手柔らかに頼むよ。今夜は徹夜になる。シュナップスと肉料理、ポテト、新鮮な野菜、果物をたっぷり用意させた。しっかり食べて、飲んで、楽しく仕事してれたまえ。ただ、酔い潰れて眠り込むようなことはないように。 今夜中に一人につき、そうだね、十人か二十人は撃ってもらわなければ。そうでなきゃ今夜中には、かなり厳しい状況でね」
髭の大佐は、この暑いのにしっかり軍服を着込み、制帽をかぶり、ネクタイを締めて、革手袋までしていた。その顔は蒼白く、ぞっとするほど唇は赤い。彼は徹底して遠回しな表現を使った。「処刑」とか「殺す」とか、そういう直接的な表現は一切使わなかった。おかげで任務の全体像がぼやけてしまって、現実味が感じられなかった。
「ドイツ青年には関係のない話だが、リトアニア人の諸君には多少の役得も目を瞑る。地下に女の囚人がいるから好きにして良い。ただし、用が済んだらしっかり片付けるように。また、ずっと地下に入り浸るのは駄目だ。ここで十人済ませたら、三十分下に行くのを許可しよう。十人撃ったら幕僚部員に声をかけたまえ」
大佐の横には、ドルメッチャー(通訳)がいて、大佐の言葉をリトアニア語に翻訳して伝えていた。今のくだりでは、床で寝ていた男たちも飛び起き、目の色を変えて歓声をあげ、見るからに士気が上がっているのがわかる。十人殺したら三十分のお楽しみ、その後はしっかり女を殺せ。つまりはそういうことだ。
早くも眩暈がした。あまりにも野蛮で文明国とは思えない。これが偉大なドイツの姿なのか? このような蛮行を神がお許しに? それともユダヤ人は神殺しだからいいのか? 私はまたおなじみの価値観の迷路に迷い込み、一人で解決できそうになかった。
「弾が切れたら幕僚部員に言いたまえ」
大佐はそう言って腕時計を見て、何ごとか保安部員たちと話して頷きあい、奥に引っ込んでしまった。
これから何が起こるのか、なんとなくわかったがはっきりとはわからなかった。
「弾を込めておけ。そろそろ時間だ。早い者勝ちだぞ」
号令をかけたのはプリュッツマンだった。腕時計を見て、扉の前の衛兵に合図を送る。
衛兵は重そうな扉を再度開いた。と、同時に雪崩こむリトアニア民兵たち。入った先からめくらめっぽうに銃を撃ち始め、バルコニーの下からはこの世のものとは思えぬ哀れな悲鳴が巻き起こった。
阿鼻叫喚だった。
地獄巡り中のダンテでも、この状況を前にすれば裸足で逃げ出すだろう。
曖昧にしか任務の内容を聞いていなかったし、ユダヤ人を撃つのは予想していたが、こんな滅茶苦茶なやり方だとは想像すらできなかった。
バルコニーの下では、無数の男女が蠢いていて、皆が無慈悲な銃撃から逃げようと、ひっきりなしに走り回っては転げ回り、隣の人間を盾にし、ある者は死んだふりをし、隠れるところもないのに、隅っこに固まってうずくまったり、命を数秒でも長らえようと悪あがきをしていた。
そこかしこでは銃撃されて倒れこむ屍が散らばり、人々は逃げ惑った。散らばる血や踏み潰された内臓や、飛び出した脳漿に足を取られた。リトアニア人は体勢を崩した者めがけて容赦なく銃撃を加える。たったの十分ぐらいで谷地は死体の山と化し、リトアニア人が殺気立って保安部員に弾を要求したり、下手くそなドイツ語で「ツェーン(十人)!」と怒鳴っていた。
呆気に取られたのは我々ドイツ人だ。我々の力がどこに必要とされているのかさっぱりわからなかった。リトアニア人の殺意と憎悪は、我々とは比較にならぬほど凄まじい。一体ユダヤ人は何をやらかしちまったんだ?
我々はしばしお互いに見つめ合い、バルコニーに出て行こうにも、流れ弾を食らってしまいそうに思えてなかなか行動を起こせずにいた。それどころか、身じろぎひとつとれなかったという方が正しい。保安部員も、我々には目もくれずにやにやしながらリトアニア人たちの様子を見ていた。この世のものとは思えぬ奇妙な光景で、もう帰ってもよろしいですか? と近場の保安部将校に尋ねようかと逡巡した。アイヒホルンも同様に呆気に取られ、文字通り口を開け、呆然とこの「殺しのショー」を傍観していたが、やがてからからにかすれた声を振り絞った。
「十人撃てば帰れるのでしょうか」
聞き間違えかと思い「なんだって?」と大きな声で訊きかえした。
「十人撃てばよいと、親衛隊大佐殿は確かにそう仰いました」
アイヒホルンの碧色の瞳は既に正気を失っていた。
「そんなことは言っていない!」
我を忘れて怒鳴っていた。
「ナイン(いいえ)! 確かに大佐殿はそう仰いました。今夜中に十人は撃てと。十人撃てば任務は達成です。帰れるんですよ!」
「そうだ、やるしかねえ!」
それを聞いて、隣にいた武装親衛隊の兵長が興奮して叫んだ。
「おれは上官を殴っちまったんだ。警察法廷が嫌ならここでひと仕事してこいと言われて来た。もうあとがねえんだ。おれだってユダ公は大嫌いだ。やってやる、やってやるぞ!」
兵長は奇声をあげながら吶喊していった。
「行きましょう、ミュラーさん、これは戦争なんです。あいつらはユダ公なんです。人間じゃないんですよ!」
「ユダヤ人には違いないが、殺すことはない! なんの害もない連中だ、殺せば人殺しだ!」私は叫んでいた。
「何言ってるんです? 命令なんですよ。仕方がないじゃないですか。撃たなきゃ撃たれるのはこっちなんだ!」
アイヒホルンは叫びながらバルコニーに躍り出て、狂ったように小銃を撃ち始めた。他の兵士たちも「よし!」「やるぞ!」「十人だ!」と気合いの雄叫びをあげながらあとに続いた。
気づけば、ホールに残っているのは私一人で、先ほどにやにやと笑っていた保安部員が、私の方を見ているのに気付いた。刺すような目線だった。身の危険を感じたが、それでも動けなかった。バルコニーに出て行って、人々が撃たれるところを間近で見るだけでも恐ろしいのに、ましてや自分が撃つだなんて。絶対に無理だ!
「一杯やってこいよ」
私を見ていた親衛隊上級曹長が思わぬ言葉を口にした。
てっきり逮捕されるか、怒鳴られると思っていたのに。呆気に取られて顔を見た。
「あいつら馬鹿だな、この仕事をしらふでやろうだなんて。勢いで行っちまうなんてよ。大馬鹿野郎どもさ。リトアニアのクソどもがあんなに元気なのは、奴らが酔ってるからさ。こんな仕事、誰だって正気でできるかよ。酒飲んでこいよ。飲み干そうったって、飲み干せないぐらいあるんだぜ。酒飲めば、銃声や悲鳴が甘美な音楽にも聞こえるさ。女を口説く時もとりあえず酒飲むだろ? そうすれば勇気が湧いてくる。おれならそうするね。あんた保安部員の前で『ユダヤ人を殺せば殺人だ!』だなんて勇気があるよな。普通なら《親衛隊=警察法廷》へ送られるところだ。……その通りだよ。奴らも人間なんだ。だからまともに撃ってたら精神がおかしくなっちまう。我が軍にも既に何人もこういう《ゼーリッシェ・アンシュトレングンゲン(精神的緊張)》ってのに晒されて苦しんでる奴がわんさといるんだ。シュターレッカー将軍が言ってたから間違いねえ。飲んでこい、救われるためにな。自分が壊れないためにな。どのみち選択肢はないさ。撃って、飲んで、また撃つのさ」
二の句が告げず、黙って聞いていた。
「とりあえず酒飲んでこい。シュナップスが山ほどある。何も考えないで飲んでこい。クリークイストクリーク、シュナップスイストシュナップス(戦争は戦争、酒は酒)だろ?」
上級曹長に促され、私はシュナップスが満載された木箱の前で立ちすくんだ。こうしている間にも銃声と断末魔の叫び声は鳴り止まない。私は一本の酒瓶をつかんで栓を抜き、一気に飲み干した。
食べて飲んでいると、だんだん頭がぼうっとしてきて、座り込んでしまいたくなった。眩暈がしたが、いつもの眩暈ではなかった。私はいっそ本当に座り込んでしまえ! もうどうにでもすればいいじゃないかと思い、長い間酒を飲んで、贅沢にしつらえられたテーブルクロスの上に並んだ色とりどりの野菜や果物、肉料理を楽しんだ。ほろ酔い気分だった。よりはっきり言えば、だんだん気分が良くなってきて、本当に銃声や悲鳴が音楽のように思えてきたのだ。さきほどの上級曹長がやってきて、私と一緒に酒を飲み始めた。上級曹長の飲み方は私よりもはるかに急ピッチで、ウイスキーやブランデーをグラスに注いでは、ストレートで一気に飲み干し、それを何度も何度も繰り返し、こんな飲み方をしていたら、すぐに肝臓がぱんぱんになって死んでしまうじゃないかと、酔った頭ですら心配になるほどだった。
「ここに来て、酒をきらしたことはない」
上級曹長はそんなようなことを言った。
「いくらでも飲めるんだよ。勤務中なのに。いくらでも飲んでいいって、隊長が仰るから、ついつい飲んじまうんだよ。イワン(ロシア野郎)の酒樽も接収したから、ウォトカも腐る程あるぜ。あんたも飲むかい?」
私は返事もせず、近場のグラスをひっつかみ、適当になんの酒かも確認せぬままなみなみと注ぎ、一気に飲み干した。
「いける口じゃねえか、飲まなきゃやってらんねえだろ、こんな仕事。肥溜めのほうがまだましだ!」
上級曹長はだんだん呂律がまわらなくなってきた。いつしか周囲にはリトアニア人やドイツ人が入り乱れ、肩を組んで『パンツァーリート』を大合唱したり、『ドイツの歌(ドイツ国歌)』を独唱するリトアニア人がいて、あまりに美声で完璧なドイツ語なので、涙を流しながら「ブラボー、ブラボー!」と手を叩く者もいた。髑髏の襟章をつけたトーテンコプフ(強制収容所監視部隊)の隊員がリトアニア人と肩を組み、共に歌った。
場は混沌としてきた。私は何度か寝て起きて、ひょっとしてこのまま酔い潰れていれば手を汚すことなく帰れるんじゃないか、などと考えた。だが処刑の時間はなかなか終わらず、帰投の許可など出そうにもなかった。
何度も何度もこれが悪夢で、次起きたらいつものように、レックリングハウゼンのアパルトマンで、昼前ぐらいに目を覚ますんじゃないか、早く目がさめればいいのに、などと願った。しかしいつまでもいつまでもその時間は続き、やがて嘔気を催してトイレに立った。
もう逮捕されたっていい。《親衛隊=警察法廷》がなんだっていうんだ? 銃殺でもなんでもすればいいじゃないか。そんなやけっぱちな気持ちで、食べて飲んで歌っていたが、全くいつまでたっても誰も逮捕にも来ないし、よく見たらプリュッツマンまでいつの間にかその場にいて、酒を飲んで騒いでいた。あまりの滑稽さに大笑いした。ますます楽しい気分になってきたが、ふと視界の隅に、正確に言えばホールの隅っこにアイヒホルンが銃を立てて青い顔で座っており、軽蔑したように見ていた。
「おう、アイヒホルンくん、君も飲みたまえ。飲まなきゃやってられんよ、こんな仕事」
私が擦り寄ると、アイヒホルンは私の顔に唾を吐きかけてこう言った、
「あんたは卑怯な豚だ!」
驚いて顔をよく見ると、アイヒホルンは全く酒なんか飲んでおらず、さっきバルコニーに飛び出して行った時と同じく、まったく綺麗さっぱりのしらふだった。
「僕は撃ったんだ、もう十人撃った! もう仕事は終わったんだよ。帰らせて欲しいんだよ。それに比べてなんなんだあんた。一人も撃ってないだろう! ずっと見てたんだぞ。こんな状況なのに酒飲んで食って歌って、一人も撃ちゃしない。お前みたいなのは売国奴だ、寄生虫だろう。ユダ公と同じじゃないか、撃ち殺してやるよ!」
そうまくし立てながらアイヒホルンは銃を突きつけてきた。
生まれて初めて銃を突きつけられたが驚く間もなかった。次の瞬間には先ほどの上級曹長とプリュッツマンが、アイヒホルンに強烈にタックルをかけて、二人掛かりでとりおさえて手錠をかけた。
「いかなる理由があっても私闘は許さん」
プリュッツマンが据わった目で私を見た。
「ミュラー下級巡査、何があったのか説明したまえ」
「私に説明させてください、親衛隊少尉殿! 私は酒を飲んでおりません。私が正確に説明できます!」
「酒も飲まないれ十人も殺すような奴、信用れきるかっ!」
上級曹長が悪態をつくと、野次馬たちが大笑いし、上級曹長も火がついたように笑い始めた。
プリュッツマンは「おい、上級曹長。しっかりしたまえ。飲み過ぎだぞ」と呆れたような顔で注意した。
「はい、しっかりします」
上級曹長は言いながらまた気がふれたように笑い始めた。
「困った野郎だ」
しばらくプリュッツマンは上級曹長をじっと見ていたが、思い出したように私の方を振り返って、
「それで、何があったのかね?」と問うた。
私はこのやり取りを見て、どういうわけか頭がすっきりして冷静になっており、どう答えれば良いのか迷った。正直に答えればまずいことになる。
答えに窮していると「こいつはまだ撃ってないんです、まだユダ公を一人も。ただの一人も。なのに食って飲んで……。僕はもう十人も撃ったのに!」
アイヒホルンが狂ったように叫んだ。
「なるほどね。だいたい事情はわかったよ」
責め立てられるかと思ったのに、意外にもプリュッツマンはため息をついてどう言ったものかと考えているようだった。
「君、名前は?」
「アイヒホルン下級巡査であります。そいつと同じ第六五警察大隊であります。私は撃ったのに、そいつが何もしないのが納得いかないのであります!」
「くそ真面目な男だ。飲まないからだぞ? イェーガー殿が飲んで食って楽しく仕事しろと仰ったろう。なんで君は飲まなかったのかね、アイヒホルン下級巡査?」
「それは、酒を飲むと手元が狂うかと思いましたので」
「ほう。私やこの酔っ払いの上級曹長は、一昨日の晩から酒を飲んでユダ公を撃ちまくってる。もう何人殺したかわからん。十人や二十人ではないだろう。私は売国奴かね? 手元が狂っとるかね?」
アイヒホルンは口をぱくぱくさせて何も答えられなかった。
「君はわかっとらんな。酒は重要なんだよ。保安部の調査によれば、ああ、これは《国防軍総司令部対外防諜部》でも同じ研究がされているが、どんなに優秀な兵士でも、二人に一人は敵を撃つのをためらうそうだ。ましてや、丸腰の捕虜や女や子供を、君はしらふで撃てというのかね。君のようにやれと? 君は同じ部隊の戦友に銃を突きつけちまうほど短時間で頭がいかれちまったじゃないか。君の真似をしろというのかね?」
アイヒホルンは呆気にとられ、口を開けてプリュッツマンを見ていた。
「ミュラー下級巡査!」
不意にプリュッツマンが私の名を叫んだ。反射的に返事をする。
「はい!」
「軍服のボタンをとめて、この男を銃殺したまえ」
私は制服の八つのボタンを急いで留めながら、間の抜けた声を上げた。
「はあ?」
「銃殺ですか、ここで?」
「さっさとやりたまえ」
「しかし」
「君は本当に私の命令にいちいち突っかかるなあ」
「違法なのでは?」
我ながら間抜けな言い分であった。
「いかなる理由であれ、私は戦友に銃を突きつける男を許さん。裏切りか、精神科の案件だ。どちらにせよ処刑が望ましい」
アイヒホルンが信じられないという顔で私を見ている。
私も信じられない思いで見返した。
「さっさとやらんかね」
「戦友を撃てと仰るのですか」
「私たちが止めに入らねば、君の脳みそは床に散らばって、この上級曹長がモップで掃除しなきゃならんところだ」
「今ここで私が撃てば、私はこいつの母親になんと釈明すれば良いのでしょう? 私が撃ったことを内緒にしていろと仰るのですか? 私の良心が……。それはできません」
「君はアイヒホルン君の母上を知っているのかね?」
「はい、第六五警察大隊は、もともとレックリングハウゼンの地方警察です。部隊の仲間はほとんど同郷です。私はよくこいつの家に行って、勉強を教えていました。私は昔教師をしておりましたので。決まっておふくろさんが腸詰とザワークラウトをご馳走してくれました。帰りにはクッキーも。また勉強を教えてあげてねと。こいつは片親なので、おふくろさんにとっては人生の全てなのです」
プリュッツマンは腕を組んで考え込む素振りを見せた。
「命令を下したのは私だ。君が責任を負うことは一切ないのだぞ」
「私は耐えられません。親衛隊少尉殿、アイヒホルンの言葉は正しいのです。私はユダヤ人をまだ一人も撃っておりません。私は臆病者です。銃殺するなら私を! アイヒホルンは助けてあげてください。こいつはまだお国のために働けます」
どういう成り行きでこういう話になったのか、その日に限って舌が滑らかに説得力のあるでたらめの傑作を次々生み出した。
プリュッツマンは嘘話を信じ込んだらしい。もっとも後半部分は嘘ではなかったし、もう自分は死んでもいいと本当に思っていた。
アイヒホルンはぽかんと黙って成り行きを見守っている。横で見ていた上級曹長がみかねてプリュッツマンに耳打ちした。耳打ちなのにとても大きな声で、内容は周囲に丸聞こえだったのだが。
「隊長、まずいですよ。いくら何でも勝手に銃殺するのは。ただでさえ、二八五師団のプロトー将軍が抗議してきてるっていうのに」
「フォン・プロトー将軍が? なんの話だ。私は聞いておらんぞ」
「言いませんでしたっけ? さっき電話がありましたよ」
「電話?」
「このミュラーとかいう下級巡査、任務中に引っ張ったんでしょ? こいつの中隊長がかんかんになって師団長に抗議したそうです。それで、ここにも電話が」
「上級曹長、何故それを早く言わんのだ?」
「言いましたよ。絶対言いました。十五分ぐらい前に。隊長もだいぶ酔ってらっしゃいましたが」
「十五分前って何してたかな」
ぶつぶつと二人は話している。
私は疲れ切って、もう立っていられないほどだった。急激に酔いが冷めてくるのがわかった。もういっそ撃ち殺してほしかった。死んでもいいから床に寝そべりたかった。
「ミュラー君、アイヒホルン君の銃殺命令を撤回する」
私はプリュッツマンの言葉を虚ろな意識の中で聞いた。
「それどころか君には師団より原隊復帰の要請が来ている。師団長のフォン・プロトー中将からだ。さすがに師団長の要請を無視はできん。君には帰ってもらう」
今何と言ったのだ? プリュッツマンの言葉にしばらく反応できなかった。体から力がみなぎってくるのがわかった。
「しかしだ。ここに来て全てを見ておきながら、誰一人撃たなかった、などということは許されない。そのような前例を作るわけにはいかん。君にはある男の処刑を命ずる」
私は再度奈落の底に突き落とされた。
「ついてきたまえ」
プリュッツマンについていくと、要塞の地下へたどり着いた。そこは牢獄のような一帯があり、女たちが酒に酔ったリトアニア人たちに集団で犯されていた。何人も獄舎の中に集められて、ひどく乱暴に殴られながら、首を絞められながら、暴力的にレイプされていた。女たちの絶叫は恐ろしいもので、私は激しい胃の痛みを感じた。そこかしこに、銃で撃たれた女たちの屍が散らかっていて、至近距離から銃撃を加えられたからか、頭蓋が飛び散り、脳や目玉が飛び出していた。私はもう何を見ても驚かなくなっていたが、その光景の胸糞悪さは今でもはっきり思い出せる。
プリュッツマンはそのような獄舎を平然と通り、廊下を抜けると、男性の囚人を収容した監獄へと至った。先ほどとは一転して静かで落ち着いた空気が流れていた。
プリュッツマンは衛兵に言って男を獄から連れ出し、階段を登り内庭までついて来させると、くるりと振り向いてこう言った。
「ミュラー下級巡査、この男を銃殺したまえ」
私は黙って銃に弾を込めた。
「この男がなぜ処刑されるのか、聞かないのかね?」
私は首を振った。
「この男は合同国家政治保安部(OGPU)の政治将校だ。一九二五年から一九三四年までに、少なくともウクライナ人やドイツ系住民を、トロイカの一員として一万七千人殺した。そして一九四〇年からは政治局の一員として、つまりスターリンの代理人としてリトアニアに君臨し、国民を苦しめた。大量殺人の疑いがかけられている。第九要塞の惨状をみたな? この男がやったのだ。その責任を取らせる。本当は公開処刑にするつもりだったが、君がこの男を撃てば、私も君を信用できるし、安心して帰せる」
私は肌が浅黒くて、灰色の髪の毛の、うだつの上がらない風貌の初老の男を見つめた。こんな老人が……。
「レークト、アン!」
プリュッツマンが号令をかけた。
私は銃を構え、男の心臓に狙いをつけたが、肝心のところでまた手が震え始めた。
「フォイヤ!」
弾丸は目の前の男の腹部に命中した。心臓には命中しなかったので、男は即死せず苦しげにその場にうずくまった。
「君がやるのだ」
プリュッツマンは腰のホルスターからワルサーP38を引き抜き、安全装置を解除して、私に手渡した。
私は倒れこんだ老人に近づき、頭に拳銃を突きつけた。老人は呻いている。私の手はまだ震えている。
『撃たないで。助けて、何もしてない』
老人はイディッシュ語で助けを求めた。ただのユダヤ人だ!
「撃つのだ、下級巡査」
プリュッツマンが低い声で命ずる。
私は震える右手を懸命に抑えつけるようにして、老人の頭部めがけて一発撃った。老人の頭が西瓜を棒で叩いたように弾け飛んだ。
拳銃をプリッツマンに返した。もう、手は震えていなかった。
一階の事務室のような場所でしばし待たされた。プリュッツマンが出てきて、こう言って別れを告げた。
「ミュラー下級巡査、保安部への協力に感謝する。君も立派なドイツ軍兵士だったな。帰ってよろしい。帰ったらこれを君の中隊長に渡したまえ」そう言って封筒を手渡してきた。
帰り際に、最初に通った内庭へ向かって歩いていると、内庭には丸裸にされた何百人もの囚人が集められていた。今まさに処刑されるところであった。親衛隊の制服を着た機関銃班が、MG機関銃ではなく、対空用の二〇ミリ機関砲を改造したような兵器を二門構え仰角零に向けて囚人たちに撃ち始めた。囚人たちの体はあっという間にばらばらの肉片になってそこかしこに散らばり、数百人はいたと思われる囚人たちは瞬時に真っ平らになり、内庭は血と肉の海となった。生臭い匂いを鼻腔に感じながら、要塞をあとにした。何の言葉も浮かばなかった。
時刻はもう朝の三時で、東の空が薄く明るくなりはじめていた。ふらふらの足取りで兵舎への道を歩き、帰って眠ろうとした。しかし、結局朝まで眠れなかった。




