第2話 猫をかぶった後輩
火曜の朝、俺は会社の正面エントランスに立っていた。
新人の出迎えだ。「茨城、君が指導役なんだから、下まで迎えに行ってやれ」と別所課長に言われ、朝から一人、受付の脇でそわそわしている。昨夜「教え方 コツ」で検索した履歴は、墓まで持っていく。
自動ドアが開いて、糊のきいたスーツの子が入ってきた。背筋がまっすぐで、皺ひとつなくて、品がいい。きょろきょろと受付のあたりを探している。新人だ、間違いない。
「白瀬さん?」
声をかけると、その子は弾かれたように振り返って、深々と頭を下げた。九十度。お手本みたいなお辞儀だった。
「は、はい……! 本日付けで配属になりました、白瀬すずです。よろしくお願いいたします……っ」
それから顔を上げて、俺を見て――一瞬、表情が固まった。
ああ、この顔だ。俺を見た人間が、勝手に俺の年齢と立場を見積もる、あの一瞬。
「あの……わざわざ課長さん自らお出迎えいただくなんて、恐れ入ります……!」
課長さん。
「……いや」俺は正直に言った。「課長は、上の階にいる別所さん。俺は、君の指導役の茨城。今年で、三年目」
「……に、ねんめ」
白瀬さんの目がゆっくりと俺の顔から名札へ、名札から顔へ往復した。一往復目で疑い、二往復目で絶望し、三往復目で耳がみるみる赤くなった。
「も、申し訳ございません……! その、てっきり、責任あるお立場の方かと……っ、あの、決して、お、老けていらっしゃるとかでは……!」
「今、自分で言っちゃったよね?」
「言ってませんっ……言って、ない、です……」
語尾が消えた。本人が一番ダメージを受けている顔だったので、それ以上は追及しないことにした。
そのあと二人で課のフロアに上がったのだが、エントランスでの一部始終は、なぜかもう全員に知れ渡っていた。俺の席のあたりで、宮原が肩を震わせて俯き、高田さんが堂々と声を出して笑っている。会社の情報網は、光より速い。あとで覚えてろよ、二人とも。
*
OJTというのは、思っていたより地味な仕事だった。
社内システムの開き方。内線のかけ方。請求書のファイルがどの棚の何段目にあるか。教えながら、入社したころの自分が何も分からなくて泣きそうだったことを、ひとつずつ思い出す。
だから、メモを取り終わるまでは次に進まないことにした。
「すみません、書くの遅くて」
「いいよ。俺も一年前、ここで同じこと書いてたから。なんなら同じページ折り曲げてたから」
「……ふふ」
白瀬さんは小さく笑って、また手元に視線を落とした。ちらりと見えたメモ帳は、定規で引いたみたいな字でびっしり埋まっていて、ページの一番上に『茨城さん=課長ではない(重要)』と書いてあった。
重要事項にされてしまった。
昼前には、電話の取り次ぎを練習した。受けて、用件を聞いて、担当者に保留でつなぐ。その一連の流れだ。
「お電話ありがとうございます、営業企画課でございます。……はい、はい、いつもお世話になっております。ただいま担当におつなぎいたしますので、少々お待ちくださ――」
ガチャ。
「……今、切りましたね」
「て、手が滑りまして……保留のつもりが……」
「保留はこっちのボタン。今押したの、思いっきり切るやつ」
「……はい……」
耳まで赤くなりながらメモを取る姿は、緊張の塊を絵に描いたようだった。真面目で、不器用で、一生懸命。守ってあげなきゃいけない系の後輩だ。この時の俺は本気でそう思っていた。
ただ――ひとつだけ、妙なことがあった。
昼過ぎ、表計算の操作を教えていたときだ。「ここをこうして、右クリックで」と俺が言い終わる前に、白瀬さんの指がショートカットでそれを終わらせていた。一瞬だった。なんなら俺の知らないショートカットだった。
「……今の、キーボードで」
「えっ。あ……っ、す、すみません、つい……! じ、実家のパソコンで、その、家計簿を……」
「いや謝ることじゃないよ。むしろ速くてびっくりした。何そのキー、俺も覚えたい」
「えと……こう、です」
「おお……。家計簿で、それ、使うんだ?」
「家計簿、けっこう、やり込んでいたので……」
家計簿をやり込む、という日本語があるのか。
あと、これは本当にどうでもいいことなんだけど、マウスを持つ手の形がやけに様になっていた。指がそれぞれ独立して置かれている、長時間握る人の持ち方だ。家計簿、奥が深いんだな。
*
定時後、白瀬さんは「お先に失礼します」と九十度のお辞儀をして帰っていった。
「どうだ、先生。初日の手応えは」
縦山さんがコーヒー片手にやってくる。後ろから高田さんと宮原もついてきた。様子を見に来る気満々の三人組だった。
「先生はやめてください。……真面目で、いい子ですよ。メモ魔で、俺の言ったこと全部書いてました。俺なんかが教えていいのかってずっと――」
「『俺なんか』禁止。はい議事録行き」
「会社でまで議事録つけないでくださいよ」
「で、どうなんだ」高田さんがにやりとした。「課長と呼ばれた感想は」
「一生いじる気でしょ、それ」
「当たり前だろ。むこう十年はいける」
とはいえ、悪い気分ではなかった。誰かに何かを教えて、メモを取ってもらって、小さく笑ってもらえる。それだけのことが、思いのほか、胸のあたたかい場所に落ちた。
*
その夜。日課のグランデルにログインすると、相棒が先に来ていた。
【絶対殺すマン】:聞け
【オッサン】:どうした
【絶対殺すマン】:今日からリアルで新生活が始まった
【オッサン】:おお。おめでとう
【絶対殺すマン】:そして初日から人生最大級のやらかしをした
【オッサン】:何したの
【絶対殺すマン】:言わん。墓まで持ってく
【オッサン】:気になるんだけど。遅刻?
【絶対殺すマン】:違う
【オッサン】:転んだ?
【絶対殺すマン】:違う
【オッサン】:偉い人の名前間違えた?
【絶対殺すマン】:……
【オッサン】:おっ
【絶対殺すマン】:近いけど違う!! もっとひどい!! この話は終わり!!
【絶対殺すマン】:あーーーー思い出しただけで死ぬ。回復しろ
【オッサン】:チャットでは回復できないんだよなあ
画面の向こうで頭を抱えているらしい相棒に、俺は少し笑って、ポーションを一個だけ送りつけておいた。
【絶対殺すマン】:は? 何これ
【オッサン】:お見舞い
【絶対殺すマン】:……
【絶対殺すマン】:おまえのそういうとこだぞ
そういうとこって、どういうとこだよ。
俺はまだ、何も知らない。
昼間の九十度のお辞儀と、画面の中の「死ぬ」が、同じ人間から出ていることなんて。




