Ⅰ-1
Ⅰ
1
《北方軍集団》が敵の前線を破った。早くもメーメル川を渡河したらしい。いよいよリトアニア臨時首都カウナスへ入城する。我が第六五警察大隊は国防軍主力の背後を守る。聞くところによると、我が大隊を構成する三箇中隊のうち、第三中隊のみ別行動で、カウナスを経由はするが北部のシャウリャイという街に出動するという。任務の詳細は不明だ。我々はしばらくの間、赤軍が放棄した車両や武器の回収、爆発物の撤去、治安の確保を行うことになる。
ここ数日の戦闘で、赤軍は不意を打たれ、大急ぎで撤退を始めているという。《総統》の言うように、ロシアは腐った大木だったのだろうか。
空ではスツーカが怪音を轟かせながら、カウナスへと向かって急降下していくのが見える。空軍が落とす爆弾一つ一つが我々の犠牲を減らすのだ。部隊皆で喝采をあげた。この戦争が早く終わると良いが。
朝もやをついて我々のトラックもメーメル川を渡ろうとしていた。ここまで大して危険な目にもあわなかったが、都市の中には赤軍の残党が潜んでいるかもしれない。我々警察の仕事は都市の治安を回復させること。同僚のシュミットが落ち着かない様子で煙草を吸っている。
「今度の戦争は秋までに終わると聞きましたが、ミュラーさんはどう思われますか?」
シュミットは私より四つ年下で一九一三年生まれ。今二十七歳だったはずだ。秩序警察隊員としては若いほうとも、歳を食ったほうとも言えない。部隊の中でいまいち居場所がないらしく、比較的に歳が近い私に話しかけてくるのだった。
「今のところ《総統》の仰るとおりだな」
私は短く答えた。私は第三中隊がなぜ別行動を取るのかについて思いを巡らせていたが、その考えは次の瞬間には吹き飛んでいた。トラックがメーメル川にかかる橋を渡りはじめると、のどかな田園風景は一変し、川をはさんだ向こう岸に賑やかな都市の面影が見えたのだ。カウナスはリトアニアで最も栄えた工業都市だという。一九二〇年のポーランドの侵攻以来、臨時首都としての役割を長く務めた。今その地に解放者として降り立つのだ。一九四〇年以来、ボリシェビキによる恐怖政治がリトアニアの無辜の民を苦しめてきた。ボリシェビキ人民委員はその多くがユダヤ人だという。奴らは残酷で、次々と無実の人々を東へ追放しているという。私の胸が正義感で沸き立った。この戦いが共産党を倒し、この地に人道と法による支配を復活させるのだ。
橋を渡りきると、トラックはいったん停車し、中隊長による点呼がかかった。これから任務についての説明があるに違いない。
我々は第二中隊第五小隊第一五分隊に所属する。分隊長のハンケ上級巡査号令のもと、我々は気を引き締め、文字通り軍服の襟を正して整列した。市内は蒸し暑く、しばらく立っているだけでこみかみから汗が流れた。
しばしの沈黙の後、大隊長のケーニッヒ警察少佐が皆の前で訓示した。そして、その訓示内容は我々をおおいに驚かせたのだった。
「マイネヘーレン(諸君)。ついに我が総統より大隊に神聖なる任務が与えられた。この任務が我が大隊に試練を与えようとも、神のご加護があらんことを。我々はこれより分隊単位で市内へと侵入し、ロシア軍が放棄した車両や建物を調査し、危険がないかを確認していく。兵舎までの安全の確保も重要な任務だ。もしも敵の残した爆発物が見つかった場合、単独で処理することが難しいと思われた場合は、至急師団司令部に連絡して判断を仰ぐこと。もしもロシア兵や偽装したゲリラを発見した場合は、我々は彼らに対して勇気を持って厳格な措置を取らねばならない」
ケーニッヒはここまで一気に喋ると、一呼吸置いた。明らかに落ち着きを失っている。
「我々は等しく……」
汗をかき、表情がはりつめている。声はうわずり、まわりくどい言い回しで、何を言わんとしているのか、私にはよくわからなかった。全身が小刻みに震え、皆に悟られまいと余計体をこわばらせていた。
「我々は等しく国家社会主義の理想を体現する、厳格な執行者たらねばならない。支配人種として、この地の人民を導かねばならない。そのためには国際ユダヤ主義の権化であるボリシェビキ人民委員の殺人者どもに対し、容赦してはならない。この戦争は共産主義から祖国、ひいては世界を守るための聖戦である。我々は皆の模範とならねばならない。リトアニア人民は既に立ち上がり、国際ユダヤ主義の排除に乗り出している。我々は現地の人々を支援せねばならない。自発的浄化行動を妨害するようなことがあってはならない。例え、目の前の光景が犯罪的であるかのように見えたとしても。心を鬼にして、この試練を乗り越えて欲しい。これは《総統》のご意志であり、最も高いところからくだされた命令である。我々は警察官だが軍人としての名誉もある。命令には従わねばならない。繰り返すが、現地住民の浄化行動を妨害してはならない」
ケーニッヒ少佐は、凡庸な中年の警察官だ。長い間、厳格だが危険の少ない任務についてきた。部下の顔色をうかがってばかりいる。凡庸な人物だ。その凡庸な人物が「国家社会主義の理想を体現する厳格な執行者たれ」などと言う。私は茫然と厳しい表情の大隊長を見つめた。ケーニッヒは落ち着きなく周囲を見渡し、
「なお、第三中隊のみ、これより即座に私と共に北部のシャウリャイへと出動する。何か質問は?」
と問うた。
誰も声をあげられなかった。場は静まり返った。
「本当に何もないのか? 聞いておかなければ後悔するかもしれないのだぞ」
ケーニッヒの確認に対して一人の巡査がおずおずと手を挙げた。
「つまり、我々はこの街のユダヤ人を殺すのでありますか」
「浄化行動の邪魔をしてはならないということだ。詳細は各指揮官に聞くほうが良い」
「恐れながら、女や子供はどうするのですか。老人や病人は?」
「同様である」
ここで、大隊全体から深刻な動揺が生まれた。警官たちはお互いに顔を見合わせ疑問を口にし始めた。ケーニッヒはすかさずこう付け加えた。
「勘違いのないよう、もう一度述べるが、これは《親衛隊及び警察高級指導者》より発せられた命令であり、《総統》のご意志でもある。諸君が任務に忠実であることを期待する。以上で解散。ハイルヒトラー」
それぞれの分隊において任務の説明を受けると、分隊長のハンケに対して食ってかかるものがいた。
「我々は親衛隊ではありません。分隊長殿、奴らがポーランドでやった仕事を今度は我々が行うのですか?」
「大隊長殿の命令を聞かなかったのか」
ハンケは独特の落ち窪んだ眠そうな目をギョロリと向けた。
「《親衛隊及び警察高級指導者》などの名前は聞いたことがありません」
「数年前に新設された、親衛隊と警察が管轄の高等部署らしい。おれも詳しいことは知らん。我々は陸軍二八五保安師団に所属する警察大隊である。指揮系統は二つ。どちらの命令にも従わねばならない」
ハンケはポーランド戦でも従軍したベテランの警官で、同じような経験があったのかもしれない。先ほどの大隊長の訓示をまったく気にしていない様子だ。確かに命令は命令。我々は服従せねばならないし、自分の頭で考えるのは禁じられていた。
こうして私は他の警官と共にカウナス市街北西へと向けて歩き始めた。「第九要塞」と呼ばれる十九世紀後半に当時の帝政ロシアによって建設された砦で、他の分隊と合流する手はずだった。既に日は登り、古い石畳の表面を照りつけていた。
簡単な会議をすませ、我々はカウナス市街へと浸透していった。私の分隊は徒歩で第九要塞を目指す。長いことトラックに揺られていたためか、皆の足取りは思いのほか軽かった。しかし五分と歩かないうちに、なにやら人だかりができているのが見え、停止を余儀なくされた。
人々はなにやら大声でわめいているが、ほとんど聞き取ることはできない。
群衆が見つめる先には、鉄棒や鉈を持った男たちが、通りに面した古い石造りの建物の前でたむろしていて、開け放たれた扉の奥から、肌着姿の女が通りに引きずり出されているのが見えた。労働者風の男が女の髪をひっつかみ、乱暴に道を引きずりまわしている。女は哀れな泣き声をあげながら激しく両手をばたつかせながらもがいていたので、みるみる全身が傷だらけになっていく。道に赤黒い血の跡が点々と残った。さらに髪を振り乱した裸の女が、両手を顔の前に突き出して、絶叫をあげながら通りに飛び出してきた。群衆の熱狂は更に興奮の色を帯び、一つの声へと集約された。そこで我々は彼らがはじめてなにを言おうとしているのか理解した。こう言っているのだ。「殺せ」と。女はたちまち鉄棒を持った男に殴り倒され、地面に叩きつけられた。激しくすっ転んだ女の腹に、男は容赦なく蹴りを入れ顔を軍靴で踏みつけた。
そこでようやく分隊の一人の警官が「助けなければ」と声を上げた。その声に銃を握り直す者もいたが、どうすれば良いかわからず、ハンケのほうを向きなおって指示を待つ者もいた。私も皆がどう動くつもりなのか、事態を見守るしかできない。頭が混乱しており、長銃の肩紐を握る手は震えていた。助けたかった。しかし、大隊長の言葉がここで早くも思い出された。
「先に進むぞ」
ハンケは落ち着いた低い声で、しかし断固とした口調で言った。
「婦人が暴行を受けているのですよ?」
「我々は警官です」
警官たちが次々に抗議の声を上げた。
『現地民の自発的な浄化行動を妨害してはならない』
ハンケは心底面倒そうにそれに応えた
「よく見ろ。あいつらはユダ公だ」
私はそう言われて鉄棒で殴られながら泣きわめく長い黒髪の女をもう一度見直したが、ユダヤ人だという確証は持てなかった。
「このままでは殺されてしまいます」
別の警官がたまりかねた様子で叫んだ。
「だからそれでいいんだよ!」
ハンケは抗議した警官には目もくれず、我々皆に聞こえるよう怒鳴った。
浄化行動? これが?
私は「浄化」という言葉の持つ意味をもう一度考えてみたが、どう考えても場にそぐわない。
議論している我々を見て、中年の薄汚いリトアニア人の男が話しかけてきた。
「巡査殿、巡査殿」
彼はそう言っているようだった。
「オフィツィア、オフィツィア」そう言って男が指し示した先には、髑髏の徽章がついた制帽を深くかぶり、灰色の軍服を着込んだ若い将校がいて、その隣には明らかに周囲の暴徒とは違った雰囲気の緑色の軍服を着た男たちが並んでいて、いずれも長銃で武装していた。
「あいつら保安部ですよ」
シュミットが私の耳元で囁いた。
よくみると制服の左腕に保安部所属を示すダイアモンドの徽章が縫い付けられている。
ユーデ!
フライ!
アクティオーン!
男はどうやらあの将校の命令だと言いたいらしい。よく見ると保安部の将校が、我々のほうをじっと見ているのがわかった。将校はただこちらを見ていた。その表情からは何の感情もうかがえなかった。
「行くぞ」
ハンケが号令をかけた。抗議した警官たちも不承不承といった様子で歩き始めた。この戦いはユダヤ人とボリシェビズムとの戦い……。本国でも盛んに喧伝されていた。しかし、その現実は女を丸裸にして殴り殺すことだったのか。私は先ほど見たものを、女の悲鳴を忘れようと努めた。しかしその光景は私の脳裏にいつまでもこびりついて、離れてはくれないのだった。
市の中心部に入ると、事態は更に悪化した。新約聖書の黙示録の光景だ。通りの端々には丸裸の男女の死体がうず高く積み上げられ、あちこちで人だかりができていて、それぞれで野蛮な殺戮が繰り広げられていた。ユダヤ人と思われる人々は、暴徒の群れに囲まれ体を抑えつけられた上で、まさかりや古いサーベルで頭部や四肢を切断されているのであった。また、あちこちで銃殺が行われ、リトアニア人の民兵が居並ぶ建物一つ一つに手榴弾を投げ込んで、立てこもる人々を屠った。火を放たれた家屋からは煙に追われて赤児を抱いた母親や老人や子供が走り出してきて、民兵は大声で笑いながら人々に銃撃を加え、倒れこんだ者を銃床でしこたま殴ってとどめをさした。民兵たちは明らかに酔っていた。できる限り逃げる人々の脚を撃って、動きを止めてから斧やまさかりで殴り殺すのだった。
明らかに十歳にもならない女の子が丸裸で木に吊るされていて刃物で切り刻まれ血まみれだった。首から木の札がかけられていて、乱雑なイディッシュ語で「清浄たらん」と書かれていた。
「ドイツでは考えられない光景ですな」
シュミットが嫌悪を露わにして吐き捨てたが、私は同意できなかった。
「《水晶の夜》はこんなじゃなかったのか?」
「まさか、ここまでは……」と言いつつシュミットは言葉を詰まらせた。
陽は更に高く上り、空を見上げれば美しい青空がのぞいていた。のどかな日曜日のような陽気だ。更に進むと、古いアパルトマンが並んだ住宅街へと至った。そこでも同様の光景が繰り広げられ、大気は悲鳴と銃声と残忍な笑い声で満たされていた。人々がアパルトマンの窓から文字通り放りだされて、路上に叩きつけられて、そのたびに大きな音がした。今回は、そんな「浄化行動」を観戦している群衆の中に、見慣れた軍服の一団を認めた。ドイツ国防軍の一団が、パンにかじりつきながら休憩しているのだ。
「やっちまえ、放り投げろ」
などと露骨に声援を送る兵士がいたかと思えば、全く興味もなくおしゃべりしながらパンに食いつく兵士もいれば、リトアニア人が哀れな犠牲者を窓から落とすたびに口笛を吹いたり手を叩いたりして、大笑いする者もいた。
一人の伍長が我々に気づくと、一番階級の高いハンケを素早く認め、軍隊式の敬礼をした。
「やあ、上級巡査殿。見物ですかな?」
「いえ、任務中です」
ハンケも敬礼し、短く返した。
「我々もであります。この付近は既に我が師団によって完全に封鎖されています。ユダヤ人や政治将校をこの街に閉じ込め、奴らの墓場とするつもりのようですな」
「上の考えは知りません。ただ、現地民の行動を妨害するなという命令を受けています」
伍長はにやりと笑い「我々もであります。我々もです」と満足げに繰り返した。
「なに、奴らに任せておけばすぐ綺麗に掃除してくれますよ。野蛮な連中だ。見境というものがない」
「そういえば、この辺りは北のエルサレムと呼ばれていましたから、ユダヤもわんさといるのでしょうね」
「そうです。そうです。長いこと寄生虫どもが大きな顔をして文化を腐らせてきました。南のヴィリニュスでも同じように浄化がはじまっています。正義と秩序が勝利するのです。この国にはもう、ユダヤ人の居場所はありませんよ。では上級巡査殿、ハイルヒトラー」
伍長と別れると陸軍部隊を尻目に我々は先に進んだ。ネリス川をかかる橋を渡る手前に公園のような広場があって、赤軍の装甲車の残骸が横たわっている。すぐ横で酒瓶を片手に持った男たちが、楽しげにサッカーをしているのがみえた。殺戮が行われているすぐ横でサッカーとは。しかしそれは残酷な殺しの儀式の一環だった。ボールと思ったものが、付近で殺されたとみられるユダヤ人の頭部だったのだ。生首を蹴りあって子供のように無邪気に戯れているのだ。
なぜここまで憎めるのだろう。私は衝撃を受け、言葉を失った。
「ミュラー、シュミット、二人であの装甲車の中を調べろ」
ハンケはサッカーに目もくれず冷静に指示を出す。
私とシュミットは装甲車の脇に近寄って、黒焦げの車体の中を覗いた。中にはゴーグルと革のジャケットを着た赤軍の兵士が二人横たわっていて、遺体はところどころ焦げており、よく見ると腹が切り裂かれて、臓物が引きずり出されていた。二人の腰のベルトには拳銃のホルスターが装着されていたが、既に拳銃は奪い去られていた。この二人が本大戦で初めて見るロシア兵だった。
「これが敵……」
シュミットが息を飲む。
「ロシアはパンツァー(戦車)は山ほど持ってるが、操縦できる人間はみんな殺されたって聞いたが。こいつらの服装見る限りでは嘘だったようだ。ポラッケみたいに戦車もないよりは多少手強そうだ」
ハンケがきてそう言った。
私はネリス川にかかる橋を見やり、もしもここでロシア軍の戦車が現れたらと想像した。もちろんそんなことはありえない。我が軍は今も前進中なのだ。こんな街中で戦車を見逃すなんてあるわけがない。私は自分にそう言いきかせた。橋を渡ればまもなく第九要塞だ。我々は重い足取りで橋に向かって歩きはじめた。
近くで規則正しい一斉射撃の音が聞こえてきた。
橋はドイツ国防軍の兵士たちによって封鎖されていて、我々が足を踏み入れようとすると、一人の背の低い国防軍大尉が声をかけてきた。
「丁度良かった。あなたがたに少し手伝ってもらいたいのだが」
我々は将校と直接話す立場ではないので、ここでもやはりハンケが応じた。
「大尉殿、我々は目下《親衛隊及び警察高級指導者》の指揮下で任務についております。可能な内容でありますか?」
「そうだろうとも、上級巡査。今カウナスにいる兵は皆そうだと思うよ。危険分子を排除しなくちゃならないからね。なにしろ赤軍兵士が平服に着替えているという情報もあるし、ユダヤ人もわんさといる」
大尉はそう言って橋の中間付近を顎で指し示した。
「リトアニア人がユダヤ人やスパイを処刑しているのだが、奴らときたらとにかく暴れるからね。奴らが橋から飛び降りようとするのを体で止めて欲しいんだ。下手くそなやり方だが、リトアニア人の邪魔をするなとの命令だからね」
みると、橋は全長百メートルほどで、中程では、リトアニア民兵が殺気立った様子で怒鳴っているのがみえた。そこではあらゆる年代の男性が一列に並べられて、服を脱がされ銃殺されていた。人々はその処刑の様子を自分の順番が回ってくるまで見ていなければならず、実に効率の悪い方法だった。橋の縁ではドイツ国防軍の兵士や我々と同じく秩序警察の軍服を着た警官が、ユダヤ人たちが飛び降りようと半狂乱になったり、泣き喚いて座り込んだり、命令を聞かずに暴れるのを銃床で殴りつけたり、鞭でうったりして鎮圧していた。ドイツ人が直接手を下しているのを見たのは初めてだったが、銃殺するのはリトアニア民兵だった。橋の縁に男たちを十人ぐらいの単位で後ろ向きに立たせ、至近距離から撃っていた。撃たれた衝撃で死体はそのまま橋の下に落下し、川は死体で埋まっていた。まれにドイツ兵の制止を振り切って橋の上から無理やり飛び込む者もいたが、すぐさまリトアニア民兵が一斉射撃し大抵そのまま屠られた。我々はその始終を監視していなければならず、ある程度処刑が進むと、ユダヤ人たちは暴れずにそのまま殺されるのが苦しみが少ないと観念し、次第に大人しくなっていった。よく見ると、豊かな顎髭をたくわえたラビ(司祭)のような人物が人々に最後の祈りを与えたり、声をかけたりしていた。ラビがこの場を整然とさせるのに最も貢献していた。
銃殺されている人々を眺めていると、耐え難いほどの吐き気がして、めまいとともに目の前が白くなった。早くこの場を離れたかったが、結局百人以上銃殺されるのを黙って見ていた。
自分が恥ずべき犯罪に加担しているような気がした。祖国ドイツが、この戦争にもしも勝てなかったら一体どうなってしまうのか危惧したが、まだこの戦争の行く末にまで想像が及ばないのも事実だった。
一通り処刑が終わると、大尉に確認をとって、我々はその場を離れた。橋を渡りきると、やはりそこかしこでユダヤ人に対する処刑が行われていて、大抵その場から少し離れた位置にはドイツ兵や警官がいて、冷然と煙草をふかしながら出来事を観察していた。「第九要塞」に近づくにつれ、民家もまばらとなり、人の気配が少なくなってきたが、道端のあちらこちらに痛々しく殴打されたとみられる死体や、銃殺されたとみられる死体が転がっていて、大抵女性や子供、老人だった。歩ける男は橋や外れの森の中にでもまとめて連行したのか。処刑のやり方や、殺す者と見逃す者の基準がどう決められているのか、最後までわからなかった。
「なんで要塞が合流地点なんだ」
シュミットが誰に言うでもなくつぶやいた。
「要塞付近ではソ連兵の兵舎があったようだ。今度は我々がそこに駐屯するんだろうね」
ゲアハルトが応えた。ゲアハルトは我々よりはるかに年配で一九〇一年生まれだ。確か戦前の職業は郵便配達員だったと思う。ずんぐりとした小男で、髪は黒く、禿げ上がっており、丸メガネをかけている。いかにも人の良さそうな風貌ではあるが、第一次大戦にも従軍経験があるという。下士官に昇進していてもおかしくはないのだが、階級は私と同じく下級巡査である。あまりゲアハルトと話したことはなかったが、青年将校や若い兵士たちはこの老いた警官を馬鹿にしていたように思う。若年兵にとってみれば、中年兵士は志が低く、歳をとりすぎて軍務に適さないため警察にきたと思われていた(事実その通り)。我々と若い兵士たちでは同じ部隊にいたとしても、将来性がまったく異なるのだ。
「暑くてかなわんよ。兵舎で早いとこ食い物にありつけるといいね」
そう言われても私は先ほどから胃が痛くて仕方がなく、食欲はなかった。ゲアハルトはあんな光景を見慣れているのだろうか。
遠くに見えた赤茶けた城壁の要塞が更に近づいてくると、付近にはパトロールを終えたと思われる警官や兵士たちが多くなってきた。おそらくそれぞれに兵舎が割り当てられていて、帰る途中なのだろう。
そこには、似たような石造りの建物が立ち並んだ一角があって、いかにも兵舎として利用できそうに思えた。付近では殺戮の喧騒もなりを潜め通りもきれいだった。
「兵舎はこの辺だ」
ハンケが地図を見て確認する。第二中隊の今夜の宿はこのあたりらしい。
「休みたいのはわかるが、おれたちは先に第九要塞まで行って指示を仰ぐことになっている。休憩はまだ先だぞ」
要塞に着くと、入口の門の前に国防軍や親衛隊の一団が先にいて、なにやら深刻な顔で話し合っていた。
ハンケが一人で一服している背の高い親衛隊の下級将校に軍隊式に敬礼し、声をかけた。
「ハイルヒトラー。親衛隊少尉殿! 我々は第六五警察大隊第二中隊第五小隊第一五分隊であります。本官は分隊長のハンケ上級巡査であります。大隊命令で第九要塞へ参りました。以降は師団命令に従うよう指示を受けております。師団司令部の場所をご存知ですか?」
「中に入りたまえ」
「は?」
「行けばわかる」
少尉は、そう言って煙草を投げ捨てて行ってしまった。
「野郎。愛想の悪い奴ですな」
ゲアハルトが毒づいたがハンケは気にする風でもなく言った。
「入るぞ」
要塞の門をくぐると、少尉の言葉の意味がすぐに分かった。赤茶色の城壁の中には広場があって、そこを埋め尽くすほどの数の死体が山と積み上げられていた。死体の山にはとてつもない量の蠅がブンブンとやかましく群がっており、鼻が曲がるような悪臭だった。夏の暑さで早くも腐敗がはじまっているのだ。一つ一つの死体は著しく損傷を受けていて、四肢が欠損していたり、腸がはみ出していたり、眼球がくり抜かれていたりした。切りとられた生殖器が、口の中に詰め込まれているものもあった。その死体損壊の種類が豊富なことといったら。
一体どれほどここで殺されたのか、死体の数は千体近くはあるものと思われた。皆一様に汚らしいくすんだ色の囚人服を着せられていた。
「こいつはたまげたな」
言葉ではそう言っても、ハンケは冷静そのものだ。
私はと言えば、背中に氷をつめられたように感じた。胃が更に痛み、やっと止まった四肢の震戦がまたも私を悩ませた。刹那、この死体の山も我が軍の対ユダヤ人作戦の「戦果」なのではと考えた。
「ボリシェビキの奴ら、帰りがけの駄賃に皆殺しにしやがった。リトアニアの知識階級や反ソ運動家だよ。ここは奴らの強制収容所として使われていたんだ」
ゲアハルトもあまり動揺しているようには見えない。少なくとも私よりは冷静だ。
他の隊員たちは、口をおさえて目を大きく見開き、若い警官の中には嘔吐した者もいた。どう考えても、我々の中のただの一人として、これより醜悪な光景を見た経験がある者はいなかった。
私はハンケやゲアハルトのように、表向きだけでも平静でいられない自分を恥じた。付近では死人のように無表情な人夫たちが、死体の山から一つ一つ体をずり下ろして、運び込まれた荷馬車に乗せていた。一言も喋らず。どうやら清掃作業を監視するのが我々の任務らしい。
「ひでえ仕事です。そう思いませんか、ミュラーさん」
シュミットが煙草に火をつける。私も気を落ち着かせようと煙草を吸った。
「よくこんな仕事ができるぜ」
人夫たちを見ながらシュミットが悪態をついた。
「奴らがやってくれるからおれたちがやらなくてすむんだろ」
「こいつらユダ公ですよ。この人夫たち。仲間がやったんだからこいつらにやらせるのが一番合理的だ。でもおれだったらこんな仕事絶対しませんよ。死んだほうがましです。誇りってもんがないんですかね」
「銃を突きつけられりゃ誰でもなんでもやるだろうよ」
「てめえの女房子供も殺されてるかもしれないってのに。こうまでして生きながらえたいもんですかね。ゲッベルス大臣の言う通りだ。人間以下の連中です」
シュミットは最悪の光景を立て続けに見たために苛立っているのだ。いつもならここまで言う男ではない。大して熱烈な反ユダヤ主義でもなかったはずだ。私もそうだ。別にユダヤ人に特別な関心はない。だが今や、ユダヤは《民族の宿敵》なのだ。
抵抗したり逃げようとする者はおらず、ただ見ているだけである意味で楽な仕事だった。一時間も片付け作業を見守っていただろうか、SD(保安部)の腕章をつけた将校が、カメラクルーを引き連れてやってきて、死体の中から特に損傷の激しいものを選び出して十体ほど並べるように、と指示を出した。よく見たら先ほどの愛想の悪い将校だった。ユダヤ人の人夫は、言われた通りに死体を並べ、カメラクルーがそれを撮影した。反ユダヤ=ボリシェビズムの宣伝というわけだろうか。勝るとも劣らない蛮行がカウナスの街中でも行われているというのに。悪いのは戦争だ。自分にそう言い聞かせた。
交代を告げられて、我々は兵舎へ向かった。長い一日がやっと終わる。誰もが口を閉じ、疲れ切った足取りで列に並んだ。




