第18話 完璧な男
剣崎涼真という男のスペックを、社内報から引用する。
二十七歳。営業一課。入社四年で社長賞二回。前年度の新規開拓件数、歴代最高記録。学生時代はバスケ部の主将として全国出場。身長百八十四センチ。社内報の表紙を飾った回数、二回。
ついでに言うと、歯が白くて、声が通って、スーツの肩に皺がない。歩くと、なぜか少しだけBGMが聞こえる気がする。気のせいだが、気のせいにしては毎回聞こえる。
完璧だった。非の打ちどころというものが、どこを探しても見当たらなかった。
その完璧な男が、水曜の朝、うちの課に降ってきた。
「営業一課との合同プロジェクトだ」別所課長が言った。「新製品の拡販企画。一課からは剣崎くんが来る。うちからも何人か出す」
「どうも。剣崎です」
課長の隣で一礼した剣崎さんはフロアをぐるりと見回した。視線がメンバーを一人ずつ値踏みするように滑っていく。高田さんのところで半秒止まり、宮原のところでもう半秒止まり――最後に、まっすぐ白瀬さんのところで動かなくなった。
「人選なんですが、ぜひ白瀬さんを。この前お会いして、気が利く方だなと。新人のうちに大きい案件を経験するのは、彼女のためにもなると思うんですよね」
彼女のためにもなる。
完璧な、断れない理屈だった。本人の成長を口実にされたら、上司は頷くしかない。課長は「いい機会だな」と頷いたし、白瀬さんは「精一杯務めます」と頭を下げるしかなかった。
頭を下げた白瀬さんの横顔を、俺は見ていた。完璧な角度のお辞儀の下で、口元だけが、ほんの少し、強張っていた。
*
それからの剣崎さんは足繁くうちの課に通ってきた。
打ち合わせと称して白瀬さんの席に寄り、資料を褒め、ランチに誘い――断られても、まったく堪えた様子がなかった。
「またフラれちゃった。白瀬さん、ガード堅いなあ」
冗談めかして肩をすくめると、周りが笑う。空気を作るのがうまい。本当に、うまいのだ。断られたことすら、自分の人気の証明みたいに使ってしまう。あれは才能だと思う。
ただ、俺は見てしまった。
廊下で、向こうから来た他部署の部長に、剣崎さんが端まで響く声で「お疲れ様です!」と笑うのに、その二歩後ろにいた、たぶん清掃の年配の女性が同じように会釈したのには、視線ひとつ返さなかったのを。
エレベーターで、両手の塞がった誰かが小走りで来るのが見えても、「開」に指を伸ばさず、扉が閉まるのを。
その全部を、相手が「点数にならない人間」だと判断した瞬間に、やっていた。笑顔のスイッチが、すっと切れるのだ。切り替えが速い。営業成績がいいのは、たぶんこの切り替えの速さなんだろう。
あの人の世界には、二種類の人間しかいない。点数になる人間と、ならない人間だ。
俺はもちろん、後者だった。
「ああ、茨城さん。白瀬さんの教育係なんですか」
給湯室で初めて直接話した時、剣崎さんはにこやかに言った。
「へえ……大変ですね(笑)」
文字にすると伝わらないと思うが、あの(笑)は、はっきりと声に出ていた。労うふりをして、中身はこうだ。――あんたみたいなのが、あの白瀬さんの教育係。へえ、意外。そういう(笑)だった。
「いやあ、でも助かりますよ。彼女の基礎ができてるの、茨城さんのおかげでしょ。いい下準備っていうか」
「……どうも」
「これからは案件の方で忙しくなるんで、彼女のことは、まあ、こっちでも面倒見ますから。茨城さんは茨城さんの、こう……地に足のついたお仕事を、ね」
白い歯を見せて、剣崎さんは去っていった。最後の「地に足のついた」が、何を指して言ったのかは、聞かなくても分かった。
下準備。
俺は空の湯呑みを持ったまま、しばらく動けなかった。
湯呑みのお茶は、もう冷めていた。腹は立たなかった。立たないことが、少し情けなかった。あの言葉の一つ一つに「まあ、そうだよな」と頷いてしまう自分が、胸の奥にちゃんといたからだ。
*
金曜の朝、白瀬さんが俺の席に来た。眉が、申し訳なさの形に下がっていた。
「茨城さん。あの、今夜の、お約束なんですけど……」
ああ、と思った。先に察しがついた。
「プロジェクトの会食が入って、その、取引先の方も来られるので、新人は出ろと……剣崎さんが、課長に直接、わたしの名前を……」
「仕事なら仕方ないよ。また今度にしよう」
「……っ、絶対ですよ。絶対、また、ですから。わたし、楽しみにしてたので。本当に」
白瀬さんは念を押して、念を押し足りないみたいにもう一度小さく頷いて、仕事に戻っていった。
また今度。俺は自分の言った言葉を、口の中で転がした。我ながら、聞き分けのいい言葉だった。聞き分けがよくて、安全で、どこにも引っかからずに飲み込める。
飲み込めるんだけど――喉の途中で、ひっかかった。
*
その夜、一人の家で、俺はガイの会のLINEを開いて、閉じた。グランデルを起動して、ギルド欄の灰色を確認して、落とした。今夜は白瀬さんも会食で、潜れない。二人とも灰色の夜だった。
会食。取引先。剣崎さんの白い歯。隣に並んで絵になる、の見本みたいな男。
今ごろあの子は、あの完璧な男の隣で、完璧な敬語の鎧を着て、笑っているんだろうか。鎧の留め金を、また一段、固く締めながら。
比べるな、と縦山さんたちの言葉が頭の中で言う。お前の優しさは武器だと、あの夜たしかに思えたはずだった。膝の上で、二十四年分の蓋がほどけた、あの夜に。
でも――武器って、どう使うんだ。こういう夜に。
社長賞二回と全国出場と百八十四センチを前にして、「人の話を最後まで聞ける」は、どこからどう振ればいい。剣の間合いにも入らない。
俺は冷蔵庫の缶ビールを一本だけ開けて、半分残して、寝た。
答えの出ないまま、金曜の夜が、ゆっくり過ぎていった。




