第35話 二つの世界で
付き合い始めて、最初に決めたルールは一つだけだった。
会社では、今まで通り。
「白瀬さん、この資料の最終チェックお願いできる?」
「かしこまりました。……茨城さん、こちらの誤字、直しておきますね。あと、グラフの色、また増えてます」
「うっ……二色までって決めたのに」
「学習能力。控えめに申し上げて、皆無かと」
完璧な敬語、完璧な距離。フロアの誰も、何も気づいていない。気づいていないはずなのだが、なぜか最近、何人かの同僚たちがこっちを見てにやにやしている。機密の漏洩元は明らかだった。ガイの会の連中共だ。
そして夜は、もう一つの世界がある。
【絶対殺すマン】:おせーよ
【オッサン】:ごめん、残業
【絶対殺すマン】:は? 彼女より残業取った?
【オッサン】:取ってない。マジでごめん。
【絶対殺すマン】:じゃあ今度居酒屋で奢ってもらう権利を発動からよろしく。
【オッサン】:どういう権利だよ
【絶対殺すマン】:彼女権
彼女権、らしい。何でもできるな、それは。
付き合う前と、やってることはほとんど変わらない。ほぼ毎日二十二時に集合して、渓谷に潜って、暴言と回復を交換する。変わったのは、通話の切り際だけだ。
『じゃあ、おやすみ。……優也』
「うん。おやすみ、すず」
『…………』
「……なに」
『なんでもない。慣れないだけ。切るぞ、ばか』
この「ばか」の意味も、もう辞書に載っている。照れてる時の癖、の項だ。用例は、年々増えている。
*
異変に気づいたのは、ギルドの方が先だった。
【メェさん】:なあ、最近お前ら、距離が近くないか
【ロッソ】:それな。回復の置き方が甘い。いや上手いんだけど甘い
【メェさん】:絶対殺すマンが「おまえ」じゃなくて「お前」って打つ率も上がってる
【ロッソ】:何の分析だよ。でも分かる
【メェさん】:あと討伐後のスクショ、二人の立ち位置が前より近い
【ロッソ】:ストーカーかお前は
【絶対殺すマン】:気のせいだが???
【オッサン】:気のせいですね
【メェさん】:今の否定の速度、完全にアレなんよ
【ロッソ】:ハモったしな
羊の着ぐるみは伊達じゃないらしい。観察眼が無駄に鋭かった。その夜は二人で火山レイドの最深部まで付き合わされた。メェさんの新しい着ぐるみ(耐火仕様・三代目)の披露会だった。燃えた。三代目も燃えた。耐火とは何なのか、誰も答えを持っていなかった。
*
日曜の昼、初めて二人で、何の用事もなく出かけた。
水族館で魚を見て、たい焼きを半分こにして、帰りに本屋に寄った。それだけの一日だった。クルーザーも、武道館も、貸切水族館もなかった。ただの、普通の、どこにでもある休日だった。
それだけの一日の帰り道、夕暮れの川沿いを歩きながら、すずがふいに言った。
「……あのね。私、最近、変なんです」
「どうした」
「朝、会社に行くのが、普通に楽しい。コピー機の前で先輩たちと笑って、会議で言いたいことを言って、夜はゲームして、おまえと話して。……六年間、息を止めて生きてたのに、最近、ずっと息してる。気づいたら、深呼吸してるの。意識しないで」
すずは夕陽に目を細めた。川面が、オレンジに光っていた。
「猫はね、まだ、かぶってるんですよ。会社の私は敬語だし、よそいきだし。でも、前と違うの。あれはもう壁じゃなくて……なんだろう、勝負服? みたいな。脱ぎ方を知ってる服は、着てても苦しくないんだなって。いつでも脱げるって思えるだけで、こんなに楽なんだ」
「……うん」
「その脱ぎ方、教えてくれたの、あなたと、そのなんて言ったっけ、ガイの会?の人たちだから。私、みなさんにちゃんとお礼、言いたい」
「言ったら最後、新会員にされるぞ」
「……それも、悪くないかも」
俺はなんと返していいか分からなくて、結局、手を繋いだ。それが一番正しい返事の気がした。すずの手がぎゅっと握り返してきた。三年前、画面の向こうで「ナイス」をくれた手だった。
*
夜、家に帰って、洗面所で顔を洗った。
鏡の中に、いつもの俺がいた。老け顔で、たぶん来年も再来年も課長に間違われ続ける、二十四歳の俺。
「……ま、悪くないか」
声に出して、初めてそう思った。半年前は目をそらしていた、この顔。今は、まっすぐ見られる。この顔は、バスの隣で宮原が信用した顔で、高田さんの箸を、きれいだと思った顔で、縦山さんが議事録に書き続けてくれた顔だ。長年の敵と、ようやく停戦協定を結んだ気分だった。完全な和解は、まだ先かもしれない。でも、停戦でも、ずいぶん楽になった。
ベッドに転がると、スマホが光った。
【すず】:今日、楽しかった
【すず】:次はどこ行く?
【オッサン茨城】:どこでも。何回でも
【すず】:ふふ。即答
【すず】:そういうとこだぞ、おまえ
画面の向こうで笑っている顔が、見えるようだった。三年間、文字でしか知らなかった「ふふ」が、今は、声でも、顔でも、再生できる。
会社の世界と、ゲームの世界と、二人の世界。三つの世界が、ゆるやかに重なって、毎日が回っていく。
こんな日々が、ずっと続けばいい。
そう思っていた日々が本当にずっと続いて――気づけば、三度目の春が来ていた。




