第32話:一人で立てる幸せ、離れられない不幸せ
浮遊大陸エリュシオンの朝。勇は、誰の腕の中でもなく、自分一人の力でベッドから起き上がった。 足元には中和クリスタルの光が紋章のように輝いている。この範囲内であれば、勇の「設定ミス級の質量」は完璧に制御され、床を突き抜けることも、歩くたびに地震を起こすこともない。
「……ああ、最高だ。自分の足で、自分の意思でトイレに行ける。こんな当たり前のことが、こんなに幸せだなんて」
勇は、しなやかな動作でパジャマを脱ぎ、平均的な日本人の爽やかな顔で鏡に向かった。 だが、その背後のドアが、音もなく開く。
「……あら、勇。もう起きてたの? 水仕事は危険よ、重力バランスが崩れて水道管が破裂するかもしれないわ。私がリミッターとして、貴方の腰をしっかり支えてあげる」
セレナが当然のように後ろから抱きついてきた。
「セレナ、大丈夫だって。ここの中和能力は完璧なんだから、俺一人でも水道は壊さないよ」
「ダメよ! 万が一ってことがあるでしょ! ほら、ヒルダもリネットも呼んであるから!」
セレナの合図で、ヒルダとリネットが雪崩れ込んできた。
「師匠! 一人で歯を磨くなど無茶であります! ブラシに師匠の質量が乗れば、それはもはや削岩機! 私が背後から師匠の肘をホールドし、適切な『人間並みの筆圧』に調整いたしますぞ!」
「……勇。歯磨き粉を出す時の指の力……一歩間違えれば、チューブが爆発して部屋が粉まみれよ。私が、貴方の指先を優しく包んであげる」
結局、数メートル先の洗面台に移動するだけで、勇の全身は三人の美女によってガッチリと包囲された。 一人で動けるはずの場所なのに、彼女たちは「もしもの設定ミス」を理由に、以前よりも熱心に、そして何より**「勇が一人で動けるのが寂しい」**という本音を隠しながら、密着を強めていた。
「……みんな。俺、一人で顔も洗えないのか?」
「ダメよ。貴方の顔の皮膚は、今やダイヤモンドより高密度なんだから。普通のタオルで拭いたらタオルが粉々になるわ。女神である私の、聖なる加護が宿った手で洗ってあげる」
「師匠、私の筋肉もリミッターとしてお使いください! さあ、私に身を委ねるのです!」
一人で立てる喜びを噛み締める勇だったが、彼女たちの「過保護な密着」という名の引力からは、中和クリスタルの力をもってしても逃れられないようだった。
『お、親分! 羨ましい……じゃねえ、大変そうでやすねぇ!』
窓の外で巨大な顔を覗かせる岩晶竜の声をBGMに、勇の「平均的になりたいけどなれない」浮遊大陸の朝が、今日も賑やかに始まるのだった。




