第36話 プロポーズ
付き合って三年目の春。すずは二十五歳になり、俺は二十七歳になった。見た目は相変わらず四十代前半で安定している。若いうちから老けてるやつは歳を取っても老けないらしい。
もう取引先で動じることはない。先方の偉い人と「同世代トーク」を合わせる技術すら身についた。中身は全部、縦山さんからの又聞きだ。
すずは去年、実質、営業企画課のエースになった。会議で一番鋭いことを言う人、として若手に恐れられ、慕われている。敬語の鎧は今も着ているが、着こなしが違う。あれはもう、誰がどう見ても勝負服だ。たまにコピー機に「ポンコツ」と言って、後輩に「白瀬さんまた言ってる」と笑われている。本人も、笑っている。
俺たちは半年前から、駅二つぶん会社から離れた部屋で、一緒に暮らしている。
そして俺の机の引き出しには、三ヶ月前から、小さな箱が眠っていた。
*
決行は、金曜の夜にした。
俺たちの始まりは、いつも金曜の夜だったからだ。ガイの会も、ギルドの定例も、初めての通話も、告白も。金曜の夜は、俺たちの聖域みたいなものだった。
「すず、今夜、渓谷行かないか。デイリー溜まってるだろ」
「ん、行く。夕飯の洗い物済ませてからね。……あ、今日のからあげ、衣がうまくできた。豆腐じゃなくてからあげ。私の本命はからあげなので」
「知ってるよ」
今夜のグランデルは、昔と何も変わらない。夜の渓谷のマップも、焚き火のグラフィックも、隣で大剣を担いでいる相棒も。アップデートで景色は少し綺麗になったけど、焚き火だけは、昔のままだった。
狩りをひと回りして、いつもの焚き火の前に、二つのキャラクターを並べて座らせた。
リビングの机に並んだ二台のパソコン。隣の席から「今日のデイリー楽勝だったね」と声がする。俺は「そうだな」と返事をしながら、チャット欄に打った。声じゃなく、文字で。俺たちの始まりは、文字だったから。
【オッサン】:なあ、絶対殺すマン
【絶対殺すマン】:なに改まってんの。気持ち悪
【オッサン】:ここ、覚えてるか
【絶対殺すマン】:渓谷の焚き火でしょ。何百回来たと思ってんの
【オッサン】:九年前、ここで初めて組んだ
【絶対殺すマン】:……覚えてるけど。野良で全滅しかけて、おまえの回復だけ生き残って
【オッサン】:で、お前が言ったんだ。「おまえ、回復うまいな。フレンドなろ」って
【絶対殺すマン】:それ今関係ある??
【オッサン】:あるんだよ。全部、ここから始まったんだから
あるんだよ。全部、この焚き火から始まった。九年前のフレンド申請も、六年前からの相棒も、半年前から一緒に住んでる今も、全部。
俺は最後のメッセージに、一枚の画像を添付して、送信した。
画面の中の焚き火の前に、小さな箱の写真が表示される。開いた箱の中で、指輪が一つ、光っている。
【オッサン】:結婚しよう
隣の席から、息を呑む音がした。
マウスの音が止まって、椅子がゆっくりとこっちを向いた。
俺はもう、椅子にはいなかった。リビングの床に、片膝をついていた。引き出しから出してきた本物の箱を、両手で開いて。
「九年前にフレンド申請をくれた人へ。三年前に歩道橋で『はい』をくれた人へ。――今度は、一生ぶんの『はい』をください」
すずの両手が口元を覆った。
目から、ぼろぼろと大粒のやつがこぼれて、止まらなくなった。泣き顔のまま、何度も息を吸って、何かを言おうとして、失敗して――それから、出てきた言葉は、やっぱりこの人のだった。
「……っ、な、なんで先に言うんだよ……っ」
「先に?」
「私が、先に言おうと思ってたのに……! 次の金曜に、私から言うって、決めてたのに……っ、また先に、おまえは、いっつもいっつも先に……っ、ばかヒーラーの分際で……!」
「ヒーラー関係なくない?」
「うるさい!! 関係ある! おまえはいっつも、私が言う前に、先に回復置くんだよ……っ」
ああ、と思った。それは、たしかに、関係あるかもしれない。
すずは泣きながら怒って、怒りながら笑って、それから左手を、俺の前に差し出した。
指は、震えていた。
「……はい、って意味だよ。言わせるな、ばか」
箱から指輪を取り出して、その震える薬指に、はめた。サイズはこっそり調べておいたから、ぴったりだった。すずは自分の左手を顔の前に掲げて、電灯にかざして、また泣いた。
「……ねえ、優也」
「ん」
「私ね、十六歳の時、自分の人生はもう終わったと思ってたの。本当の私は誰にも要らないんだって。透明なまま、ずっと、誰かのふりして生きていくんだって」
「うん」
「その私が、今、世界で一番、誰かに必要とされてる」
すずは指輪の光の向こうで、くしゃくしゃに笑った。
「画面の向こうに逃げ込んだ先に、あなたがいてくれて、本当によかった。あの夜、眠れなくて、たまたま配信を見て、たまたまゲームを始めて、たまたまあなたと野良で組んで……たまたまが、全部、ここに繋がってて」
「……たまたまが四回続いたら、それはもう運じゃない」
「え?」
「俺も、フレンド申請もらった日、ちょっと嬉しかったから。……二人で手繰り寄せた。」
「……っ、もう、そういうとこ……っ」
俺は答える代わりに、妻になる人を、ゆっくり抱き寄せた。
机の上では、夜の渓谷の焚き火が、まだ静かに燃えていた。九年前、何も知らない回復職と、口の悪い大剣使いが初めて並んで座った場所で、画面のこっち側の二人はしばらくの間、動かなかった。




