試練の鏡
菊川に連れていかれたのは、ホールに隣接している部屋だった。
「化粧はここでしろ」
菊川が照明器具のスイッチを押した。
ホールにあるものと同じ型のシャンデリア。
そして天井に埋めこまれた電球。
トップ3との顔合わせの時に見たホールの光——掃除が終わって照明が絞られたホールの光とほとんど同じ光だった。
「ここは一瞬だけVIPルームだったんだよ」と菊川が言った。「けっきょく今は、下の階でVIPの相手をしてるんだけどな」
この地下の店には、さらに下があるのか。初級キャスト用のマニュアルには書かれていなかった。
気になる。
しかしそんなことよりも、
——すごい。
朱利を驚かせたのは、部屋の奥に置かれている三面鏡だ。
フレームのつくりが普通のものではなかった。
鏡をはめておければいいというような簡素な枠ではない。黒地に金をあしらった、日本の蒔絵を連想させるミラーフレーム。しかしそのモチーフに花鳥風月のやさしさはなく、幾何学的な模様の密度は威圧すら感じさせる。彫り。磨き。細工のために注がれた力の波が押しよせてくるようだった。
「その顔、テンカに見せてやりたかったな」
と菊川が言った。彼は得意気な顔をしている。
「これがあいつのご自慢の一品。〈試練の額縁〉で有名な、天人額装の社長に作らせたフレームだ。藤蚕寺の首座が二度も頭を下げに行ったんだよ。安くねえぞ」
「……試練の額縁」
聞いたことがある。
「急に仕事がイヤになった」という凄腕の額装職人が、そのあと3年間だけ「自分のために」作り続けていた額縁だ。もう国内には数点しか残っていないと聞いた。
「その額縁に負けない絵が描ければ一流の証、とかいう話を真に受けた絵描きが何人も絶望して引退してる。どっかの金持ちの息子の美大生は、額の前でノドを切った。おまえは鏡を血で汚すなよ。テンカが泣いちゃうからな」
——そんな額縁を作った職人に、鏡の枠を依頼したのか。
僧兵というのは、酔狂なことをする人が多いのだろうか。
そういえばこの店のホールには、いくつもの名画が掛けられていた。
もちろん模造品なのだろうが、その出来はとても良いように見えた。
そして、ホールの中でも一段高いところにある異質な一角——東洋風の亭が設けられたコーナーは、背後の壁面が金唐紙のようなもので飾られていた。
「藤杜さんは、美術にくわしい方なんですか?」
「あー、まあ、近頃はやけに凝ってるな。いや、この場所を手に入れたころからか? もともとはテンカの専門じゃねえんだけどな」
「専門……」
「いいから座れ」
菊川にうながされ、朱利は鏡の前に腰をおろした。
いわくつきの器物から押しよせるプレッシャーを受けて、感覚が麻痺してしまったのか、気持ちは不思議と落ちついていた。
——バカバカしい。
鏡の向こう側で、あきれたような笑みをうかべている自分の顔。
どう転んでも、顔だ。
名画にはなりようもない。
その顔をただ、額縁が示す〈方向〉へ進めていけばいい。
「よし。始めろ」
と菊川が言った。
「はい」
朱利はバッグから化粧道具を取り出し、作業にかかる。
「いいか。店では自分のために化粧をするな。男のためだ。男を殺せ。おまえオーラなめてんのか? 会ったら0.2秒で殺せ。ためらうな。死ぬ気でやるな。殺せ。よし。いいぞ。落ちついてるな。その眼があれば一発だ。殺せ」
後ろでは菊川が何やらゴチャゴチャ言っているが、それほど気にはならなかった。
塗る。
ぼかす。
尖らせる。
あきらめる。
ひたすら手仕事に集中する。
そのうち菊川は飽きたのか、ドアを開けて行ってしまった。
あとには静かにまっすぐ進んでいく時間だけが残った。




