第19話 身を引く
「また今度」は、三回流れた。
一回目は会食。二回目は休日出勤。三回目は、プロジェクトの進捗会議が押したせいだった。どれも白瀬さんのせいじゃない。誰のせいかは、考えないようにした。考えると、剣崎さんの白い歯にたどり着くからだ。
その間に、社内の空気は静かに塗り替わっていった。
「白瀬さんと剣崎さん、お似合いだよねえ」
給湯室で、廊下で、喫煙所の前で、同じ台詞を三回聞いた。プロジェクトで並んで歩く二人はたしかに絵になった。社内報の表紙の男と、噂の綺麗な新人。誰も悪気なんてない。ただ、視界に入った絵に、素直な感想を言っているだけだ。絵が良ければ、人は良いと言う。それだけのことだ。
俺はと言えば、聞き分けのいい教育係をやっていた。
「白瀬さん、これの集計、今日中じゃなくていいよ。プロジェクトの方が先で」
「すみません……すぐ戻りますから」
「いいって。こっちは俺がやっとく」
譲って、引き受けて、先回りして道を空ける。我ながら見事な動きだった。優しさは武器だと言われたが、俺の優しさは、どうやら撤退戦にばかりよく切れる。退路の確保だけは天才的だ。
白瀬さんの方は――少しずつ、削れていった。
はたから見れば分からない程度に、だ。お辞儀の角度は完璧なまま。敬語も完璧なまま。ただ、俺は知っている。あの完璧さは、あの人の鎧だ。鎧の留め金が日に日に固く締まっていくのを、隣の席で、俺は毎日見ていた。
ランチの誘いを断る声が日ごとに小さくなる。
「すみません、今日はちょっと……」
「またフラれた! 白瀬さん厳しいなあ。じゃ、明日ね」
明日ね、で会話を終わらせるのは剣崎さんの技術だ。断った側に、断りきれなかった分の借金が残る。「また明日」は、明日も来るという宣告だ。あの人は毎日、明るい顔をして、その借金の利息をきっちり取り立てにくる。
強く突っぱねればいいのに、と思いかけて、やめた。
できないのだ、あの人には。「感じのいい白瀬さん」の鎧を着ている限り、声を荒げることも、にべもなく切ることもできない。鎧が何を守っているのか、俺にはなんとなく分かる。具体的に何があったのかまでは聞いていない。それでも――素を出すのが怖い人間は、はっきり「ノー」と言うのが、一番怖い。だから余計に、何も言えなかった。
*
その夜のグランデルに、相棒はいた。
いたのだが、通話のアイコンは灰色のままで、チャット欄に文字だけが落ちてきた。
【絶対殺すマン】:今日は声なしでいい?
【オッサン】:いいよ
【絶対殺すマン】:すまん
すまん、ときた。こいつが謝るのは年に一回あるかないかだ。
その日の狩りは、静かだった。大剣の振りがいつもより一拍重い。突っ込みすぎて囲まれる回数が、いつもより二回多い。俺は黙って、回復の頻度を上げた。声がない夜の回復は、なんだか、肩を撫でているみたいな気持ちになった。
休憩地点で焚き火を囲んだ時、ぽつりと文字が落ちた。
【絶対殺すマン】:なあ
【オッサン】:ん
【絶対殺すマン】:最近、リアルがしんどい
指が止まった。
三年間で、こいつがこの手の弱音をテキストにしたのは、これが初めてだった。声でならごまかせる弱音を、ごまかせない夜に、文字は来る。文字は、表情を持たないから。震える声を隠せるから。
【絶対殺すマン】:昔のことを、思い出すことが増えた
【絶対殺すマン】:忘れたことにしてたやつ
【オッサン】:そっか
【絶対殺すマン】:なんでもない。忘れろ
【オッサン】:忘れない
【絶対殺すマン】:は?
【オッサン】:忘れないけど、聞かないでおく。話したくなったら聞く。いつでも
【絶対殺すマン】:…………
【絶対殺すマン】:そういうとこだぞ、おまえ
通話アイコンは、最後まで灰色のままだった。
ログアウトした画面の前で、俺は長いこと座っていた。
昔のこと。忘れたことにしてたやつ。――毎日、隣の席で見ている、あの締まっていく鎧。その内側に、たぶん、今しんどいの理由がある。声でならごまかせる弱音を、文字でしか寄こせなかった、その理由が。
なら、出ていけばいい。守りに行けばいい。簡単な話だ。
――簡単な話の前に、食堂の「納得」と、白い歯の(笑)が立っていた。
俺が出ていって、どうする。剣崎さんの隣で絵になっているあの人の前に、この老け顔で出ていって、それで、あの人の何が楽になる。「お似合い」の噂の横に「なんで茨城が」を一行増やすだけじゃないのか。あの子が一番嫌がっている「見られること」を、俺が増やすだけじゃないのか。
膝の上で、拳だけが固くなっていった。
出ていきたい。出て、いいのか。
その夜、答えは出なかった。




