第3話 すれ違う二つの世界
白瀬さんが来て、一週間が経った。
俺の一日は、おおむね二つの世界でできている。
――昼。
「茨城さん、こちらの数字なのですが、先月の集計方法と異なっているように見えまして……差し支えなければ、ご確認いただけますでしょうか」
「ん、どれ。……あ、ほんとだ。よく気づいたね、これ俺が間違えてる」
「い、いえ……! 出過ぎたことを……」
「いや助かった。ありがとう」
白瀬さんは胸の前で小さく両手を振って、首まで振って、最終的にお辞儀をした。謝罪と恐縮のフルコースだ。先輩のミスを指摘するのに、この子は毎回、命がけみたいな顔をする。
――夜。
【絶対殺すマン】:おい見たかさっきの杖
【絶対殺すマン】:ボスの真横で詠唱とか命がいくつあっても足りねえんだわ
【絶対殺すマン】:な??? 俺は間違ったこと言ってるか???
【オッサン】:言ってないけど言い方で全部台無しなんだよな
【絶対殺すマン】:事実陳列は罪じゃない
罪じゃないけど、さっきの杖の人、無言でパーティ抜けてったぞ。
――また昼。
歓迎ランチの席で、先輩たちに好きな食べ物を聞かれた白瀬さんは三秒考えてから「お豆腐、でしょうか」と答えた。お豆腐。完璧な答えだった。清楚のお手本みたいな回答に、女性陣が「わかる〜」と沸く。
――また夜。
【絶対殺すマン】:腹減った。からあげ食いたい
【絶対殺すマン】:脂と衣こそ正義。豆腐とかいう無の食い物で生きてるやつの気が知れん
世の中にはいろんな人がいるなあ、と思いながら俺はチャット欄を眺めていた。
昼の世界には命がけの敬語があって、夜の世界には事実陳列罪と豆腐への風評被害がある。我ながら、振れ幅のある毎日だと思う。
*
その振れ幅が、一瞬だけ混線しかけた日があった。
木曜の夕方。白瀬さんがコピー機の前で固まっていた。紙詰まりだ。あの機械は古株で、新人を見ると詰まる。
駆け寄ろうとした俺の耳に、小さな声が届いた。
「……このっ……ポンコツ、が……」
足が止まった。
今、なんか、聞こえた。
「白瀬さん?」
「ひゃいっ!?」
振り返った白瀬さんは漫画みたいに跳ねた。
「い、茨城さん……! あの、これは、その……紙が、詰まってしまって、わたくし、ええと、機械に、励ましの言葉を」
「ポンコツって励ましだったんだ」
「…………愛のある、いじり、と言いますか」
「機械を?」
「…………」
白瀬さんは答えをあきらめて、ただ赤くなった。初日と同じ赤さだった。なんだか妙に懐かしい気持ちで眺めてしまってから、いや今のは完全に本音だったよな、と思い直す。
でもまあ、分かる。あの機械は俺も入社一年目に蹴りかけた。
「誰でも詰まるから、あれは。ここ開けて、緑のレバー。……ほら、取れた。気にしなくていいよ」
「……っ、はい」
白瀬さんはなぜか、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
その顔の意味を、俺はまだ知らない。
*
金曜の夜。定例より一回多く、夜の渓谷に潜った。
最近、相棒との雑談に「リアルの愚痴」が増えた。
【絶対殺すマン】:聞け。今日も死ぬほど猫をかぶった
【オッサン】:猫?
【絶対殺すマン】:こっちの話。とにかく疲れた。本日の俺は豆腐だった
【オッサン】:豆腐嫌いなんじゃなかったっけ
【絶対殺すマン】:嫌いだよ。だから疲れた
【オッサン】:???
【絶対殺すマン】:いいんだよ分かんなくて。とにかく新生活は疲れる。でも
【絶対殺すマン】:教育係の人がまともなのだけが救い
【オッサン】:へえ。いい人なんだ
【絶対殺すマン】:いい人っていうか
【絶対殺すマン】:怒らないし、待つのが上手い。あと自分のミスを普通に認める
【絶対殺すマン】:レアキャラだろ
【オッサン】:それは確かにレア
【絶対殺すマン】:な。先輩ガチャSSRだわ
打ちながら、ふと思った。待つのが上手い、か。俺も今週、メモを待つことしかしてない気がするな。教育係って、どこの会社も似たようなことをやってるんだろう。
【オッサン】:実はこっちも今、会社で新人さんの教育係やってて
【絶対殺すマン】:は? おまえが?
【オッサン】:俺がだよ。悪かったな
【絶対殺すマン】:いや
【絶対殺すマン】:……向いてそうだなと思っただけ
【オッサン】:どうかな。相手は真面目でいい子だから、俺が足引っ張らないようにってだけで精一杯
【絶対殺すマン】:ふーん
【絶対殺すマン】:いい子、ねえ
【オッサン】:いい子だよ。豆腐が好きらしい
【絶対殺すマン】:……
【絶対殺すマン】:……へえ
【オッサン】:?
なぜかそこで、チャットが十秒ほど止まった。
【絶対殺すマン】:まあいいや。ほら潜るぞ
【オッサン】:はいはい
大剣がボスの群れに突っ込んでいく。俺は杖を構えて、いつもどおりその背中に回復を置き続けた。
考えてみれば、変な一致だ。
あいつの会社にも教育係がいて、俺の会社には新人がいて。あいつは「猫をかぶってる」とか言ってて、うちの白瀬さんはコピー機にポンコツとか言ってて。あいつは豆腐が嫌いで、白瀬さんは豆腐が好きで――いや、これは一致してないのか。してないな。
……いや。
まさかな。
俺は浮かびかけた何かを、ポーションと一緒に飲み込んだ。世界はそんなに狭くない。




