第9話 噂のはじまり
白夜の砦を攻略した翌週から、俺たちは少しだけ、距離の取り方が下手になった。
たとえば朝、目が合うと、お互い一瞬笑いそうになる。たとえば昼、資料を渡すついでに「昨日の最後の避け」の話を小声でしてしまう。たとえば夕方、帰り支度の白瀬さんが俺の机の横で「今夜、二十二時」とだけ言って帰る。
全部、ただの相棒とのやりとりだ。やましいことは何もない。
ないのだが――会社というところは、そういうのを見ている人が、ちゃんといるのだった。
*
最初に気づいたのは、給湯室の前だった。
中から、他の課の女性社員ふたりの声が漏れていた。
「ねえ、営業企画の新人さんいるじゃない。白瀬さん」
「ああ、あの綺麗な子」
「あの子、最近よく一緒にいるでしょ、あの人。ほら……ずいぶん年上の」
「ああ、いるいる。二人並ぶと、なんか歳の差すごいよね」
「あの人、どう見てもアラフォーでしょ。どこかの上司かと思ってた」
「茨城くんだよ。営業企画の三年目」
「……嘘でしょ。三年目?」
「二十四だって」
「……ええ……? あの貫禄で……?」
「貫禄って言ってあげるの優しいね」
俺は湯呑みを持ったまま、静かに回れ右をした。
お茶はまた今度でいい。今日のところは、俺の心が詰まったので。
*
「――というわけで、俺は今日、社内で白瀬さんと『すごい歳の差』ということになりました」
昼休みの屋上で、宮原に報告したら吹き出された。
「『すごい歳の差』って……実際は二つしか違わないのにな。器用な顔してるよ、お前」
「笑いごとじゃないんだよ。本人に聞こえたらどうする」
「もう聞こえてるだろ。あの様子だと」
宮原が顎で示した先、ベンチの白瀬さんは同期の女子に囲まれていた。距離があるので会話までは聞こえない。聞こえないが、白瀬さんの背筋が見たことのない角度でまっすぐになっているのは分かった。
あとで本人に聞いたところによると、会話はこうだったらしい。
「白瀬さんって茨城さんと仲いいですよねー。もしかして?」
「茨城さんはわたくしの指導担当であり、尊敬すべき先輩であります」
「またまたー。この前ふたりで笑ってたじゃないですかー」
「業務上必要な意思疎通の一環です」
「ふーん? じゃあ休みの日とかは」
「業務上必要な意思疎通の一環です」
「質問変わってるのに答え同じ!」
「業務上必要な……意思疎通の……一環、です」
「三回目! もはや録音じゃん!」
冷やかされるほど敬語の圧が増していくのは、あの人の防御反応だ。大剣で受けられない攻撃は、全部敬語で受ける。
その夜の通話でも、本人はぷりぷりしていた。
『だいたい、なんなんだよ「もしかして」って。もしかしてもへったくれもあるか』
「まあ、新人さんは注目されるから」
『おまえは余裕だな? 「アラフォー」って言われてたくせに』
「聞こえてたのかよ。……あれは、その、傷ついてないこともない」
『…………』
「急に黙るなよ。逆に気になるだろ」
『べつに。……ほら、デイリー行くぞ。回せ』
その時の俺はまだ笑って聞いていられた。噂なんて三日で消える。俺と白瀬さんの間には三年分の土台があるんだから、こんなものは表面の波だ。そう思っていた。
*
異変は、木曜から始まった。
「白瀬さん、この集計お願いしても――」
「かしこまりました。完了しましたら共有フォルダに格納いたします」
……ん?
返事までが、速い。速くて、硬い。目が合わない。資料を受け取る位置が、いつもより半歩遠い。
昼。廊下ですれ違っても、完璧な角度の会釈だけ。
夕方。帰り際の「今夜、二十二時」が、なかった。
その夜、二十二時。グランデルのギルド欄に、絶対殺すマンの名前は灰色のまま、ついに点かなかった。三年間で、約束した日にこいつがログインしなかったのは、高熱を出した一回きりだ。あの時ですら、翌日に『死んでた』の一言は来た。
【オッサン】:今日は休み? 無理すんなよ
送ったチャットに、既読だけがついて、返事は来なかった。
二十三時まで待った。零時まで待った。デイリーを一人で回しながら、十五分おきにギルド欄を見た。灰色のままだった。
画面の前で、俺は一人、固まっていた。
何かが、変わった。たぶん、あの噂の後からだ。
でも、何が?
冷やかされて怒ってた、いつもの調子のあいつと、今日の硬い敬語のあいだに、何があった?
分からないまま、俺はログアウトした。一人で回すデイリーが、こんなに長いものだということを、三年目にして初めて知った。




