第5話 そのギルド
翌朝の白瀬さんはひと目で分かるほど寝不足だった。
目の下にうっすら影があって、お辞儀の角度がいつもより五度くらい浅い。たぶん本人比でだいぶ限界だ。
俺も人のことは言えない。あの後ログインする勇気が出ず、布団の中で「装備の件をなんで知ってたのか」の説明を百通りくらい考えて、全部却下して朝になった。ちなみに最有力候補は「白瀬さんには双子の姉がいて、その姉がうちのギルドにいる」だった。我ながら苦しい。
午前中、俺たちは互いを完璧に避けた。資料の受け渡しは第三者を経由し、給湯室の利用時間は綺麗にずれ、目が合いそうになると二人同時に窓の外を見た。あまりに不自然だったのか、高田さんに「お前ら、夫婦喧嘩か?」と言われた。違います。もっとややこしいやつです。
そして昼休み。決戦は唐突に始まった。
お茶を淹れに入った給湯室に、先客がいたのだ。
「あ」
「あ」
逃げ場のない六畳の空間で、白瀬さんは湯呑みを持ったまま、覚悟を決めた顔をした。
「あ、あの、茨城さん」
「う、うん」
「昨日の、ゲームのお話なのですが」
「うん」
「わ、わたしの……友人が! グランデルを、やっておりまして」
「友人」
「はい。友人です。わたしではなく。その友人がですね、昨夜、わたしに申しました。グランデルには変わった名前のギルドが多いと」
「へ、へえ」
「それで、その、友人の所属しているギルドも、なんと言いますか、変わったお名前だそうで」
白瀬さんは一度目を閉じて、深呼吸して、言った。
「【夜ふかし羊】、という……」
湯呑みにお湯を注ぐ手が止まった。
うちのギルドだ。
メンバー十三人。アクティブは五人。ギルマスは羊の着ぐるみ装備を三年着続けている。そんな弱小ギルドの名前が、有名なわけがない。「友人が所属している」以外で、この子がこの名前を知る方法はない。
それに――思い出したことがある。白瀬さんが配属された日の夜、相棒がチャットでこぼしていた。『今日からリアルで新生活が始まった。初日から人生最大級のやらかしをした』と。何をやらかしたのかは、墓まで持っていくと言い張っていた。
配属の日の、初日の、人生最大級のやらかし。……心当たりが、ありすぎる。たとえば、迎えに来た先輩を、課長と間違えるとか。
言葉が、勝手に口から出た。
「そのギルド、俺いるんだけど」
「…………」
「…………」
白瀬さんの顔から、すうっと表情が消えた。
猫が剥がれ落ちる瞬間というのを、俺はたぶん、生まれて初めて見た。
「…………は?」
低い。声が低い。
「い、いる、って……え、嘘でしょ、だって、ギルドの男って言ったらメェさんとロッソさんと……オッ……」
白瀬さんの目が限界まで見開かれた。
「オッサン………?」
「絶対殺すマン……?」
待て。待て待て。あいつは――男じゃ、なかったのか。三年間、性別なんて一度も聞いたことがなかった。あの口調と、あの『俺』で、勝手にガラの悪い兄ちゃんを思い描いていた。それが、目の前の、お辞儀の角度に命をかけるような後輩だったとは。
給湯室に、長い長い沈黙が落ちた。
冷蔵庫のモーター音だけが、ぶうんと響いていた。
先に動いたのは白瀬さんだった。両手で顔を覆い、ずるずるとしゃがみ込み、そのまま床に向かって深々と頭を下げた。土下座だった。九十度どころではなかった。
「忘れてください」
「いや」
「全部忘れてください。お願いします。一生のお願いです」
「三年分のチャットログがあるんだけど」
「消せ!!」
素が出た。
顔を上げた白瀬さんは自分の口から出た声に自分で愕然として、また床を見た。耳どころか首まで真っ赤だった。
「ち、違……今のは……あの、違くて……」
「いや、合ってるんだよなあ……その口調、三年聞いてきたから……」
「あぁぁ………」
白瀬さんは床にうずくまった。大剣を担いで魔境に突っ込む俺の相棒が、給湯室の床で芋虫になっている。
「お、おい、大丈夫か」
「大丈夫じゃない……。わたし、先輩に、『寝るな』とか『回せ』とか『は?』とか……三年分……累計……」
「数えなくていいから」
「先週なんて『そんなんだから彼女できねえんだぞ』って……っ、課長にまで間違えた人に、わたし……」
「そこ繋げて思い出すのやめてくれる? 二重にダメージ来るから」
俺はと言えば、笑うべきか謝るべきか分からないまま、頭の中で三年分の暴言が「白瀬さんの声」で再生されるのを聞いていた。な??? とか。殺すぞ、とか。豆腐とかいう無の食い物、とか。
あの、九十度のお辞儀の子が。お豆腐が好きだと微笑んだ子が。
「……あの、白瀬さん。とりあえず、立とう。誰か来る」
「………………はい」
*
午後の仕事は、お互い、何も手につかなかった。
目が合うたびに白瀬さんは資料の陰に隠れ、俺は俺で、画面の数字が全部「は???」に見えた。一度、内線の取り次ぎで「夜ふかし……営業企画課白瀬です」と言いかけて自爆していた。気持ちは分かる。
定時後、先に席を立った白瀬さんが、俺の机の横で立ち止まった。周りに人がいないのを確かめて、小さな小さな声で言う。
「……このことは、会社では、絶対に、秘密ですから」
「う、うん」
「絶対、ですから……っ」
念を押して、逃げるように帰っていった。エレベーターのボタンを連打しているのが、フロアの端からでも見えた。
残された俺は天井を仰いだ。
まいったな。
気まずい。死ぬほど気まずい。なのに――胸の底の方に、なんだか妙な熱があった。
三年間、画面の向こうにしかいなかった相棒が、この世界に実在した。実在して、毎日隣の席で、生真面目にメモを取って、コピー機と戦って、お豆腐が好きなふりをしている。あの「ナイス」も「気楽だわ」も、全部、あの子の指から打たれていた。
そのことが、気まずさの底で、どうしようもなく嬉しいのだった。
これ、完全に、誰にも言えないやつだ。
言えないやつなんだけど――まずい。誰かに聞いてほしい。猛烈に。
頭に浮かんだのは、金曜の夜の、あのローテーブルだった。




