第17話 勇気の一歩
あの夜から、ひと夏が過ぎた。
判子はもらった。なのに足だけが何度も非常階段の前で引き返して、気づけば蝉の声は止んで、朝の風が、少し涼しくなっていた。
月曜の朝、俺のスマホに新しいグループが追加されていた。
グループ名『ガイの会(機密)』。
【縦山】:本日決行とする
【高田】:おう
【宮原】:店は三件押さえた。和・洋・どっちでもいける店
【オッサン茨城】:押さえるの早すぎるだろ。あと俺まだ何も言ってない
【縦山】:言ってないが顔に書いてある。誘い文句の台本を送る
【縦山】:『金曜の夜、もし予定が空いていたら、前から行きたかった店があるんだ。よければ一緒にどうかな』
【高田】:完璧すぎて逆に怖え
【宮原】:減点要素がない。さすが
【オッサン茨城】:このグループ名、俺の名前だけおかしくないか
【高田】:似合ってるからいいだろ
【オッサン茨城】:誰がつけたんだよこれ
【縦山】:満場一致
【オッサン茨城】:俺の票は?
ツッコミは黙殺された。いつものことだった。
*
決行は、定時後の非常階段と決めた。白瀬さんは帰り際、給湯室で水筒を洗ってから、いつも人の少ない非常階段で下まで降りる。その動線を、三年の相棒と半年の後輩、両方の知識から割り出した結果である。我ながら気持ち悪い。
日中は、何も手につかなかった。台本を頭の中で四十回くらい再生した。金曜の夜、もし予定が空いていたら。金曜の夜、もし予定が。昼飯の味は、覚えていない。気づけば、ろくに噛まずに飲み込んでいた。宮原に「そんなに焦るな。ちゃんと噛んで食え」と言われた。
そして定時後。日が短くなったぶん、非常階段はもう薄暗かった。扉が開いて、白瀬さんが出てきた。
「あ、茨城さん。おつかれさまです」
「お、おつかれさま」
来た。言うぞ。台本だ。台本を思い出せ。金曜の夜、もし予定が。
「き、金曜の」
「はい」
「よ、夜のよてっ……予定っ……あの、よてい、が」
「……よてい」
白瀬さんが、ゆっくりと首をかしげた。完全に噛んだ。台本が、完璧すぎる台本が、緊張で粉々になった。ポケットの中でスマホが振動する。見なくても分かる。『噛んだぞ』だ。うるさい。なんで分かるんだ。
俺は息を吸って、台本を捨てた。
台本は縦山さんの言葉だ。完璧だけど、縦山さんの言葉だ。あの夜、三人がくれたのは台本じゃなくて、「いつもの俺でいい」という判子の方だった。
「……ごめん、言い直す。あのさ。ゲームの用事とか、仕事のついでとかじゃなくて――普通に、二人で、飯に行きたい。金曜の夜。どうかな」
言えた。
心臓はばくばくいってたし、目線は途中から白瀬さんの眉のあたりに逃げてたけど、言えた。
白瀬さんは固まっていた。
水筒を両手で抱えたまま、みるみる耳が赤くなって、視線が床と俺の間を三往復して、それから――敬語が、ぽろりと剥がれた。
「……行く」
小さな、素の声だった。
「っ、い、行きます、です……! 謹んで……!」
「敬語の位置どこだよ」
「うるさい……っ。じゃ、じゃあ金曜……空けておくので……お店、楽しみにしてます、から」
白瀬さんは水筒で顔を半分隠して、早足で階段を降りていった。途中、二段目で一回つまずいた。「大丈夫!?」「だいじょばない!」――だいじょばないんだ。
俺はその場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。やばい。心臓がまだうるさい。でも、言えた。言い訳なしで、自分の言葉で、初めて。
ポケットのスマホが、お祭りみたいに振動し続けていた。
【高田】:取ったぞおおおお!!
【宮原】:よくやった。店の最終候補を送る
【縦山】:採決は不要と認める。議事録に記す。『茨城、自力で一歩前進』
【高田】:台本捨てたのもよかったな。あれは満点だ
【オッサン茨城】:てかお前ら全員見てたのバレたら殺されるな、じゃなくて
【オッサン茨城】:見てたのかよ!!
【宮原】:見てない。聞いてただけだ
【オッサン茨城】:どこから!?
【縦山】:非常階段の音響は良く通ると、前に読んだ本に書いてあった
【オッサン茨城】:絶対書いてないだろそれは!!
*
翌日の昼。事件は、自席の島から丸見えの、エレベーターホールで起きた。
白瀬さんがコピー用紙の箱を抱えて立っているところに、上の階から降りてきた男が、迷いのない足取りで近づいたのだ。
「重そうだね。持つよ」
通る声だった。フロアの空気が二度見の角度で動いた。
営業一課の剣崎涼真。社長賞の常連で、去年の社内報の表紙で、たぶんこの会社で一番「隣に並んで絵になる」と言われる男。
「い、いえ、大丈夫です。お気遣いなく」
「遠慮しないで。――きみ、新人の白瀬さんだよね。噂はかねがね」
剣崎さんは白瀬さんの返事を待たずに箱を取り上げて、笑った。歯が白かった。
「俺、剣崎。よろしくね」
離れた席から見ていた俺の胸の奥で、昨日外れたばかりの蓋が、かたかたと嫌な音を立てた。
影が、差した。そういう音だった。




