第16話 お前の優しさ
「第四十四回ガイの会、開会。議題、『茨城の恋について』。継続審議だ」
縦山さんの宣言で始まったその夜は、最初、いつも通りだった。
いつも通り、宮原が四人分のスイーツを並べ、高田さんが炭酸水を開け、俺はカフェの戦利品のコースターを「これ、夜の部限定なんですよ」と自慢した。
その瞬間、空気がにやついた。
「夜の部、ねえ」高田さんがにやりとする。
「夜に、女の子と二人で、お出かけねえ」と縦山さんが乗っかる。
「べ、別にそういうのじゃ……」
結局、その「夜の部」の一語で、しばらくいじり倒された。
「で、カフェはどうだったんだ。白瀬さんと、楽しめたか」
「楽しかったですよ。原画の解説、十五分聞かされて……って」
俺は、はたと気づいて顔を上げた。
「なんで白瀬さんと行ったって知ってるんですか。俺、誰にも言ってないのに」
「あの招待券を用意したのが、誰だと思ってる」
「……宮原」
「そういうことだ。お前が誰を連れて行くかなんて、券を渡した時点で筒抜けなんだよ」
「うわ……完全に手のひらの上だ」
「報告の義務がある」
宮原が、スイーツをつつきながら涼しい顔で言った。
空気が変わったのは、縦山さんがペンを置いた時だ。
「で。本題に入るぞ、茨城。カフェまで行って、なんでまだ止まってる」
「……止まってるって、何がですか」
「全部だ」
逃げ場のない一言だった。
高田さんも宮原も、笑っていなかった。三人分の視線に挟まれて、俺は観念した。たぶん、最初から今日は、これを言わされる日だったのだ。
「…………俺で、いいわけないでしょう」
口に出したら、止まらなかった。
「相手は、その……ちゃんと、綺麗な子なんですよ。隣を歩くやつは見られる。比べられる。この前も食堂で言われてました。釣り合うのは『隣に並んで絵になるやつ』だって。俺ですよ? 二十四で四十に見られて、合コンの頭数にも入らない俺が隣に立ったら、あの子が『なんであんなのと』って笑われる側になる。あの子はただでさえ、人の目を怖がってるのに。俺が傷つくのはいいんです、慣れてるんで。でもあの子が俺のせいで笑われるのは――それだけは、駄目でしょう」
言い切って、息を吐いた。
ローテーブルは、静まり返っていた。
最初に動いたのは、宮原だった。
「茨城。お前、二年前の工場研修のバス、覚えてるか」
「……バス? ああ、隣だったな」
「あの日の俺はな、三日かけて準備してたんだ。初対面で探りを入れられても、ボロが出ないように、言い訳を山ほど用意して。……昔から俺の周りには、俺自身を見ないで、俺の"うしろ"を見る人間しか、いなかったからさ」
「後ろ……?準備……?」
「いいから聞け。お前は二時間、変なクイズの話しかしなかった。三問出して、俺が三問解いたら、『今までで一番速い』って言った。それで、サービスエリアで、百二十円の缶コーヒーをおごった。……笑うなよ。あれが俺の人生で、初めての『見返りのないおごられ』だった。二十四年で初めてだったんだよ。あの百二十円が」
「え、なに、急に、え?……缶コーヒー一本で、そこまで……?」
「黙って聞け。つまりだ」
宮原はまっすぐ俺を見た。
「お前の中身に、俺は救われてんだ。釣り合い? 絵になる? そんな算数で測れない値段が、お前についてんだよ。自分で勝手に値下げすんな」
喉の奥が、変な音を立てた。
「……俺からも言っとくか」高田さんが、炭酸水を置いた。「茨城。俺がこの会社で、自分から飯に誘うようになった後輩は、お前が最初なんだよ」
「そう、でしたっけ」
「そうだよ。社食でたまたま隣に座っただけのお前が、いきなり話しかけてきて、『高田さんって、箸の持ち方きれいっすね』って。覚えてないだろ。新人が先輩に話しかける時ってのは、たいてい当たり障りのないことを言うもんだ。仕事のこととかそういうのな。なのにお前は、飯を食いながら、ぽろっと。俺は自分の箸の持ち方がきれいなんだって、その時はじめて気づいたよ」
「箸……? あ、たしかにあった気もする」
「覚えてたか」高田さんが、ふっと口元を緩めた。「箸だぞ、箸。会ったばかりで、お前は相手自身が気づいてもいない長所を見れるようなやつなんだよ、それは一種の才能だ」
高田さんは、自分の箸を持ち上げて、しげしげと眺めた。
「あの一言が、どれだけ効いたか、お前は一生分からんだろうな。……なあ茨城。お前は、他人のことはそうやって、ちゃんと真ん中を見る。なのに自分のことになると、急に、いちばん安い目の方を信じるんだ。やめろよ。人を見抜くお前の目は、お前を外見でしか見ない節穴どもの、百倍は正しいんだからな」
ぐ、と詰まった。そういう角度から来るのか、この人は。
「最後に俺だな」
縦山さんが、議事録を閉じた。この人がノートを閉じるのを、俺は初めて見た。
「茨城。お前は人の話を、最後まで聞く。遮らない。馬鹿にしない。メモが終わるまで待つ。――簡単そうだろ。三十年生きてきて言うが、それができる人間は、百人に一人もいない」
「……買いかぶりですよ。俺はただ」
「ただ、優しいだけ。そう言うんだろ」
縦山さんは少しだけ笑って、それから、笑いを消した。
「いいか、一回しか言わんぞ。――外面のスペックがどうのこうのより、お前のその優しさのほうが、よっぽど強いし、凄い。俺たち三人は、それに惚れて、ここに集まってるんだ」
目の奥が、熱くなった。
俯いて、膝の上で拳を握って、俺はしばらく、何も言えなかった。情けない音が出そうだったからだ。
二十四年分の「慣れてるんで」が、膝の上で、ゆっくりほどけていった。合コンの頭数も、私らの世代も、食堂の納得も、効かなくなるわけじゃない。これからも刺さるんだろう。でも、刺さった場所に当てるものを、俺は今夜、三人ぶん、もらった。
「…………はい」
絞り出せたのは、それだけだった。それで足りたらしく、三人は何も追撃してこなかった。
沈黙を破ったのは、縦山さんがノートを開き直す音だった。
「では採決に移る。議案、『茨城は良い奴である』。賛成」
「賛成」
「賛成」
「ちょっ、何の採決ですか」
「可決。議事録に記す。――『議決:茨城は良い奴(全会一致・異議なし)』」
「書くな! 恥ずかしいなこの会!!」
「異議なしと書いたが、異議があるのか」
「ないですけど!!」
「ないなら確定だ」
笑い声が夜中のローテーブルに弾けた。
俺も笑った。笑いながら、胸の奥の蓋が、音を立てて外れているのが分かった。
もう、はめ直し方を思い出せそうになかった。




