第23話 逃げない
その週、社内の空気がまた、静かに塗り替わった。
剣崎さんがぱったりと、うちの課に来なくなったのだ。プロジェクトの白瀬さん指名も「業務都合」の一言で解除された。噂好きの誰かが「フラれたらしいよ」と囁き、別の誰かが「え、あの剣崎さんが?」と目を丸くして、三日もすると、それも次の話題に流れていった。社内の噂というのは、そういうものだ。あれだけ「お似合い」と言っていた人たちが、もう別のカップルの品評会を始めている。
俺はと言えば、何があったのか知らないままだった。
知らないまま、木曜の夕方、白瀬さんに声をかけられた。
「茨城さん。明日の金曜って、空いてますか」
「え? うん、空いてるけど」
「三回流れたやつ、回収させてください。今度は、わたしから誘うので」
まっすぐな目だった。耳は赤かったけど、目は逃げていなかった。会議室で「温度」の話をしてきた時とも違う。あの時は心配の目だった。今日のは、もっと、覚悟の目だった。
「……喜んで」
「ふふ。居酒屋の店員みたいですね、それ」
「うれしくて、つい。……なんか、照れてきた。」
「照れないでください。誘った私の身にもなってください」
*
金曜の夜の焼き鳥屋は、煙くて、うるさくて、最高だった。
白瀬さんは「無礼講で」と宣言してから、レモンサワーを一杯だけ飲んで、それはもう、よく食べてよく喋った。
「だから、メェさんの着ぐるみは染色で耐火性能が落ちてるんだって。今度の火山レイドで燃えるよ、絶対。本人は『羊は炎で鍛えられる』とか言ってたけど」
「羊、毛が焦げるだけだろ」
「そう! それ私も言った! でも『羊毛は天然のウールだから難燃性だ』って」
「染色した時点で台無しって話だったじゃん」
「分かってるんだよあの人も。分かってて言ってるの。そこが厄介で、そこが、ちょっと好き」
声を上げて笑う白瀬さんは画面の向こうの相棒そのもので、でも画面の中にはいない人だった。串を片手に身振りで着ぐるみの動きを再現する、生身の、目の前の人だった。俺のつくねを一個、当たり前みたいに箸でかすめ取っていった。
「あ。そういえば、レク大会」
「ん?」
「走ってましたね、最後まで」
「……見てたの。恥ずかしいからやめてくれ、あれは高田さんの試合で」
「私は」
白瀬さんはジョッキを置いて、少しだけ声を落とした。串を持つ手が止まっていた。
「走ってる方を、見てました。ずっと」
心臓が跳ねた。
ごまかすみたいに焼き鳥を追加で頼んで、それから二時間、俺たちはゲームの話と会社の話と、子どもの頃の話をした。白瀬さんは小学生の時、男子に混じってドッジボールで無双していたらしい。クラスで一番ボールが速くて、最後はいつも一人だけ残って、男子全員を当て返して勝っていたという。
「今の私からは想像つかないでしょう」
そう言って笑った顔が、ほんの一瞬だけ、寂しそうに見えた。窓の外を見るような、遠い目だった。
その一瞬の意味を、俺はまだ知らない。ドッジボールで無双していた子が、どこで「想像つかない」側に変わったのか。知らないけど――いつか、ちゃんと聞ける距離に行きたいと、初めてはっきり思った。今は焼き鳥屋の煙の向こうで笑っているこの人の、その遠い目の理由まで、隣で聞ける場所に。
駅までの帰り道、半歩隣を歩く白瀬さんを見て、俺は胸の中で宣言した。
もう、逃げない。
食堂の「納得」にも、白い歯の(笑)にも、鏡の中の老け顔にも、もう値札は書かせない。俺の値段は、あの夜、あの三人がつけてくれた。百二十円の男に、箸の持ち方を見たやつに、議事録に二年分記録されたやつに。なら俺はもうちょっとずつでいい、この人に向かって歩く。
「茨城さん、あのね」
「ん?」
「……ううん。また、誘ってもいいですか。こういうの」
「いつでも。何回でも」
「ふふ。即答」
改札の向こうで手を振る白瀬さんを見送って、俺はスマホを開いた。
*
【オッサン茨城】:報告。飯、行ってきました。次も約束した
【高田】:よっしゃあああ!!
【宮原】:前進を確認。よくやった
【縦山】:第五十回ガイの会の議題に追加する
【高田】:……いや待て。待てお前ら
【高田】:これ、順調にいったらあれだぞ。例の件だぞ
【宮原】:……
【縦山】:……
【オッサン茨城】:なんで急に既読だけになるんだよ
【縦山】:『ガイの会、解散カウントダウン進行中』と議事録に記す
【高田】:喪服どこやったかな
【宮原】:式の前に解散式か。胸が痛い
【オッサン茨城】:気が早いんだよ! まだ手も繋いでない!
【縦山】:手も繋いでない(議事録に記載済み)
【オッサン茨城】:前にも書いたろそれ!!
まったく、この人たちは。
笑いながら画面を閉じて、夜道を歩き出す。胸の奥はまだ、焼き鳥屋の温度のままだった。今夜は、いい夜だ。何も怖いものがない気がした。
*
翌週の月曜、その温度は、一枚の資料で凍りつくことになる。
「来月からの新規取引、先方の担当者リストね。白瀬さん、窓口の補助お願い」
課長の机から戻ってきた白瀬さんが、リストに目を落としたまま、動かなくなった。
歩いていた足が止まる。手にしたリストの角が、小さく震えはじめる。
「白瀬さん?」
返事がなかった。
血の気の引いた横顔の先、リストの三行目に、その名前はあった。
『株式会社マルベリ商事 営業部 香坂美玲』




