第10話 白瀬の事情
◇白瀬すず視点
ログイン画面を、三十分眺めている。
パスワードを打てば、いつもの世界に入れる。入れば、あの人がいる。「今日は休み? 無理すんなよ」――既読をつけたまま放置したチャットの、続きが始まってしまう。
だから、入れない。
私はノートパソコンを閉じて、ベッドに倒れ込んだ。
……噂になっている。私と、先輩が。
たかが噂だ。分かってる。「仲がいい」程度の、悪意もない、三日で消える泡みたいな話。
でも私は知っている。泡は、消える前に人の目を集める。目が集まれば、詮索が始まる。現に今日、同期の子に三回も聞かれた。休みの日は何してるんですか。趣味って何ですか。彼氏いるんですか。
質問はいつも、無邪気な顔でやってくる。そして詮索が始まれば――いつか、めくれる。
めくれた私を見た人間が、どんな顔をするか。
私はそれを、十六歳で学習済みだ。
*
高校の私は今思えば、怖いもの知らずだった。
思ったことを思った通りに言って、おかしいものはおかしいと言って、それで世界が回ると思っていた。実際、一年の秋までは回っていた。友達もいた。笑い声の真ん中に、私はいた。
あの日までは。
文化祭の準備の時期だった。クラスの中心にいたあの子が、裏で何をやっているか――気の弱い子に仕事を押しつけて、手柄だけ持っていって、断った子の悪口を「心配」の形に包んで流していること――に、私は気づいてしまった。
気づいて、黙っていられなかった。みんなの前で、正面から、言ってしまった。
あの子は泣いた。私が悪者になった。それだけなら、まだよかった。
あの子は賢かった。直接は何もしてこなかった。ただ、水に墨を一滴ずつ落とすみたいに、「白瀬さんって、ちょっとキツいよね」を教室に溶かしていった。
一滴目は、誰も気にしない。二滴目も。でも墨は、確実に水を染める。
気づいた時には、私の声は教室に届かなくなっていた。話しかければ返事はある。でも会話は二往復で終わる。グループ分けで私の名前は最後に余る。移動教室で、私の隣だけ歩く速度が上がる。誰も殴らない。誰も怒鳴らない。ただ、世界から少しずつ、私のぶんの椅子が減っていった。
三年間。
卒業式の日、私は決めたのだ。
本当の私は出さない。あれは嫌われる。仕舞って、鍵をかけて、上から「感じのいい無害な女の子」をかぶせる。それでうまくいく。実際、大学の四年間、うまくいった。
息は、ずっと苦しかったけど。
*
ゲームを始めたのは、高校二年の冬だった。
教室で透明だった私は夜、画面の向こうの大会の配信を見ていた。あるFPSの、世界大会。理由は覚えていない。眠れなくて、ただ流していただけだった。
その中に一人、おかしなプレイヤーがいた。
派手なキルを取るわけじゃない。順位表の上の方に名前があるわけでもない。なのにその人が動くと、チーム全員が生き返る。倒れかけた味方の前にいつの間にか立っていて、誰かが無茶をすれば必ず後ろにいて、実況が「彼は仲間の生存率が異常に高い」と笑っていた。
倒すんじゃなくて、活かして勝つ人。
画面のこっち側で、誰にも活かされていなかった私はその光に憧れた。
私もあっち側に行きたい。誰も私を知らない世界で、もう一回、声を出したい。
だから始めた。FPSは怖くて結局MMOにしたけど、ネットの世界で、私は私の鍵を開けた。言いたいことを言う。おかしいものはおかしいと言う。一人称も「俺」にした。女だってことは、最後まで誰にも言わなかった。画面の向こうの相手が、私を勝手に男だと思ってくれるなら、そのほうが都合がよかった。あれも鎧の一つだ。素手より、ずっと強く振る舞える。
暴言まみれの「絶対殺すマン」は、そうやって生まれた。あれが素なのか鎧なのか、もう自分でも区別がつかない。ただ、あの世界で吸う息だけが、深かった。
その世界に――あの人がいた。
*
オッサンは、変な回復職だった。
私がどれだけ口汚く吠えても、引かない。怒らない。「言い方」とだけ言って、隣にいる。私が突っ込みすぎて死にかけても、責める前に、もう回復が置いてある。私が新生活初日に「死ぬ」と打った夜は、何も聞かずにポーションを一個だけ送ってきた。
三年間、ずっとそうだった。
だから正体がバレた時、絶望と同じ量だけ、安心したのだ。ああ、あの人だったのか、って。毎日メモを待ってくれる、自分のミスを普通に認める、あの先輩だったのか、って。むしろ納得しかなかった。あの回復の置き方と、あのメモの待ち方は、同じ手つきだ。
会社の「白瀬さん」と、ネットの「絶対殺すマン」。二つに割れた私を、両方知っているのは、世界であの人だけになった。
それが、どれだけ。
……どれだけ、私の息を深くしたか。
あの人は、たぶん知らない。
*
だからこそ、怖い。
噂が広がる。目が集まる。詮索が始まる。いつか、めくれる。会社のみんなが「本当の白瀬」を知ったら――あの教室が、もう一度始まる。椅子が、また一脚ずつ減っていく。
それだけなら、耐えられる。慣れている。
耐えられないのは、その先だ。
めくれた私を見て、あの人まで、あの時の教室と同じ顔をしたら。
……ばか。もう知ってるでしょ、あの人は。暴言も、口の悪さも、三年分。
知ってる。ゲームの中の私は。
でも、全部じゃない。ゲームの「俺」は、しょせん安全な鎧の中の私だ。現実で、鎧なしで、本当の私を出して――それでも隣にいてくれる保証なんて、どこにもない。
十六歳の教室が、耳元で言う。
本当のあなたを知ったら、あの人も離れていくよ。
私はベッドの中で膝を抱えて、灰色のままのギルド欄を、もう一度だけ思い浮かべた。
画面の向こうで、あの人が今夜、一人でデイリーを回している。その回復の届かない場所に、私は自分から、座り込んでいる。




