顔(第一印象)
何秒そのままだったのだろう。
浴室の照明の光が眼に入り、〈顔〉が見えなくなった。まだそこにあるのかどうかはわからない。
朱利は湯船から出て、浴室の扉を開けた。
外に異状はない。洗面所の電灯もついている。
急いで浴室から離れて体をぬぐい、服を着た。
——光が消えた時、すぐに動くべきだったかもしれない。でも結果的に無事だったわけだし……。
いずれにせよ正解はわからない。
自分の体がまともに動いたのかどうかもわからない。
藤蚕寺の藤杜に眼を合わされた時と同じ。蛇ににらまれた蛙のような状態だった。
まったく別の生物種のような——自分の力ではどうすることもできない食物連鎖の上位に立つ〈捕食者〉がこの世界をうろついていることを、朱利はもう体で感じていた。
——このアパートには戻れないかもしれない。
少しだけ迷ったが、朱木家の鍵は持っていかないことにした。
朱利は仕事用のバッグを持って靴をはき、部屋の外へ出た。足首をつかまれるようなことはなかった。早足で10分。人通りの多い所沢駅の近くで足を止め、壁を背にして三宅に電話をかけた。
「どうしたの? 何かあった?」
「ありました」
「うわ……」
「あの、家の電灯が消えて、突然、いえ、正確に言うと、光がわたしには見えなくなって」
「そんなに正確じゃなくてもいいよ。それで? いや、その前に今どこ?」
「家は出ました。所沢駅のそばです」
「よしよしよし。そのまま店に来て。話はこっちで聞く」
家に帰りたくない人たちのためにある店——ラビットコーナー。
入口の前に立っている〈門番〉が二人になっていた。体の大きな、仁王像のような二人だ。警戒レベルが上がっているということだろうか。
重く頑丈そうな〈門〉をくぐる。レジは無人。バーカウンターでは、山崎がボトルを磨いている。朱利が「あの」と声をかけると、彼は無言で通路の奥を指した。
そのまま朱利は店長室へ。
部屋の奥にある三宅の事務机には、萩焼の湯呑みが二つ置かれていた。
そして机の手前には肘掛け椅子が2脚。その片方に座ったまま三宅が言う。
「おつかれ。大変だったみたいだね。とりあえず座って。お茶もどうぞ」
彼は湯呑みを手にとり、自分の口へ運んだ。
朱利も椅子に腰をおろし、湯呑みを両手で抱えた。柔らかなぬくもりと煎茶の香り。
「いま、お寺の金城さんがこっちに来てくれてるから」と三宅が言った。「くわしい話は、金城さんの到着後に」
「あの、廣田さんは大丈夫ですか?」
「連絡はとれた。池袋の居酒屋で、一杯目に口をつけたとこだって。こっちへ避難してくるようには言ったけど、アイツはアイツで、あるいみ大物なところがある奴だから、もう少し友達と飲んでから、タラタラこっちへ来るんじゃないかな」
「そうですか。ちょっと心配ですね。山崎さんのほうにも、特に変わったことは」
「うん。ないみたい。けど、こういう時に職場を離れられない性格の人だから、このままだと一生ボトルを磨いちゃうと思う。どこかで休んでもらわないと」
「ええ。その、店長も……」
「それよりまずアカリさんだよ。とりあえず、体に異常はない?」
「……ええ。心拍数と、たぶん血圧も少し上がっているくらいで」
朱利はもともと、脈が遅くて弱い体質だが、目の前に〈顔〉があらわれた時から現在までずっと、体は警戒態勢に入っているようだ。
はっきりと見えた〈顔〉。
なにか恐ろしいものに目をつけられたか、あるいは朱利の脳や眼に異常があるのか。そのどちらかであることはまちがいない。
自分の体のことだけを考えるなら、まず病院に駆けこむべきだったかもしれない。
それでも朱利は、三宅の言うとおりにこの店へと急いだ。
「痛むところはない? 指は全部動く?」
「はい。大丈夫です」
「さすが、落ちついてるね」
「あの、でも、急にどうなるかわからないので、いま店長にお伝えしてもよろしいですか?」
「倒れる前に情報だけでも? プロすぎるでしょ。まあ、たしかに? これで金城さんに伝えそこねたら、おれがプロ失格罪で死ぬけど」
「といっても、それほど内容のある話ではなくて……」
「うん」
「お風呂に入っていたら、急に光が見えなくなって、目の前に〈顔〉が見えました。そのあと、光が見えるようになって、〈顔〉が見えなくなりました。要約すると、それだけです」
「顔だけが見えたの?」
「はい。顔と、髪の毛みたいなものが」
「どんな顔? 人の顔、ってことだよね?」
「はい、そう……です。人間の、方で……」
朱利は言葉に詰まってしまった。
何を言うのも恐ろしい。
自分の感じた印象を言葉にしようとすると、「異常な」「不自然に」「崩れた」「歪な」「歪んだ」「人間なのに人間じゃないみたいな」という、失礼で差別的かもしれない言い方になってしまう。
とても口に出すことはできない。
心に思い浮かべることさえしたくない。
あの〈顔〉は、記憶の中から朱利を見ている。
礼を欠けば、言葉づかいをまちがえれば、死ぬ、かもしれない。確かなことは何もない。
——死んでなにもかも無くなるなら、しかたのないことだけど、
何もできないまま、どこかへ連れていかれるのはイヤだなあ、と朱利は思った。
——わたしが死んでも、この世と借金は無くならないし。
僧兵組織が保有している借用書は恐ろしい。
その〈力〉は国家の法律を越えて、借主や保証人に襲いかかってくる。
朱利にはもう、そんな噂を迷信だと笑い飛ばすこともできなくなっていた。
最初に言っておくべきことを決め、それを決めた自分が冷静であることを確かめるまで、長い時間が経過した。
そしてようやく、朱利は口を開く。
「あの……」
「うん」
「わたしに何かあったら」
「いや、もうすでにあったと思うけど」
朱利は声を張った。
「お寺の人に、伝えてほしいんです。わたしが借金を返せない状態になったら、それで終わりにしてください、と」
「終わり……?」
「借金をすべて帳消しにするよう、お伝えください。朱木家の人と財産に手を出すことは、わたしが許しません」
「……え? 許さないって……」
「お寺の人たちも、「悪霊」って言うんですか? わたしは〈それ〉になります。地獄に引きずりこまれても、できる限りのことをします。地獄はずっと続くんですよね。いつかは必ず、できる限りの恨みを集めて、藤蚕寺に叩きつけます。誤解のないように、よろしくお伝えください」
朱利は三宅にそう伝えた。
三宅は何も言わない。上体が後ろに退いている。
——ごめんなさい、店長。
こんなに攻撃的な伝言を三宅に託すのは心苦しかった。
しかし、もう余裕がない。いつ何がどうなるのか、朱利にはわからないのだ。
朱利がもういちど念を押そうとした時、店長室のドアが開いた。
額の傷。
サングラス。
首と顎の太い男。
藤蚕寺の幹部——金城だった。
彼は低い声で言った。
「聞こえたよ。おまえ、おれたちをなめてるのか?」
「なめてはいません。できることをするだけです」
「ならいいや。住職と首座にはおれから伝えるよ。たぶん、おまえの希望どおりになる」
「ありがとうございます。絶対にそうなるよう、お伝えください」
「……なんなんだよおまえは。むちゃくちゃな女だな。悪霊になったらまず、おれのところに来い。逆恨みをしたドシロウトの成れの果てに、おれが引導を渡してやるよ」
「いえ」そんな誘導には乗らない。「そちらが一番困る順番にします。必ずそうします」
「わかったよ。もうそれ以上は言うな。最悪、借金はおれが負担る。それでいいだろ?」
「はい。よろしくお願いします」
「まったく、わけわかんねえことになったな」
と金城は言い、机の奥へ回って腰をおろした。
「とりあえず、なにか厄介なことが起きて、おれたちは一蓮托生だ。そこまではわかった。くわしく話せ」




