第22話 自分の意思で
◇白瀬すず視点
レク大会の日から、目の奥に焼きついて消えない映像がある。
高田さんの超人的なプレーじゃない。最後まで諦めずにコートを走り回る、あの人の姿だ。
運動が得意じゃないのは、見れば分かった。パスを三回に一回は取り損ねて、シュートは二本しか入らなくて、走り方も正直、格好いいとは言えなかった。汗だくで、息も絶え絶えで、何度もコートに膝をついて。それでも、足だけは一度も止めなかった。
高田さんが化け物みたいに活躍する横で、あの人はただ、無様に、必死に、走り続けていた。
最高に、格好よかった。
気づいたら立ち上がって叫んでいた。危うく「ナイス」と言うところだった。ギルドの語彙は社内で封印と決めているのに。あの人がシュートを決めた瞬間、三年分の「ナイス」が喉までせり上がってきて、止めるのに必死だった。
そういうことなのだ、たぶん。もう、ずっと前から。
画面の向こうで回復をくれていた頃から。毎日メモを待ってくれた頃から。私はとっくに、この人のことを。
*
その自覚に冷や水を浴びせるみたいに、月曜の夕方、剣崎さんに呼び止められた。
会議室前の、人気のない廊下だった。
「白瀬さん。今度の土曜、空けといて」
「……は?」
「店、もう予約したから。プロジェクトの打ち上げってことで。二人だけど」
お誘い、ではなかった。決定事項の通達だった。この人の中で、私の返事は最初から要らないものになっている。にこやかな圧で外堀を埋め続ければ、「感じのいい白瀬さん」は最後には頷く。今まで何人もそうしてきたんだろう。そういう計算を、もう隠す気もないらしい。
「あ、ちなみに」
剣崎さんは思い出したように付け足した。
「この前のレクのあの先輩、すごかったね。茨城さん、だっけ。あんな人と毎日仕事してて、白瀬さんも大変でしょ。気を遣うっていうか。まあ、きみはもっと、釣り合う場所にいるべきだと思うよ」
釣り合う場所。
ああ、と思った。
もう、いいか。
この人は、何も見ていない。コートを走り続けたあの人の足も、それを見ていた私の顔も、何も。この人に見えているのは、自分の隣に置いたときに「絵になるかどうか」だけだ。私はその絵を完成させるための、小道具なんだろう。
私は息を吸って、背筋を伸ばした。半年磨き上げた完璧な営業スマイルを装着して、はっきりと言った。
「結構です」
「……ん?」
「今度の土曜も、その次の土曜も、今後いかなる暦の上でも、結構です。これまで明確なお返事をせずにいたのは、わたくしの不徳でした。曖昧にすればご理解いただけると思っておりました。甘かったです。本日、明確にお答えしますね」
剣崎さんの笑顔が、二秒遅れで固まった。
「理由も申し上げます。剣崎さんは先日、後輩の方が落とした書類をまたいで歩かれました。総務の方へのお礼を、わたくし一度も聞いたことがありません。先日の試合では、人の身体に三度、肘を入れられました。最後の一回は、笛も鳴っていました」
「……それが、何か」
「わたくし、ああいうの、控えめに申し上げて――心の底から無理なんです」
敬語は最後まで崩さなかった。崩さないまま、全部、置いてきた。完璧な笑顔と、完璧な言葉づかいで、内容だけが、一切の容赦なく拒絶だった。
剣崎さんの顔から、社内報の表紙が剥がれ落ちた。下から出てきたのは、値踏みに失敗した男の、ただの不機嫌だった。
「……はっ。何かと思えば。もしかして、あの教育係? あの地味な、おっさんみたいな……ああ、そう。へえ。趣味悪いね。お似合いだよ、お前ら。地味同士で、せいぜい仲良くやれば」
「ありがとうございます」
私はその日いちばんの営業スマイルで、深々と頭を下げた。
「本日いただいたお言葉の中で、唯一、嬉しいお言葉です」
剣崎さんは何か言い返そうとして、言葉が見つからなかったらしく、舌打ちひとつ残して去っていった。背中が、レク大会の時よりも、ずっと小さく見えた。
*
帰り道、一人になってから、膝が少しだけ震えた。
言ってやった。自分の意思で、自分の言葉で。高校のあの教室では、ついに言えなかったやつを。
……いや、あの頃の私は逆だ。ああいう手合いを、素手で正面から殴りつけて、それで全部を失ったんだった。今日のは違う。鎧を着たまま、鎧の中身で殴った。冷静に、笑顔のまま、急所だけを。我ながら、成長したものだと思う。六年かけて身につけた猫かぶりも、使いようによっては武器になるらしい。
でも、震えの理由は、それだけじゃなかった。
――お似合いだよ、お前ら。
悪意の言葉のはずなのに、胸のどこかが、勝手にあたたかくなってしまった。重症だ。あの嫌味な顔から出た「お似合い」が、今日いちばん嬉しい言葉だなんて。
好き、なんだろう。認める。あの人が好きだ。三年間チャット欄の向こうで「ナイス」しか言わなかった回復職が、毎日メモを待ってくれる教育係が、コートを無様に走り続けた人が、好きだ。
じゃあ、言えるのか。
想像してみる。鎧を全部脱いで、暴言も、可愛くない素も、高校の三年間も、全部見せて、「好きです」と言う私を。
……あの人は、ゲームの「俺」を知ってる。怒らないでいてくれた。でもそれは、画面の向こうの、安全な距離の話だ。現実の、生身の、めんどくさい私を全部知っても――。
帰り道の窓ガラスに、感じのいい女の子の顔が映っている。その奥に、十六歳の、教室で透明だった私が、薄く重なっている。
本当の私を知っても、好きでいてくれる人なんて。
そんな都合のいい人、いるわけ、ないでしょ。




