第30話 暴言込みのお前が
木曜の朝、人事部から全社向けの通知が出た。
例の投稿は事実無根の中傷であり、発信者は特定済みであること。法的措置を含む対応が進んでいること。社員への憶測の拡散を控えるよう求めること。
例のアカウントは、前日の夜に消えていた。投稿も、アイコンも、全部。最初から無かったみたいに。
フロアのひそひそは、潮が引くように消えた。現金なもので、昼には「白瀬さん大変だったね」「ひどい話もあるもんだ」と、世界はもう次の角度の同情に移っていた。あれだけ囁いていた人たちが、今度は同情する側の顔をしている。人の噂というのは、本当に、無責任だ。
白瀬さんはその全部に完璧な礼で応えて、完璧な姿勢で仕事をして、定時に席を立った。
壁は、消えていなかった。
外の火は消えた。でも、縦山さんの言った通りだった。あの人の中の火事は、書類では消えない。
俺はその背中を追って、非常階段の扉を開けた。
*
白瀬さんは踊り場の手すりの前に立っていた。夕暮れの光が、ビルの隙間から斜めに差していた。秋の日暮れは、早い。オレンジ色の光が、あの人の輪郭だけを、ぼんやり縁取っていた。
振り返った顔は、泣いてはいなかった。泣いていないことが、痛かった。泣ける人は、まだ大丈夫だ。この人は、泣くことすら、自分に許していない。
「……茨城さん、ですよね」
声は、静かだった。
「投稿が消えて、会社が動いて、マルベリの担当が替わって。こんなの、偶然で揃うわけない。誰かが動いたんです。それも、相当な力で。弁護士とか、そういう、個人じゃどうにもならない力で」
「…………」
「茨城さん、なんですよね。動いたの」
「……俺だけじゃない。仲間と、四人で」
白瀬さんはゆっくり息を吐いた。礼を言われるのかと思った。違った。
「どうして」
絞り出すような声だった。
「どうして、そこまでするんですか。放っておいてくれれば、よかったのに。私、言いましたよね。関わらないでくださいって。迷惑がかかるって。なのに……っ、こんな、大事にして……」
「迷惑なんて」
「かかるんです!」
初めて聞く、白瀬さんの大声だった。手すりを掴んだ手が白くなっていた。
「私と関わると、かかるんですよ、迷惑が! 昔からそうだった! 私が、私のまま喋ると、空気が壊れて、人が離れて、庇ってくれた子まで巻き込まれて……だから、嫌われてるのは私だけでよかったのに、私はまた、黙ってられなくて、誰かが庇って、それで……っ」
堰が、切れていた。
高校の話だった。教室の話だった。正面から声を上げた日の話。庇った子の話。墨が一滴ずつ広がるように、世界から音が消えていった三年間の話。椅子が一脚ずつ減っていった話。卒業式の日に、本当の自分に鍵をかけた話。
「……分かったんです、あの三年で。素の私は駄目なんです。可愛くないし、口も悪いし、出していいことなんて一つもない。猫をかぶってれば、ちゃんと回る。誰も傷つかない。私も傷つかない。それでうまくやってきたのに……あの人が来て、全部、ぐちゃぐちゃになって……っ」
白瀬さんは両手で自分の腕を抱いた。寒いみたいに。守るみたいに。
「ねえ、茨城さん。あなたが助けてくれたのは、どっちの私ですか」
「……どっちって」
「『感じのいい白瀬さん』ですか。会社の、敬語の、無害な私ですか。だったら、それは偽物です。中身はこっちなんです。暴言吐いて、すぐ突っかかって、空気を壊す方が本物で――そっちを知ったら、みんな離れていく。あなたも、いつか。だから、深入りしないでほしかったのに……っ」
「白瀬さん」
「優しいから、今は隣にいてくれるだけで……いつか、本当の私に、嫌気が……っ」
「――すずさん」
名前を呼んだのは、初めてだった。
白瀬さんの言葉が、止まった。
俺は息を吸った。三年と半年ぶんの、ありったけを。喉の奥が震えていたけど、声は、出した。
「俺は、ネトゲのお前が好きだった」
「……え」
「暴言込みで、だ」
夕暮れの踊り場に、俺の声だけが響いた。
「『おせーよ』も、『回せオッサン』も、『な???』も、全部込みで、俺はお前と潜る夜が三年間ずっと楽しかった。口が悪くて、突っ込みすぎて、でも初心者に黙って装備を貢いで、俺が落ち込んでた夜は何も聞かずにポーションくれた、あいつが好きだった。会ったこともないのに、毎日の夜が待ち遠しかった。お前の『ナイス』が、一日の終わりの、ご褒美だった」
「や……やめて、ください、そんなの」
「やめない。それで、だ。会社で会ったら、そいつは猫をかぶってた。かぶっても隠しきれてなかったけどな。コピー機にキレて、敬語のまま俺の資料を正気じゃないって言って、レク大会で『ナイス!』って叫びかけてた。豆腐が好きなふりして、本当はからあげが好きなんだろ。――なあ、どこが偽物なんだよ。俺はずっと、両方見てきた。どっちもお前だろ。猫をかぶってる時のお前も、かぶり忘れた時のお前も、どっちも、ちゃんと、ここにいただろ」
白瀬さんの目から、ぼろ、と大粒のやつが落ちた。一粒落ちたら、止まらなくなった。
「俺が助けたかったのは、『感じのいい白瀬さん』じゃない。猫をかぶってない、本当のお前だ。ただお前を助けたかった。だから動いた。仲間に頭を下げた。それだけだ。それ以外の理由なんか、一個もない」
「……っ、ぅ……」
「だから、もう言うな。素を出したら嫌われるなんて。少なくともここに一人、その素に三年救われてきた男が立ってる。」
白瀬さんの膝がゆっくり折れた。
手すりに掴まることもしないで、その場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆って――それから、声を上げて泣いた。
六年ぶん、だと思った。教室で出せなかった声と、卒業式の日に鍵をかけた声と、壁の内側で殺してきた声が全部いっぺんに、夕暮れの非常階段に響いた。子どもみたいな、何の鎧もない、剥き出しの泣き声だった。白夜の砦で初めて聞いた、あの転がる笑い声と、同じ場所から出ている声だった。
俺は隣にしゃがんで、何も言わずに待った。メモを待つのと同じだ。この人のペースが終わるまで、いくらでも。三年間、回復を置いて待ってきた。あと少し待つくらい、なんでもない。
どれくらい経ったのか、泣き声がしゃくり上げに変わった頃。
顔を覆っていた白瀬さんの右手が離れて、迷って――
俺の袖を、ぎゅ、と掴んだ。
あの人が自分から伸ばした手を、俺は初めて見た。三年間、画面の向こうから「ナイス」をくれた手。会社で命がけのお辞儀をした手。その手が今、鎧を全部脱いで、俺の袖を、子どものように握っていた。
俺はその手の上に、そっと自分の手を重ねた。
夕暮れが、二人を、ゆっくりオレンジに染めていった。




