第27話 なんでも知ってる人
◇縦山仁視点
よく聞かれる。なんでそんなに何でも知ってるんですか、と。
答えはいつも同じだ。「前に読んだ本に書いてあった」。
冗談だと思われるが、半分は本当だ。実家は商店街の端の古本屋だった。子どもの頃、うちには玩具がなく、あったのは天井までの本の壁だけだった。漫画の隣に法律書があり、図鑑の下に経営書があり、小説の山の裏に医学事典があった。棚の整理を手伝ううちに、俺は背表紙の海の泳ぎ方を覚えた。どこに何があるか。どの知識が、どの知識と隣り合っているか。
残りの半分は、もっと単純だ。
人の話を、覚えているだけ。
誰がいつ、何を言ったか。何を言わなかったか。どこで声が小さくなり、どこで目が泳いだか。本と違って人間は、読まれていないと思っている時に、一番多くを書く。俺はただ、それを読んでいるだけだ。
*
六つ下の妹が中学で躓いた時、俺は大学一年だった。
クラスの女子グループに、うまくやられたらしい。直接の悪口は一つもない。ただ、日常が、毎日少しずつ妹を削っていった。
朝教室に入ったときの空気。グループ分けの結果。面倒な係は、いつのまにか妹に決まっている。提出物のプリントが、なぜか無くなる。きちんとやっていても、出していないことになる。貸したノートは、少し汚れて返ってくる。「ごめんごめん」と、笑って。
一つひとつは、偶然で説明がつく。だが毎日、妹の側にだけ、その「偶然」が積もっていった。
親も教師も「仲良くしなさい」しか言わなかった。証拠がないからだ。形のない暴力には、大人は名前をつけられない。名前のないものは、無いことにされる。
俺は妹の話を、三晩かけて全部聞いた。日付と、出来事と、誰がその場にいたかを、ノートに書いた。一冊目はただの愚痴に見えた。二冊目で、リズムが見えてきた。三冊目の途中で、構図が浮かんだ。糸を引いている子が一人いて、その子の手口には癖があった。同じパターンの繰り返し。証拠を残さない代わりに、癖は残る。
俺はその癖を、然るべき人間が然るべき角度から見られるように、並べ直して届けた。それだけだ。誰も殴っていないし、声も荒げていない。ただ、構図が見えた瞬間、大人たちは動いた。形のなかったものに、形を与えたからだ。
妹は今、別の街で元気に保育士をやっている。年に二回帰ってきて、俺の本棚から一冊だけ持って帰る。
あの三冊のノートが、俺の原点だ。
読んで、覚えて、残しておく。俺のやってることは、煎じ詰めればそれだけだ。妹のノートも、ガイの会の議事録も、おなじ根から出ている。
知識ってのは、振り回すための剣じゃない。世の中の見通しを、ほんの少しよくする。それだけのものだ。だがそれは、人を助けることもある。誰かの「証拠がない」を「ここにある」に変えることが出来たように。
*
で、茨城の話をする。
あいつが入社してきた日、教育係だった俺はひと目で思った。妹と同い年か、と。
それだけなら、ただの偶然だ。放っておけなくなったのは、最初の一週間であいつの性質が分かったからだ。人の話を最後まで聞く。ミスを認める。礼を言う。自分の値段だけ、間違える。
……どこかで見た組み合わせなんだよ、それは。優しくて、不器用で、自分を後回しにする。妹に、よく似ていた。ああいうやつは、放っておくと、人に踏まれる。本人は踏まれてることにも気づかないで、踏んだ相手に「すみません」と言う。
だから俺はガイの会なんてふざけた名前の会の、ふざけた議事録を二年つけ続けている。あの議事録は半分は遊びで、半分は本気の記録だ。『コンビニの新作はどれが優勝か』の隣に、『茨城を元気づける方法』がある。『カレーは飲み物か』の隣に、『茨城の恋について』がある。背表紙の海で育った俺は知っている。記録に残すというのは、大事にするということだ。忘れないというのは、愛の一種だ。
高田と宮原には、前に一度だけ言ったことがある。酔った勢いってことにしてあるが、素面だった。
「あいつは俺の、弟みたいなもんだ。あいつの時は、本気でやる」
その「時」が、来たわけだ。
*
茨城が帰った後、俺は一人で、聞き取った情報を並べ直していた。
香坂美玲。マルベリ商事営業部。完璧な感じの良さ。白瀬さんの手の震えを見て笑った、という茨城の証言。あいつは「一瞬だけ温度の違う笑顔だった」と言った。回復職の観察眼は侮れない。笑顔の温度差を見抜くなら、それは立派な証拠の入り口だ。
匿名アカウント『社会人観察日記』。開設は五週間前――マルベリとの取引が内定し、先方の担当が決まった時期と重なる。来訪の「三日後」に投稿、即日で社内に届く拡散の速さ。文面に同情の演出が一切なく、笑いの形を取っていること。集合写真のぼかしが、一人分だけ輪郭ごと消されていること。自分が写っているからだ。
極めつけは、エレベーターホールだ。脅すでも揺さぶるでもなく、囁いて、手を振った。あれは加害の挨拶だ。六年ぶりに獲物を見つけた人間の、遊びの開始宣言。
……なるほどな。
嫉妬でも、逆恨みでもない。これは娯楽だ。人の留め金を一本ずつ抜いて、崩れていくのを眺める遊び。高校で一度、白瀬さんで遊んで、味を覚えた。六年経って、また同じ獲物が、無防備に目の前に現れた。そりゃ、嗤うだろう。
俺はこの手の人間を、本の中と、妹のノートの中で、何度も見てきた。
特徴は二つ。証拠を残さない狡猾さと――自分だけは安全圏にいるという、根拠のない確信だ。
狡猾さの方は、厄介だ。だが二つ目は、弱点になる。安全圏にいると思っている人間は、必ず、足元を見ない。妹をやった子も、最後はそこで転んだ。自分が捕まるなんて、夢にも思っていないやつの足元には、いつも、本人の残した足跡が落ちている。
「……さて」
俺は連絡先のリストを開いた。古本屋の倅を三十年やってると、同窓って縁は、思いのほか広く深く繋がっている。マルベリ商事に大学の同期がいる。香坂の出身高校の卒業生名簿は、辿れる。SNSの投稿時刻は全件記録した。発信者情報の開示請求という地味な道具の使い方なら、前に読んだ本に書いてあった。本当に、書いてあったんだ、これは。
湯呑みの茶は、もう冷めていた。
俺はそれを飲み干して、置いた。いつもの柔らかい空気は、もう、どこにもなかった。
「さて――始めるか」




