Ⅰ‐3
3
平穏な日々が続いた。
外で行われていた血生臭い殺戮を別にすればだが。
我々は秩序警察大隊として都市の治安を預かっていたが、仕事といえばリトアニア人がユダヤ人を殺すのを黙って見ているだけだった。すでに反乱分子は撲滅されており、治安自体は平穏そのものとなっていた。
《リトアニア行動戦線》や《リトアニア保安警察》といった現地の極右組織は、第三帝国に対して極めて協力的であり、ユダヤ人の「浄化行動」に対する熱意はドイツ人を上回っていた。
最初はあまりの過激さに、あっけにとられていた警官や兵隊も、次第にサーカスを見るような気分で殺戮の風景を観戦するようになった。出店でソーセージとシュナップスの瓶を買い、皆で集まって椅子を並べて、行楽気分で。まるでローマのコロシアムのようだった。剣闘士と猛獣の戦いを観戦するような。そんな娯楽になっていた。公的に認められた殺人は娯楽になるのだと知った。
ある天気の良い日に見晴らしの良い丘の上で弁当を食べていたら、百人ぐらいの男女がリトアニア人の傭兵たちに連れてこられ、機関銃であっという間に皆殺しにされてしまった。機関銃は古いロシア製のマキシム機関銃で、その殺傷力は今でも恐ろしいものだ。さすがにその時は愕然とし、報われぬ魂のため神に祈らずにはいられなかった。しかし、これは例外で、殺戮は我々の日常へ溶け込み、無関心と虚無に支配された兵士たちは、日に日に人間らしい感覚を麻痺させられていったのだ。その慣れる速度は恐ろしいものだった。
時々ケチな盗みや喧嘩の仲裁に割って入ることはあったが、リトアニア人はユダヤ人以外には大人しく、平和な連中だった。現地警察もちゃんと機能していたし治安は良好だった。「浄化行動」だけは別で、規律か無規律かは一切問われず、ユダヤ人を見つけたらその場で殺すのがリトアニア人の公共心らしかった。
そんなある日、シャウリャイへ出動した第三中隊の動向が、隊の仲間たちの間で噂になっていて、非番の日に兵舎で昼寝していた私のところに、シュミットが来て話してくれた。
「ミュラーさん、聞きました? 第三中隊の話。シャウリャイへ出動した連中です。シャウリャイではすでにユダヤ人に対する粛清が完了したそうですよ。つまり、ユーデンフライ(ユダヤ浄化済)です。聞いたことあるでしょう?」
「ユーデンフライ、なんだっけなそれ」
「世の中に無関心ですね。ユダヤ人が一人もいないって意味です。ユダヤ人を一人残らず、すっかりその地から追放したって意味」
「”一人残らず”。子供も老人もか?」
「”一人残らず”です。すっかり絶滅ですよ。世界をユダヤ浄化済にするのが戦争の目的ですから」
「生存圏の獲得だとかなんだとか、あれは何なの?」
「広大なロシアの大地は本来ゲルマン民族のものって話ですよ。スラブ民族をウラルの山奥に追放し、ドイツ人が大地を耕しながらスラブの襲来に備えるんです」
「詳しいね。それとユダヤの浄化がなにか関係あるのか?」
「いや、まあ、それはユダヤ思想は共産主義の源流だからってことでしょ?」
「生存圏とかそういう話だと悪いのはスラブ民族であって、共産主義やユダヤ人は関係ないんじゃないの? スラブ民族はユダヤ人じゃないし、共産主義もユダヤ人の専売特許じゃないだろうに」
「ちょっと待ってくださいよ、ミュラーさん。かなわねえなぁ。おれも研究者じゃないんで。ナチのお偉方の言うことは実際よくわからないですよ。難しいっていうか、むやみに回りくどい言葉使ったりしませんか? まあそんなこんなですけど、とりあえずユダヤ人は絶対悪いんでしょ? 第一次大戦で負けたのもあいつらが国を売ったせいだっていうし、キリスト殺したのもあいつらだっていうし、フリーメイソンとか、金で世界を支配してるのもユダヤ資本だっていうじゃないですか」
「労働者を収奪する一部の富裕層を倒したい、というのがボリシェビズムの基本だったような気がするんだが、でもその、金で世界を支配してるのはユダヤ人で、それを倒そうとしてるのも、ユダヤが源流なの?」
「いや、まあ、ええっと、そうですね。まあミュラーさんの言うことももっともだけど、あんまりその辺の疑問口にしないでわかっているふりしてたほうがいいですよ。プリュッツマン少尉なんかに聞かれたりしたら、まずいかも。逮捕されますよ」
確かにそれは一理ある。この辺の矛盾に満ちた教義にいちいち疑問を挟んでいたらそのうち国家秘密警察が訪ねてきそうな気がする。それとも疑問に明快に答えてくれて、私も「あぁそうだったのかあ」とすっきりした気持ちで家に帰れるなんてあるだろうか。どうもそうは思えない。
「まあ確かに、おかしなところいっぱいありますよ。金髪のユダヤ人なんて、ここでもたくさん見たし。青い目のユダヤ人もいるし。黒い髪のドイツ人もいっぱいいますからね。それに《総統》も……」
シュミットはそこまで言うと曖昧に笑って口をつぐんだ。
気まずい空気が流れた。何のための戦争なんだろうか。私はそんなことまで考えてしまったが、シュミットも同じように考えたかは定かではない。
「ところで」
気まずいついでに聞きにくいことを聞こうと思った。
「おれが気絶したあと、あの場がどうなったのか聞きたいのだが」
「それ聞きます? まあ、やはり気になりますよね」
シュミットは寂しげに笑った。
「どうなったって、他に何があるって言うんです?」
「そう言われるとぐうの音も出んが」
「実際ひどいもんでした。プリュッツマン少尉もにたにた笑ってるだけで。おれたちが一番うまくやりましたよ。銃殺は。リトアニア人の奴らの射撃の腕なんて見てられないですよ。処刑のモラルとかマナーとか持ち出すのは奇妙ですが、それでも一番うまくやれたのはおれたちでしたよ。まあミュラーさんはぶっ倒れましたけどね」
「つまり、射撃の腕が下手で、どうなったの?」
「いやいや、もう、さっきから、勘弁してくださいよ。察してください。相手は子供たちだったんですよ。一発で楽にしてやりたいじゃないですか。でもわざとなのか酔ってるからなのか、腕が悪いのか知らねえが、やたらと体を傷つけるばかりで。耐えられなくなって逃げようとする子供がいたりとか。結局そういう子はスコップで殴り殺してましたよ。一列に並ばせるのも難しくて。みんな泣き喚いて、泣き声がうるさいがきから撃ち殺したり殴り殺したり。ひどいもんでした。もう思い出したくないですよ」
「悪かった。聞くべきじゃなかったよ」
「その後は穴掘らせてたじいさんと十五歳ぐらいのがきがいたでしょ? あいつらに死体を片付けさせて穴も埋めさせて、そんで最後はプリュッツマンが拳銃でズドンです。三人とも後ろ向かせて、首筋を撃ち抜いてねえ。おれがたまげたのは、プリュッツマンが撃った三人がみんな一発でおっ死んだことです。即死ですよ。弾一発で。どこ撃てば一発でおっ死ぬか、きっと奴は訓練を受けてたんです。それ見てぞぉっとしました。保安部ってのはあんな化け物ばかりなんですかね」
シュミットの表情は心底暗かった。私も気持ちの持って行き場がなかった。
「飲むしかねえな」
「飲むしかないです」
二人でしばらく窓から見える青い空を眺めていた。泣きたい気持ちだった。しかしなぜか涙は一滴も出ないし、自分の心がどこか麻痺しているのを感じた。
「それにね、ミュラーさん。おれたちが連れてきた若い美人のママいたでしょう。子供と涙流しながら別れを惜しんでた、あの奥さん」
私は女の美しい横顔を思い出した。
「妊娠してたんです。リトアニアの奴らが、死体を弄んで服を脱がせて。それで、みんなが気づいたんです」
それ以上聞きたくなかった。蒸し返すべきではなかった。それでも私はやっとあの夜を清算できるような気がした。何もわからないままで、まるで悪夢を見たような心地がしていたから。
「でもね、分隊長がそこでリトアニアの奴らに一喝してくれたんです。あの人いい人ですよ、多分。普段はくそ真面目で愛想も悪いし嫌な人ですけどね。ミュラーさんもそう思うでしょう?」
「わからないよ、分隊長のことは。よく知らねえからな。一度じっくり話してみたい気はするけど、階級も向こうの方がずっと上だし、簡単には話しかけられないよ。てっきりきつく絞られると思ったんだけどあれから何にも話しかけてこねえしな」
「色々醜態晒しましたからね」
「ちっ、嫌な野郎だ」
「そんなことは。おれはミュラーさんがあの時少尉にああ言ってくださったの、すごいことだと思うんですよ。皆もそう言ってます。勇気あるよなって。本当にそう思ってますよ。あの時ミュラーさんが言ってくれなかったら、おれたちもっと嫌なものを見なきゃならないところでした」
自分がそこまでのことをしたとは思わないが、人の評価とはそういうものかもしれない。
「酒買ってきますよ。おれのおごりです。分隊で暇そうな連中も誘いましょう。あとは可愛い女の子もね」
シュミットが出かけて、分隊で兵舎に残っているのは自分だけだとわかった。皆非番ではめを外しているのだろうか。数日前に比べれば、暴力を見かけることも少なくなった。私も外に出て今だけは仲間と飲んだくれよう。そう思える程度には心が軽くなっているのに気づいた。
時刻は夜の七時をまわっていたが、まだ夕日が強く照り付け、日差しが眩しい。私とシュミットは、暇そうにしていたゲアハルトと、機関銃班のホフマンに声をかけ、近所のビヤホールで飲んでいた。そうこうしているうちに、シュミットはウェイトレスの女の子を本格的に口説き始め、ホフマンとゲアハルトは国防軍の酔っ払いたちと一緒にむちゃくちゃに酒を飲み、手がつけられない状態だった。
私はもともと酒があまり好きではなかったが、カウナスに着任してからはシュナップスをよく一人で飲んでいた。その日も酔っ払いたちは放っておいて、一人で静かに飲みたいと思いマスターに言って何本か持ち帰らせてもらうことにした。
さすがに兵営に持ち帰るわけにも行かないので、その辺のベンチにでも腰かけて飲むつもりだった。レストランでジャガイモたっぷりのポテトサラダと、キャベツの酢漬けとウインナーを一緒に煮込んだものを注文し、器ごと外に持って行って酒と一緒に楽しんだ。
飲んでいると嫌なことをすぐ忘れられた。まだここに来て一週間ぐらいしか経っていないというのに。もう何年もいるような気がした。街は来た時よりは落ち着きを取り戻し、住民は忙しそうにとっ散らかった街を片付けはじめていた。まるでこの街は楽しい祝祭が終わったばかりのようだ。殺戮はお祭りなのだ。行き交う人々を見ていると、ジプシーと思われる人々が、両手にいっぱい衣服を抱えて歩いている。ユダヤ人から剥ぎ取ったのか、その衣服には血のあとのようなものがついている。満面の笑顔が印象的だった。
「おい、ミュラー」
不意に声をかけてきたのはハンケだった。軍服をざっくりと着崩し、やや酔っているようで顔が赤い。夕陽のせいで更に赤く感じる。
「なんだおまえ。一人で飲んでるのか? 他の連中は?」
「さあ、私はずっと一人でしたが」
「嘘つけ!」
そう言うと勢いよく隣に腰かけてきた。なぜ嘘だとばれたのかはよくわからない。警察官の勘だろうか。
「どいつもこいつも門限をなんだと思ってやがる」
そう言いながらも、ハンケもさして気にしていないようにみえる。
「おまえに一つ説教しとくが、今後は保安部の親衛隊少尉に口答えする際は、おれのいないところでやれ。わかったか?」
「かしこまりました。分隊長殿にはご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「胸のむかつく命令には抗議する権利ぐらいある」
ハンケは煙草に火をつけた。
「だがな、おれたちは結局命令通りやってたほうがいい場合が多いんだよ。むかつく任務を嫌だと拒否したら、今度はもっとむかつく命令を受けたりとかな。将校ってのは陰険で根暗な野郎ばかりだから、自然とそうなる。ほら、おまえもやれよ」
言われて懐から煙草を取り出し火をつけた。
「あの時銃殺命令まで拒否したら、おれたちも来週から《要塞行き》だったかもしれん」
「《要塞行き》。何ですそれ?」
「来週、つまり七月入ってからだな。またどこかで大規模な連行と処刑があるそうだ。今まではリトアニアのごろつきどもがむちゃくちゃなやり方で殺してたろ。でも今度はもっともっと規律正しく組織的に、さ。ドイツ人の得意分野だろ。リトアニア臨時政府の裏には保安部と保安警察がいるという噂もある。これまでのポグロムも、《帝国保安本部》が裏で何かやった結果かもしれん。保安部の高級幹部が二十五日にユダヤ人を殺すよう、リトアニア人を扇動するような演説を行ったとかなんだとか、そんな噂も聞いた」
言葉を失った。まだ殺すつもりなのか。《総統》は本当にユダヤ人を根絶するつもりなのだろうか。
「それで共産党と同じに要塞を使うというわけですか。また例の《親衛隊及び警察高級指導者》が黒幕なんでしょうかね」
「多分な」
「ならおれたちも危ないですな」
「そう言ってるだろ」
ハンケが煙草の先に溜まった灰をポンと落とした。
「だがな、保安部の特殊部隊は大した規模の部隊じゃないようだ。せいぜい数百人? 数十人かもしれん。やつらはプリュッツマンのような将校とか、事務員や運転手を除けば実働部隊を持たないのかもしれん。こないだの夜のように、殺しの任務を上から命令されたら、その都度臨時で兵士を召集して銃殺させてるのかもしれん。陸軍や警察や、武装親衛隊から。あとは現地のリトアニア人や……ウクライナ人も凶暴らしい。ポーランドでも似たような特殊部隊がいたよ。奴らの仕事風景はこの目で見た。連中は狼だ。血に飢えた生粋の殺し屋だ。殺すためだけに街じゅう嗅ぎ回ってたぜ。年がら年中な」
そう言って、煙草を地面に落として、忌々しげに軍靴で踏みにじった。
「一つ言えるのは、そうやって臨時で召集される兵士たちは、問題を起こした者たちじゃないか、例の特殊部隊の実働部隊ってのは、いわゆる懲罰部隊なんじゃないかってことだ。そんな噂があったよ。ポーランドの時からな」
「問題?」
「朝寝坊したとか点呼に遅れたとか、座学の時間に寝てた、とかそんなのさ」
「そんなくだらない。分隊長殿はどこでそんな話をお聞きになったのですか?」
「《国防軍総司令部対外防諜部》に古いダチがいる」
《国防軍総司令部対外防諜部》?
思わぬ名称が出てきたので私は言葉を失った。なんだってこの人はこんなところで警察官なんかやっているのだろう。
「つまりこの話の要点は、大人しくしてればおれたちはせいぜい要塞の一番外側の封鎖線を任されるぐらいで、中に入って女や子供が丸裸にされて銃殺される光景を見せられたり、片付け手伝わされたりはないってことだ。大人しくしてればだぞ。最初の話に戻るが、プリュッツマンにはもう逆らうな。おれたちは目をつけられてる」
ハンケはいつになく饒舌だ。酒のせいなのだろうか。私はこの機を逃せば一生聞けそうにないことを聞くことにした。
「分隊長殿は殺しが嫌いなんですか?」
「当然だ。なぜそんなことを聞く」
「あの晩、老婆をなぜ撃ったんです。いきなり撃つことはなかったんじゃないですか。言って聞かせる余地ぐらいはあったんじゃないですか?」
「この野郎。上官に楯突くなと言ったばかりだろうが」
ハンケは苦笑いしている。
「まあ、お前は経験も浅いしわからんだろうが、今はああいうやり方もあるって見ておけ。ぎゃあぎゃあ騒ぐ奴はとりあえず撃ち殺せ。ああいう場で治安を確保するためには必要なんだ。大声とか悲鳴とか、そういうのは周りに容易に伝染する。不安な感情とか、恐怖とか、混乱がな。うるさい奴はさっさと撃ち殺すんだよ。さもなければ全員殺すことになるぞ。これはおまえよりちょいと経験が長いおれからの忠告だ」
ハンケの言葉は正しかった。
七月四日、大隊は「第七要塞」への出動を命じられた。その外周に非常線を張り誰も通すなが命令の概要だ。
「第七要塞」は、十九世紀に帝政ロシアによって、国境警備のためにカウナスの北部地区に建設されたもので、かつては一九一五年にドイツ軍の手に落ちたこともある。二重の煉瓦壁によって囲まれた堅固な要塞は、今なお威容を誇っている。
兵舎からは徒歩でせいぜい三十分ぐらいの距離にあって、第九要塞よりはるかに街の中心部に近い場所に位置している。街の中心部に向かって進み、再度ネリス川をかかる百メートルほどの橋を渡って、少し北に歩けば煉瓦造りの城壁が見えてくる。
たどり着いてみると、思った以上に街の中心部に近い場所にあるので驚かされた。我々はすぐさま中隊単位で整列・点呼し、中隊長の登場を待った。大隊長ケーニッヒ少佐がシャウリャイで別行動中の第三中隊を率いているため、実質の最高指揮官となっているのは第一、第二の各中隊長だ。
第二中隊長、つまり我々の中隊長は、マイヤー少尉で、戦争前は予備役だったらしい。年齢は四十七歳で明らかに前線勤務には歳をとりすぎていた。戦争前はトラックの運転手だったそうで、ずんぐりとしていて背は低いが筋肉質で屈強な体が自慢だった。せっかくのブロンドの髪の毛は大きく禿げ上がっており、いつも野戦帽をかぶっていて、軍服はだらしなく乱れていることが多かった。規律に関してはいい加減なところがあり、自分自身もかなりの酒好きだった。中隊の中では『パパマイヤー』というあだ名が付けられていて、親しみを持たれていたが、ケーニッヒ少佐やゲアハルトをはじめ、他の年配警察官と同様若い連中には少し馬鹿にされていたように思う。第一中隊と第三中隊ではそれぞれ若い青年将校が中隊長を務めていて、警察と親衛隊、両方の階級を持っていた。秩序警察の中にも、親衛隊員が少数いて、大抵彼らは将来有望な若者だった。末端警察官は皆、警察が親衛隊にいずれ吸収されるのではと危惧していた。
我々は今回の作戦の意味や期間、任務の詳細についてまったく知らされていなかったが、いまや自明となっている。何も知らされないからこそ警察官たちは盛んに噂話を交換しあった。今回のポグロムに親衛隊上層部がなんらかの形で関与しているのは確かそうだった。
しかしそれでも指揮官からしっかり命令を受けた方が安心するものだ。噂は噂であって、しばしばあてにならないからだ。
我々は「パパマイヤー」がしっかり命令を伝えてくれると期待し、固唾を飲んで中隊長の動向を見守った。
マイヤーがふらふらした足取りで仮設の安っぽい演台に上ると、すかさず号令がかかる。
「中隊長殿に敬礼、かしら、なか!」
マイヤーは号令にあわせて軍隊式に敬礼すると、慣れない様子で話し始めた。
「諸君、今回の任務は簡単である。この第七要塞を囲むようにして封鎖線を張るだけだ。誰も出さず誰もいれず、簡単だ。しかしである。国防軍のトラックが検問を何回も出入りすると思うが、基本的にすぐ通すように。運転手の身分証を確認する程度は必要だが、あまりしつこくやるな。皆忙しいからな。簡単な任務で暇だからと女のようにおしゃべりばかりするなよ。また、持ち場を勝手に離れた場合は厳罰に処す。厳正な規律のもと、《総統》と国民に恥じない働きを期待しているよ。うん、以上。あ、待った。今日の任務は多分夜遅くまでかかる。休憩は適宜上長に確認をとって交替で取るように。あと、保安部のお偉方が来るかもしれん。わかってると思うけど喧嘩売るようなことするなよ」
「中隊長殿に敬礼、かしら、なか!」
「いやはや、雑な演説ですね。もう飲んでるんじゃないかな」
シュミットが苦笑いしている。
「だらだら長いよりはいい」
一応、そう答えておいた。
「前向きにとらえればそうなりますが。中隊長の威厳とかまったくですね、パパマイヤー」
「おれはパパマイヤー嫌いじゃねえけどな。エリート青年将校様よりはいいと思うぜ。将来有望な親衛隊大尉殿よりはなあ」
「第一と第三は大変みたいですね。親衛隊の隊長が規律にやたらとうるさいらしく。でもうちは結局大隊長がケーニッヒ少佐ですから。秩序警察は国防軍や武装親衛隊よりはのんびりしてますよ」
ケーニッヒ少佐もマイヤー同様、年配の予備役将校でエリートとは程遠い人物だ。
「よし、じゃあぼちぼち散開しろ。無駄口叩くなよ。国防軍のトラックと、保安部の連中が乗ったベンツやワーゲンが通る場合、判断に迷ったらおれや小隊長や階級の高いものに判断を仰ぐこと。今日はそんな難しいことはねえだろうが、お偉方の目にとまるようなことは絶対するなよ。『中』行かされるぞ」
ハンケが意味深に警告する。
『中』で何が行われるのか、もはや知らない警官はいなかった。警官たちの表情ににわかに緊張が走る。
我々の持ち場は要塞の南東にある比較的人通りの多い路上であった。目の前には並木道が広がっていて、石畳にべっとりついた血のあとが、一週間前のポグロムの壮絶さを物語っていた。
それにしてもこの場所で検問とは。
「この道まっすぐ行けば要塞の南門か。貧乏くじかもしれません」
シュミットが大きく溜息をついた。
「兵隊さん、何かおくれ、ビッテ(お願い)!」
「あっち行ってろ、遊びじゃねえんだよ!」
シュミットがぞんざいに子供を追い払う。
子供たちは、それを聞いて何やら楽しげに笑いながら駆けて行く。
今のところ、カウナス市内では我が軍に対し歓迎ムードが強い印象だ。
我々が道端を歩いているだけで、現地住民は兵士たちに花束を渡したり、菓子を包んだり、頼みもしないのに何かと笑顔で話しかけてくる。
子供たちは行進する我々に面白がってついてくるし、そんな子供たちに配給のライ麦パンやマーガリンやチョコレートを分け与える兵士も多かった。故郷に子供を残している兵士も多く、リトアニアの子供たちの人懐っこさも相まって、近隣住民との関係は良好と言えた。戦火に晒された時間も極限まで少なかったし、ユダヤ人に対するポグロムは大抵の現地民にとって対岸の火事だった。それまで一緒に国民として暮らしていたのに、何がそこまで両民族を断絶させたのか、それはひとえにヴォリシェビキの恐怖政治であったに違いない。欧州では共産主義とユダヤ人は同一視される傾向が強まっていた。《国民啓蒙省》の綿密な仕事の結果とも言える。そこにリトアニア伝統の古い反ユダヤ主義が結びつき、現地住民の苛烈な暴力を正当化したのだろう。
我々としては厄介な人民委員や政治将校、市民権のないユダヤ人を楽に排除できたのだから好都合と言えた。ドイツ当局とリトアニア臨時政府は反共と反ユダヤ主義という点において団結していた。
時刻は午後三時を過ぎたところだ。冷やかしに来た近所の子どもを除けば、誰一人要塞へ行こうとする者はいない。ある意味当然で、だからこそ退屈で楽な任務なのだ。しかし夕方にさしかかってくると、保安部の将校や銃で武装したリトアニア人、荷を運び込む国防軍のトラックが要塞を出入りするようになり、都度対応に追われた。保安部将校たちはドイツ軍政局発行の通行許可証を所持しており、我々はすぐに通行を許可した。リトアニア民兵たちも将校に付き従うように後を付いて歩き、続々要塞へと入っていった。時々オートバイに乗った野戦憲兵が巡視にくるので気を抜けない。長時間の単調な任務に疲れ果てた。時刻が二十時をまわり、あたりが宵闇程度に暗くなってくると、人の出入りは一層増え、リトアニア民兵や親衛隊、または国防軍や警察官も混じるようになってきた。
我々は順番にこまめに休憩し、配給されたライ麦パンやマーガリン、マーマレード、ソーセージの入ったスープ、コーヒーを腹に詰め込み、消耗した体力を補った。煙草は暇さえあればどんどん吸ったので、煙草とキャンディーバーやチョコレートを交換したり、警官たちは比較的自由に物々交換をしていた。
すっかり辺りが暗くなったころ、状況が大きく動き出した。
国防軍の灰色のトラックが続々やってきて、要塞へ向かって列を作りはじめた。我々は形ばかりの身分照合を行い、どんどんトラックを送り出したが、それでも道は渋滞し遅々として進まず、運転手たちの機嫌も悪かった。
「シャイセ(クソ)、早く通せよこのくそポリが!」
悪態をつく運転手もたくさんいてうんざりした。決まりは決まりだし、仕事は仕事。確認せずに自由にどうぞというわけにもいかない。
ようやくトラックの列を送り出したころ、今度は闇の中から、何者かが大挙して押し寄せてくるのがわかった。
話し声もなく、足音一つせず、一様に下を向き、幽鬼のごとく歩いてくるその集団をみて、我々は言葉を失った。
「こいつらユダ公だ」
シュミットが息を飲む。
付近の家々で隠れていて、今夜狩り出され、連行されてきたユダヤ人であった。ほとんどは男だったが、女も少なからず混じっていた。子供や老人も。
ぼろぼろの衣服にぼさぼさの髪、着の身着のままで連れてこられたらしい。靴さえ履いていない者もいた。その惨めな姿は我々が思い浮かべる、最もわかりやすい姿をした下等人種そのものだ。みすぼらしく、みじめで、不潔で、ひげもじゃで、哀れな姿。ポグロムが始まってからずっと家々にこもって食事や入浴を我慢し、息を潜めて隠れていたのだろう。痩せこけ、瞳は落ちくぼみ、手足は飢餓浮腫によってパンパンに膨らみ、腹が異様に突き出ていた。
歩いてはいるものの速度は遅く、自分たちの姿をわざと周囲に見せつけるかのようにゆっくり歩いていた。
その列に対してリトアニア民兵が、列からはみ出したり、歩きが遅いものに対して、口汚く罵りながら容赦なく警棒や鞭をふるった。
その様子を、当初我々は文字通り口をぽかんと開けて見ていたが、そのうち蔑みの言葉を浴びせたり、罵倒したり、嘲笑する警官も現れ、場は騒然となった。
先頭を歩いていたSDの腕章をつけた親衛隊軍曹が、一番階級の高いハンケに対して身分証と通行証を出し、軍靴を打ち鳴らしてナチ式の敬礼をした。右手を高く掲げるお決まりのポーズだ。
「ハイルヒトラー。見ての通り囚人の護送である。ここを通していただきたい。手早くね」
「ハイルヒトラー。蒸し暑い夜にご苦労様です。トラックは使われないので?」
「トラックも無限にあるわけじゃない。前線では激しい戦闘が続いているし、トラックは一台でも貴重だ。虫けらどもの護送だけにそう何十台もまわしてはもらえない」
「貧乏くじですな。足をお止めして申し訳ありません。どうぞお通り下さい、親衛隊軍曹殿」
ハンケが身分証と通行証を返しながら、慇懃とも言えるぐらい丁寧に応対した。序列としては親衛隊軍曹と上級巡査はほぼ同じのはずだが、秩序警察官と保安部員では当然後者の方が格上となる。
「迅速な対応に感謝するよ。何しろ戦時においては時間さえままならない。ハイルヒトラー」
「お気をつけて。ハイルヒトラー」
徒歩で要塞へ向かうユダヤ人も十人や二十人ではなく、おそらくその十倍はいたのではなかろうか。時刻が零時を回った頃、ようやく我々は別の部隊と交替を命令され帰投できた。
ようやく終わった。少し皆の気が緩んだ頃、要塞の方から発砲音が聴こえてきた。
皆体を強張らせ、要塞の方角へ耳を澄ませた。
銃声は一定の間隔で規則正しく、鳴り止む気配はなかった。深夜で、人の行き来も途絶え、静まり返った並木道に、風に乗って銃声とは異なる奇怪な音が聴こえてきた。
まるで競技場の外で、スポーツ観戦の応援の声が洩れ聴こえてくるかのように。
「悲鳴だ」
思わず呟いていた。
今日の任務の意味を頭では理解していたつもりだが、忙しさの中でいつしか考えるのをやめていた。そして今、第七要塞で行われていること、今日一日かけて慌ただしく人が出入りしていた意味をはっきりと悟った。




