第31話 素のわたし
日曜の夜、ギルド欄に灯りがついた。
【絶対殺すマン】:……ただいま
たった四文字に、俺は柄にもなく、画面の前で天井を仰いだ。指が一瞬、キーボードの上で止まった。三週間ぶりだった。
【オッサン】:おかえり
【絶対殺すマン】:休止中のデイリー、何個逃した
【オッサン】:十二個
【絶対殺すマン】:は??? 終わった。人生が終わった
【オッサン】:手伝うから今週で取り返そう
【絶対殺すマン】:当然だろ。寝るな、回せ
【絶対殺すマン】:……あと
【絶対殺すマン】:このまえは
【オッサン】:いいよ。何も言わなくて
【絶対殺すマン】:……うん
通話を繋いだら、いつもの声がした。いつもの声で、いつもの暴言で、いつもの夜だった。ただ、時々ふっと言葉が途切れて、その沈黙が前よりやわらかいことだけが、いつもと違った。鎧を一枚脱いだ人の声は、こんなにも、近く聞こえるものなのか。
*
変化は、会社でも始まった。
月曜の課内ミーティングで、俺の作った販促企画が議題に上がった時だ。
「ご意見のある方は」
課長の声に、すっと手が挙がった。白瀬さんだった。
「茨城さんの企画案、コンセプトには賛成です。ただ、三ページ目の想定客層と、五ページ目の配布チャネルが、噛み合っていないと思います。三十代向けの商品なのに、配るのが大学のキャンパスでは、届けたい人に届く前に、予算が終わります」
フロアが一瞬しんとした。
いつもの白瀬さんなら、ここで「出過ぎたことを」と三回謝って、お辞儀で着地する。
一度だけ、肩がほんの少し下がりかけた。それから、ゆっくりと伸びた。
白瀬さんは、顔を上げたままだった。
「以上です。……あ、コンセプトは、本当にいいと思います。そこは、本当に」
最後のフォローが、ちょっと可愛かった。素が出ていた。
沈黙を破ったのは、縦山さんだった。
「正論だな。茨城、五ページ目は作り直しだ」
「うちの新人、言うようになったなあ」と高田さんが笑い、「私も三ページ目は気になってました」と隣の先輩が続き、気づけば会議は、今期で一番中身のある三十分になっていた。
散会のあと、白瀬さんは不思議そうに空を見つめていた。
出しても、壊れなかった。
言いたいことを言って、誰も離れていかなくて、むしろ会議が良くなった。その横顔に書いてあるのが読めて、俺は自分の企画をボロカスにされたのに、笑いをこらえるのに苦労した。作り直しは面倒だけど、まあ、安いものだ。
*
とどめは、水曜のコピー機だった。
例によって紙が詰まり、例によって白瀬さんが固まり――小さな声が漏れた。
「……このポンコツ」
「あ、白瀬さんもそういうこと言うんだ」
通りすがりの先輩が、ぷっと吹き出した。白瀬さんは硬直した。六年ものの硬直だった。素が漏れた瞬間の、あの、世界が終わるのを待つ顔。
「い、いえ、今のは、その」
「分かる〜。私なんて先週蹴ったから、それ」
「課長は去年、買い替え稟議書を三回出して三回却下されてる。だからみんな、心の中で罵りながら使ってるの。白瀬さんは蹴らないで声に出ただけ。むしろ好感度高いよ」
「えっ……そう、なんですか」
「そうそう。このポンコツの罪は重い。社内に敵が多い」
笑い声がコピー機の周りに転がった。
悪意のない、ただの昼下がりの笑い声だ。けれど白瀬さんはその輪の真ん中で、泣き笑いみたいな顔をしていた。素がこぼれて、笑われて、それでも世界が終わらないという経験を、この人はたぶん、六年ぶりにしている。「白瀬さんは声に出ただけ」――その一言が、六年前の教室を、少しずつ、上書きしていく。
「……ふふ。ポンコツですよね、これ」
「ポンコツポンコツ」
「ほんとに、ポンコツなんですよ、これ……っ」
あ、と俺は思った。
こっちが、本物だ。
画面の向こうで三年聞いてきた、あの転がるような笑い方。それが今、昼下がりのコピー機の前で、何でもない顔をして鳴っている。鎧の中じゃなく、ちゃんと、みんなのいる場所で。
*
金曜の夜、ゲームの中で、デイリーの最後の一個を取り終えた。
『よし。完済』
「完済。……なあ」
『ん?』
「今日のコピー機の、あれ。よかったな」
通話の向こうで、少し間があった。
『……うん。先輩が、笑ってくれた。私のこと、おもしろいやつだって、笑ってくれた。……嬉しかった。変だよね、悪口なのに』
「変じゃないよ」
『……うん』
短い返事のあとに、長い沈黙が来た。気まずい沈黙じゃない。なんと言えばいいのか、満ちてくる沈黙だった。夜の渓谷の焚き火の前で、二つのキャラクターが並んで座っている。三年間で何百回も見た画面が、今夜はやけに、騒がしく見えた。心臓の音が、ヘッドセット越しに、向こうに聞こえてやしないかと思った。
『ねえ、オッサン』
「ん」
『……ううん。やっぱり、今度でいい』
「何だよそれ」
『今度、です』
敬語の位置がおかしいのは、照れてる時の癖だ。それももう、知っている。
通話を切ったあと、俺は暗くなった画面を見ながら、ひとつ、息を吸った。
言わなきゃな。
助けるためじゃなく、泣きやませるためでもなく、ただの俺の気持ちとして、ちゃんと。あの非常階段で言ったのは「好きだった」――過去形の、救うための言葉だった。今度は、現在形で、俺自身のために、言う番だ。




