第25話 また、猫をかぶる
それは、木曜の昼休みに始まった。
「ねえ、これ見た?」
給湯室の前で、スマホを囲んだ数人が、声をひそめていた。
画面に映っていたのは、SNSの匿名アカウントだった。アイコンは無地のグレー。名前は『社会人観察日記』。フォロワーは三桁の、本来なら誰の目にも留まらず埋もれていくはずの、無名のアカウントだ。
なのに、それはピンポイントで届いていた。前の晩のうちに、このアカウントは、うちの会社の人間ばかりを選んでフォローしていたらしい。総務の子。営業一課の誰か。課長と同期の先輩。――白瀬さんの周りだけを、狙ったみたいに。だから朝には、社内のグループチャットを伝って、昼までに課の全員のスマホに届いていた。誰かが、社内に確実に火が回るように、薪を組んでから着けた火だった。
『トーワ事務機の営業に今年入った"清楚系"の新人SSさん、じつは高校の同級生なんだけど、当時は「性格最悪」で有名だったのにww 今は猫かぶっててウケる。あの頃いじめられてた側の子たち、見てたらなんて言うんだろうな〜w』
続きの投稿には、ぼかしの入った集合写真。制服姿。顔は判別できない。でも、判別できる必要なんてなかった。会社名まで、書いてある。営業。今年入った。清楚系の、新人SS。
この会社で、その条件に当てはまる人間は、一人しかいなかった。
「これって、白瀬さんのこと……だよね?」
「えー……でも、匿名だし、なりすましかもよ」
「でも同級生って書いてあるよ。火のないところに、っていうし……」
声は、ひそめられているだけで、消えてはいなかった。ひそめられた声というのは、本人の耳に届く時、怒鳴り声より深く刺さる。聞こえないふりをしなければいけない分だけ、逃げ場がない。
午後の白瀬さんは自分の席で、完璧な姿勢で仕事をしていた。
完璧すぎる姿勢で。
フロアの視線が背中に集まるたび、その背筋は一ミリずつまっすぐになっていった。あれは、鎧の留め金を限界まで締めている音だ。俺にはもう、その音が聞こえるようになっていた。ぎり、ぎり、と、聞こえるはずのない音が、隣の席から聞こえる気がした。
昼過ぎ、先輩の一人が気を遣って「白瀬さん、あんなの気にしないでね」と声をかけた。白瀬さんは「お気遣いありがとうございます。事実無根ですので、大丈夫ですよ」と、完璧な笑顔で答えた。完璧すぎる笑顔だった。声をかけた先輩が、その笑顔を見て、逆に泣きそうな顔になっていた。
*
定時後、非常階段で待った。
水筒を洗いに来る動線。三年の相棒と、半年の教育係の知識。この場所で、俺は一歩を踏み出せた。だから今度も、ここでなら、と思った。
扉が開いて、白瀬さんが出てきた。俺を見て、足が止まった。
「白瀬さん。あのさ、昼の」
「茨城さん」
声が静かだった。静かすぎた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません。SNSの件でしたら、事実確認の取れない投稿ですので、わたくしからお話しすることはございません」
「いや、事実とかはどうでもよくて。俺はただ、その……話したくなったら聞くって、前に言ったろ。今が、その時かもしれないと思って」
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」
一礼。完璧な、九十度。
「ですが、今わたくしと関わられますと、茨城さんにもご迷惑がかかります。あの投稿に、茨城さんの名前まで結びつけられたら、申し訳が立ちません。今後は業務に必要な範囲でのご指導を、よろしくお願いいたします」
「――白瀬さん」
「失礼します」
俺の横を、完璧な歩幅が通り過ぎていった。
追いかけて、肩を掴んで、ばか言うなと言うことも、できたのかもしれない。でも俺の足は動かなかった。最後にすれ違った一瞬、見えてしまったからだ。
完璧な敬語の、完璧な無表情の、その目の縁だけが、赤かった。泣くのを、必死で、こらえている目だった。
あの目で「迷惑がかかる」と言われて、俺は何も言えなかった。
*
夜、グランデルのフレンド欄から、通知が一件落ちてきた。
『絶対殺すマンさんが、しばらく休止します(自動メッセージ)』
休止設定。ログイン履歴を隠す機能だ。三年間で、一度も使われたことのない機能だった。高熱で寝込んだ時も、こいつは履歴を隠さなかった。「死んでた」と笑い飛ばせる弱さは、隠さなかった。
今度のは、笑い飛ばせない弱さだ。だから、隠した。
俺は暗い画面の前で、頬の内側を噛んだ。
あの敬語を、俺は知っていたつもりだった。実質「は???」の、笑える敬語。鎧の上から本音が透ける、あの人の敬語。ずっとそうだった。ずっとそうだったから、敬語の向こうにはいつも、本人がいた。手を伸ばせば、ちゃんと、触れる場所にいた。
今日のは、違った。
向こう側に誰もいない敬語だった。壁として塗り固められた、出入り口のない敬語だった。あの人は、壁の内側にたった一人で座り込んで、扉を、内側から、釘で打ちつけている。誰も入ってこないように。誰も傷つけないように。誰にも、傷つけられないように。
迷惑がかかる、と言った。
守られたのだ、俺は。突き放される形で。あの人は、自分が壊れる瞬間にすら、俺に火の粉がかからないように、計算していた。傷ついたなんて言ったら、罰が当たる。当たるんだけど――。
握った拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。
痛かった。掌がじゃない。
守られてる場合か、俺は。




