第13話 あのバスの隣
◇宮原玲司視点
「お前、なんか諦めようとしてるだろ」
そう言った瞬間の茨城の顔を、俺は多分しばらく忘れない。
図星を突かれた顔というのは、ああいう顔だ。笑おうとして、失敗して、目が泳いで、最後に「何のことだよ」と笑い直す。下手くそか。
お前のそういうところを、俺は二年前から知ってるんだよ。
*
二年前の春。入社して二週間目に、群馬の工場研修があった。
バスで二時間。俺は窓際の席で、戦闘準備を整えていた。
念のため言っておくと、俺の実家は、ちょっと大きい。どのくらい大きいかというと、テレビでグループのCMが一日に何回も流れるくらい大きい。だから俺は物心ついた時から、寄ってくる人間の目当てが「俺」なのか「家」なのか、見分けることだけ上手くなった。
小学校の「親友」は、母親に言われて俺に近づいたと六年目に白状した。中学の部活の先輩は、引退する日に「お父さんに俺の就職の話してくれよな」と笑った。高校でも、大学でも、寄ってくる人間の七割は三ヶ月以内に「家」の話をした。残りの三割は三ヶ月もたずに離れていった。俺自身には、たぶん大した魅力がなかったんだろう。
見分けたところで、答えはいつも同じだったけど。
会社に素性は伏せてある。それでもバレる時はバレる。だから俺は三日かけて、想定問答集を脳内に完備していた。実家は?――普通の会社員。趣味は?――節約。財布は使い込んだ二つ折り。時計は量販店の三千円。スマホの待ち受けは初期設定。“一人暮らし 家賃 平均”だの“二十代 貯金”だのを検索して頭に叩き込んでいる。完璧だ。どこからでもかかってこい。
隣の席に、老け顔の同期が座った。
「茨城です。よろしく」
「宮原です」
来るぞ、と俺は身構えた。実家、住まい、親の職業。初対面の探りはいつもそのへんから来る。
「宮原くんさ」
「ん」
「ウミガメのスープって知ってる?」
「……は?」
スープ? なんだそれは。想定問答集に、スープの項目はなかった。
「クイズみたいな遊びなんだけど。俺が変な状況を出すから、はい・いいえで質問して、真相を当てるの。バス、長いし」
そうして始まった。
「ある男は、雨の日だけ、エレベーターで自分の家の階まで上がれます。晴れの日は途中の階で降りて、階段を使います。なぜ?」
「……は? なんだそれ。家のエレベーターが壊れてる――いや、雨の日は動くのか。意味が分からん」
「質問をどうぞ」
「男はエレベーターが嫌いか」
「いいえ」
「健康のために階段を使ってるのか」
「いいえ。むしろ階段は使いたくないと思ってます」
「使いたくないのに使う!? なんで!?」
「それを当てるんです」
気づけば俺は前のめりになっていた。
「男の身長は関係あるか」
「いい質問。――はい」
「雨の日に持ってるものが関係あるか」
「はい」
「…………傘か! 傘で上のボタンを押すのか! 背が届かないから!」
「正解」
「よっしゃ!」
声が出た。隣の列の同期に振り返られて、俺たちは首をすくめて笑った。
それから二時間、俺は探りの一つも受けなかった。実家の話も、収入の話も、何ひとつ聞かれなかった。出題は三問続いて、俺は三問とも解いた。三問目を解いた時、茨城は「宮原くん、これ向いてるよ。今までで一番速いかも」と言った。
今までで一番。その一言が、妙に効いた。テストの点でも、家の名前でもなく、バスの座席のクイズで、俺は人生で初めて「一番」になった。
三日かけた想定問答集は、一問も出番がなかった。
……なんだったんだ、俺の三日間は。
そして白状すると、その二時間は――俺の二十四年間で、一番楽しい二時間だった。豪華な飯も、海外も、たいていのものは知ってる俺の、一番が、研修バスの隣の席だった。笑えるだろ。
*
サービスエリアの休憩で、茨城は自販機の前に立った。
「宮原くん、コーヒー飲む? おごるよ。百二十円だけど」
俺は固まった。
断っておくと、俺は缶コーヒーを買ったことがなかった。家には淹れる人がいたし、外では店に入った。あの細い缶が、ずっと、俺の生活のどこにもなかった。
それから――おごられたことも、なかった。
俺の周りの「おごり」は、いつも逆方向だった。出させてくれ、と人が群がってくる。家の名前に向かって。あるいは、俺が出すのが当然という顔が、テーブルの向こうに並ぶ。どちらにしても、金の流れの先にいるのは「宮原家」で、俺じゃなかった。
百二十円。がこん、と落ちてきた缶を、茨城は当たり前の顔で俺に握らせた。
「あったかいうちにどうぞ」
「……ん」
飲んだ。正直、味はよく分からなかった。
ただ、缶の温度だけ、妙にいつまでも手に残った。
こいつは、俺の家を知らない。知らないまま、ただ隣に座った同期に、百二十円を出した。見返りの宛先が存在しない百二十円を、こいつは何も考えずに出したのだ。それだけのことが――それだけのことが、だ。二十四年間で初めてだったんだ、俺には。
帰りのバスで、茨城は窓にもたれて寝落ちした。老け顔の寝顔を眺めながら、俺は静かに認めた。
こいつの前でなら、俺は「宮原グループの宮原」じゃなくていい。
ただの宮原で、いられる。
あの缶は今も、洗って、部屋の机の上に置いてある。ペン立てになっている。秘書の人に二回捨てられかけて、二回救出した。誰にも由来は言っていない。
*
――で、だ。
その茨城が、今、目の前で恋を諦めようとしている。
理由は聞かなくても分かる。見た目がどうとか、釣り合いがどうとか、そういう、くだらない算数だろう。お前はいつも、自分の値段だけ低く見積もる。俺の二十四年を変えた百二十円の価値も、知らないで。
悪いが、見過ごせるか。
「なあ、茨城」
「なんだよ」
「あの時お前に救われたの、俺なんだよな」
「……は? あの時って、いつの」
きょとんとしている。ほら、これだ。
いいさ。分からないなら、分からせてやる。やり方はこっちで考える。
幸い――手段なら、腐るほど持ってるんでね。




