第20話 肩書きのない友
◇高田剛視点
茨城の入っていない、もう一つのグループがある。『ガイの会(真・機密)』。あいつは知らない。機密が二階建てになってることを。
そこに、宮原から状況報告が上がってきた。
【宮原】:茨城、また止まってる。例の営業一課の件で
【縦山】:知ってる。白瀬さんの方も限界が近い
【高田】:で、俺は誰をインベスティゲートすればいい
【縦山】:日本語で頼む。あと誰も殴るな
【高田】:殴らねえよ。リサーチって言ってんだろ
【縦山】:別の単語で言い直しただけだろ
【宮原】:高田さん、興奮すると英語混じるの、昔からですよね
【高田】:黙ってろ院卒
スマホを置いて、俺は天井を見た。茨城のやつ、また自分の値札を書き換えてんだろうな、と思った。あいつの悪い癖だ。世界で一番安い値段を、自分でつける。そして俺はあいつの本当の値段を知ってる側の人間だった。
*
自慢じゃないが、俺は子どもの頃から、体で負けたことがなかった。
水泳をやれば全国、陸上をやれば日本記録、最後に選んだ競技では、二十歳で世界の頂点に立った。「高田剛」の名前は、俺より先に歩くようになった。どこへ行っても、俺が来る前に「あの高田」がいる。握手を求められ、写真を撮られ、初対面の相手が俺の戦績を俺より詳しく語った。
それが嫌だったかと言えば、嘘になる。気持ちよかったよ、最初は。
潮目が変わったのは、アキレス腱をやってからだ。
二年のリハビリの末に、医者と俺とで出した結論は「日常生活には支障なし。世界では戦えない」。引退会見の翌週から、俺の名前には「元」がついた。元世界王者。高田剛。
「元」がつくと、人はどうなるか知ってるか。
潮が引くみたいに、引くんだよ。連絡先の九割が静かになって、残った一割は「高田さんの人脈で」って続く用件だった。スポンサーも、後輩面してた連中も、きれいに消えた。俺はそこで初めて、自分が「高田剛」と「その他」をどれだけ区別されてたか知った。みんな、俺じゃなくて、俺の記録と握手してたんだ。遅えよな、気づくのが。
で、心機一転、普通の会社に入った。経歴は伏せた。人事と役員の一部しか知らない。「元」のつかない、ただの高田として、ゼロからやり直したかった。誰も俺の戦績を知らない場所で、もう一回、ただの人間として誰かと仲良くなれるか、試したかった。
半年やって、なんとなく分かってきた。みんな親切だ。でもそれは仕事をする上で最低限の「同僚への親切」だ。別にプライベートまで踏み込んで仲良くなるようなことはなかった。――まあ、人生こんなもんだよな、と半分諦めかけてた。
そこに、茨城が入ってきた。
*
最初は、ただの新人だった。老けてて、自信なさそうで、でも妙に仕事の覚えがいい。
ある昼、社食で隣り合った。新人の方から先輩に話しかけるなんて勇気はないだろうから、俺から「うまいか、それ」とでも言ってやろうとした矢先、あいつが先に口を開いた。
「高田さんって、箸の持ち方きれいっすね」
「……は?」
「いや、なんか、所作が全部きれいだなって思ってたんですけど、箸が一番きれいだなと。背筋とか、歩き方とかも、なんか、整ってて」
箸。
俺の二十六年に、いろんな褒め言葉が飛んできた。フィジカルが化け物。歴代最強。世界の高田。神の身体能力。――箸は、初めてだった。誰も、俺の所作なんか見てなかった。記録の方を見るのに忙しくて。
「……親が厳しくてな」
「ああ、それはうちもです。米粒残すと正座でした」
「分かる。茶碗に一粒残ってるとな」
「「説教された」」
声が揃って、二人で笑った。それだけだ。それだけなんだが、その日の飯は、ここ数年でいちばんうまかった。何年ぶりだろうな。普通に笑ったのは。
以来、なんとなくつるむようになった。あいつは俺の経歴を聞かないし知らない。運動の話になっても「高田さん、運動神経いいっすね。学生時代なんかやってました?」程度だ。
「……ちょっとだけな」
「いいなあ。俺、体育2でした。マラソンは毎回保健室直行で」
「保健室は逃げてただけだろ」
「バレました?」
ちょっとだけ。世界、獲ったけどな。言わなかった。言わないでいられることが、あまりに心地よかったから。「ちょっとだけ」の中に隠れていられる時間が、こんなに楽だとは思わなかった。
去年の社内ソフトボール大会で、俺はうっかり手加減を間違えて、場外に三本飛ばした。打球が体育館裏の駐車場まで飛んで、軽く騒ぎになった。周りがざわつく中、あいつだけが屈託なく拍手してた。
「高田さんすごいっすね! 野球部だったんですか?」
「……まあ、そんなとこ」
「今度教えてくださいよ。俺、フライ捕るとき必ず顔に当たるんで」
「それはセンスの問題だな」
疑うってことを知らねえのか、お前は。世界王者の打球を見て「野球部」で済ませるやつが、どこにいる。
でもな、茨城。お前のその目に、俺がどれだけ救われてるか、お前は知らねえだろ。お前は俺を、記録でも、メダルでも、「元」でもなく、箸の持ち方で見たんだ。俺をただの高田として隣に置いてくれた人間は、この世界で、お前だけだよ。
だから俺は決めてる。お前は人を肩書きで見ない。――なら俺はお前のためなら肩書きを使う。全部な。封印してた「元」も、人脈も、フィジカルも、お前のためなら、いくらでも引っ張り出す。
*
その「使いどき」の噂は、翌日の喫煙所の前で拾った。
「来月の社内レク、聞いたか? 部署対抗のバスケ、剣崎さんが本気らしいぞ」
「全国出場だもんなあ。営業企画は当たったら終わりだろ」
「それがさ。剣崎さん、わざわざ営業企画と初戦で当たるように幹事に頼んだって。しかも『白瀬さんの教育係の人も、ぜひ出てくださいよ』って名指しで――」
「ああ、あの……白瀬さんの隣にいる、やけに年上に見える人?」
「それそれ。剣崎さん、あの人のこと、けっこう目の敵にしてるっぽくてさ」
へえ。
俺は煙草を吸わない主義なんで、ただ通りすがっただけなんだが、足が勝手に止まっていた。
公開処刑、ってわけだ。好きな女の前で、目障りな男に恥をかかせる。体育館を舞台に、衆人環視で、スポーツという「実力差が言い訳できない」場所で。茨城は運動が苦手だ。コートに立たせて、ボールを集めて、点差で殴れば、白瀬さんの前で完璧に潰せる。本人は指一本汚さずに。
考えたな、剣崎。場所の選び方だけは、満点をやる。
ただ――お前、一個だけ調べ忘れてるぞ。
営業企画課の選手名簿の、上から三番目。そこに、何の肩書きもつかない「高田剛」って名前が載ってることを。
俺は『ガイの会(真・機密)』を開いて、短く打った。
【高田】:レク大会、俺も出る。バスケ部に入れとけ
【高田】:昔ちょっとだけやってたからな。




