異状
朱利は広い室内を歩き回った。
初めて見る場所についての記憶がたくわえられていく。
三宅が言った。
「これがたぶん、この部屋のいつもの状態。これがデフォルト。まずは今の状態を頭に入れておいて」
朱利は「はい」と応えながら、背丈ほどの高さがある大きなスピーカーの陰に眼をやる。掃除は行き届いているようだ。
「ちなみに、ここにあるソファは背もたれを倒すとベッド的なものになるやつ。ピーク時は、この部屋で何人もお客様が休んでる」
三宅の言葉を聞いて、朱利はその光景を想像してみた。
並ぶベッド。
横たわる何人もの男たち。
——「ここは野戦病院なんだよ」。
そう菊川が言っていたのを思いだす。
「法律の問題をクリアできたら」と三宅が言う。「この部屋にガチのベッドも置いてみたい。海外の富豪やビジネスパーソンが睡眠休暇で使うような、制御AIをガン積みしたやつ」
「ああ、ベッドは大事ですよね」
借金を返し終わったら、義母の家にすごいベッドを置くために、あともう少しだけこの仕事を続けてみようか。店の不気味さに警戒心を抱きながらも、そんな未来のことが頭に浮かぶ。
三宅は楽しそうに言った。
「アカリさんたちががんばってくれたら、隣の土地にホテルを建てちゃったりもできるかも。あ、そこのドアも開けてみて」
彼が指した方向に、アルミ色のノブがついた簡素なドアがある。
「はい」
朱利はドアノブを回した。
ドアの先。
換気扇の音がする。
入った瞬間、いやな気配を感じたが、それは香の匂いが薄れたせいだろう。
そこに血まみれの大男が立っているわけではなかったし、自分の首を大切そうに抱えた女が見えたりもしない。
ただの洗面所だ。
いや、棚と大きな籠がある。
たぶん脱衣所でもあるのだろう。
左右に磨りガラスの扉。どちらもシャワールームだった。床のタイルはまだ濡れている。
「わかりました」と朱利は言った。「こういうチェックをするのも、このお店の大事な仕事なんですね」
「そう。そのとおり。何か大きな異変が起きる時には、その前に小さな予兆があったりするものなんだけど、店の開け閉めのたびに刑事部鑑識課員を呼ぶわけにもいかないからね」
そう言って三宅は、両手首の内側をくっつけた。たぶん〈逮捕〉を意味するハンドサインだ。
「で、アカリさんにはどう見えた? 何かおかしな点はあった?」
「いえ、特に何も。とりあえず今の状態をおぼえておいて、今後、異状があったらご報告します」
「ありがとう。ほんとに助かる。出勤日にチェックしてくれたら特別ポ……イントをプラスしちゃうと、他のキャストに説明しづらいから、開店前と閉店後の時給に色をつけとく。めっちゃ濃いやつ」
「ありがとうございます。あ、それと……」
「ん?」
「この部屋ではなくホールのことなんですけど、ちょっと気になったことが」
「なに? なにかあった?」
「今日、ホールのソファの後ろとテーブルの下に、煙草が落ちていたんです。それぞれかなり離れた場所に、1本ずつ。両方とも同じデザインの煙草に見えたので、誰かがわざと置いたのかな、と思っていたんですけど」
「——それそれ! そういうの! そういうのを見逃すなって藤杜さんに言われてるんだよ。くわしく教えて」
「はい」
朱利が煙草を見つけたのは、22時ごろにテーブルを移動した時。この時は、5番テーブルのソファと壁との間の隙間だ。わずかに違和感があったのでのぞいてみると、そこには1本の紙巻煙草が落ちていた。
ホールの掃除はスタッフが念入りにしていることを知っていたので、おかしいなと思った。
そして5時13分ごろ。トイレへ行く客に付き添った時だ。無人になっていた9番テーブルの下に、同じような煙草が落ちていた。
朱利がそう伝えると、三宅は左の拳を自分の顎に当ててから言った。
「その煙草って、吸殻?」
「いえ、吸殻ではなく、新品……って言うんですか?」
「あまり言わないね。とにかく、その、吸ってないやつね。現物あるかなあ」
「どうでしょう。最初のは廣田さんにお渡ししましたけど。2本目は山崎さんに拾っていただいて……」
「わかった。ちょっと訊いてみよう。来てくれる?」
そう言って三宅は、早足で休憩室を出た。朱利もそれについていく。
「廣田! 山崎さん!」
三宅に呼ばれた廣田が、小走りでホールから通路へ上がってきた。
バーカウンターでボトルを磨いていた山崎もこちらへやって来る。
三宅が二人に言った。
「今日ホールに落ちてた煙草のことおぼえてます?」
「ええ」と山崎が答えた。「アカリさんが見つけた物ですよね。何かありましたか?」
「最悪、呪物かもしれません」
「……そうですか。物騒になってきましたね」
「最悪の場合、ですけどね。現物、まだあったりしますか?」
三宅にそう尋ねられた山崎は、うなずいてから通路の奥に眼をやった。
「あります。アカリさんの様子がちょっと気になったので、とりあえずスタッフルームに。店長がお一人の時に報告しようと思っていましたが、悠長でしたか」
「いえ、充分です」
と三宅は応じ、それから廣田に向かって言った。
「廣田、おまえのほうは?」
「すません。捨てちゃいました」
「やむなし。ゴミチェック」
「ウス」
「あとは……春矢くん!」
三宅は大きな声を出した。
遠くから扉の鳴る音。「はい!」という高い声が返ってくる。
三宅は続けて言った。
「喫煙室の掃除、いっかい止めちゃって! あとで吸殻を見たいから! あと、バックヤードのほうもストップ! 使用禁止にしておいて!」




