第28話 総力戦①
反撃の一週間は、静かに始まった。
月曜の昼、縦山さんが弁当を食いながら、世間話の声で言った。
「マルベリ商事に、大学の同期がいてな。昨日、飯を食ってきた」
「は、早くないですか」
「善は急げと前に読んだ本に書いてあった。――で、香坂美玲の社内評判だ。高校を出てすぐマルべリ商事に入社、営業としての実力は確かなようだ。表向きは出世頭。誰からも好かれてる。上司の覚えもめでたい。ただし三年前、前の部署で一件、妙な話がある。同僚の女性社員が一人、急に辞めてる。退職の直前、その人について事実無根の噂が出回ったらしい。出所は最後まで分からずじまい。香坂は、その同僚を一番親身に心配してた側だったそうだ」
背中が、冷えた。
「……一番、心配してた側」
「心配する顔で隣に立って、裏で墨を落とす。表の顔が完璧なほど、誰も裏を疑わない。よくできてる」
「同じ、手口」
「ああ。そして、これを見ろ」
縦山さんが広げたノートには、例の匿名アカウントの全投稿が、時刻つきで書き出されていた。手書きで。一字一句、丁寧に。
「投稿時刻は平日の十時台と十五時台に集中してる。マルベリの営業の外回りの空き時間と、きれいに重なる。喫茶店で一服しながら投稿してるんだろう。文体の癖も拾った。読点の打ち方、文章のリズム、改行の癖。こいつ、本業のSNSアカウントでも同じ癖で書いてる」
「それ、どうやって見つけたんですか」
「世の中の九割のことは、調べ方が本に書いてある」
「残りの一割は」
「人に聞く。そして大体の人間は、聞かれると喋りたがる。特に、誰かの悪口はな」
*
水曜の夜、今度は宮原に呼ばれた。連れて行かれたのは、駅前のビルの上の方にある法律事務所だった。エレベーターの階数表示を見上げながら、嫌な予感はしていた。フロアの案内板に、聞いたことのある大きな事務所の名前が出ていたからだ。
会議室で待っていたのは、白髪をきれいに撫でつけた、穏やかな目の弁護士さんだった。
「お話は宮原様から伺っています。発信者情報開示の要件は揃いそうですね。投稿の保全はこちらで済ませました。スクリーンショットだけでは証拠として弱いので、公証も取りました。プロバイダへの開示請求と並行して、名誉毀損での損害賠償、それから先方の社の就業規則との関係も詰めましょう。取引先の社員が、取引先の社員を中傷した――これは会社対会社の問題にもなり得ます」
よどみなかった。よどみなさすぎた。下調べが、もう、ほとんど終わっていた。
帰りのエレベーターで、俺は小声で聞いた。
「……あの人、どう見ても偉い人だったんだけど」
「知り合いだ」
「知り合いって、やっぱりお前色々おかしいと思うぞ。前のグランデルのカフェも、どう考えてもただの抽選じゃなかっただろ。今日の人なんて、事務所の廊下に、テレビのニュースで見るような大物と笑ってゴルフしてる写真が、当たり前に飾ってあったぞ」
「気のせいだ」
「あと費用! ああいうのって着手金だけで何十万って聞くぞ。割り勘でいくらだ。俺、ボーナスまだあるから」
「いらん。経費で落ちた」
「何の経費だよ!! お前個人だろ!」
「……諸経費」
「その諸経費、どこの会計に乗ってるんだよ!」
宮原は目をそらした。こいつが目をそらすのは、嘘が下手だからだ。俺は財布を握りしめたが、受け取ってもらえる気配は、最後までなかった。エレベーターを降りる時、宮原がぽつりと言った。「あの百二十円の利息だよ」と。意味は、分からなかった。
*
その間も、会社の白瀬さんは壁の内側にいた。
例の投稿は週末にも続いて、『そういえばSSさんの高校時代、わたし結構くわしいんだよね。あの頃の写真も、残ってたりしてww』などと、輪郭を一歩ずつ狭めてきていた。当時を「くわしく」知っている。あの頃の写真まで持っている。――そんなものを出せるのは、あの教室に、白瀬さんと一緒にいた人間だけだ。投稿の主は、白瀬さんの過去に、確かにいた。香坂は、外堀を、楽しみながら、ゆっくり埋めている。
フロアのひそひそは消えない。白瀬さんは誰とも昼を食べず、定時で帰り、ギルド欄は灰色のままだった。
一度だけ、廊下で目が合った。
白瀬さんはすぐ目を伏せて、完璧な会釈をして、通り過ぎた。その完璧さが、見ていられなかった。
待ってろ、とは言えなかった。言葉にした瞬間、何かを期待させて、外したら、あの人はもっと深く壁の中に潜る。だから俺は会釈を返しただけだった。会釈を返しながら、心の中で「もう少しだけ」と念じた。拳の中の爪の痕は、もう三日、消えていない。
*
金曜の夜、縦山さんの家に四人が揃った。
ローテーブルの上に、縦山さんのノートが三冊と、弁護士事務所の封筒と、高田さんの書いたメモの束が並んだ。スイーツはない。今夜も、湯呑みだけだ。
「報告する。アカウントの正体の証拠固め、九割完了。弁護士、臨戦態勢。高田の方は」
「裏取り終わった。例の高校の卒業生、二人見つけて話聞いてきた。当時の白瀬さんの件、詳しく証言してくれるってよ。二人とも『あの子には借りがある』って言ってた。――昔、庇われた側だったらしい」
俺はメモの束を見つめた。
六年前、誰かを庇ったこと。結果彼女自身が標的になったこと。その時の借りを返したいという人が、二人。
あいつが積んできたものは、ちゃんと、残っていたのだ。本人が「全部壊された」と思い込んでいる、その足元に。沈んだと思っていた場所に、種が落ちていた。六年かけて、芽が出ていた。
「そろえた」
縦山さんが、ノートを閉じた。
「香坂のやり口は、狭いところでしか効かない。教室、職場、匿名の影。自分が空気を握れる、狭い箱の中だけだ。箱の外には、手も足も出ない」
ページの閉じる音が、やけに低く響いた。
「だから、箱の外に引きずり出す。――あとは、並べる順番と、場所だ」




