情報収集
もっと早く帰宅するべきだったのか。
そもそもその日は、出勤するべきではなかったのか。
自宅で眠ることもできない日々が始まったのは、5回目の出勤日からだった。
ラビットコーナーには定休日がない。
勤め始めてから1週間。朱利は睡眠リズムを調整しながら5日出勤した。
あちこちのテーブルに回され、名刺を渡してもよい場では、マニュアル通りに支給品の名刺を手渡した。
店の売上への貢献ポイントを大きくかせぐためには、客の指名を受けて入ったテーブルで高価な酒を注文してもらわなければならないが、それにはまだ時間がかかりそうだ。
毎日のように来店する客もいるが、彼らの指名はトップ3のキャストに集中している。
ヘルプとしてついたメガラのテーブルでは、アクションゲームや実況動画の話についていけず、客に助け舟を出されてしまうありさまだった。
パラディーの1番テーブルでは、同じ男子校の卒業生だという男たちといっしょに、大量の葡萄酒を消費した。パラディーのポイントにはなるが、朱利が得たのは舌の記憶とアルコールだけだ。
そしてナンバー1のエリコの定位置になっている東洋風の一角——0番テーブルでは、居並ぶ大勢のキャストに混ぜてもらい、侍女のように侍っているだけだった。
まずは場つなぎや賑やかしの役目に集中し、なんとか食らいついていかなければならない。
そして、それだけでは足りない。
キャストのレリアには、「さっさと時給節約処置対象にしてもらったら? どうせできることないんだし」と言わてしまった。
仕事からあぶれがちなキャストに役割を与えてくれるエリコの〈恩寵〉も、いつまで受けられるかわからない。まだ「新人」とみなされているうちに、なんとか指名をもらえるようになりたい。借金を埋めていくためには、店の売上に貢献しなければならないのだ。
「アカリ、グレソ観た?」
閉店後、メガラにキャストルームでそう問われ、彼女が何を言っているのかすぐにはわからなかったが、やや遅れて、ゲームの実況動画——グレートソードで獅子舞などを消滅させていく動画の話だと気づいた。もちろん観た。
「うん。長剣の動画より楽しかった。次、ハンマーのやつ観てる。わたし大きな武器のほうが好きかも」
「そんな顔してるよね」
「どんな⁈」
「心の火力がデカそうな顔。一発のダメージが大きい系の異常火力者」
「……なんか壊したい、ていうか一気に突きぬけたい気持ちはあるかな。すごく焦ってる。けど、焦ってるだけで——」
この1週間、家で眠りにつく前には、メガラにすすめられた実況動画を見ている。メガラの好きな配信者の動画だ。
彼女が言うとおり、声がとても心地よい。いつも楽しそうにゲームをしているのも良い。今のこの生活を支えてくれる、貴重な癒し要素になっている。
「動画ばっかり観ちゃってるけどね」
「あたしも! 一生聴ける! あとゲームも死ぬまで楽しい!」
「メガラはそれでいいんだと思うけど、わたしはちょっと勉強しないと。今のアパート、図書館が近くにあるみたいだし」
「勉強? 本とか読むの?」
「危機感。司馬遼太郎とか全然知らないし」
朱利は、五十代や六十代の男性と長い話をしたことがほとんどなかった。彼らが当たり前のように口にする人名についても、朱利はその名前しか知らない。
ましてやこの店は、七十代以上に見える老人が「部の先輩」を連れて来るような店なのだ。
メガラが言う。
「あたし、京極夏彦の本はちょっと読んだよ。仁王の動画で言ってたやつ」
「それまだ観てない」
「じゃあまずそっちだよ。菊川セレクションとか読む気しねーし読まなくていいから」
「キクカワ……菊川さん?」
「なんかすっげー読ませようとしてくる」
「菊川さんとそういう話するんだ……」
「たまにね。こないだは、空手のルールの話しかしなかった。素手で顔面を触っていいルールは危なすぎるとか」
「へえ……」
キャストルームには今、メガラと朱利だけしかいない。もうレリアも帰った。
レリアは、菊川に近づく女——というか謎の気まぐれで近づかれる女に対して強い敵意を抱いているようだ。そのあたりの事情は察した。
できればその敵意は回避したい。
朱利は尋ねた。
「ねえ、菊川さんって、なんなの? ときどきお店に来るみたいだけど」
「ふつうに僧兵」
「うん、それは聞いてる。藤杜とは別のお寺の人なんでしょ」
初出勤の日、店長に教えてもらった。藤杜の師兄弟みたいなものらしいが、師父はちがうそうだ。他宗兄弟と言うらしい。
「メガラは菊川さんと仲いいの? メガラの出勤日に来るみたいな感じ?」
「そんな法則ないけど、仲いいよー。菊理論はやる気ねーけど」
「菊理論? なにそれ」
「なんか植えつけようとしてくんだよね。ダルすぎる。やんなくても客は来てくれるし、あいつの話、あんまり真に受けないほうがいいよ」
「その、菊理論っていうのは、どんな話?」
少しでも役に立つところがあるなら、藁にでもすがりたい。
メガラは言う。
「みんな引用でしゃべってるとか」
「え?」
「あと引用の引用とか、引用の引用の引用とかね。年いった人だと、昔の本と今の会議がグルグルグルグル何周もしてるからもうこの世はおしまいだけどおまえらは本とか読んでキャバクラの仕事がんばれよって」
「わからん」
「菊理論だからね」
わからない。わからないが、「引用」「何周も」という言葉には、なにか引っかかるものを感じた。
具体的な顔——この1週間で会った何人もの客の顔が浮かんでくる。
そして唐突に、綿飴を作る機械をずっと見ていた時の記憶もよみがえる。
——めまぐるしい。
彼らはキャストと、あるいは同年代の客同士で、さまざまな話をしている。仕事の話が、同期の人間についての噂話になるのは普通のことだと思うのだが、そこに突然、徳川家康が出現したりもする。そしてまた仕事の話に戻る。
理論物理学者の仕事と戦国時代はなんの関係もないように思えるが、彼らの〈雑談〉の中ではつながっているようだ。
仕事で顔を知っている人間と、もう本の中にしかいない人間も、つながっている。
そのつながりが、朱利には見えていない。だから記憶することが難しいのかもしれない。
——お客様は、体丸ごと来店する。
昼の男たち。朱利の知っている上司や教師たち。効率的に仕事を進め、淡々と講義やプレゼンをしていた男たちも、その〈機能〉だけしか持っていない生き物ではない。体の一部は、見えない世界で生きている。何十年も。
それは当たり前のことなのだが、高齢の男たちについてそのことを実感する機会が、これまでの朱利にはなかった。
数十年の年齢差。
性別の違い。
特殊な環境?
この店での働き方の肝心なところが、朱利には見えていない。ずっとそう感じていた。
ナンバー3のメガラには、何が見えているのだろうか。




