第11話 一歩、引く影
絶対殺すマンがログインしてきたのは、三日後の夜だった。
『……おい』
「おう」
『…………その、なんだ』
「ボス行く? 昨日デイリー更新来てたぞ」
『……っ、行く』
それだけだった。
三日間の沈黙の理由を、俺は聞かなかった。聞かれたくない時の気配くらい、三年もやってれば分かる。高熱で落ちた時だって、こいつは後から「死んでた」の一言で済ませたのだ。話したくなったら話すだろう。それまでは、いつも通りでいい。
『今日の、会社の』
ボス前の安全地帯で、ふいに向こうから切り出した。
『噂。……気にしてない、からな。私は』
「うん。俺も」
『そ。ならいい』
「ならいい」
『……ふっ、何それ』
スピーカーの向こうで、小さく息が緩んだ。よし、と思う。戻ってきた。
そこからは、いつも通りだった。いや、いつも以上だった。
「右、二体追加」
『見えてる。一体そっち流す』
「りょ。受けたら下がって――」
『分かってる。今日の私は無敵なんだよ』
「その台詞、だいたい三回に一回死ぬやつ」
『は??? データ出せデータ』
「先月の討伐ログなら」
『出すな!!』
大剣が踊って、敵が消し飛んで、回復は一拍も遅れない。白夜の砦で掴んだ呼吸が、すっかり俺たちの標準になっていた。声で繋がるようになってから、こいつとの夜は、正直に言って、ばかみたいに楽しい。
『なあオッサン』
「ん」
『おまえって、ゲームの中だと言うこと言うよな。「下がれ」とか「任せろ」とか』
「そう?」
『そうだよ。会社じゃ課長に間違われてオロオロしてるくせに』
「それは言わない約束だろ」
『くくく……』
悪い笑い声を聞きながら、俺はふと、画面の端の時計を見た。深夜一時半。明日も仕事なのに、終わりたくないな、と思っている自分がいた。
まずい兆候だった。
*
まずさの正体を、俺は翌日の昼に、はっきり見せつけられることになる。
社員食堂で、俺の前の列に、他部署の男たちが並んでいた。
「営業企画の白瀬さん、いいよなあ。あの子彼氏いるのかな」
「無理だろ、お前じゃ」
「なんだよ。じゃあどんなやつなら釣り合うんだよ」
「そりゃ……剣崎さんみたいな? ああいう、隣に並んで絵になるやつだろ」
「あー。はいはい、納得」
「納得すんなよ。傷つくわ」
「お前が傷つくのはいいんだよ。身の程を知るのは大事」
悪気のない、ただの雑談だった。誰も俺に気づいてもいない。
なのにその「納得」が、トレーを持つ手に、妙な重さでぶら下がった。
隣に並んで、絵になるやつ。
その晩、俺は風呂の鏡の前に立った。
百六十八センチ、八十キロ。二十四歳の顔だと、誰も思わない顔。先週も社外の人に名刺を出したら「お若く見えますなあ」と逆方向の気を遣われた。
別に、今さら傷つきはしない。この見た目と二十四年付き合ってきて、笑いに変える技術だけは身についた。ガイの会でいじられるのも、嫌いじゃない。
ただ――。
画面の中の、あの転がるような笑い声を思い出す。「今日の私は無敵なんだよ」。深夜一時半の、終わりたくない夜。それから、噂を冷やかされて「ぷりぷりしてた」彼女の、録音みたいな敬語。
あの時間の隣に、この鏡の中身を並べてみる。
……うん。
絵に、ならないな。
胸の奥で、何かがすっと冷えて、自分の置き場所に戻っていく音がした。慣れた音だった。期待が膝を畳む音。俺はこの音の扱いだけは、昔から上手い。
白瀬さんは俺の相棒だ。三年来の、大事な相棒。この距離は、楽しくて、あったかくて、ちょうどいい。
ちょうどいいんだから――この先を、望むな。
考えてもみろ。ただでさえ白瀬さんと「歳の差がすごい」と噂される男だぞ。これ以上近づいたら、あの噂はどんな形に育つ? あの子の名前の隣に、毎回、俺の見た目の話がセットでついて回る。あの子が冷やかされるたび、録音みたいな敬語で受け続ける。詮索の目は増える。あの子はあんなに、見られることを嫌がっているのに。
あの子の隣に俺が立ったら、あの子が、あの食堂の「納得」の逆を、毎日やられる側になる。それは駄目だ。それだけは駄目だろう。
俺は鏡から目をそらして、風呂の電気を消した。
胸の奥の、まだ温度の残っている場所に、丁寧に蓋をする。
大丈夫。蓋をするのも、慣れている。
慣れているはずなのに、その夜のログイン画面の前で、俺の手は、しばらくマウスの上から動かなかった。




