第14話 折られる自信
白瀬さんの教育係になって、三ヶ月。あの正体バレの春から、季節はもう夏に変わっていた。窓の外で、蝉が鳴き始めている。
厄日というのは、たぶん本当にある。
その日は朝から、二連発だった。
一発目は、午前の給湯室前。隣の課の幹事役が、若手をつかまえては声をかけていた。
「来月、合同の飲み会やるからさ、若手男子の頭数そろえてんの。宮原くん出れる?」
「予定見て返します」
「高田さんは?」
「考えとく」
「助かるー。えーと、あとは……」
幹事役の視線が俺の顔で止まった。止まって、二秒固まって、するっと俺を通過した。
「……まあ、そんな感じで! よろしくね!」
通過された。
いや、いいんだ。合コンに興味はない。ないんだけど、頭数にすら入らないというのは、興味と関係なく、じわっとくるものがある。隣で聞いていた宮原が「俺は欠席で」と即答していたのが、せめてもの救いだった。たぶん、わざとだ。
二発目は、午後の来客対応だった。
取引先の課長さんに名刺を出したら、相手はにこにこと俺と名刺を見比べて、言った。
「いやあ、茨城さんが白瀬さんのご指導されているんですな。お若い方の教育は大変でしょう、私らの世代は」
私らの世代。
課長さんの肩書の横には、五十二期生と書いてあった。雑談で年齢を聞いたところ42歳とのことだ。
「……ええ、まあ、ははは」
俺は笑った。笑いの技術だけは、年季が入っている。
隣で白瀬さんが、何か言いたそうに口を開いて、閉じたのが見えた。机の下で、資料を持っていない方の手がぎゅっと握られていた。だから俺はもうひと笑いだけ追加した。これ以上、あの拳を固くさせないために。
商談自体はつつがなく終わった。終わって、応接室を片付けている時、ふと気づいた。
テーブルの端の紙コップが、一個だけ、ぐしゃりと潰れていた。
お茶を出してくれたのは、宮原だった。
*
定時後。俺はさっさと帰ろうとして、ロッカーの前で宮原に捕まった。
「飯、行くか」
「……いや。今日はやめとく。まっすぐ帰る」
いつもなら、半分は付き合いで頷くところだ。今日は、誰かと向かい合って、顔を見られながら飯を食う体力が、もう残っていなかった。
宮原は俺の顔をしばらく見て、それ以上は誘わなかった。
「そうか。気をつけて帰れ」
「……おう」
めずらしく、あっさりしていた。あいつにしては。
*
会社を出て、駅へ向かう途中の横断歩道。その向こうに、宮原がいた。
いつの間に先回りしたんだか、こっちに背を向けて、誰かと電話している。声は聞こえない。ただ、電話越しに小さく頭を下げる横顔が、なんだか妙に、仕事の顔だった。
信号が変わって、人波に流されて、それきりになった。妙だな、とは思ったけれど、深く考える元気も、今日は残っていなかった。
*
家に帰って、風呂より先に、パソコンを起動した。
『グランデル・オンライン』。ログイン音が流れた瞬間、肩から、すとんと力が抜けた。
ここでは俺は「オッサン」だ。老け顔も、二十四で四十に見られることも、頭数に入らないことも、関係ない。誰も、俺の顔を値踏みしない。
今夜は、ヘッドセットをつける気力もなかった。声を出すのも億劫で、チャットだけ打つ。
ギルドチャットは、もう光っていた。
【絶対殺すマン】:おせーよ
【絶対殺すマン】:オッサン生きてる? 死んだ?
【オッサン】:生きてる。今日はちょっと、世間に負けてただけだ
【絶対殺すマン】:は? 誰だそいつ。座標は
【オッサン】:相手は世間。お前でも勝てない
【絶対殺すマン】:世間とかいう雑魚が。回復だけしてろ、前は俺が出る
ふっ、と口の端がゆるんだ。今日はじめて、自分から笑った気がした。
その夜の渓谷も、いつも通り混んでいた。いつも通り、相棒が真っ先に突っ込んで、いつも通り囲まれる。大剣が振り回される。HPバーが半分を切る――前に、俺の回復はもう着弾している。
【絶対殺すマン】:ナイス
たった三文字。それだけのことで、昼からずっと背中に乗っていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。
会社では今日、誰も俺の中身を見なかった。ここでは、誰よりも口の悪いこいつが、俺の回復にだけは三年間、一度も文句を言ったことがない。値踏みされない場所に、俺の席は、ちゃんとある。
*
ボスが沈んで、戦利品を分け終えて、焚き火の前にキャラを並べたとき、ふいに、チャットがぽつんと流れた。
【絶対殺すマン】:なあ、オッサン
【絶対殺すマン】:おまえの回復、まじで世界一だから。それだけは覚えとけ
【オッサン】:……急にどうした
【絶対殺すマン】:べつに。ほら次行くぞ。寝るな、回せ
はいはい、と杖を握り直しながら、俺は、手が止まりそうになった。
こいつが――昼間、机の下であの拳を握っていた、あいつが。夜になって、わざわざこんなことを打ってくる。今日、俺が何を言われていたか、こいつは全部、見ていたはずなのに。何も聞かないで、回復のことだけ、世界一だと言う。
俺は、蓋をするって決めたばかりだった。距離を取るって。
なのに、削られてぼろぼろになった夜、足が真っ先に向かったのは、結局この焚き火の前で。乗せたはずの重しは、相棒の「ナイス」ひとつで、もう、ずれかけている。
まずいな、と思った。思いながら、今夜だけは、と杖を握り直した。
*
日付が変わる頃。ログアウトすると、スマホが振動していた。宮原からだった。
『災難だったな、今日』
『まぁな』
『あんまり気にすんなよ。――ところで、来週末を空けとけ』
『なんで?』
『いいから空けとけ』
なんなんだ、まったく。
既読をつけて、画面を消した。
あいつのことだ。どうせ、ろくでもないことを企んでいる。




