第24話 過去の影
秋晴れの月曜だった。マルベリ商事との顔合わせは、午後一番に組まれていた。
会議室に現れた先方の担当者は、三人。その真ん中にいた女性が、名刺を差し出しながら、花が咲くみたいに笑った。
「マルベリ商事の香坂と申します。このたびは素敵なご縁をいただいて。御社の製品、個人的にずっとファンだったんです」
感じのいい人だった。それはもう、完璧に。
声の温度、目線の配り方、相槌のタイミング。営業を絵に描いたらこうなるんだろうという立ち居振る舞いで、別所課長は五分で上機嫌になり、同席の係長は十分で笑い転げていた。話の運び方が、剣崎さんとは違う種類で上手い。剣崎さんが自分を売り込む営業なら、この人は、相手に気持ちよく喋らせる営業だった。
「いやあ、香坂さんが窓口なら、この案件は安泰だなあ」
「やだ、課長さん、褒めても何も出ませんよ? あ、でも次回、よかったらお茶菓子は持ってきますね」
会議室の端で議事録を取りながら、俺はひとつのことだけが気になっていた。
隣の席の白瀬さんが、さっきから一文字も書いていない。
ペンを握ったまま、姿勢だけは完璧なまま、ノートの同じ場所をじっと見ている。名刺交換の時もそうだった。差し出す手がほんのわずかに震えていて、香坂さんはその手元を見て、にこ、と笑ったのだ。
あの笑い方が、なぜだか、妙に長く目に残った。感じのいい笑顔の中に、一瞬だけ、別の温度のものが混じった気がした。気のせいかもしれない。でも俺は絶対殺すマンの「草」と「は?」を聞き分けられる男だ。笑顔の種類の違いには、わりと敏感な方だった。
*
打ち合わせは滞りなく終わった。
見送りのエレベーターホールで、課長と係長が先方の上席と名刺の話で盛り上がっている間、香坂さんがすっと白瀬さんの隣に立った。
俺の位置からは、数メートルの距離があった。声は聞こえない。ただ、香坂さんが白瀬さんにだけ聞こえる声量で何かを言って、それから先に乗り込んだエレベーターの中で、扉が閉まる最後の一瞬まで、にこやかに手を振っていたのは見えた。
白瀬さんは手を振り返さなかった。
振り返せなかった、ように見えた。両手が体の脇で、固く握られていた。
「白瀬さん。さっき、何か言われた?」
席に戻る廊下で、できるだけ軽く聞いた。
「……いえ」
「顔色、よくないけど」
「なんでもないです。ちょっと、寝不足で」
なんでもないです、が出た。
三年の相棒と半年の教育係の経験則が、同時に同じことを言った。この人の「なんでもない」は、一番なんでもなくない時に出る。
でも、それ以上は踏み込めなかった。本人が鍵をかけた扉を、外からこじ開けるのは違う。話したくなったら聞く。いつでも。あの夜の約束を、俺はまだ信じていた。信じて、待つことしかできなかった。
その夜、グランデルのギルド欄で、絶対殺すマンの名前は灰色のままだった。
*
◇白瀬すず視点
エレベーターホールでの数秒を、私は多分、一生忘れない。
香坂美玲は、六年前と同じ匂いがした。柔軟剤と、その下の、何か。記憶というのは残酷だ。匂いひとつで、十六歳の教室まで、一瞬で引き戻される。
彼女は私の耳元に、誰にも聞こえない音量で、こう置いていった。
「久しぶり。――変わってないんだ?」
それだけだった。脅し文句も、嫌味もない。たった一言。
でも私には分かる。あれは挨拶じゃない。確認だ。
今もまだ猫をかぶってるんだ? 今の職場のみんなはまだ本当のあんたを知らないんだ? へえ。じゃあ――。
――また、あの遊びができるんだ?
彼女は昔から、人を壊すのが上手かった。殴るんじゃない。怒鳴るんじゃない。墨を一滴ずつ落として、気づいた時には誰も助けられない場所まで、相手を運んでいく。そして自分の手は、最後まで汚れていない。一番怖いのは、彼女がそれを、楽しんでいることだ。趣味なのだ。人が崩れていくのを眺めるのが。
帰りの電車の窓に、血の気の引いた女の顔が映っていた。六年かけて作った「感じのいい白瀬さん」の顔の上に、十六歳の、教室で透明だった私の顔が、ゆっくりと重なっていった。
せっかく。
せっかく、また息ができるようになったのに。
あの人がくれた毎日に、やっと、慣れてきたところだったのに。
膝の上で、握った拳が震えた。電車の揺れのせいだと、自分に言い聞かせた。




